10.コバルトブルーのニオイ

 いつも最寄り駅の近くで飲んでいるのだが、去年の秋頃に行きつけの店が燃えた。燃えた時には出張に行っていたので知らなかったのだが、深夜三時ごろに出火したらしい。店の中で眠りこけていた店主は大火傷で病院に運ばれたが、年の暮れには復帰した。本人は酒を飲み過ぎて覚えていないようだが、多分酔っ払いながら仕込みをして、火を掛けたまま寝たのだろうということに、常連客の中では一致している。

 再開した店はまだ黒く煤けた部分が残っていて、ふとした瞬間に焦げ臭かったが、調理する度に薄くなっていき半年ほどで綺麗に消えた。


 燃える臭いというのは独特である。

 中学生の頃、放課後のコンピュータ室でアルコールランプを床に垂らして火をつけて遊ぶという、倫理を失ったYoutuberみたいなことをしていた男子がいた。勿論火事になった。その日は校庭で部活をしていたのだが、漂ってきた悪臭はよく覚えている。教師たちは犯人を隠したようだったが、私はその日部室の鍵を先生に返しに行く当番だった。二階の職員用入口に何故か置いてあった某生徒の自転車を見て、何かを察した。

 燃えた臭いはしぶとく校舎内に残り続けた。少なくとも一年ぐらいはそのままだった気がする。


 小学生の時には近所で火事が起きた。消火器を山程積み上げていた場所で出火したのだ。夜中に燃える消火器を二階から眺めたのを覚えている。建物は燃えなかったためか、然程臭いはしなかった。ただ釈然としないものは残った。消火器は燃える。沢山あっても燃える。


 社会人になって数年経った頃に、会社から現場に行こうと外に出たら、線路を挟んで向かいの揚げ物屋が勢い良く燃えていた。灰が風に乗り線路を飛び越えて私のところまで飛んできた。油を多く扱う店だからか、火の勢いが凄かったが、それ以上に建物が燃える臭いと食べ物が焦げる臭いが混じって凄まじかった。あの時は翌日まで臭いが残っていた気がする。店についてはよく知らないので割愛。


 火事に遭遇する確率が低いので、記憶には残りやすい。臭いもあると尚更だ。人は鼻を摘むと味がわからなくなる。それだけ臭いというのは人間の五感に対して強く作用するに違いない。


 何年か前に、仕事帰りに大きな駅を利用した時にもその臭いが漂ってきた。しかしすぐに何か別の臭いに掻き消された。なんだろう、と思いながらも改札を出て歩くと、「火事の臭い」と「何かの臭い」が交互に押し寄せてくるという謎の現象に見舞われた。

 鼻をツンと刺すような臭いだった。脳はそれを処理しようとするのだが、すぐに諦めたようにフリーズしてしまう。歩いていくうちに臭いはだんだん強くなったが、それでも正体は掴めなかった。クレヨンのような、花のような、理科室のような、そのどれとも違うような。


 例えるのならば、コバルトブルーなニオイだった。脳を鮮烈に刺し、爽やかな色を見せながらも残像を残していく。逃れようにも逃れ方がよくわからない、コバルトブルー。


 自分でも何を考えているかよくわからなくなった頃に、視界に人集りが見えた。どうやらそこが臭いの発生源のようで、皆鼻を抑える仕草をしていた。通りすがりに群衆の中を覗き込み、そこにあった店を見て、漸く臭いの原因がわかった。

 海外ブランドの派手な色の石鹸が、店先に沢山並んでいた。

 お前か。お前が燃えたのか。道理でコバルトブルーな臭いすると思ったわ。すっごい色が派手だし、匂いも豊富だし、そりゃ揃って燃えたらあんな臭いにもなる。もう寧ろ火事の臭いを若干消し去ってるぐらいだ。

 臭いがあまりに凄かったので、早足に其処を後にした。後で調べたら、店頭に置いてあるディスプレイの電源から出火して、石鹸が燃えてしまったらしい。

 成程ね、と納得すると同時に、あの臭いを適確に表現する語彙力や化学的知識が欲しいと強く思った。答えはまだ見つからない。

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