85.無力な者の抵抗

 何しろ自己評価が低い生き物なので、日々腰を低くして生きている。自信がないわけではない。ダメであることに絶対の自信を持って胸を張って生きている、ちょっと矛盾した生き物なだけだ。まぁ人間、矛盾していることは多々あることなので気にしない。


『動きませんかぁ』


 電話の向こうで疲れた声がする。開発部の皆さん、遅くまでご苦労様です。すみませんね、作ってもらったアプリケーションが動かないって定時ギリギリに連絡をしてしまって。そんな謝罪の言葉は最初に述べたので、あとは心の中に保持しておく。


「色々試してみたんですよ。ネットワークパスをローカルパスに変えたり、値の取得タイミングをずらしてみたり」

『あぁ、いや。わかってますよ。淡島さんが動かないって言うなら動かないんでしょう』

「でも他にもあるなら試しますよ」

『多分設定ファイルの書き換えとかも試してるでしょう。だったらもうアプリ内部の問題ですよ』


 そうか。まぁこの人がそう言うならそうなんだろう、と納得する。基本的に自分のことを全く信じていないので、設定ファイルの記載ミスとかを最後まで疑う性分なのだが、それが相手には却って良い判断材料らしい。


『原因追求をしたいところですけど、今日ってまだ粘りますか』


 時計を見ると、九時を超えていた。道理で空が暗いわけだ。此処にきたのは一時なので、かれこれ八時間滞在していることになる。病院の旧病棟なんてずっといたい場所じゃない。ここが怖い話の世界なら、帰ろうとしたら廊下の電気が消えて、血まみれ看護師がワゴンを引きずって歩いてるだろう。それぐらい暗くて静かな場所である。


「正直、今から考えてくださいって言うのも無理でしょう。今日は終わらせようかなと」

『あぁ、そうですか』


 安心したような声が聞こえたのと同時に、私の隣の席に座っていたマネージャーが声を発した。


「今粘らないと終わらないよ」


 粘って終わるならいくらでも粘ってやるが、この状態で粘っても粘り気が増すだけだ。だったら開発の方だって時間に余裕をもらったほうが解決策だって浮かびやすい。

 そう考えると、聞こえなかったふりをして会話を続ける。


「最悪、全ての機能をバラして一つずつ検証でもいいですよ」

『まぁそれはこっちでも考えてみますよ』


 すみません、と謝罪をもう一度する。私のせいではないが、向こうのせいでもない。なんというか不幸な偶然が積み重なったようなバグである。そうなるともうこちらとしては神頼みみたいな姿勢で行くしかない


「今忙しいんでしょう?」

『あー、そうですね』


 苦笑いと共にマウスのクリック音が聞こえた。普段はそんな音は聞こえないのだが、九時ともなると社内に人がいないので、いつもより環境音がよく響く。


『M病院の内視鏡、J病院の特注、あとR系列のすごい大規模な改修もあって、この前聞いた話だと、同じ系列で新機能を入れる話が出てるんですよ』


 なんか聞いたことがある病院だな、と頭の中で記憶の引き出しをひっくり返す。思い出すことは難しくないのだが、夜九時を回ると回転が鈍い。


「それもしかして、全部私の仕様書ですか」

『え、うそ。全部淡島さん? あ、本当だ!』


 そうか、忙しいのは私の仕様書のせいか。でもそれに関しても私のせいではない。私はただ粛々と仕事をしているだけである。

 乾いた笑いがどちらからともなく漏れた。


『大変ですね』

「大変ですね」


 静かに電話を切ると、後ろにいたマネージャーを振り返る。山積みの仕様書も山積みの仕事も、とりあえずは脇に置いておく。まずはこの人を説き伏せて帰らないとならない。


「もう少し頑張ってもらわないと」

「いや、厳しいですよ。そもそもマネージャーが……」


 帰るために全力で頭を回す。説き伏せるに十分な言葉を連ねる。私がこれ以上ここに居ても役になど立たない。無力。だったら開発部の方々のためにマネージャーを諦めさせよう。それが私に出来る唯一のことに違いない。そんな午後九時四十五分。

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