第7話 《審判》は反撃を決意する

「――なるほど。それで二人も連れてきたのか」

 放課後。薔薇庭園に作られた小屋の中で、フランは納得したような声でそういった。

 ユリシーズとルクレーシャを協力者につけたフェリシアは、二人を連れて薔薇庭園の小屋へと足を運んだ。

 薔薇庭園の小屋の周囲は、相変わらず人気が少なく静かだった。小屋の様子も以前訪れたときのままで、ユリシーズとルクレーシャの二人がとても戸惑った顔をしていた。

 椅子の背もたれにもたれかかり、フランは腕組みをする。フェリシアから二人を連れてきた理由と、ユリシーズとルクレーシャが提供してくれた情報について聞いた彼は普段とあまり変わらない雰囲気だった。

「俺は協力者というか、異変に気付いてる奴が増えるのは助かるな。俺とジュリウスとフェリシアだけじゃ限界がありそうだと思ってたし」

 そういって、フランはすぐ隣に座っているジュリウスへ目を向けた。

「ジュリウス。お前はどう思う? 二人とも頼りになりそうだが」

「……いかがでしょうか、デルヴィーニュ様」

 フェリシアもフランに続き、ジュリウスに声をかける。

 無言で何かを考えていたジュリウスだったが、ついと視線を動かしてユリシーズを見た。数秒の短い間、彼を見つめてから今度はルクレーシャを見る。

 ユリシーズは机に突っ伏し、ルクレーシャは背筋を伸ばして緊張した様子で座っていたが、ジュリウスからの視線を感じるとわずかに反応した。

「まず、そちらの方。ユリシーズ様でよろしいでしょうか」

「それであってる。俺はユリシーズ・リヴァーモア。……何?」

「リヴァーモア様。貴方様が僕らよりも先に、クラスの空気の変化に気付いたのは真実ですね?」

 フェリシアとはまた違った、確認のとり方。

 射抜くような視線でユリシーズを見つめ、問いかける声色は真剣そのものだった。

 そんなジュリウスに対し、ユリシーズは身体を起こして答えた。

「嘘はつかないよ。ここで嘘をついても、俺にはこれっぽっちもメリットがない」

「……」

「ブレーデフェルトもそうだったけど、君も慎重だね。嫌いじゃないよ、そういうの」

「……ありがとうございます」

 ユリシーズの瞳が、口元が、三日月を描く。

 ジュリウスはユリシーズへ小さく頭を下げたのち、今度はルクレーシャへ問いかけた。

「次に、隣にいらっしゃる貴方様。お名前は……確か、ブルームフィールド様でしたか」

「は、はい。ルクレーシャ・ブルームフィールドです」

「ブルームフィールド様。貴方様は直接的な被害を受けた、そうですね?」

 ぎゅっとルクレーシャの表情が苦しげに歪む。目は不安そうに揺らぎ、唇をぎゅっと噛みしめる。一度目を伏せ、ルクレーシャは返事をするかわりに頷いた。

「……ありがとうございます。つらいことを思い出させてしまって申し訳ありません」

「い、いえ! フェア様たちに協力すると決めたのは私ですから」

 ぶんぶんと勢いよく首を横に振り、ルクレーシャは言葉を返す。

 申し訳なさそうに表情を曇らせたジュリウスだったが、きょとんとしたあと、わずかに苦笑いを浮かべた。

 次の瞬間にはまた真剣そうな表情に戻り、ジュリウスは口を開く。

「お二人とも信頼できそうな相手と判断します。今回の調査に協力していただき、ありがとうございます」

 そういって、ジュリウスは深々と頭を下げた。

 ジュリウスが頭を下げるとは思っていなかったのか、ルクレーシャが慌てたような様子で声をあげる。

「そ、そんな頭を下げないでください……! そこまでされることを私はした覚えがありませんので……!」

