第6話 お腹が空いた
「待たせたか?早く乗ってくれ。」
程なくして真後ろから唐突に低い声がかかった。
何の気配も音もなく背後に回られたショックで由良は飛び上がるほど驚いたが、声をかけた人間にも驚いた。さっきの金髪の青年ではなかった。
由良をぶん殴った、真実によく似た男、秀だった。
黒くて大きな単車に腕をかけたままこちらを見ている。どうやって音を立てずに近づいたのだろう?
警戒心も露わに身構えてしまうのは無理もない。高窓の開閉に使う長いステンレスの棒を持ってきてよかったと、捨てようか迷っていた由良は考え直した。
また殴られるかもしれない。いや、今度は好きにさせない。
身構えて目の前の青年を思い切りにらみつけた。
「セイラがここで待っていろと言っただろう。」
黒づくめの青年は表情のうかがえない凍った美貌で近寄ってくる。自分ではめいいっぱい殺気を込めたつもりなのに、彼の方はそれを感じてさえいないようだった。なんだか拍子抜けした気分になる。
「セイラ?」
「名乗ってる暇はなかったか。よく目立つ金髪の外国人みたいな男が、流暢な日本語でここで待っているように言っただろう。」
その通りだったが由良はあえて否定も肯定もしなかった。頑なに身構えたまま動かない。
この目の前の黒ずくめの青年は自分を殴り、あの金髪の青年は自分を助け出してくれた。その二人が通じているといわれてもどうにもピンとこないのだ。
警戒を解こうとしない由良の態度に辟易したのか、青年は小さく息をついた。
「美夜子が待ってると言ってなかったか?」
心配していた親友の名を出され思わず顔色を変える。
「…美夜子は無事なの?どこにいるの?」
初めて由良は警戒を解いた。ずっと気になっていたのだ。
彼女の手がかりは結局この目の前の冷血そうな男が握っている。
その冷血そうな男は、それでも返答に躊躇する彼女に決定打を食らわせようと、
「俺と一緒に来れば会える。早く乗ってくれ。」
そういって、黒い単車の後部座席を示す。
最早逆らうのも面倒で、時間の無駄であろう。決めれば行動の早い由良だった。 黒づくめの青年が乗る黒い単車は由良にはメーカーも性能も種類もわからないが、とりあえず跨れば乗れるのだと言うことだけは知っている。
「言い忘れたが俺は
黒いヘルメットを装着する直前、低い声で囁くように尋ねてきた。顔が息のかかりそうなほど近づき、かすかに男性用の香水が香る。あの時の、匂い。警戒心のあまり身体が強張る気がした。
怯える自分を鼓舞するように、由良は早口で答えた。
「庄司由良と言います。」
「由良か。振り落とされないようにしっかり捕まれよ。」
「…あの人は?セイラという金髪の…私を助けた人は?」
すると、秀と名乗った男はかぶろうとしていたヘルメットを由良に差しだし、かぶるように合図した。
「二つ持って来るんだったな。慌てていたのでそこまでは気が回らなかった。」
この男でも慌てることがあるのだろうかと疑問に思うような冷静な声でそれだけ言うと、懐からからやはり黒いサングラスを出して切れ長の目を隠した。
こちらの疑問には答えなかった相手に、完全に気を許すことは出来なかったが、とりあえずここは言うことを聞いておくしかない。
下手に逆らって揉めてもしょうがないだろう。さっきと別の場所を殴られるのも嫌だった。
スカートをまくり上げて後部座席に跨るのにちょっと手間取りながらも、由良が座るとすぐに彼が運転席に座った。
「単車に乗ったことないのか?」
どこに捕まっていいかわからず挙動不審な後部座席の少女を振り返る。彼女はすぐに頷いた。
「俺の腰にしがみつくんだ。しっかり捕まらないと、本当に落ちるぞ。落ちたら即死だと思えよ。」
即死、という言葉に一瞬顔が強張ってしまった由良に頓着せず、エンジンをまわし始める。想像しているよりもひどい爆音ではないのは、メットのせいなのだろうか?
