114.人は無力

 人はふとした瞬間に無力を噛み締める生き物である。

 先日電車に乗っていたら、すぐ隣にいた人が盛大に鼻血を出し始め、周囲の人たちがウェットティッシュだのポケットティッシュだのを差し出す中、私はそんなもの持っていないのでどうすることも出来なかった。その人がそれらを受け取ろうとした拍子に、スマフォを取り落としてしまい、私はとっさに拾い上げたが、目下鼻血を止めるために両手がふさがっている相手に返すことも出来ず、仕方なく下車の時まで持っていた。走る電車、滴り落ちる血液、善意のティッシュ、無力のスマホ持ち。というかティッシュもハンカチも持っていない私の人間力の低さが酷い。常に持ち歩いているものと言ったらドライバーと静電気除去リングと防災シェラフぐらいである。全く鼻血の役に立たない。

 下車の時に漸く相手にスマフォを差し出し、しかし無言なのもどうかと思ったので「これどうぞ」という無能極まりない言葉が出てしまった。どうぞもなにも相手の私物である。街角で無料のティッシュを配っているわけではないのだから、もう少し気の利いたスマートな言い回しが出来たのではないか。そんな気がしてならない。


 どうにも生来、適当な人間である。よく言えば臨機応変、悪く言えば行き当たりばったり。それで生きていける世の中は素晴らしいが、こうして偶に現実を突き付けてくる。

 仕事もかなり適当だ。適当すぎるのだが、今のところ苦情も何も来ていないのは周囲の皆さまが寛容であることと、私が「その場で適当にスクリプトを組んでどうにかする」技術を持っているからである。開発部出身でもない奴が持っている技術としては上等だろう。何しろ現場ではスケジュールを守るとか真面目に取り組むとかは大した評価にならなくて、システムを期日までに動かした奴の勝利である。そして途中の過程やホウレンソウがなくても、トラブルを解決した奴が英雄となる。

 逆に言えばそういったことが起きなければ、適当な人間はただ適当なだけで仕事が終わる。平和な案件であればあるほど、私のようなタイプは分が悪い。かといって別にトラブルが起きて欲しいわけでもないから、平和はおおいに結構である。


 ある時のこと、仕事だからと呼び出されて死ぬほど暑い中を病院まで向かった。そこで待ち受けていたのは事前に聞いていない作業だった。

 それ自体はよくあるので、まぁ許す。私は比較的寛大な生き物だ。というか別に相手も嘘を言ったわけではない。AとBという仕事があったのに、Bを伝え忘れた。そんな感じである。

 作業内容は新規環境で製品を動かさなければならない、というものだった。同業の方ならわかると思うが、これは地雷である。それぞれのアプリケーションというのは、「~というOSの~のバージョンで動作すること」と予め決められたうえで開発をされており、検証環境もそれに伴って作られる。なのでOSが変わってしまうと、どういうエラーや問題がおこるかわからない。例えるなら麻婆豆腐を作ろうとしていたら豆板醤が足りなくて生唐辛子を使わなければいけなくなったとか、餃子を作ろうとしたらひき肉がないので豆腐で代用することになったとか、そんな感じだ。「なんとなく出来そうではあるけど、出来ると確信が持てない」という表現で代用出来るかもしれない。


「表示されないですね」


 配置したアプリケーションは案の定というべきか動かなかった。いや、動いているには動いているのだが右半分だけ表示されない。マネージャはそれを見て困った顔をした。


「こういう場合に表示出来る設定とかない?」


 あるか、そんなもの。

 製品が想定していない環境は、そもそも検証をしていない。なので動かないとしても問題はないし、そのための設定なんて存在しない。


「でも何となくなんですけど、ここのソースを直接弄ればどうにかなりそうな予感ではあります」


 綿あめよりもふわふわな推測を口にして近くの端末に腰を下ろす。リモートアクセスでサーバに繋ぐと、開発ツールを起動した。

 これが開発部とかそのあたりなら、ゆるふわ推測に対して秒で叱責が飛んできそうであるが、そのあたりが緩いのがこの職場の特徴である。正しいか間違いかなんてのはどうでもいいと言わんばかりの空気がそこにある。

 椅子に座ってソースとにらめっこすること五分。大体何が悪いかはわかってきたが、どこにその原因があるかが特定出来ない。自分で作ったソースではないので、そこにある他人の思考は読み取れない。ましてこういう場合、ソースには複数人の手が入ってしまっている。思考も思想も入り混じって、何が何だかわからない部分というのも往々にして存在する。まぁそれでもちゃんとした開発ツールがあれば、それを探り当てることは出来るのだが、今私が起動しているのはそんな高性能なものではないから無理だ。無理な時などうするか。諦めるか足掻くかの二択である。

 とりあえず足掻くことにしてみたが、やっぱりどこが原因かよくわからない。表示するためのキーみたいなものがあるのだが、どうやらそこに辿り着いていない。しかし辿り着くためには十個ぐらいのチェックを潜り抜ける必要があって、多分そこに引っかかっているのだが、どこのチェックが気に入らないとシステムが言っているのか不明だった。


「……別にいいんじゃないかな、解決しなくても」


 二時間経ってからマネージャが諦めたように言った。


「いいんですか?」

「ちゃんと開発部に依頼かけて調査してもらった方が確実かもしれない」


 まぁそれはそうだ。何しろ前述の通りの職場なので、いくら粘ってみたところで成果が上がらなければ過程すら評価してもらえない。私がここで数時間頑張っても解決できないのであれば、それは「数時間無駄にしたやつ」で終わり。悲しいお話である。


「まぁそれがいいですね。私から連絡しましょうか?」

「いや、それはこっちで。でも困ったな……明日、お客さんにどう説明すればいいんだろう」

「どれぐらいで解決するとか目安あればいいんですけどね」


 同情的に言いながらも、私はそそくさと荷物をまとめる。マネージャも諦めモードでパソコンをバッグにしまった。いまいち消化不良のまま、それでも帰りはタクシーに乗る。

 どうせ料金は会社持ちだし、バスの時間はとっくに終わっている。タクシーの中では別案件のことなど話し、最寄の駅で降りた。「じゃあ何かあれば」なんてお決まりの挨拶をして別れたあと、電車に乗ろうとした時に急に解決策が頭の中に閃いた。閃いたけど、もう戻れない。というか戻りたくない。


 家に帰ってから検証してみたら、ちゃんと正常に表示されてしまった。閃くのが三十分遅かった。今更わかったところで「数時間無駄にしたやつ」の汚名は漱げないし、「閃くのが遅いやつ」までセットでついてくるだけである。溜息をつきながらもメールで簡単に報告だけはした。思いつかないより思いつく方が落ち込むこともある。もっと脳みそが回転してくれないものかと思いつつ、今日も平和な稼働だけを願っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る