第8話 《審判》と《月》は《恋人》へ判決を下す

「ジュアニッタ・ポップルウェルにとっての、最悪の悪役になる?」

 フランやルクレーシャ、ユリシーズ、そしてジュリウスの声がぴたりと重なる。

 翌日。一日の授業を終えた放課後、フェリシアは薔薇庭園の小屋で、昨夜何があったかとともに決意を宣言した。

 ジュアニッタにとって、最悪の悪役になる。

 ぱっと聞いただけでは何をするかよくわからない言葉だ。案の定、全員がぽかんとしたような顔をしている。

「ええ。おそらく、ポップルウェル様は私の――いえ、私たちのことを勝手に悪役として見ているようなので。そこまで敵視してくるのなら、あの方のお望みどおり悪役になってあげようかと」

 小屋の中に入ったときにジュリウスが用意してくれた紅茶に口をつけ、なんてことない様子でフェリシアはこの場にいる全員へ返事をした。

 表面上は至っていつもどおりに見えるかもしれないが、腹の中では怒りがマグマのように煮立っている。はっきりとした怒りを覚えているのに、頭は対照的に冷えていた。

(ゲームの『フェリシア』も、妨害する側に回ったときはこんな気持ちだったのかな)

 怒りをはじめとした負の感情を抱えつつも、行動や振る舞いは冷静に。

 そんな振る舞い方ができたからこそ、ゲームの『フェリシア』は手強く優秀なライバルキャラクターになっていたのかもしれない。今だけは『フェリシア』がライバルキャラクターの一人であることに感謝したい。

 もっとも、自分はゲームの『フェリシア』と同じように断罪される側になるつもりは全くないが。

「あー……お前の気持ちはなんとなくわかった。けどよ、フェリシア。具体的にはどうするつもりなんだ? というか、犯人はその……ジュアニッタ・ポップルウェルで確定……していいんだよな?」

「そこはもう確定でいいでしょ。明らか何かを企んでる」

 フランが頭をかきながら呟き、それに素早くユリシーズが言葉を返す。

 フェリシアもゆったりした動作で頷き、ユリシーズへ同意した。

「最初にリヴァーモア様がしてくれた忠告といい、昨夜のシャロン様の様子といい、私もそこは確定させていいと思います」

 紅茶をもう一口飲み、口の中を潤す。

 茶葉の芳醇な味と香りがフェリシアの舌と鼻を楽しませ、ささくれだった心をわずかに癒やした。

「具体的に何をするかは……まだ少し検討中の部分もあります。が、ポップルウェル様が大勢の方にかけている魔法を解くというのは実行したいと考えています」

 今回、学園に起きている騒動は彼女が開花させた魔法の力によって引き起こされたものだ。大本の原因といえる魔法を解くのは、必ず行わなくてはならない。

「しかし、一体どのような方法で魔法を解くおつもりですか? まだ僕らははっきりと魔法の正体を掴めていませんが」

 ジュリウスが怪訝そうな顔をし、問いかけてくる。

「その辺りの件ですが、昨夜のシャロン様の証言で予想が深まりました。今は、予想を確定するか否か、決定するために必要な情報待ちです」

「情報待ち……ですか? 一体、どなたからの」

 ジュリウスがそういった直後、小屋の扉がノックされる音が響いた。

 ジュリウスはもちろん、フランもユリシーズも表情を強張らせる。ルクレーシャも肩を大きく跳ねさせて、不安そうな目で出入り口を見た。

 空気に緊迫感が混じる中、フェリシアは落ち着いた様子で口を開いた。

「皆様、警戒しないでくださいませ。私がお呼びした方ですから。……どうぞ、お入りください」

 普段よりも大きめの声を出し、扉の向こう側にいる相手へ入室の許可を出す。

 短い間のあと、閉ざされていた扉がゆっくりと開かれ、訪問者が姿を現した。

「失礼します」

「……! リズレイ!」

「おや……ここにいると聞いてはいましたが。まさか、あのときの見習い騎士様もいらっしゃるとは。それに、ブルームフィールド様やリヴァーモア様も」

 室内へ入ってきたシャロンを見た瞬間、フランが立ち上がって声をあげた。

 軽い靴音とともに、落ち着き払った様子で室内へやってきたシャロンは、その場にいる全員を見渡して首を傾げた。口元に手を当て、思考を巡らせ――すぐに何か納得したかのように頷く。

「ああ、なるほど……こちらで対策を考えていたというところでしょうか。ということは、こちらにいらっしゃる方々は今回の騒動に気付いているということでよろしいでしょうか?」

「お前、なんでこの場所が……」

「おや、フェリシアから聞いていませんでしたか? 僕は彼女に呼ばれて、ここに来たのですが」

 シャロンがそういった直後、フランの視線がフェリシアへ向けられた。

 こちらを物言いたそうに見つめる彼の瞳には、ほんのわずかな警戒心と疑いが混ざっている。

 昨夜の出来事があるまで、シャロンは被害者でありジュアニッタの魔法の影響を受けて敵側についていた人間だ。そんな人物を拠点といえる場所に招き入れたのだから、裏切りを予想されても仕方ない。

「警戒しなくても、シャロン様はもう大丈夫ですよ」

「ええ。フェリシアのおかげで、頭もすっきりしていますから」

「……本当にか?」

 フランがまだ少し警戒心を残した瞳のまま、確認してくる。

 シャロンはそんな彼を無言で見つめ返したのち、くつりと肩を揺らした。

「慎重ですね。慎重であることは美徳といえますが、慎重すぎるのも賢い選択ではありませんよ」

「うぐ……」

 猫のように目を細め、口元に薄く笑みを浮かべ、そう言い放つ姿はフェリシアのよく知っているシャロン・リズレイの姿だ。

 まだあまり納得できていなさそうなフランから視線をそらし、シャロンはフェリシアとの距離を詰め、鞄から数枚の書類と分厚い本を取り出した。

「フェリシア。こちら、頼まれたものです。内容はそちらの書類にまとめましたが、本も念の為に持ってきました。図書棟の一番奥にありましたので、戻すときはそちらへ」

「ありがとうございます、シャロン様。ポップルウェル様のお傍はどのような感じでしたか?」

 書類と本を受け取りながら尋ねる。

 瞬間、シャロンの表情が不快そうなものへと切り替わった。

「……正直、何故今まであんな不快な香りに気付かなかったのか……。今までの自分を殴りたい気持ちになりました」

「不快な香り?」

 口と鼻を覆ってシャロンが零した言葉に、ジュリウスが反応する。

 そろそろ何をしようとしているのか説明したほうがよさそうだ。フェリシアは手元の書類に軽く目を通したのち、説明するために口を開いた。

「シャロン様にお願いして、調べ物と……少々敵情視察をしてもらいました。つい最近までポップルウェル様の傍にいたシャロン様なら、怪しまれずに向こうの情報を抜き出せるのではと考えたので」

