第4話 逮捕されちゃうぞ

 由良が目覚めたときは誰も周りにいなかった。

 ひどく古びているが、清潔に保たれた室内はせまく、自分の横たわっていたベッドと、小さなテーブルだけがあり、出入り口は窓と細いドアだけである。

 つり上がった目が見開き、近くを目だけで見回すがやっぱり誰もいない。人の気配もなかった。思い切り勢いをつけて起き上がる。途端に、後頭部と、左口腔内と、頭が痛んだ。痛みと共に殴られた記憶が戻ってくる。

 辺りを見回しても美夜子の姿が影も形もない。その事実に、焦燥が全身を包んだ。

 由良は痛みをこらえつつ立ち上がる。ドアに歩み寄りドアを上から下まで眺めるがノブが見つからない。引き戸かと思い左右に動かしてみたが微動だにしないので諦めた。自分が寝ていたベッドを振り返り、その向こうにある窓ガラスを見る。

 脇にあった小さなテーブルを両手で持ち上げ、力いっぱいガラスに打ちつけると、派手な音と共に丸い細かな破片が飛び散った。破片が尖っていないことに、小さな驚きを禁じ得ない。特殊なガラスを使っているのか。

 この部屋は二階のようだった。蜘蛛の巣状にひび割れたガラスを軽く叩いて落としていくと、窓の向こうは、街を遠くに臨む荒野だった。

 思わず途方に暮れる。

 ここは何処なのだろう?都心にこんな広大な砂漠はない。距離を置いた街の向こうにはうねる山脈の影が霞んでいる。その影も青くもなければ緑でもない、黄土色に近いくすんだ茶色をしていた。

 見上げた空の色は、薄曇りと言うにはあまりにも灰色がかった水色で、一瞬、ここは地球ではないのだろうかと疑ってしまいたくなった。遠い昔に整備されたと思われるような道路が近くを走り、それに沿ってわずかな建物が林立している。所々に砂漠化した小高い丘や、広場らしきものが見えているところを見ると郊外の住宅地と言ったところだろうか。

 プリーツの入った制服のスカートをまくりあげ、窓の桟に片足をかける。身を乗り出して建物の外側を臨むと、どうやら足の届く範囲に一階の屋根らしきものが見えた。身軽くその狭い幅に片足をおろし、由良は脱出を開始した。

 美夜子はどこにいるのだろうか。建物の古さにおびえながら親友の行方を案じて、一階の窓を覗き込んでみるが、マジックミラーで内部が見えない。

 赤土のように色の薄い地上に降り立って自分の出てきた部屋を見上げたとき、そこに秀が顔を出した。

 由良を見つけてわずかな逡巡もなく、引き返していく。したたかに殴られた口腔内の痛みが恐怖と怒りをあおった。

 つきあっていた彼氏と同じ顔だけれども、彼よりはるかに物騒で恐ろしい青年。容赦の無い一撃を食らった気がして、思い出すだけでも傷がうずくような気がする。反射的な、あの素早い動き。只者じゃない。

 捕まったらさらに痛い目にあわされるのではないかと危惧していた。だって由良は何もしていないのに殴られたのだ。

 美夜子のことが気になったが、仕方なく由良は駆け出した。逃げ足には自信がある。

 黒く細身の影が地上に降り立ったとき、建物に沿って走る古い道路上で彼女の姿が小さく消えて行くところだった。視界の隅でそれをとらえた秀も、その健脚には追いかける気を失ったように、立ちすくんだ。






 人通りは多かったが、由良の知っている街とは何かが違った。街並みはシンプルにデザインされているのか妙に殺風景に見え、建物などには複雑な装飾が全くない。

 数多く並ぶ店舗も、営業利益を上げるために宣伝を強化しているようには見えず、かといって景観を重要視するようにも思えない。

 由良の目からどう見ても美しくないからだ。まあ、芸術的能力に乏しい自分だからそう思うだけかもしれないが。

「…直線の多い街だなあ。」

 こんな所は由良の短い人生で記憶にない。どこか外国にでも来てしまったような気分だった。

 しかし、人々が話す言葉は紛れもなく日本語だし、彼らは日本人にしか見えない。

 一様にみんなどこか似通って見えるのも日本人らしかった。あまり個性が目立たない集団。

「おかしいなあ…ほんとにここはどこなんだ?」

 地名の標識を探しても見当たらない。通行人を捕まえてここはどこですかと聞くのも何故か気が引けた。

 そして、美夜子はどうしたのだろう?

