22.暑いときは思い切ったことをしない

 暑くなってくると、昔バイトをしていた立ち飲み屋を思い出す。都内の大きな駅のすぐ近くにあって、三十人くらいしか入れない店なのに、回転数が異様に高かった。客が来ればおしぼりを渡すのだが、使い捨てのおしぼり百枚が一時間で無くなったこともある。


 この店がとんでもなく暑かった。客席はまだいいのだが、厨房内部は灼熱地獄である。串焼きの台におでんの台、フライヤー、大型コンロ。これが所狭しと敷き詰められているのだから当然だ。一応空調はあるが、油がこびりついて使い物にならない。客席側の空調もタバコの煙で燻されて、毎年一度は故障する有様だった。


 八月某日、朝九時に店に行くと店長が水浸しだった。床に座って天井を見ながらタバコを吸っている。水浸しで。とても怖い。というか店の状況やらを考えるに、店長は昨日家に帰っていないらしい。


「店長、帰ってないの?」

「うん」


 水浸し店長は面倒そうに言った。


「暑くてさ、店の中で水浴びしてみたけどそれでも暑いんだよね」


 何してるんだ、この人。そんなことするぐらいなら、隣のネカフェでシャワー浴びてくればいいのに。

 そう思いながら朝から暑い厨房に入り、冷蔵庫から冷えたジョッキを取り出した。水分補給は大事である。氷をいくつか入れて、炭酸水を入れようとしたら誤ってサワーを注いでしまった。そういう日もある。具体的には毎回ある。

 同じものを二つ作り、厨房から出て店長に手渡した。八月の朝、まだ掃除もしていない薄暗い店の中で飲む水は最高である。


「暑くて耐えられないから、近くの家電量販店で冷風扇買ってこようかと思って」


 店長がそう言ったが、私はその時初めて「冷風扇」なるものを知った。

 要するに氷や冷却水が入れられる扇風機みたいなもので、風とともに冷たい空気を出すことができるらしい。


「氷入れるやつなら安いからさ、二個買ってくるよ」

「氷ないけど」


 ドリンク担当として自信を持って申し上げた。店の製氷機はこのところすこぶる調子が悪い。なのに客は多く来るものだから、いつも二十時過ぎには氷が底を付いてしまう。


「ないの?」

「使ってもいいけど、足らなくなっちゃうよ」

「どうなってるんだよ、この店」


 知らない。かなり長いこと働いているが、交通費が出たのもつい最近のことだし、自分で洗っている制服の洗濯代も搾取されているので、基本的にブラックだと思っている。


「仕方ない。氷も買ってくるか」


 本社に言ったほうがいいのではないだろうか、と思ったが本社は多分聞いてくれない気がする。赤坂にワインバーを出すとかで、そっちに夢中になっているという噂を聞いたこともある。客単価二千円の立ち飲み屋の設備など後回しだ。


「それより着替えたほうがいいと思うけど」

「いいんだよ。動いているうちに乾くから」


 私は水浸しの人と働きたくはないのだが。まぁ抗弁しても仕方ないので、そのままジョッキの中身を飲むことに専念する。お水おいしい。

 灼熱の厨房は「早く仕事しろよ」と言わんばかりに佇んでいる。今からやることを考えるとますますげんなりする。塩ダレをコンロで作り、その横で大きなヤカンでウーロン茶を煮出し、それを背にしてフライヤーで唐揚げの下準備をする。食は人の楽しみだが、此処にあるのはそんなものからは掛け離れている。

 そういえば発注もしないといけないな、なんて考えていたら店長が勢い良く床から立ち上がった。


「よし、冷風扇と氷買ってくる!」


 先程までのだらけた空気はどこへやら、笑顔すら浮かべている店長を私はジョッキ片手に眩しく見つめる。飲食店の店長に大事なのは元気である。元気があれば大体乗り越えられる。

 頑張ってーとやる気のない声援を送りながら、何か忘れているような気がした。暑いせいでそれが何かは思い出せなかった。店長が店を出ていったあと、ジョッキの中身をちびちび飲みながら厨房へと戻る。暑い。とても暑い。ここが自宅だったら服を脱いでる。

 そこまで考えたときに、「忘れていたこと」を思い出した。


 今の店長、水浸しだった。

 しかも昨日から家に帰ってないから、それなりの匂いも身にまとっている。焼き鳥の匂いと酒の匂い、ついでの煙草の匂いだ。財布を持たずに万札だけ持っていったし、見る人が見れば不審者だ。確実に不審者だ。


 気づいたときにはもう遅かった。

 十分後、店長は警官を伴って、申し訳無さそうに店に戻ってきた。繁華街の警官は、こういう不審者を見逃さない。お疲れ様です。

 店に冷風扇が導入されたのは、もう少し先の話だった。

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