 敵情視察は早朝、登校前にこっそりとシャロンが持ちかけてきた提案だ。

 さすがは『フェリシア』を騙しきって絶望に叩き落としたキャラクター。ジュアニッタを油断させて情報を抜き出すのなんて、簡単なことだったらしい。ジュアニッタの魔法にかかっている間、彼が本来のスペックを発揮しなかったのは救いだった。

 この調子で今も敵側に回っていたらと思うと、ぞっとする。

「先ほど口にしていた情報というのは、その人……ええと、シャロン・リズレイ様でしたか。その人からの?」

「はい。ポップルウェル様の魔法の詳細をもう少し探りたかったので。おかげで、面白いことが明らかになりました」

 こちらをどうぞ、ジュリウス様。

 一言、声をかけながらフェリシアはシャロンから受け取った書類をジュリウスへ差し出した。

 ここに集まっている人物の中で魔法に詳しそうな彼なら、シャロンに取り寄せてもらった情報もわかるはずだ。

 書類を受け取り、目を通しているうちにジュリウスの表情がみるみる変化していく。

「これは……魔法薬の一種、でしょうか?」

「だと思います。おそらくですが、ポップルウェル様は自身の魔法だけでなく魔法薬も併用しています」

 ジュリウスの呟きに反応したシャロンが口を開いた。

 腕組みをし、不愉快そうに顔をしかめる。

「……なるほど。魔法薬も併用していたのなら、魔法の正体が上手く掴めないのも納得できる」

「今日、僕が感じた甘い香りの正体もおそらくですがこれでしょう。魅了の効果がある魔法薬は、総じて甘い味や香りがするそうですから」

 そう語るシャロンの表情は、不愉快そうなもののままだ。

「魅了の魔法薬で人を惹きつけて、相手が気付かないうちに認識を変える魔法をかける……あんなに可愛い顔をして、なかなか卑怯で陰湿な手口ですよ」

 吐き捨てるかのように言葉を紡ぎ、シャロンは腕組みをした。

 真剣そうに書類へ目を通しているジュリウスへ目を向けたまま、彼と入れ替わるようにフェリシアが口を開く。

「デルヴィーニュ様には、この魔法薬に対応した解毒薬の調合をお願いしたいと思っています。できれば、蒸発して空気化しやすいタイプの」

「え? あ、ええ……可能だと思います。魅了に関係している効果のものなら、解毒する際に使用する材料も限られてきますので」

「よかった。それではお願いします」

 ふわりと柔らかい笑みで感謝の言葉を告げたところで、ユリシーズが口を開いた。

「嫌な奴の手口がちょっとわかったのは進歩だけど。ブレーデフェルト、結局どうやってかけられた魔法を解くわけ?」

「そのことなのですが……」

 フェリシアは口元に手を当てて、思い出す。

 頭の中に思い浮かべたのは、昨夜のシャロンとのやりとり。そのときに耳の奥で聞こえた音と、内なる自分の声だ。あのときに聞こえた音や声に導かれるように言葉を紡いだ瞬間、シャロンが正気へと戻っていた。

「シャロン様を正気に戻せたときと同じ現象を起こせれば、ポップルウェル様の魔法に打ち勝てるのではないか……と考えているのですが……」

「それって、昨日の夜に何があったか話してくれたときに言ってた奴?」

 フェリシアは小さく頷く。

 簡単にだが、昨夜に何があったかを話したときにこの現象についても話していた。あのときは自分でも何をしたのかよくわかっていなかったが、あの現象のあとにシャロンがいつもの彼に戻ったのだから、原因不明の現象でも利用するべきだろう。

 そういった思いもあって話したのだが、ユリシーズは何やら呆れた顔をして深い溜息をついた。

「お前……それ、ブレーデフェルトだけの魔法じゃないの?」

「えっ」

 ユリシーズが発した一言に、フェリシアはぽかんとした顔をした。

 あれが――フェリシアの、魔法?

「魔法の力が開花するときって、何かしらのサインがあるんだよ。ブレーデフェルトの場合、耳の奥で聞こえたっていう音と声だったんじゃないの?」

 ゲーム中の『フェリシア』がライバルとして立ちふさがるときには、彼女はもうすでに魔法の力を開花させていた。ルクレーシャも魔法の力を開花させるルートがあったが、具体的な描写はされていなかったはずだ。

 故に、魔法の力が開花したときにどのような現象が起きるのか全く知らなかったが――。

(あれが、魔法の力の開花)

