97.浮かばない贈る言葉

 大学生の頃、サークルの先輩方が卒業するため、卒業コンパまでに寄せ書きを書くという作業があった。一ヶ月ぐらいかけて皆でいそいそと寄せ書きをしていたのだが、同期の一人だけ卒業式当日まで書けない奴がいた。時間がないとかではない。ただ書けないのである。卒業式が終わって、男性の先輩を胴上げし、解散した後もまだ書けていなかった。もう一人の同期と共に三人で新宿のバーガーキングに入り、そこで珈琲を飲みながら彼の寄せ書きを応援するという妙な状況になった。

 因みに小規模のサークルなので卒業生は八人。寄せ書きも八枚である。彼の目の前には袋に入ったままの八枚の色紙が鎮座している。どれも彼が書くスペースだけ残っているのだが、それとてたいした広さではない。


「何でもいいじゃん。あざっしたー、ぐらいのでも」


 珈琲をズルズルと飲みながら私が言うと、反対側からもう一人も同調した。


「ほら、合宿が楽しかったとか、色々教えてくれて助かったとか。そういうのでいいんだよ」


 三月の昼下がりのバーガー屋で時間は非情に過ぎていく。

 なんで書けないのか、全くわからない。まだ一年生で卒業生と関わりがないならわかる。しかし実際には三年生であり、私も彼も一年の時から同じサークルにいる。

 合宿も学祭も色々やったのだから、多少なりとも書くことはあるだろうに。

 そんな想いで励まし続けたが、五時間ぐらい悩んで彼が書いたのは「ありがとうございました」を八回だけだった。まぁそれでも書けたので、私たちは安心してコンパに向かった。遠い春の思い出である。



 先日、一人退職者が出た。前に書いた色々扱いに困る若手である。

 最終出社日に退職メールを全社員に向けて送付し、いなくなった。よくある退職日の行動である。

 それから数日してから、直属の先輩と電話で話していた時に、少し雑談になってから「そういえば」と向こうが切り出した。


「XX君が辞めたじゃない」

「辞めましたね」

「メールに何か返信してあげた?」


 はぁ、と思わず変な声が出た。


「してませんけど」

「えー、何それ冷たい。ずっと長く面倒見てたんでしょ。温かい言葉をかけて送り出すのが普通じゃないの」

「温かい言葉は在籍中に掛けつくしましたよ。退職メールに優しい言葉を書かなかった=冷たいは短絡的です」


 そう言ったのだが、先輩は不満そうである。


「彼に対しては部の全員が半年もかけて優しく丁寧に指導をしてきたんですよ。逆切れと嘘しか戻ってこないから、もうそれも使い切ったんです」

「だとしてもさぁ」


 言いたいことはわかるが、そういうのは胸中に留めておいて欲しい。

 貴方は遠くから見ていただけだから「ちょっと困った新人さん」ぐらいの認識かもしれないが、全然違う。あのままでは部の崩壊の危機ですらあった。このうえ更に優しい言葉を絞り出すのは、鏡とジャンケンして勝つより難しい。

 性格悪い人間と思うならそれで構わない。私はこの先輩からの評価より自身の精神のほうが大事だ。


「淡島の言うこともわかるけど、それとこれは別っていうか。自分だって前の会社辞める時にメール出したでしょ」


 そう言われて少しだけ考える。記憶に埋めていた何かが顔を覗かせた。


「出してません」

「え……。じゃあ仕方ないかぁ……」


 出さなかった理由は物理的理由も精神的理由もあるのだが割愛する。

 どちらにせよ私は退職する日に、夢と希望に漲る新人たちの真横で「いやー、これでこの会社ともおさらばだな」と清々しく微笑んでいた。そういう人間である。

 その新人たちに「あ、この会社有休使うとボーナス出ないよ」と言わなかったのがせめてもの会社への恩返しだと思っている。因みにその会社はどこかに吸収されて消えた。


「前の会社に言うこともなかったし、去っていく若手に言うこともなかったんです」


 そう言った途端、あの春の日の思い出が蘇ってきた。

 あれ、もしかして同期の彼は卒業生たちに何も書くことがなかったのでは。

 誠実な性格をした男だった。彼は何も書くことがないのに色紙なんか出されて、そして自分に嘘を吐くのも難しくて、あんなに悩んでいたのかもしれない。

 もしそうだとすれば「色紙書けるまで応援してあげるよ」とバーガーキングに連れて行った私ともう一人は彼にとって邪魔でしかなかったのではないか。

 なんだかこれ以上考えると闇に踏み込みそうな気がする。

 私はあわてて記憶に蓋をして、電話の向こうにいる先輩に言った。


「わかりましたよ。先輩が辞める時にはメールしてあげますから」

「辞める前提で話するのやめて」


 平和のためには考えないことも重要である。

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