 あの建物の中にいたのだろうか?それすらも確かめずに逃げてしまった。それほどにあの青年が、恐ろしかったのだ。

 親友の行方を考えるが、自分がどこにいるのかすらわからないのだ、見当もつかなかった。

 殴られる前には確かに腕に抱いていた覚えがあった。あのシャンプーの香り、安らかな寝息、ふわふわの髪の感触は紛れも無く美夜子だったはずだ。

 これからどうしたらいいのかもわからず途方にくれていると、濃紺の制服を着た青年が一人、こちらにやってくる。

「失礼ですが、IDカードを提示して下さい。」

 と言って片手を差し出した。無表情な顔は、愛想笑いさえしてくれそうになかった。誰かみたいだ、と思った。

「あい・でぃかーど…」

 そんな物は持っていない。生徒手帳でも見せればいいのだろうか?

 高校の制服を着ている由良に、いきなり職務質問するなど、おかしな話だが、この青年は警官なのだろうか?由良が知っている警察の制服ではなかった。

「IDカードを提示して下さい。」

青年は同じ顔で同じ言葉を繰り返す。

「あなたは?」

 思わず聞き返す。すると彼はもう一度同じ台詞を繰り返した。壊れた再生機みたいだった。

「持ってないよ、IDカードなんて。」

 仕方がないので正直に答えると、制服はおもむろに由良の腕をつかんで手錠をはめた。

 狭い路地裏の前で捕まってしまった。

 あまりにも相手の予備動作もない動きが自然で、由良の反応が遅れた。と言うよりはあまりに予想外の展開で、ことが把握できなかったのかも知れない。

「IDカード不携帯は刑事犯罪として扱われます。署までご同道願います。」

「え!?え!?ど、どうして!?」

 そんな制度は初耳だ。いや、単なる由良の勉強不足だとしても、それはあんまり不当ではないか。公民の授業中寝てばっかりだったことを大きく後悔する。ちゃんと聞いておけばよかった。

「冗談じゃな…!」

 慌てて逃げ出そうとしたが遅かった。由良の両手はがっちりと手錠にはめられ制服の青年につながれていた。

 ここで下手に暴れようものなら返ってマズイ気がする。行くところに行けば事情を説明し、無罪を訴えることも出来るだろう。

 仕方なく由良は不承不承青年の後に付いた。振り切って逃げようと思えば出来なくはないが、実際、どうしていいかもわからず途方にくれていたのだ。

 警察に行くのなら道も聞ける。迷子なら家まで送ってくれるかもしれない。美夜子の捜索をも頼めるかもしれない。

 交番に道を尋ねるような感覚でいる由良は、逮捕されたという事実をちゃんと認識していないようだった。



 200メートルも歩かないうちに大きな建物が通りの右手に見えてきた。どうやらそこに連れていかれるらしい。清潔そうで真っ白な建物は窓が少なく、その窓もマジックミラーである。6階くらいはありそうだった。

 青年は一言も発せず振り返りもせず、手錠をはめた腕を隠してさえくれない。早歩きでずんずん進んでいく。人目が気になるはずなのに、道行く人は誰一人注意を払わなかった。

 出入り口からまっすぐエレベーターにむかいそのまま地下へ下りる。何階まで下りたのかも確認しないうち、廊下へ出て、いきなり留置場へ放り込まれてしまった。

 去っていく制服姿を呆然と眺めているうち、自分の状況がやっと把握する。

 いきなりの犯罪者扱いではないだろうか。こっちの言い分はまったく聞くことさえしてくれなかった。事情聴取などはないのだろうか。

 とりあえず手錠ははずしてもらえたので良かった。手首をさすりながら、初めて経験する独房の中をじっくり見る。腕を差し入れるのがせいいっぱいの小窓が届かないほど高い位置にあり、ひどく細いシングルベッドに毛布、灰色の壁に西洋式トイレがついている。

 そして、暗い照明がぽつんと天井の真ん中に設置されていた。これでは本も読めまい。

 異様な音を立てて、胃袋が長時間何も消化していないことを示す。

「お腹空いたなあ。」

 ぽつんと呟いてから自分はどのくらい食べていないのだろうと考えた。気を失っていた時間が殆どだったので、何時間という目安さえはっきりしない。母の手料理が恋しい。いやこの際、学校の購買部のパンでも構わない。

 少なくとも丸半日は食べてない。そう腹時計は告げている。

 両腕を枕に堅いベッドで寝そべって天井を見た。手の甲に後頭部の手当の後が触れる。緩くガーゼのような布が貼られていた。

 今更ながら飛び出してきたのは、早計だったと気づいた。手当をしてくれたくらいなのだから、あれ以上の危害は与えるつもりもなかったのかも知れない。冷静に考えれば、あそこを動く必要はなかった。

 あの時は、冷静になれないほどに怖かったのだ。

 今となっては後の祭りだった。どうにもならない。

 急にだるくなり、簡易なベッドに横になる。とにかく疲労感が体中を支配している。空腹のままだったが、そのまま由良は瞼が重くなり、寝入ってしまった。


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