 あのとき、あの瞬間。

 フェリシアの中で《審判》の力が目覚めたのだとしたら。

「……自由に、あのときの現象を起こせる……?」

 頭の中で考えていた言葉が自然と唇から溢れた。

「多分ね。ブレーデフェルトの魔法がどんなのか、俺にはわからないけど……それでリズレイが正気に戻ったのなら、魔法を解除する系のなんじゃない?」

「おや。ならば、こちらの勝利へと上手く導けそうですね」

「は、はい……。なんだか、まだ少し実感がわきませんが……」

 突然魔法の力が開花したといわれても、あまり実感がわかない。

 だが、昨夜シャロンを正気に戻して彼を取り戻せたのは、まぎれもないフェリシア自身の力だ。

 じわじわと心の奥底から歓喜が押し寄せ、だらしなく表情が緩みそうになる。

「ですが、念には念を入れて策を張り巡らせておくべきだと思うよ。まだ開花したばかりの力なら安定していない部分もあるだろうし」

「それには僕も同意します。フェリシアの力に頼り切りの作戦になると、何かあったときにリカバリーが難しくなってしまう」

 シャロンとユリシーズの一言で、フェリシアの心に広がっていた歓喜が急速に鎮まっていく。

 浮かれている場合ではない。今はジュアニッタ・ポップルウェルという厄介な相手に勝負をしかけようとしているところだ。魔法が使えるようになったのは嬉しいが、それに浮かれていてはせっかくの決意が砕け散ってしまう。

 かちゃん。高い音をたててカップをソーサーに置き、フェリシアは両手で自分の頬を軽く叩いた。

「……そうでした。すみません、ありがとうございます。シャロン様、リヴァーモア様」

「別に。魔法が使えるようになって嬉しいっていうのは、俺もわかるからつい浮かれそうになる気持ちもわかってるつもり」

「ですが、今は浮かれている余裕がないので……またゆっくりお祝いしましょうね。フェリシア」

 ユリシーズはややそっけなく、シャロンは穏やかな笑みと声で返事をした。

 二人に頷き返し、フェリシアはまだ少しひりついている自分の頬を軽く撫でた。

「……とりあえず。先ほどもお願いしたように、デルヴィーニュ様は解毒薬の調合をお願いします。レノンフォード様とリヴァーモア様は周囲への聞き込みを」

「聞き込み?」

「いいけど……何を聞けばいいの」

 フランは不思議そうな声で尋ね、ユリシーズは面倒そうにしつつ首を傾げる。

「私やレーシャ様をどう思っているのか。そして、私やレーシャ様がどのような嫌がらせをポップルウェル様にしたことになっているのか。その調査をお願いします」

「ふぅん……いいよ、わかった」

 ユリシーズが面倒そうにしつつも、頷いて返事をする。

 しかし、フランは何やら心配そうな顔をし、すぐに言葉を返さなかった。

「レノンフォード様?」

 首を傾げ、フェリシアは彼の名前を呼ぶ。

「……聞き込み自体は別に構わないんだが……。フェリシア、それを聞いてどうするつもりなんだ? まさか嫌がらせとかは……しないよな?」

 フランが口にした一言を聞いて、フェリシアは思わずぽかんとしてしまった。

 だが、少し考えると彼が何を心配しているのか予想がついた。真っ直ぐで正義感の強い彼のことだ。フェリシアが怒りに身を任せて、ジュアニッタへ直接的な報復行動をしないか不安に思っているのだろう。

「……別に、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」

 確かに、ジュアニッタには怒りを覚えている。シャロンを歪め、ルクレーシャを不当に傷つけた相手だ。絶対に許すつもりはなく、許してはならないとも考えている。

 しかし、だからといって相手と同じような手段をとったら――それこそ、相手の望む悪役令嬢、フェリシア・ブレーデフェルトになってしまう。

 ゲームの『フェリシア』のようなことは、絶対にしないと決めている。

「確かに今回のこと、私は怒っていますし許すつもりはありません。ですが、だからといって直接的な報復行動に走るのは愚かな選択です」

 静かな声でそう答えた直後、シャロンが声を押し殺してくつくつ笑った。

 口元を押さえていた片手を動かし、芝居がかった口調で口を開く。

「ええ、全くもってフェリシアの言うとおりです。すぐに直接的な報復に走るのは賢くない。頭を使い、じわじわと優しく首を絞めるように、少しずつこちらに有利な状況を作り出さなくては。ねぇ? フェリシア」

「そうですね、シャロン様。相手はずる賢く、知恵を使う相手。静かにこちらの足元を崩して一方的なシナリオに組み込もうとしてきたのです。なら、こちらも同じ手を使うべきではありませんか?」

 片手を口元に当て、くすくすとフェリシアも笑う。

 フランの瞳には、二人揃って綺麗に笑うシャロンとフェリシアの姿が映っているが――お互いに目が一切笑っていないため、ぞわりとした恐怖を感じさせるものがあった。

 怒っている。二人とも、はらわたが煮えくり返りそうなほどに。

「……お前たちを怒らせたらまずいってこと、よくわかった」

 表情を引きつらせ、フランは思わず小さな声で呟いた。





 フランたちに自分の思いを宣言した三日後。

 女子寮の一室で、フェリシアは仲間たちとともに集めた情報をまとめたノートを確認していた。

 シャロンがこちら側に来てくれたのは、本当に助かったし大きかった。おかげでジュアニッタの魔法について多くの情報を手に入れられた。嫌な顔一つせず、笑顔でスパイ役を引き受けてくれた彼には心の底から感謝しなくてはならない。

(その分、あとで対価を要求されそうで怖いけど)

 対価として、後々でフェリシアをバッドエンドに叩き落とすような真似はさすがのシャロンもしないだろう。多分。おそらく。そう思いたい。

 バッドエンドに叩き落されるようなことはされなくても、後々でかなり高い対価を要求される覚悟はしておいたほうがいいかもしれない。

「フェア様、準備はできていますか?」

「レーシャ様。大丈夫です、少々お待ちください」

 部屋の扉がノックされる音がし、ルクレーシャの声がかけられる。

 フェリシアは引きつっていた表情をいつもどおりのものに戻し、ノートを閉じて箱の中にしまった。第三者に持ち出される危険性も考えて、箱に鍵もかけておく。

 ジュリウスから受け取った魔法薬をはじめ、必要なものを入れた鞄を手に取り、扉を開ける。

 扉の向こう側に立っていたルクレーシャは、フェリシアの姿を見た瞬間、ほっとしたように表情を緩めた。

「おはようございます、フェア様」

「ええ。おはようございます、レーシャ様。それでは行きましょうか」

 片手を差し出し、フェリシアはルクレーシャへ声をかける。

 ルクレーシャは一瞬驚いた顔をしたが、おずおずとフェリシアの手に自分の手を重ね、照れたように表情を緩ませた。

 二人、手を繋いで寮を出る。瞬間、同じように学園を目指している女子生徒の一部から鋭い視線を向けられたが、フェリシアは一瞥だけし、ルクレーシャの手を引いて学園への道をどんどん歩いていく。

