7.歯への衝撃で自白する
社会人二年目に歯列矯正をした。下顎に対して上顎の方が大きく、更に前歯が迫り出している「バードフェイス」だったのである。矯正クリニックで歯のレントゲンを撮って驚いた。少し出っ歯だなと思っていた前歯だが、真横から見たら歯の裏側がチラ見する状態だった。これはよくない、と思ってすぐに歯列矯正を始めたのである。値段は忘れたが、月々のメンテナンス料などを考えると百万くらいは掛かったのではないだろうか。
まず、どのように矯正を進めるかという説明を院長先生がしてくれたのだが、開始五分でとんでもない言葉が飛び出した。
「淡島さんの場合は顎が小さいので、上と下の小臼歯を計四本抜きます」
歯を抜く。
ここで経験者なら「それぐらい普通だから。無知は死」と嘲笑したくなるかもしれないが、ちょっと聞いて欲しい。歯である。歯を抜くというのは結構大変なことだ。爪を切るのとは訳が違う。毎日朝晩、丁寧に磨いて大事にしていた歯を「矯正の邪魔だから抜きますね」と言われた時の脱力感。良かれと思って会社のロッカーの汚れを取っていたら、翌日廃棄処分になっていたのを見た時と似ている。
「抜くんですか」
「大丈夫ですよ。麻酔かけますから」
当たりまえだ。麻酔無しで歯を抜くなんて、スパイ映画の拷問シーンでしか見たことがない。人体で一番目か二番目に痛い場所らしい。想像しただけで震えてくる。
しかし歯列矯正如きで怯えてもいられないので、笑顔を貼り付けて承諾し、同意書にサインをした。
数週間後、裁きを待つ罪人の気分で施術用の椅子に座る自分がいた。何しろ生まれてから大きな病気をしたこともなく、虫歯にも殆どならず生きてきたものだから歯医者に対する耐性がない。幼児のように泣き叫んだりはしないが、不安と恐怖が胸の上でタップダンスを踊ってくる状態である。
「じゃあ始めますねー」と優しい表情の女医は、無慈悲に私の歯茎に麻酔注射を刺した。注射嫌い。注射は嫌だ。私がやりました。犯人は私です。薬すっごい苦い。
麻酔が効いてくると、下の歯と舌の一部の感覚がなくなった。歯科医はそれを確認してから、鋭い何かを私の口の中に入れる。これで歯が取られてしまうのか、いつから生えてるか忘れたけど、長い付き合いだったな。
暇なのでそんなことを考えていたのだが、口の中に入った器具は全然出ていかない。時間かかるものなんだろうな、と受け入れようとした時に、歯と器具の間で「ギゴゴ」みたいな音がした。暫くしてもう一度同じ音が聞こえた後に、歯科医が私に尋ねた。
「ご家族も歯が丈夫なの?」
わからない。ただ歯医者に行っている者は少ない気がする。
「この歯、とても硬くて。ちょっと力入れるけど我慢してね」
でも麻酔掛けてあるんだから我慢も何も……と思った瞬間に脳を揺さぶられるような感触がした。そうか、痛みはなくとも力は掛けられているわけだ。普段なら痛覚やら触覚やらに邪魔されてわからない、脳への刺激そのものがダイレクトに伝わってくる。
物凄く未知の感触。気持ち悪い。私が皆を裏切りました。アジトは神奈川県にあります。決行日は十三月四十二日です。後輩のデスクに舞茸置いたのは私です。と、ありもしない自白をしてしまいそうになりつつも耐えていたら、「メリメリボリン」という感触と共に口の中に血の味が広がった。
痺れた口の中を、水を流すようにして濯ぐ。
その横にある銀色のトレイに、白い塊が置かれた。
「これが今抜いた歯です。ここが歯の根の部分なんですけど」
歯科医はピンセットで歯をひっくり返した。天井に向かってそびえる三本の歯根があった。
「上顎大臼歯なら兎に角、小臼歯で三本は珍しくて。多分、歯並びが悪い原因もこのあたりかもしれないですね」
「そうなんですか」
確かにやたら頑丈だな、と自分の一部だったものを見ていると、歯科医は私のレントゲン写真を手に取った。
「多分、他の歯もそうですね」
あと三回、私は自白をしなければいけないのか。
無くなった歯の辺りに舌を這わせながら、痺れた口で絶望を噛み締めた。
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