「いえ。少しでも情報を持っている人が協力してくれるのは、今の僕らにとってとてもありがたいことですので」

 ルクレーシャへ言葉を返しながら、ジュリウスが顔をあげる。

 そして、不安げなルクレーシャの顔を静かに見つめたのち、彼は顎に手を当てた。

「……しかし、事態は深刻ですね。まさか、実害を受けてしまった方がいるとは」

「ええ。レーシャ様からお話を聞いたときは、私も驚きました」

 ジュリウスがぽつ、と小さな声で呟いた。

 彼の呟きに同意して、フェリシアは言葉を続ける。

 口にする言葉は、ジュリウスとフランへの一つの頼み事だ。

「そこで、デルヴィーニュ様。レノンフォード様。お願いがあるのですが、レーシャ様をこちらのほうで保護していただけないでしょうか」

「えっ……?」

「保護、ですか」

 ルクレーシャが驚いた声を出し、フェリシアを見る。

 目をまん丸くしてフェリシアを見つめるルクレーシャの顔をちらりと見て、フェリシアはジュリウスとフランへ再び視線を戻す。

 フェリシアの提案を聞いたジュリウスは首を傾げ、フランは無言で続きの言葉を待っていた。

「レーシャ様は、様子がおかしくなっている人たちから悪意を持って攻撃されています。相手の目的ははっきりとわかりませんが、一度攻撃されている以上、もう一度攻撃される可能性が高いと予想されます」

「もう一度攻撃してくるとは限らないと思いますが?」

「その可能性は、私ももちろん考えています。ですが、悪意を一度ぶつけてきた相手です。相手の目的が達成されるまで、繰り返し悪意をぶつけてくる可能性のほうがおそらく高い」

 何らかの形で悪意をぶつけてくる者は、大抵の場合はしつこい。

 特に、ここはあの乙女ゲーム、アルカナ・ラヴァーズの世界。アルカナ・ラヴァーズに登場するライバルキャラクターたちは、悪意をもったときは総じてしつこい傾向にある。今回の騒動にジュアニッタが絡んでいることが予想される以上、相手はしつこく攻撃してくると考えたほうがいい。

「……残酷な考え方ですが、保護せずにいたほうが相手をおびき寄せられるとは思いませんか?」

 ジュリウスが口にした言葉に、指先が微かに動いたのがわかった。

 全身の体温が低くなった感覚がし、腹の奥底で感情が煮詰まっていくのがわかる。今にも叫びたくなりそうになるが、それを表に出すのは『フェリシア』らしくない。

 細く、静かに息を吐き出し、呼吸と一緒にその感情を吐き出してから、フェリシアは口を開いた。

「確かに、相手をおびき寄せられる可能性もあります。早期解決を狙うのなら、それが一番でしょう……が」

 唇の端をゆっくり釣り上げる。

 笑っているつもりだが、周囲から見ると笑っているようには見えないのかもしれない。フランとユリシーズが表情を引きつらせ、ルクレーシャもわずかに青い顔をした。

「レーシャ様は私の友人です。友人がこれ以上不当に傷つけられる姿は見たくありません。……それに、協力者を使い捨てるような方法は、賢くありませんよ?」

 不器用な笑顔を貼り付けたまま、小首を傾げる。

 ジュリウスはしばしの間、静かに黙っていたが、ふいに表情を崩して苦笑いを浮かべた。

「……なるほど。よくわかりました。別に使い捨てたりはしないので安心してください」

「……その言葉に嘘はありませんね?」

「ええ。念の為に確認をとっただけですので」

 そういってから、ジュリウスはフェリシアが知りたいと思っていた結論を口にする。

「保護の件は構いません。ここは少し慎重に振る舞いましょう。ブルームフィールドさんには、ここの合鍵を渡しておくので好きに使ってください。僕がここにいるときは……そうですね、魔法の調べ物を手伝っていただけると助かります」