 ジュアニッタの魔法の影響を受けている人は、結構な人数がいるのかもしれない。

「……レーシャ様、大丈夫ですか?」

 ある程度歩いたところで、一緒にいるルクレーシャへ声をかける。

 少し不安そうになっていたルクレーシャだったが、フェリシアに声をかけられた瞬間、わずかに安心したような顔をした。

「は、はい。大丈夫です。お気遣いありがとうございます、フェア様」

「いえ。レーシャ様は私の大事な親友ですから」

 ゆるりと表情を緩め、優しい声と表情でルクレーシャへ言葉を返す。

 すぐにまた正面を向くと、フェリシアは学園へ向かう足を止めずに口を開いた。

「……すぐには難しいかもしれませんが、レーシャ様も堂々としていてください。怯えた顔は、向こうに調子を乗らせてしまいますから」

「うう……すみません。でも……私に、できるでしょうか」

 呟くようにそういったルクレーシャの表情は、どこか不安げで自信がなさそうだった。それも仕方ないだろう。言いがかりをつけられて傷つけられたのだから、自分に対する自信を失ってしまっても不思議ではない。彼女の場合、過去に繰り返し傷つけられた記憶があるから、そのときのことを思い出してしまうのもある。

 だが、フェリシアは知っている。ルクレーシャはこの世界の主人公だ。過去に受けた傷を乗り越え、深い傷や影を抱いている攻略対象のキャラクターたちに優しく寄り添える優しさと強さを持っている。

「大丈夫ですよ。レーシャ様は本当は強いお人であることを、私は知っていますから」

 だから、ジュアニッタにも怯えずに立ち向かえるはずだ。





 フェリシアたちが仲良く手を繋いで教室へ入ると、何やら物々しい空気が二人の頬を撫でた。

 理由なんて深く考えなくても予想ができる。ジュアニッタが動きを見せたのだろう。

(こんな朝から動きを見せるとは)

 けれど、この空気にはなんだか覚えがある。

 フェリシアはルクレーシャと手を繋いだままもう一歩を踏み出す。履いているブーツの靴底が床を叩き、かつんとわかりやすい足音がした。

「!」

 即座にクラスメイトの視線が一斉にこちらへ向けられる。

 多くは教室に入ってきたフェリシアとルクレーシャに敵意で満ちた瞳を向けている。中には敵意を向けていない者もいたが、心配そうな――どうしてこのタイミングで来てしまったんだと言いたげな目をしていた。

 繋がれている手に力が込められるのがわかる。

 すぐ後ろにいるルクレーシャの手を握り返し、声のないサインでもう一度彼女を勇気づけ、フェリシアは繋がれていた手をゆっくりと離した。

 突き刺さる視線に怯えることなく、堂々とした足取りで教室の奥へと足を進めていく。

「おはようございます、皆様。そのようなお顔をして、何かありましたか?」

「何かありましたかなんて……白々しい」

 クラスメイトの一人が忌々しそうな声で呟いた。

 恨み言にも涼しい顔を返し、フェリシアは教室全体に視線を巡らせた。刺々しい視線をかきわけ、騒ぎが起きている中心を探す。

 人が集中している一角。一人の女子生徒の席。ジュアニッタの席だ。

 彼女の傍に立ち、気遣わしげにジュアニッタの背中を擦っていたシャロンの瞳がこちらに向いた。フェリシアとルクレーシャの姿を見た瞬間、表情が消えて瞳の奥に冷え冷えとした色が宿る。

 一瞬だけ心臓が握りつぶされるような苦しさがあったが、その瞳の奥に微かな暖かさがちらついているのに気付き、心の中で安堵の溜息をついた。

 よかった。一晩明けても、シャロンはシャロンのままだ。

「あら。白々しいも何も、私は本当に心当たりがありませんよ。もちろん、レーシャ様にも」

「は、はい……」

 表情一つ崩さずに言い放ち、フェリシアは首を傾げてみせた。

 物々しい空気。突き刺さるクラスメイトたちの視線。

 ずっと既視感のような何かを感じ続けていたが、自然と口から紡がれた言葉を聞いて、はっとした。


これは、糾弾シーンだ。


 アルカナ・ラヴァーズ、シャロンルートのクライマックスの一つ。

 ゲームのものと違いがあるため、すぐに気付けなかった。だが、自分の唇から紡がれた言葉でようやくぴんと来た。

 シャロンルートのクライマックスには、他のルートと違って複数の種類がある。『フェリシア』との友好度が隠しステータスとして設定されており、その数値によってクライマックスが変化する。

 今、フェリシアが立たされているのは『フェリシア』との友好度が著しく低かった場合のクライマックスだ。

 『フェリシア』と十分に親しくなれていなかった場合、彼女はゲームの『ルクレーシャ』を完全に敵視して彼女を罠にかけようとする。先ほど自分の口から出たのは、そのときの台詞の一つだ。

 しかし、途中でゲームの『シャロン』が『フェリシア』の手を離し、『ルクレーシャ』を助ける。混乱する『フェリシア』に『シャロン』がずっと隠していた真実を突きつけ、『フェリシア』は孤独の道を歩むことになる――。

 ジュアニッタは、それと似たことをしようとしている。自分を『ルクレーシャ』の立場に、フェリシアとルクレーシャを強制的に断罪される悪役令嬢の立場に置いて。

 フェリシアの背中を冷や汗が伝う。

(でも、そっくりそのままゲームのシナリオと同じ展開になるとは思えない)

