第5話 脱走しちゃうぞ

 何時間経っただろうか、由良は騒然とした気配に目が覚めた。エレベーターから、何人もの足音が聞こえてくる。由良の他に留置場に入っている者はこのフロアにはいなかったように思えたのに。何か異変が起こったのだろうか。由良はベッドにうずくまったまま気配を窺った。

 複数の足音が、いつしか一人分になっている。

 腰を屈めなければ出入りできないような由良の独房入り口の鍵が突然開き、

「鍵は開けたよ。出ておいで。」

 掠れた、穏やかな声が聞こえてきた。記憶にない声だった。あの制服の声では絶対にない。

「誰?」

 警戒して入り口から離れて、奥の壁に背を付けた。声音は優しいが、最早これ以上油断はできなかった。壁を伝う右手が細長い棒を捕らえる。高窓の開閉に使うステンレスの細長い道具である。他に手頃な得物はなかった。由良はそれを後ろ手につかみ、低い姿勢で入り口を睨む。

 するとその小さな入り口から黄金の髪が見えた。

「庄司由良さんだね。美夜子ちゃんが君を心配している。助けに来たんだ。」

 驚いたことにそう声をかけてきたのは見たこともない外国人の若い男だった。白い肌と、青とも緑ともつかない深い色の瞳をまっすぐにこちらに向けて穏やかに語り掛ける。思わず気がゆるんでしまいそうな、優しい笑顔を向けてきた。

 美夜子の名を告げた瞬間顔色を変えた由良が、それでも警戒をとかない姿を見て困ったように笑う。

「今は説明している時間がない。早く、君も彼女に会いたいだろう。」

早口に叫んで由良に詰め寄り、ステンレスを持たない左手を引いていった。優しげな顔なわりに、強引だ。

「ちょ、ちょっと私…」

「君は逮捕されたわけじゃない。ここは警察署なんかじゃないんだ。」

「ええ?」

 独房を出ると、廊下に3人の制服が横たわっていた。

「あなたがやったの?一人で?殺したの?」

 走って非常階段へ向かいながら、由良が尋ねる。

「イエス・イエス・ノーかな。」

 金髪でクリーム色のセーター姿が答えた。

「?」

 相手の返答の意味が分からず、眉根を寄せる。

 しんと静まった地下に二人の靴音だけが響く。青い瞳で辺りを警戒しながら彼は制服姿の娘を連れて非常階段を上った。地階にたどり着くと青年は出口に向かうのではなく、署内のオフィスに入り込んだ。

「外へ出ないんですか?」

「君のデータと僕の進入形跡を消さなきゃならない。」

 地階から上の階では、地下で脱走劇が起こっているなどとは到底気づいていないようだった。あちこちで人の緩やかな出入りと物音が聞こえている。

「ここかな…」

 彼は何気なくそのドアの前に立った。ドアの右脇にある小さなボックスに右手をのせると、ドアはあっけなく開いた。それも左右に開くタイプの自動ドアだ。初めて見た出入り口に少なからず興奮する少女を連れ、青年は当たり前のように入っていく。

 ドアには確かに立入禁止の文字と施錠済のブルーランプがあった。異国の青年が手をかざした黒いボックスは、指紋確認をして内部の人間かどうかをチェックする物ではないのか。

 突っ走る由良の推理と関係なく、すんなり入り込めてしまった彼は室内に並ぶモニターと、その下で計測に励む多彩な電子機器に向かっていく。

 彼女の親友がこれを見たら興奮してしまうだろう。理系女子を自称する彼女にとっては宝の山だ。

 機械が大好きな美夜子と違い、体育会系の由良には興味もなくどんな機能なのかもさっぱりわからなかったし、青年がどういう理由で正面奥から左に2番目のモニターの前で立ち止まったかも、まるで関心がない。

 青緑の瞳が見上げるモニターには、由良と青年の姿が鮮明に録画され、再生中であった。

 どんな操作をしたのか由良にはまるで理解できないが、彼は機械の中から小さな円形の板を取り出す。掌に入ってしまう大きさだ。

 とたんに背後の自動ドアが開いた。あの由良を逮捕した青い制服の青年だ。反射的に由良は身構えて留置場から持ってきてしまったステンレスの棒を振りかぶった。

 青い制服が懐に手を突っ込んだ瞬間に細長い武器がその胸を突いた。その直後に、小さなディスクを手にしていた青い目の青年がそれを投げつける。

「由良ちゃん、用は済んだ。行こう!」

一撃を食らってよろめいた制服の青年が外へ駆け出ようとする二人に追いすがる。

「まちなさ…!」

 抑揚のない低い叫びが後ろから聞こえた。

 落ちたディスクをヒールで踏み砕いた金髪の青年がドアを開く。そこへ飛び込もうとする由良の首に、手がからみついた。まるでゾンビのように冷たい手が、呼吸が止まりそうになるほど容赦なく締め付けてくる。

 紺色のスカートが翻り、ステンレスの細い武器が照明を反射して光る。苦し紛れの一撃だったがまちがいなく今度はとどめとなったらしい。由良を逮捕した男は仰向けに倒れて気絶した。

「由良ちゃん大丈夫?」

激しくせき込みながら、

「大丈夫…」

呻くように答えて、部屋の外に出た。金色の髪の青年が手を引いてくれる。

 廊下では騒ぎに気が付いたらしくさっきより騒然となっていた。制服姿があちこちで駆け出している。時折、私服の姿も混じっていた。その中の一人がこちらに目を止めた。

「君たちは…?」

 茶色い背広を着た中年の男が慌てて走り寄ってくる。

「まずいな、見つかった!走って由良ちゃん。」

 逃げ出す二人の姿を視界にとらえた国家公務員たちの声がざわつき始める。

 由良が逮捕されて入門した玄関から走り抜ける。ようやく外に出られた開放感に浸る暇もなく青年に手を引かれて走り続けた。

 だが、警察署だと思っていた建物の敷地から出ていくらも走らないうちに金髪の青年は長い足を止める。

「ここを動かないでね。すぐに戻るよ。もし、追いかけてきたら一旦は逃げて、必ずここに戻るんだよ。」

 車でも拾いに行くのか、大きな建物ばかりが並ぶこの広場に由良をおいて駆け去ってしまった。

 追いかけて走れば、追いつけるだろうとは思う。

 しかし、彼はここで待機するよう指示したのだ。それに従ったまでだが、すぐに後悔した。

 逃げ出した場所から15分ばかり走っただろうか、いくつかの通りが交差するラウンドアバウトは歩行者天国のように、人の通りが多かった。人の気配はたくさんあるのに、どうにも心細く、じっとしているのが怖くて辺りをきょろきょろしてしまう。

 大通りまではまだ少し距離があった。警察署から追いかけてくる気配はないが、じっとしているのは心配だった。

 なんだってこんな場所に放置して行ったのかと、あの金髪の青年を恨みたくなる。

 


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