55.予算と理想と折衝

 ステンレスのマグカップが欲しいと思って密林を捜索していたのだが、気に入ったデザインのものは四千円だった。ちょっと悩む値段である。性能も見た目も容量も申し分ない。しかし片手に持っている四年間愛用している陶器マグが半分以下の値段であることを考えると、これを買うのは中々の英断だ。理想と予算が釣り合わないことは多々あることである。


 先日、急に会議室に呼び出されたと思ったら、プロマネとリーダーが二人で悩んでいた。そこの陣営に加わりたくはないのだが、呼び出された事実は消せないので、観念して椅子に腰を下ろす。


「A病院の予算について話していたんだけど」


 プロマネはそう切り出して、金額が羅列されている紙を見せた。


「これで足りるかな?」

「何で私に聞くんですか」

「仕様切ったのはお前だろ」


 そりゃそうだが、全体の予算なんて知るわけがない。そういうのは他の人に任せることにしている。私に金のことなんか聞いても解決するわけがない。

 そう思いながら紙に目を通していく。


「リーダー、ここの仕様ってこれで足りますか?」

「足らない? 項目一つ追加するだけでしょ」

「いや、内部処理があるんで」


 なんか全体的に微妙に足らない気がする。勿論細かい計算はしていないので勘であるが、こういう悪い勘はよく当たる。冷静に各予算を見直して、それらをざっくりと足していく。こういう時に暗算が苦手な我が身を悔いる。

 足して足して予算は積み上がり、そして全ての項目の計算が終わる。その結果に一度心を落ち着けてから二人に言った。


「……積もり積もって、1Mぐらい足らない気がします」


 念のため書いておくが、1Kは千円、1Mは百万円である。

 単位の大きいお金のやりとりでは、こういう表現をよく使う。


「そんな足らないわけないだろ」


 額の大きさにプロマネが驚く。私だって一回確認したが、どうやってもそういう結果になるのだから、受け入れて欲しい。


「微妙に足らないんですよ。一項目あたり数人日程度」

「それ、無視出来ない工数なの?」

「だってこれ、開発費用だけじゃないですか。私たちが作業する費用ないですよ」


 そう。アプリケーションは開発して終わりではない。それを現地に適用する作業がある。開発者と作業者は別個なので、それぞれ費用が必要なのだが、それが完全に抜けているのである。どうしてこうなったかは大体想像がつくが、そこは割愛する。


「じゃあ、その作業費もこの予算の中に組み込むとするとどうなる?」

「開発費を削るしかないので……、このあたりの「必須じゃないけど、こうしたほうが便利だろうから」で足した工数を削るしかないでしょうね」


 こういう改造項目は結構多い。

 例えば、「トイレにトイレットペーパーが欲しい」という要望があったとしよう。この時に要望を満たすのは、トイレットペーパーをトイレの床に置いておくことである。だが、それだけだと使いにくいので、トイレットペーパーホルダーを壁に取り付けておく。これが「便利だろうから足しておく」改造である。

 勿論これは見栄えだとか利便性だけの問題ではなく、後々のソースの管理等でも効果的なのである。上記のトイレの例を再度持ち出すなら、トイレットペーパーが床に置いてあるよりも、ホルダーに入っていた方が衛生上良いだろう。そういう「気遣い」的なものは割と馬鹿に出来ない。

 だが、ホルダーを買う金がないなら床に置くしかない。


「それを削るとどうなるの?」

「ギリギリですかね」


 要するに下手したら赤字である。私が気にすることではないが、一応正直に言っておく。そもそもここ数年、黒字の案件なんて見ていない。よくまぁかいしゃが維持できているなと感心するぐらいだ。多分他の部署が頑張っているのだろう。そう信じたい。


「じゃあそれで一回見積もり作るかな……」


 プロマネはそう言いながら、紙の束をリーダーに渡した。多分見積もりを作れという指示だろう。ここまで来るとすでに私の出番はない。煙草吸いてーと思いつつ、天井のトラバーチン模様を見るだけである。


「ここの改造とかやりたかったんだけどね」


 リーダーが赤ペンで消された項目を見て残念そうに言う。まことに同感だが、無い袖は触れない。無理矢理袖だけ振っても、本体がなければ意味はない。


「次の機会にやりましょうよ」

「そういいながら淡島さん忘れるじゃん」

「じゃあ代わりに覚えておいてください」


 街中や施設などで「なんでこんな微妙な作りなの? もっとこうすれば良かったんじゃないの?」みたいな構造を見ることがあるが、それらも予算が足らなかったのだと思う。思い通りのものを手に入れるには金が必要だ。金で解決というと印象が悪いが、それで解決できるならしてしまいたい。

 そんなことを思いながら、今日も七千円分のオタグッズを迷いもなく購入する。

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