 今の状況は、あくまでもあのシーンに似ているというだけで、丸々一緒ではない。

 フェリシアとルクレーシャが犯したことになっている罪も、完全にでっち上げられた冤罪だ。

 シャロンもジュアニッタ側についていると見せかけて、こちらについてくれている。故に、ゲームのシナリオを同じように物事が進んでいく可能性は低いはずだ。

「前々から気に入らない奴らだとは思ってたけど、ここまできて知らないふりするとか……本当に嫌な奴だな」

「そうはいわれましても。話が全く見えてこなくて、困っているくらいなのですが」

 さて、そろそろ触れてやるべきだろう。

 鞄を持った手を後ろに回し、フェリシアは席に座って顔を覆っているジュアニッタへと目を向ける。

「それよりも、ポップルウェル様。先ほどからご気分が優れなさそうですが、大丈夫ですか?」

「……!」

 フェリシアが声をかけた瞬間、ジュアニッタがわかりやすく肩を跳ねさせた。

 ぎこちない動きで顔をあげ、怯えた表情でフェリシアとルクレーシャの顔を見る。フェリシアと目が合った瞬間、引きつった声で微かに悲鳴をあげた。

 このような姿のジュアニッタははじめて見たが、なるほど。魔法の力を借りているとはいえ、不特定多数を騙せるくらいには優れた演技力を持っているらしい。フェリシアも一瞬自分が何かしてしまったのではないか、と錯覚しそうになった。

「彼女を怯えさせないでくれますか」

 シャロンがすかさず口を開き、ジュアニッタを庇うように立つ。

 彼の背中に隠れる直前、ジュアニッタの口元がほんのわずかに弧を描いていたのを、フェリシアは見逃さなかった。

「ジュアニッタから聞きました。フェリシア、ルクレーシャ様。またジュアニッタへ嫌がらせをしたそうですね?」

 冷ややかな目と、冷ややかな声での言葉。ジュアニッタの傍に立っているシャロンは、彼が魔法の影響を受けていた頃の姿とよく似ていた。

 彼の言葉に耳を傾けつつ、フェリシアは指先で後ろ手に持った鞄を軽く叩く。

 たったそれだけのサインだが、ルクレーシャはフェリシアが何を言いたいのか察してくれたようだ。

 背中にフェリシアの鞄の蓋が触れて、手にかかっている重さがほんのわずかに増す。目的のものはすぐに見つかったようで、鞄がほんの少しだけ軽くなった。

 すぐ後ろで瓶の蓋が開く小さな音と、液体に何かを入れた音が聞こえる。

「……なんのことでしょう。このペンダントは最初から私のものだと、以前確かにお伝えしたはずですが」

 反論しつつ、一瞬だけ背後に目を向ける。

 ルクレーシャが沸騰する瓶をそうっと教室の壁際に置き、それを隠すように壁際に立つ様子が見えた。

 唇が弧を描くのを抑えながら、フェリシアは改めてシャロンとジュアニッタのほうを見る。

 ジュアニッタは何やら無言で震えていたが、突如立ち上がり、声をあげた。

「そんなはずない! だって、あのペンダント、私が確かにもらったものだもん……!」

「では、ポップルウェル様が過去にもらったものと同じだっただけでは?」

「またそうやって嘘ばっかり……!」

 みるみる間にジュアニッタの瞳に涙が溜まっていき、ぽろぽろ溢れる。

 彼女の周囲にいるクラスメイトは、優しくジュアニッタの背中を擦り、心配そうに声をかける。

(嘘泣きまでするとは、本当に大した演技力)

 心の奥底で、何かが急速に冷えていく。

「嘘ではありませんよ。何より、私がポップルウェル様のペンダントを奪ったのだという証拠は?」

「ジュアニッタちゃん本人が証言してるだろ!」

 クラスメイトの一人である男子生徒がすかさず反論する。

 彼もジュアニッタの魔法にかかっている一人らしく、フェリシアを睨む目は敵意に満ちていた。

 だが、フェリシアがゆったりとした動作でそちらを見た瞬間、わずかに怯んだような声を出した。

(ああ、多分今の私、怖がられる顔してるんだろうな)

 だが、改めてやれそうにはない。

「……っそれは、ポップルウェルさんの主張じゃないですか」

 フェリシアがさらに反論しようとした瞬間、静かに行動してくれていたルクレーシャが声をあげた。

 クラスメイトの視線が、フェリシアの後ろにいるルクレーシャへと向けられる。

「あくまでも本人の主張です、客観的な証拠には……」

「は? 私は見たわよ、ブレーデフェルトさんがジュアニッタちゃんに詰め寄ってるの。何かを無理やりとってるように見えたけど?」

 女子生徒がルクレーシャの声に被せ、新たに主張する。


 ――かかった。


 にぃ、と。

 心の中で、フェリシアは笑みを浮かべる。

 きっとルクレーシャもそうなのだろう。彼女の瞳の奥できらりと何かが光を放った。

「それは、いつのことですか?」

「この間。ええっと……一昨日辺りかしら。放課後、ひと目につきにくいところでそんなやりとりをしてたのを見たわ」

 自信満々な様子で、女子生徒は言い放つ。

 他のクラスメイトもフェリシアが悪いと確信したのだろう。ジュアニッタに対して謝れと一斉に非難の声をあげた。

 が、一人の声が教室を満たす声の波を切り裂いた。


「何それ。普通に考えておかしいんだけど」


 同時に、フェリシアの頭に重さがかかる。

 一方的な断罪の現場に声をあげたのは、ユリシーズだ。

 ルクレーシャと並ぶようにしてフェリシアの後ろに立った彼は、フェリシアの頭に自分の腕を乗せ、さらにそこへ顎を置いた。

「おかしいって……何がよ。リヴァーモア君」

「一昨日の放課後でしょ。そのときなら、ブレーデフェルトは俺と一緒にいたし」

「えっ……?」

 ざわり。

 先ほどまでフェリシアを一方的に非難していた教室の空気が揺らぐ。

 ユリシーズはフェリシアの頭にもたれかかったまま、ポケットからメモを取り出した。半分に折りたたまれていて中身が読めないようにされているが、それは一昨日フェリシアがユリシーズへと渡したものだ。