「わ、わかりました! 頑張ってお手伝いします……!」

「ありがとうございます。デルヴィーニュ様」

 ジュリウスに名前を呼ばれたルクレーシャが、意気込みをあらわすかのようにガッツポーズをとってみせた。

 彼女の保護が受け入れられたことに安堵し、フェリシアは先ほどとは違った息を吐く。深々と頭を下げ、ジュリウスへ感謝の言葉を告げた。

 話が一段落したところで、フランがふいに口を開いた。

「そうだ。魔法で思い出したけど……ジュリウス、前にいってた心当たりのある魔法っていうのはどうなった?」

 その言葉で、フェリシアも思い出した。

 あまりにも一度にたくさんのことが起こりすぎて、頭から抜けていた。確かにあのとき、ジュリウスは心当たりがあると言っていた。確証がないとも言っていたため、詳しい話は聞けずじまいだったが、あのときよりも今は情報が増えている。

 小屋の中にいる全員の視線がジュリウスへ向けられる。

「そのような目で見なくても、きちんとお話しますよ。ブルームフィールドさん、早速ですが少し手伝ってもらってもよろしいでしょうか」

「あ、はい!」

 ジュリウスがルクレーシャへ声をかけ、立ち上がる。

 ルクレーシャも返事をしながら立ち上がり、彼に連れられて部屋の奥へ向かっていった。

 数分の短い時間のあと、二人は何冊かの本を持ってフェリシアたちの前に戻ってきた。

 どさ、と持ってきた本が机の上に置かれる。

「あのあと、心当たりのある魔法について書かれた本をいくつかチェックしてみました」

「こ、こんなにチェックしてたのか……。すごいな、ジュリウス……」

 机に置かれた本を見て、フランが引きつった表情で呟いた。

 そんなフランの反応にジュリウスが呆れた顔をし、フェリシアやルクレーシャは苦笑いを浮かべる。ユリシーズはフランの反応にはほとんど興味を持っていないようで、横目で見るだけだった。

「その結果、心当たりがある魔法は全て精神へ干渉する性質がある魔法。よって、魔法が使われているのであれば、その手の魔法である可能性が高いと予想しています」

「周囲の奴らの変貌っぷりから、俺は魔法を使ってるって線で確定だと思うけどね」

 ユリシーズが積まれた本のうち、一冊を手にとって開いた。視線は興味がなさそうなそれだが、目は素早く動き、書かれている内容を読み取っている。

 ジュリウスも同意するように頷き、口元に手を当てた。

「そうなってくると、具体的にはどのような魔法を使っているかが問題になってきます。精神に干渉する魔法は、解除に少々手間がかかるものが多い」

「最初、確証が持てないといってぼやかしたのは、そういう理由があったからか?」

「そうですね。フランにしては気付くのが早かったじゃないですか」

「ジュリウスの中の俺はどうなってるんだよ……さすがに、この話の流れは気付くだろ……」

 フランが物言いたげな視線をジュリウスへ向ける。

 しかし、当のジュリウスには何の変化も与えられておらず、先ほどまでと変わらない調子で話を続けた。

「精神干渉系の魔法で、真っ先に思い浮かべたのが魅了の魔法です。……ああ、ブルームフィールドさん。上から三番目にある本を開いてもらえますか? 確か、第六十四ページだったと思います」

「上から三番目……これですね」

 ルクレーシャの手が本の山を動かし、ジュリウスに指定された本を手にとった。分厚く、重量を感じさせる見た目をした本にはいかにもたくさんの魔法について書かれていそうだ。

 彼女の白い手が表紙を開き、ページをめくり、ジュリウスが口にしたページを開いてみせた。

 全員に見えるように、ルクレーシャが机の中央に開いた状態で本を置く。

「僕が最初に思い浮かべたのは、ここにも書かれている魅了の魔法。異性に対して有効で、自分を魅力的な相手に思わせる魔法です」

 ジュリウスの声に耳を傾けながら、フェリシアは開かれているページに目を通していく。

 魅了の魔法は、精神に干渉する魔法の中でも一般的なものらしい。相手の目に自分が魅力的な人間に見えるようにし、注意を引く。効果はそれほど長持ちはしないが、一度に複数人の相手にもかけることができるようだ。