両手がふさがってしまうので、ステンレスの細い棒とはここでお別れである。言われたことに従って、由良は青年の腰に両腕を巻いた。真実にさえ、こんな事はしたことがなかった。驚くほどに細い腰と、そこから伝わる異性の温かくて少し堅い感触に軽いショックを受けながら、由良は両腕に力を込める。
「行くぞ。」
低い声がかかった途端に、ものすごい圧力と風圧とが全身を襲った。よく腕を放さなかったものである。スペシャル級のジェットコースター並みと言っていい。とてもつもない推進力であった。単車の凄まじいパワーに圧倒されてしまう。
運転手のサングラスなど飛ばされてしまうのではないかと思い、ようやく顔を上げて目を開けると、
「目を開けてもいいが、腕だけは放すなよ!」
秀の声がとても遠くに聞こえた。凄い怒鳴り声で喋っているのだろうが、声は小さい。メットの防音は相当なものだ。エンジンの音さえ遠く聞こえた。
青年の背中以外の視界が見えると、由良は言われたことを忘れてしまいそうになった。驚愕のあまり、腕の力が抜けそうになったのだ。
単車は空を飛んでいる。
うすぼんやりと灰色がかった空の色が四方に見えた。恐る恐る下を向くと遙か下界に思える地上を歩く人が、掌サイズだった。
驚愕のあまり腰が抜けそうで、自分が高所恐怖症ではないことをこれほど感謝したことはない。確かにこの高さから落ちたら即死だ。
突然耳元で人の声がした。
『秀っっ!こら、聞こえてるんだろう。返事して!』
あの金髪の青年だ。掠れ声に覚えがあった。
「どわっっ!」
驚いて悲鳴を上げると、前を向いたままの秀が再度声をあげた。
「返事をしてやれ。ただ声を出して答えればいい。そのメットは通信機になっている。」
一体どの方向に向かって飛ばしているのか皆目検討もつかないが、運転に集中してもらうために由良は彼の言葉に従った。
「き…聞こえてます!」
『あれ?君はひょっとして由良ちゃん?』
「はいぃ~」
情けない声で返事をすると、相手の青年が吹き出した。
『ごめんね、僕が迎えに行くはずだったのに、びっくりしたでしょ?全く、秀ったら、勝手なんだから。すぐに会えるからね。』
「美夜子に会えるんですか?」
『彼女にはもう君の姿が見えているはずだよ。』
「うわっぷ!」
突然単車が急降下した。胃袋がせり上がってくるようなあの感覚が内臓を襲って由良は瞬間吐き気を覚えた。しかし、吐く物を何時間も摂取していないので吐いても何も出ないだろう。
「ぐええええ~っっ」
悲鳴を上げつつも必至で黒い背中にしがみつきながら苦痛を堪えた。
それから数秒後、軟着陸した感触を覚えて、由良はようやく閉じていた目を開いた。吐き気は去っていなかったが、地に足がついた安堵感でようやくため息が出る。
顔を上げると、温室が見えた。
ほんの数メートル先に、この単車の着陸場所を囲むように汗を流した温室が建っている。狭いこの場所に着陸できるところを見ると、腕はいいのだろうか。
「由良?」
聞き慣れた懐かしい声が聞こえた。
「美夜子!」
声のした方向に顔だけを動かす。
ふわふわ揺れる柔らかな髪、大きな瞳をとびださんばかりに開いた、小柄でほっそりした見慣れた姿が、すぐに視界に入った。
彼女はもう制服を着ていなかった。クリーム色の上着と、グレイのプリーツスカートを身につけて可愛らしく立っている。
「知らない間にずいぶん仲良くなったんだな、秀。」
彼女の背後に立っている大きな男がのんびりと声をかける。
由良は慌ててしがみついていた両腕を放した。仲良くなった覚えはない。黒いヘルメットをはずすと、外気が心地よく頬を叩いた。
「よかった。美夜子、よかった…どこも怪我はしてない?」
ふわりと後部座席から飛び降りた由良が足早に私服の少女へ寄ってくる。由良は埃と汗にまみれた制服のままだった。所々に擦り傷や包帯が見える。よく日に焼けた顔には疲労の色が濃い。
それでも彼女は笑っていた。親友にようやく会えた喜びで輝くような笑顔を見せた。
美夜子もそれを見て笑った。後ろの男が肩においていた手をすり抜けて鉄砲玉のような友人のもとに駆け寄る。
両手を握りあって再会を喜ぶ二人の姿を眺めていた流河が肩をすくめて、
「なんだか妬けるな。そう思わんか?」
と、後から階上にのぼってきた金髪の青年に告げる。彫りの深い顔が青い目を細めて頷く。
単車をガレージに収めてきた秀が更にその後ろに降り立って、飽くこともなく二人の姿に見入っていた。
「よかった。無事で…」
涙をかすかに浮かべた美夜子が、うんうんと頷く。
その途端に、目の前の親友が崩れるように倒れた。
「ゆ、由良!しっかりして!」
突然倒れ込んできた大柄な体を支えかねて美夜子がふらつく。あわてて三人の男が駆け寄った。
「どうした?」
秀が低い声で倒れた本人に尋ねる。
「お腹空いた…」
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