「俺、調べ物がしたかったんだけど、その本がどこを探してもなかったから。本が好きそうなブレーデフェルトに聞いて、一緒に図書棟まで探しに行ってたんだけど」

「えっ……嘘、でも、私は確かに見たわ! ブレーデフェルトさんが、ジュアニッタちゃんに、詰め寄ってる様子……を……」

 女子生徒が目に見えて動揺する。

 ついさっきまでの威勢の良さはどこへやら、敵意に満ちていた瞳は不安そうに揺れ、声も自信がなさそうにどんどん尻すぼみになっていった。

「見た……見たはず、なのに……なんで……」

 まるで、自分の記憶に自信がなくなっていくように。


 ――効いている。

 植え付けられていた偽物の記憶が、剥がれ落ち始めている。


 ルクレーシャがこっそり置いたのは、ジュリウスに頼んで作ってもらった解毒薬だ。火の魔法石の破片を中に入れ、短時間で沸騰させ、水蒸気へと変えられ続けているそれは、空気に溶けて教室全体へと行き渡った。

 あとは、剥がれ落ち始めた部分を崩していくだけだ。

「じゃ……じゃあ、ブルームフィールドさんは? ブルームフィールドさんだって、ジュアニッタちゃんに嫌がらせをしてたし!」

 今度は、標的がルクレーシャへと向いた。

 フェリシアもクラスメイトたちの視線につられ、ルクレーシャを見る。

 大丈夫かと少々心配だったが――ルクレーシャはちらりとフェリシアを見て、深呼吸をして、口を開いた。

「私も、ポップルウェルさんには一切嫌がらせをしていません」

 背筋を伸ばし、怯えることなく言い切る。

 凛とした――という表現には程遠いけれど。真っ直ぐ前を見据えて答える彼女の姿は、まさしくゲームの主人公『ルクレーシャ・ブルームフィールド』だった。

「けど、ジュアニッタちゃんはブルームフィールドさんにいろんなものを盗まれたって言ってたわ!」

「違います! 私はポップルウェルさんの持ち物を奪い取ったりしていません。いつのまにか鞄の中に持ち主のわからないものが入っていましたが、全て先生に相談して預かってもらいました。職員室に行けば、預かってもらったものを確認できるはずです」

 ルクレーシャの一言に反応し、クラスメイトが一人、教室を飛び出した。

 まもなくして、そのクラスメイトは一つの箱を持った状態で、息を切らせて再び教室に飛び込んできた。

「あった……! これ、ジュアニッタちゃんが言ってた奴……!」

 ざわり。再び教室全体が動揺の波に揺れる。

 雲行きがどんどん怪しくなっていることに気付いたらしく、ジュアニッタの表情にも焦りが見え隠れしていた。

 もう一度深呼吸をして、ルクレーシャは続ける。

「……むしろ、持ち物を誰かにとられたのは、私のほうです。鞄の中に入れていたものが見知らぬ誰かの持ち物とすり替えられていました。私の鞄に入っていたものは、職員室に届けたのでそちらの箱の中にあると思いますが……本来、私が持っていたものは未だに戻ってきていません」

