96.初めての残業理由
一ヶ月も空いてしまった。このところ非常に忙しいのにエッセイに書けそうな手頃な話がなかった。話自体はあるのだが、書いちゃいけないことが多くなってきた気がする。
先日、某病院に作業に向かった。新しい機能のリリース作業である。それ自体は大したことはないのだが、その他の細かい作業が多かったので早めに現地に入った。当日の気温は三十五度。スーツに吸収された熱で死ねる。
「作業自体は任せてもいいですよね?」
プロマネが忙しそうにしながら私に訊ねてきた。疑問の形を取ってはいるが、ただの確認である。「この作業なら一人で出来るだろ」という信頼と圧がそこにある。
作業自体は大したことはない。少し量が多いだけである。だがそれも六時前には終わるだろう。そう考えながら作業用のパソコンに向き直る。飽きっぽい性格であるが、面倒な作業は嫌いではない。というか三十五度の炎天下を歩いてきたのだから、ちょっとスローペースでやりたい。私のやる作業は「前例がない」かつ「やり方は私しか知らない」ものが多いので、時間を多少かけても誰も気づかない。それってどうなんだろうと思いつつも、楽な方に流れるのが私なので、あまり気にしたことはない。
ダラダラと作業をしていたら、いつの間にかプロマネは消えていた。あの人も大概忙しそうにしているが、プロマネなのだからもう少し下の人間を使ってもいいと思う。但し私以外で。
一人寂しくデータベースをぐりぐりと弄り回していたら、あっという間に五時を回っていた。ゆっくり進めていたとは言え、既に作業は殆ど終わっている。プロマネに確認してもらって帰ろうかと思っていたら、丁度そこに戻ってきた。相変わらず忙しそうに。
「終わりました?」
「えぇ、最終確認だけお願いします」
「ちょっと先に別のこと片付けていいですか? すぐ終わるので」
そう言いながら私の隣にある端末の前に腰を下ろしたプロマネは、しかし次の瞬間大きな音と共に視野から消えた。
何が起きたのかわからないまま、床へと目を向ける。そこには支柱から外れてしまった椅子の座面とプロマネの尻があった。何かの弾みで椅子が壊れたらしい。会社のものならまだしも、ここは病院。取引先のオフィス的な場所である。大変まずい。
「壊れちゃった」
「折れたんですか?」
いや、とプロマネが体勢を直して座面を裏返す。フジツボのような形をした金具があって、どうやらそこの穴の中に支柱を通すらしい。しかしフジツボの中にも細かな部品があって、ただ押し込むだけでは入らない。
「こっちの金具が……」
「いや、そうなるとここに引っかかって」
悩みながらフジツボと格闘していたら、プロマネがその金具を止めているネジに触れた。
「流石に人の手では回らないですよねぇ……」
「ドライバーならありますけど」
「え……?」
プロマネが不思議そうな顔をして私を見た。
「なんでですか?」
「いつも持ち歩いているので。SEの必需品でしょう?」
「聞いたことないですね」
変な生き物を見る眼差しで言われた。そんな。上司から「SEたるものドライバーと無印良品の定規は持っておけ」と言われてきたのに。あれは何だったんだ。
ドライバーを相手に貸して、フジツボの解体を見守る。
想定ではフジツボを外せれば中の金具を除去できると思っていたのだが、外してみたらもっと複雑な構造だった。
「無理ですねぇ」
「というか市販の油圧式の椅子がドライバ一本で組み立てられるとは思わないんですけど」
「確かに」
床に座り込んでそんな話をしていたら、急に頭上から「何をしてるの……?」という疑問符が降ってきた。振り返った先には、顔見知りの医師が一人。こちらに不審な目を向けている。それはそうだ。他所の業者が自分の職場の椅子を解体しているのだから不信感は抱いて然るべきである。あれ、というかこれはもしかして一種の窃盗行為にも見られてしまうのではないだろうか。
少々焦りながらも状況を説明すると、医師は少し考えた後にケラケラと笑い出した。
「それ前から壊れてるのよ。私、壊れてるって言ったのに事務さんが持ってきちゃって。それ直してたの?」
「直してました」
「システム屋さんってそんなこともするの」
世の中のシステム屋のことはわかりませんが、うちは「出来そうならやってみようぜ」精神で業務にあたっていますので、こういうこともあります。
「壊れている椅子を、わざわざ、ドライバーまで使って」
ツボに入ってしまった医師を前に、私は少し気恥ずかしい想いでプロマネを見る。プロマネはこっちを見てくれない。悲しいすれ違いである。
「いいよ、そのあたりに置いておけば。二人が壊したなんて言わないから」
「すみません……」
部屋の隅に椅子だった何かを寄せ集める。
時刻は既に六時を大きく回っていた。この仕事も長いが、椅子が壊れたことによる残業は初めてかもしれない。そう思いながら用済みになったドライバーをケースにしまった。
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