82.貴方の血はどこから?
社畜をちくちくしながら生きている。
いつだったか、深夜一時に作業してたら技師さんに「XX社さんはブラックなんですか?」と聞かれたが、それはあくまで健康な人間に対してだけで、病人には優しい。というかこの点については他よりも敏感かもしれない。何しろ相手は病院である。「風邪引いてて熱出てますけど来ました」なんて姿を見せたら、間違いなく正気とコンプライアンスを疑われるだろう。
ある年の年末、インフルエンザで休む人が続出する中で、私はいつも通り過ごしていた。稼働と年末まで一週間を切っていて、作業用のプレハブの中には人が多くいた。
午前の仕事を終えて、昼休憩に入ろうとした時だった。いつものように煙草と財布を手に取った私の耳に、近くにいた人の会話が聞こえてきた。
「あれ、どうしたんですか」
「何がです?」
「ネクタイ締めてないなんて珍しいじゃないですか」
そう言われた人が、ノーネクタイの首元に手をやり、「あー」と呻く。因みに我々はスーツこそ着ているが「作業員」なので、あまり服装の規約はない。しかし、ノーネクタイを指摘された人は普段からしっかりとスーツにネクタイを締める人だった。
「首が何かにかぶれたのか、痛いんですよね」
困ったように言いながら、その人はワイシャツの襟元を少し下げた。
「ね?」
「あー、本当だ。でもかぶれっていうか蚯蚓脹れみたいに見えますけど」
「チクチクするんですよね。毛虫かなぁ」
その時、私の後ろにいた人が「え?」と素っ頓狂な声を出したかと思うと、私を押しのけてその人の方に向かった。
「これ、帯状疱疹ですよ!」
「帯状疱疹?」
「痛いのは神経傷ついてるからですよ! 早く見てもらわないと」
その言葉に他の人たちも慌て出す。
「いつからですか?」
「昨日の夜です」
「48時間以内に診てもらわないと後遺症とか残るんですよ」
「じゃあ仕事終わったら行きますよ」
「何言ってるんですか。早く行ってください、今すぐ行って!」
全員で口々に捲し立てる。
「で、でもまだ仕事が」
「そんなのBさんに任せりゃいいでしょ!」
「え、俺?」
「ほら、早く帰って」
皆で叩き出すようにその人をプレハブから出した。病気よくない。健康じゃなきゃ社畜が出来ない。ノー健康ノー社畜。皆で元気に社畜をしましょう。
「淡島」
「はい」
「煙草吸いに行くなら、プロマネ探して、今のこと伝えてきて」
わかりましたぁ、とラッキーストライクの箱で敬礼を返した。なお、健康に害がある煙草については不問な辺り、方針はブレブレである。
また別の年、某病院の現地作業。春先の麗らかな天気とは無縁の病院の地下で、一人孤独に仕事をしていたら、隣に人が腰をかけた。
「あれ、終わったんですかテスト」
「うん、それはまぁ終わったんだけど」
プロマネである人は困ったような顔をしながら続けた。
「Nさんがやばいかもしれない」
「Nさん? そういえばNさんは?」
一緒にテストに行ったはずの人の名を口にする。
「実は」
「はい」
「Nさんがさっきトイレに行ったら」
「はい」
「血が出たって」
「はい?」
なかなかなワードに変な声が出た。
「え、どっから? with尿? with便?」
変質したオブラートに包んだ私の問いに、相手は前者だと教えてくれた。
「淡島さんってあまりこういう話抵抗ないよね」
「いや、血尿に女の恥じらいとか求めても仕方ないでしょ。お医者さんには?」
「それを今から探そうと思って」
その人がパソコンを起動するのと同時ぐらいに、Nさんが戻ってきた。
「血尿出たんですか?」
「えぇ、真っ赤でびっくりしちゃって」
「お医者さん行った方がいいですよ。この病院って泌尿器科ありましたっけ」
話しながら、スマフォの検索ブラウザを起動する。目的がはっきりしている検索はスマフォのほうが手軽だし、相手に情報連携するのも早い。
「此処は紹介制だからねぇ」
プロマネが悲しそうに言う。
「Nさんが入口で血を流して倒れてれば、診てくれるかも知れないけど」
「それ、漏らして倒れてるってことじゃないですか。Nさんにだって人権はあるんですよ」
そんなことを言いながら二人で近隣の泌尿器科を調べる。当の本人は割といつものテンションで、作業の続きをしていた。まぁ慌てたところで血が出た事実は変わらないから、そんなもんなのかもしれない。
「血尿だと、尿路結石とか?」
「腫瘍の可能性もありますよねー。Nさん、前立腺の調子は?」
「別に変わりはないですけど、淡島さんはもっと恥じらいをですね……」
別に性的な意味で聞いてるわけじゃない。適した病院を絞り込むために聞いているだけである。
「いいじゃないですか。これがTさんとかAさんだったら、血尿って聞いただけで恥ずかしがって、どっか行っちゃいますよ」
ブラウザに並んだ病院を一つづつ確認しながら返す。恥じらいなんて可愛い若手に任せておけばいい。私の世界にそんなものは要らない。恥ずかしく思うのは仕事が出来ない時だけだ。そう思いながら一つの病院名をタップして画面に表示した。
「ほら、駅前に泌尿器科ありますから、今すぐ行ってきてください」
「今すぐですか」
「今すぐですよ」
何を馬鹿なことを、と言わんばかりに返す。
「来週稼働なんですから、それまでに回復してもらわないと」
「あー、やっぱりそうですよねぇ」
人間、健康が一番だ。
このエッセイをお読みの方々も、血尿が出たらすぐに病院に行って欲しいし、健康診断で引っかかったら病院で調べて欲しい。健全な徹夜のためである。
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