 ルクレーシャがクラスメイト全体を見渡す。

 何かがおかしいことに気付き始めた者もいるらしく、フェリシアとルクレーシャへ敵意を向けていたクラスメイトがひそひそと小さな声で何かを言っているのが聞こえてくる。

「……しゃ、シャロン……」

 ジュアニッタが不安げな声でシャロンの名前を呼び、彼が着ている制服を掴んだ。

 シャロンはそんな彼女へ視線を向け、ふっと優しい表情を見せた。

 そんな彼の表情につられるようにして、ジュアニッタもほっとしたような顔をした。


「――そろそろ嘘をつくのを、やめたらどうですか?」


 が、それもほんの一瞬のこと。

 彼女の手を振り払い、シャロンは穏やかな表情のままジュアニッタへと告げた。

 安堵していた彼女の表情が崩れ、みるみる間に驚愕と焦りと絶望の色へと染まっていく。

 先ほどまでのジュアニッタの味方をしていた態度はどこへやら、シャロンはそんな彼女に目もくれず、大股でフェリシアへと近づいていった。

「お疲れ様です、シャロン様」

「はあ……ただいま戻りました、フェリシア」

 苦笑を浮かべ、フェリシアはシャロンへと手を伸ばして彼の背中を擦った。

 もう少しジュアニッタの余裕を剥がしていきたかったが、シャロンの限界のほうが先に来てしまった。

 叶うなら、もう少し彼には頑張ってもらいたかったが――すぐ間近で疲れ切った表情を見てしまえば、なんの文句も口にできなかった。

 呆然としていたジュアニッタが我に返り、大声で叫ぶ。

「シャロン! あんた、私の味方じゃなかったの!!」

 貼り付けていた弱々しい女の子の仮面を脱ぎ去り、感情のままジュアニッタは叫ぶ。

 突然の豹変。口調も今まで使っていたものとは全く違うもの。顔に浮かぶ表情も、先ほどまでの弱々しく傷ついた少女のものと正反対になっている。

 ようやく、ジュアニッタ・ポップルウェルの本性が見えた。

「おや……僕がいつ、あなたの味方だと言いましたか?」

「はあ!? あんた、まさか私のこと騙してたってわけ!?」

「騙していたなんて人聞きが悪い。それに――騙していたのは、あなたのほうでしょう。ジュアニッタ・ポップルウェルさん」

 すぅ――と。

 シャロンのまとう空気が冷えていく。それに伴い、顔からも表情が抜け落ちて冷え冷えとしたものへと変化した。

 覚えがある。今、彼が浮かべている表情は――本来なら『フェリシア』へ向けられるものだ。

「は……騙してたって、何の話……?」

 知らないふりをしているが、目は雄弁に語っている。

 彼女の動揺を。彼女の焦りを。そして――彼女の心の底に眠っている恐怖を。

 目は嘘をつけないというが、そのとおりだ。

 悪あがきをするジュアニッタを鼻で笑い、シャロンは悪役が浮かべていそうな悪い笑みへと表情を切り替える。

「そのままの意味ですよ。まさか、クラス全体を巻き込んで大嘘をつくとは予想外でした。おかげで、僕も一度あなたの魔法にかかってしまった」

「魔法……?」

「魔法って一体どういうこと……?」

 クラスメイトたちの間で、不安げな声や疑問の声が大きくなっていく。

 そのタイミングを見計らい、ルクレーシャが声をあげた。

「みんな、ご自分の記憶に疑問を感じませんか?」

「疑問って……」

 最初、クラスメイト全員――特にジュアニッタの肩を持っていた生徒たちは戸惑っていた。

 自分の記憶に疑問を抱くことは、普通に生きているとほとんど起きない。自分が今まで現実だと思っていたものであれば、なおさらだ。

 皆が皆、顔を見合わせたりどういうことなのか小声で話したりしている。

 あともうひと押し必要か――フェリシアがそう思ったとき、クラスメイトの一人である男子生徒が声をあげた。

「そういえば……」

 彼女の魔法にかかっているであろう、クラスメイト全員が彼を見る。

 恐る恐るといった様子でこちらを見た男子生徒の顔には、驚きと不安、そして焦りがはっきり現れていた。

「俺……ジュアニッタちゃんがブルームフィールドにいじめられてるって聞いて、そのとおりだと思ってたけど……。肝心の現場、一度も見たことない」

 確かに。そういえば。言われてみれば。

 呟かれた言葉が呼び水となり、それぞれがそれぞれの記憶に疑問を抱き始める。

 疑問の声は次第に大きくなっていき、ジュアニッタへ向けられる目が同情や心配から疑惑へと変化していった。

「何……どういうこと?」

「何が起きてるんだ?」

「ジュアニッタちゃん、どういうこと?」

 クラス中から聞こえる疑惑の声。

 ジュアニッタは焦った様子でクラスメイトたちを見渡し、再び弱々しい少女の仮面をかぶろうとした。

「み、みんな落ち着いて! わ、私がみんなを騙すなんて……そんなこと、あるわけないでしょぉ? ね? ね? この人たちが言ってることのほうが嘘なの!」

 必死に言葉を紡ぎ、被害者なのは自分であると主張する。

 その瞬間、空気中に甘く鼻に残るような香りがフェリシアの鼻をくすぐった。

(まずい……!)

 これはおそらく、シャロンが話していた甘い匂いだ。

 なんとかしないと、解けかけていた魔法にクラスメイトたちがかかってしまう。

 焦ってフェリシアが口を開こうとした瞬間、今まで後ろにいたルクレーシャがフェリシアとシャロンの前に出た。

「騙されないでください!」

 甘い香りも、ジュアニッタの嘘も、全てを切り裂き吹き飛ばす声が響く。

「嘘をついてるのはポップルウェルさんのほうです! 私も、フェア様も、何もしていません!」

『私は何もしていません、嘘ではありません!』

 大きな声で主張するルクレーシャの声に、違う声が重なって聞こえた気がした。

 これは――ゲームの『ルクレーシャ』が口にしていた言葉だ。

 忌々しそうな、憎しみを隠しもしない顔でジュアニッタがルクレーシャを睨みつける。

「うるっさいわね! そんなに言うんだったら、私がみんなを騙してるって証拠を見せなさいよ!」

 普段の口調をかなぐり捨て、真っ赤な顔でジュアニッタは吠える。

 ふー、ふー、と荒い呼吸をしている姿は、手負いの獣かなにかのようだ。いや、実際に手負いの獣のようなものかもしれない。今のジュアニッタは、フェリシアたちの静かな反撃によって作戦をぐちゃぐちゃに崩されているのだから。