「しかし、この魔法はせいぜい相手からチヤホヤされるようになる程度のものです。思考が急にがらりと変わり、普段と違う振る舞い方になるのには説明がつかない」

「……確かに。魅了の魔法には、そのような記述は見当たりませんね」

 シャロンやルクレーシャを攻撃したクラスメイトたちの変化は、魅了の魔法だけでは引き起こせなさそうなものだ。

 魅了の魔法の効果は答えに近いかもしれないが、正解ではない。

「次に思い浮かべたのが、この本の第七十ページ目に記載されている洗脳の魔法です」

 洗脳。

 一気に穏やかではなくなった雰囲気に、その場にいた全員の気が引き締まる。

 ジュリウスがページをめくっていく間、フェリシアは周囲へ目を向けてみる。全員が全員、本を見つめたまま険しい顔や不安そうな顔をしていた。

 そのような顔になっても仕方ないだろう。実際、洗脳と聞いた瞬間にフェリシアも一気に不安を感じた。

「洗脳の魔法は……響きから十分ご想像いただけるかと。相手の思考を操り、意のままに操る。これなら、普段と違った振る舞いや考え方になるのにも説明がつきます。……しかし」

 ジュリウスの手が、七十ページ目に綴られている文字列の中から、ある一点を指でなぞる。

「ここに書かれているように、洗脳の魔法は現在では禁術指定されています。禁術に指定された魔法を使うのは、簡単なことではない。使用すれば罪に問われます」

「禁術指定って……なら、魅了の魔法以上に使ってる可能性が低いじゃねぇか」

「僕もそう思います。が、現在起きている事象に近いのは、この二つの魔法です。他にもいろいろ調べてみたのですが……」

 ジュリウスがそこで言葉を切り、無言で首を左右に振った。

 他の本でも調べてみたが、近い魔法はこの二つ以外には見つからなかったのだろう。

「魔法……か」

 小さな声で呟いて、フェリシアは積まれた本のうち、一冊の表紙に軽く触れた。



『運命のカードを持つ人は、魔法の力を持っています』



 瞬間。

 フェリシアの頭の中で、記憶が弾けた。

 トゥール・ドゥ・マギア学園に来た日に聞いた話。女性教師の声が脳内で蘇り、目を見開く。

『今年の新入生の中には、すでに魔法の力を覚醒させている子もいます』

 あのとき、女性教師はそういっていたはずだ。

 精神に干渉する魔法を使っている可能性。魔法の力をすでに覚醒させた新入生もいる環境。そして、ジュアニッタが不穏な動きをしているという情報。

 点と点が線で結ばれ、推測がはっきりとした答えとして組み上がっていく。

「……あの」

 恐る恐るといった様子で手をあげ、フェリシアは組み上がったそれを言葉にした。

「運命のカードを受け取った人の独自の魔法……という可能性はないでしょうか」

 すっかり困った顔になっていたジュリウスが目を見開いた。

 運命のカードを受け取った人間が開花させる魔法の力は、それまでに確認された魔法とは少々異なる性質を持っていることがほとんどだ。

 犯人がジュアニッタで、彼女が何らかの魔法を使っているのなら。それは、彼女が開花させた独自の魔法である可能性が非常に高い。

「……僕としたことが。その可能性をすっかり忘れていました」

 ジュリウスが表情を歪め、悔しげな様子で呟いた。

 それまで黙っていたユリシーズが肩を揺らし、口元を手で覆ってフェリシアを見やる。

「ブレーデフェルトもその可能性に行き着いたんだ。俺はそうだと思ってる」

「さすが、忠告をしてくれただけのことはありますね。リヴァーモア様」

「まあね。これでも《隠者》のカードを受け取った身だから」

 片手をひらひら振って返事をしたユリシーズの表情は、どこか得意げだ。

 もう少しこの可能性に気付くのが早ければ――そんな思いがフェリシアの中で顔を出すが、今は飲み込む。起きてしまってからそのようなことを考えても、改善策は見つからないし時間の無駄だ。