 彼女が焦り、吠えて、こちらに敵意を向ければ向けるほど、クラスメイトたちの中でジュアニッタへの不信が深まっていくため、こちらとしては助かるが。

「証拠……?」

「そうよ、証拠よ。まさか証拠もないのに私を悪者扱いしてるわけぇ? 私のほうが被害者よ!」

「証拠……ですか。ふふ」

 思わず笑い声が出てしまう。

 フェリシアの微かな笑い声にも敏感に反応し、ジュアニッタがフェリシアを睨みつける。

「……何よ。何笑ってるのよ」

「いえ、何も。証拠の提示をご希望なら、こちらをどうぞ」

 一言、そういってフェリシアは鞄から書類を取り出した。ジュアニッタやクラスメイトたちにも内容が見えるよう、軽く掲げてみせる。

 不審そうな目でその書類を見ていたジュアニッタだったが、何が書かれているのかを理解した瞬間、表情を引きつらせて目を見開いた。

 フェリシアが取り出したのは――解毒薬の作製を依頼する際に、ジュリウスへ渡したものだ。

「こちら、とある魔法薬のレシピになります。効果は魅了、鼻につくような甘ったるい香りがするのが特徴です。……皆様、一度嗅がれたことがあるのでは?」

「まさか……」

「そういえば、確かに覚えがあるような……」

「香水だと思ってたけど……」

 みんな嗅いだことがあるはずだ。

 だって、これはジュアニッタがいつも身にまとっているであろう香りなのだから。

「なっ……なんでそんなものが、ここにあるのよ! 渡しなさい!」

「あら、お断りします」

 なりふり構わず、ジュアニッタは大股でフェリシアへと近づいた。

 フェリシアの手の中にある書類を奪い取ろうと手を伸ばすが、傍にいたシャロンが素早くフェリシアの手から書類を預かり、ルクレーシャへと回した。

 同時にフェリシアの身体を自分へと抱き寄せ、ジュアニッタからほんの少しでも距離をとらせる。

 ジュアニッタがわなわなと拳を震わせ、唇を震わせる。

 次の瞬間、彼女の中にある火山が盛大に噴火した。

「ッなんでそんな奴らに味方するのよ! なんでそんな奴らが愛されるのよ! 愛されるべきは私のほうでしょ!?」

 つまり――。

 つまり、それがジュアニッタの目的であり、今回の騒動を起こした理由か。

 そんな身勝手な理由で、一方的な理由で、彼女はルクレーシャを傷つけてシャロンを歪ませた。


 ぱきり。

 耳の奥で、あの日聞いた音が聞こえる。


「それが……あなたの本音ですか」

 小さく吐き出されたフェリシアの声は、いつも以上に平坦で淡々としていた。

 フェリシアはシャロンの腕にそっと触れて、彼の腕の中から抜け出す。

 一瞬だけシャロンやルクレーシャ、ユリシーズへと目を向けると、それぞれ異なる表情をしていた。

 ルクレーシャは驚愕を。

 ユリシーズは嫌悪を。

 シャロンは蔑みを。

 それぞれ、思い思いの感情をジュアニッタへと向けている。

「そうよ。だって私は愛されるために生まれてきたんだもの、お父様とお母様もそういってたわ」

「……確かに、貴方様は今まで周囲に愛されてきたのかもしれません。しかし、だからといってそれを周囲に強要するのはおかしい。ましてや、魔法をかけて嘘を信じ込ませ、自分を愛する人形に仕立て上げるなど」

 ぱきり。

「――到底、許される行いではありません」

 低く、地を這うような声がフェリシアの喉から溢れた。

 自分が今、どのような顔をしているのかわからない。笑っていないことだけは確かだ。

 フェリシアの顔を見た瞬間、先ほどまでの勢いが消え、ジュアニッタが短い悲鳴をあげた。

 風もないのに、髪やスカートがふわふわ揺れる感覚がする。

「な……何よ、邪魔な奴を蹴落とすくらい普通にやってることでしょ? あんただって私と同じ立場になったらやるに決まってる!」

「ええ、そうですね。私も今回のことではじめて気付きましたが、どうやら私は嫉妬心が少々強いほうのようで。私もポップルウェル様と同じ立場になったら、相手よりも私を見てくれるよう行動することでしょう」

 ゲームの『フェリシア』も、シャロンに自分を見てもらおうとした。『ルクレーシャ』の邪魔をして、彼の視線を自分へ向けようとした。

 恋は一種の戦いだ。人間に限らず、動物や魚だって争った末に番となる相手を得る。気になる相手や好きな相手にライバルがいる場合、それを蹴落とそうとするのは自然界の摂理だ。

 故に、そのことを責めるつもりはない。責める気もない。

 フェリシアにとって、問題はそこではないのだから。

「なら、別にやってもいいじゃない! まさか、自分はいいけど私は駄目とか言うつもり!?」

 ぱきり。

 大声で喚くジュアニッタの声に混じって、またひび割れる音がする。

 今ならわかる。この音は、ジュアニッタがかけていた魔法が剥がれ落ちていく音だ。

「いいえ。問題はそこではありません。先ほども申し上げたでしょう。相手を歪めて、愛するように仕向けるのは到底許される行いではないと」

 判決を。

 耳の奥で内なる自分が叫んでいる。

 その声に導かれ、フェリシアはうっそりと笑って口にした。

 相手を不幸へと叩き落とす、悪役令嬢らしく。


「《あなたは罪人です、ポップルウェル様》」


 ――ジュアニッタの運命が、逆位置のカードへと変わる。


 何かが砕け散る音が教室にいる全員の耳の奥で響いた。

 教室の中で渦巻いていた重い空気も、ぴりぴりとした視線も、全てが砕け散って消えていく。

 クラスメイトたちの目からも、あのときのシャロンのように淀んだ色が抜けて正気を取り戻した顔をしている。ある者は顔を見合わせ、ある者は顔色を真っ青にし、それまでの自分たちの行動に戸惑っている。

 ジュアニッタの魔法の影響を未だに受けている者は、どこにもいなかった。

「……嘘よ」

 力なく床にへたり込み、ジュアニッタが小さく呟いた。

「嘘よ……嘘よ! 嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ! なんで!? 途中まで上手くいってたじゃない!」

 ジュアニッタが髪を振り乱し、半狂乱になって大声で叫んだ。

 彼女の声に驚き、ざわめいていたクラスメイトたちが一瞬で静まり返る。

 現実を認められず、現実を受け入れられず、感情のままに叫び散らす姿は可愛らしい少女などではない。自分の思い通りに物事が進まなかったことに納得できない、わがままな子供だ。

「私が勝つ流れだったじゃない! 愛されるべきは私じゃない! なんでよ!!」

 ふ――と。

 短い溜息が思わずこぼれた。

 憎々しげにこちらを見上げ、睨みつけてくるジュアニッタを冷めた目で見下ろす。

 せっかく可愛らしい雰囲気と顔立ちをしているのに、全てが台無しだ――どこか冷静な部分でそのようなことを考える。

「……確かにあなたは可愛らしい方だと思います。私よりもずっと」

「わかってるなら、その場所を私によこしなさいよ!」

「お断りします」

 想いを自覚する前なら、明け渡したかもしれない。

 だが、シャロンへの想いを自覚した今、もっとも彼の傍にいられる居場所を他の誰かに明け渡すつもりはない。

 ましてや、ジュアニッタのように彼を自分のことを愛してくれる物としか見ていないような人間には。

「愛されるということがどういうことか、私にはわかりません。ですが――あなたのような人は、本当の意味では愛されないということは、はっきりわかります」

 ジュアニッタの喉から息を呑む音がする。

 怒りと絶望が入り混じったまま、こちらを見上げてくる瞳を見つめ、フェリシアは再び悪役令嬢らしく笑った。

 どうしても一言、彼女には言っておきたかった。


「全てが全て、自分の思い通りになると思わないほうがいいですよ。お嬢さん」


 頭を強い鈍器で殴られたかのような衝撃がジュアニッタへ走った。

 表情が一瞬で抜け落ち、かと思えばすぐにくしゃりと表情が歪められ、ぼろぼろと涙を零し始める。

 騒動をききつけたフランとジュリウスが教師とともに飛び込んでくるまで、フェリシアたちの教室にはジュアニッタの泣き声だけが響いていた。

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