「でも、だったらどうするんだ? 確か、運命のカードの魔法ってそれまでに確認されてる奴とはちょっと違うんだろ? どうやって解けばいいんだ」

 フランの言うとおり、次に浮上する問題はそこだ。

 独自の魔法ということは、未確認の魔法ということだ。魔法の性質についてはもちろん、解き方もはっきりとわからない。対処するには難しい相手だ。

 どうすればいいのか、どう対処をしていくのか。なかなか答えが見えないが、フェリシアは思考を巡らせる。相手が独自の魔法を使っていても、それを理由に引き下がるようなことはしたくなかった。

「……貴方様はどのように予想していますか? リヴァーモア様」

 思考を巡らせたのち、フェリシアはユリシーズに尋ねる。

 ユリシーズはフェリシアよりも早く、ジュアニッタが怪しいと睨んでいた。先ほどの言葉からして、彼はフェリシアよりも先に独自魔法の可能性にも気付いていた。ならば、何かしらの対処法を思いついているかもしれない。

(わからないことがあるときは、質問するのが基本だと思うし)

 フェリシアたちに協力すると決めてくれた今の彼なら、何かしらの情報を提供してくれるはずだ。

 話題を振られ、ユリシーズがわずかに思考を巡らせる。

「んー……完全な対処法ではないと思うけど。それでも聞きたい?」

「情報は少しでも多いほうがいいと思いますので」

「そう。なら、いいよ」

 完全な対処法でなくても構わない。全く対処法がないよりも、少しでも情報があるほうがいいに決まっている。

 フェリシアが頷くと、ユリシーズは持っていた鞄から巻いた紙を取り出して机の上にばっと広げた。続いてペンケースを取り出し、真っ白な海に黒い文字を走らせていく。

「俺が今、予想してるのはさっきデルヴィーニュがあげてくれた二つの魔法の複合。魅了と洗脳を組み合わせて、対象を魅了して自分の思うように動くように操ってるんだと思う。だから、対処法は魅了と洗脳の解き方でいいと思う」

 わかりやすいように図を描きながら、ユリシーズの説明は続く。

「魅了も洗脳の解き方も、実はよく似てるんだ。相手が本当に好きなのは誰なのか、相手はどういった考え方をしているのか、思い出させる。もっとも親しい奴が語りかけるのが定石だから、まずはこの方法を試してみるのがいいんじゃないかな」

「シャロンと一番親しい奴……というと……」

 ユリシーズの説明に耳を傾けていたフランが、ゆっくりとフェリシアを見る。

 彼の動きにつられるようにして、その場にいた全員の視線がフェリシアへと向けられた。

 この場で一番シャロンと親しい者といえば――幼い頃からずっと彼と一緒にいたフェリシアだ。

「私ですね。どう考えても」

 ルクレーシャもシャロンと友人関係にあるが、絆の深さやともにいた時間でいえばフェリシアに軍配があがる。

 適切な距離をはかりながらだが、彼とは母を亡くしたあの日からずっと一緒にいた。一緒に出かけることもあったし、遊んでは笑いあうことも多かった。彼はフェリシアにとって恐ろしい存在だが、同時に大切な幼馴染であり一番の友人でもある。

 一番の友人であることは嬉しいと感じる――が。

(友人……)

 そう思っているはずなのに、友人と考えた瞬間に胸が痛くなる。

 最初にその程度の関係でいようと決めたのは自分だ。長い時間をかけて、実際にそういった関係でとどまっていた。

 それなのに、今起きている騒動でシャロンと離れている時間が長くなれば長くなるほど、彼のことを友人だと考えたときに胸が苦しくなる。

 胸に手を当て、そのままぎゅっと握り込む。

「……フェリシア、大丈夫か?」

「あ……ええ。大丈夫です。心配させるようなことをしてしまってすみません。レノンフォード様」

 フランが心配そうな声と表情で声をかけてくる。

 はっとして、フェリシアは胸元から手を離して苦笑いを浮かべた。

「私はこのとおり、大丈夫ですので。あの状態のシャロン様と顔を合わせるのには、少々不安を覚えますが……」

「なら、別に無理しなくてもいいんだぞ?」

「そういうわけにはいきません。シャロン様は、私の幼馴染であり友人ですから」

 気遣わしげなフランへ、首を横に振って答える。

「いつまでも、あの状態のままでいられるのは気に入りません」

 ずっと自分の考え方や振る舞い方を歪められた状態でいられるのは、個人的に気に食わない。

 フェリシアの口元にうっそりとした笑みが浮かぶ。

「ですので、次にシャロン様にお会いしたときに試してみようかと思います。情報ありがとうございます、リヴァーモア様」

 彼のおかげで全く対処ができない状態から、少しは対処ができる状態になった。ユリシーズには、本当に感謝しなくてはならない。

 笑顔を貼り付けたまま感謝の言葉を告げたフェリシアをじっと見つめ、ユリシーズもまた楽しげに表情を変えた。

「どういたしまして。俺の予想でしかないけれど、上手く役立ててよ」

「ええ、もちろん」

 本来なら取引をしなければならないところを、無償で提供してくれたのだ。

 彼の言うとおり、ただの予想でしかない情報だけれど。上手に役立てなくては。

(――それで、また)

 それでまた、シャロンと二人で笑いあえる日を迎えたい。





 一連の話が一段落する頃には、空は夕暮れから夕闇へ移り変わり、すっかり夜の気配を色濃くさせていた。

 今日のところは解散する流れになり、フェリシアは寮へと続く道を静かに歩いていた。

 ルクレーシャは身を守るためにも小屋で宿泊し、ジュリウスとフランは一人きりになるルクレーシャのことを心配しつつも寮へ戻っていった。ユリシーズはユリシーズで、今からやりたいことがあるとかなんとかで、一人だけでどこかへ向かっていった。

 夜の気配が広がった道を一人だけで歩くのは、少々心細い。以前はこういったときにもシャロンがついてくれていたが、今はフェリシア一人だけだ。幼い頃の記憶が頭をちらつき、余計に寂しく感じてしまう。

(……前は、別にシャロンがいなくても平気だったのに)

 いつから自分はこんなにも寂しがり屋になっていたのだろう。

 それとも、気付かないうちにゲームの『フェリシア』のようにシャロンへ依存してしまっていたのだろうか。

 中身は『フェリシア』ではないという思いが未だにあるが、身体は『フェリシア』のものだ。知らずしらずのうちにゲームの『フェリシア』と同じような状態に陥ってしまっている可能性は十分考えられる。

(いや、でも……この感じは、依存というよりは……)

 胸の奥底でくすぶっている何かの正体を突き止めるために、手を伸ばす。

 依存ではなく、ただの友情で片付けるのは説明がつかない。この感情の答えを、できれば今のうちに知っておきたかった。

 だが、ゆっくりと正体を突き止めるのは難しそうだった。


「ああ、フェリシア。ずいぶんと遅い時間に外へ出ていたんですね」


 夜の気配を切り裂いて、フェリシアの耳に届いた声。

 穏やかだけれど、どこか冷ややかな色を秘めた声は、フェリシアが今一番聞きたくて――同時に、今はあまり聞きたくない声だった。

 道を照らし出す照明の下で、柵にもたれかかってこちらを見ているのは――シャロンだ。彼の髪が照明の光を受けて、きらきらと光を放っているように見える。ブルーグレーの瞳は優しそうに見えるが、目の奥は冷え冷えとしていた。

 やはり、こちらを敵視する目で見られると心が痛みを放つ。

「……シャロン様こそ、ずいぶんと遅い時間まで出歩いてらっしゃるのですね。珍しい」

「いつもはここまで出歩きませんが……今日は少々あなたに用があったので」

 冷ややかな笑顔のまま、告げられた言葉を聞いて確信した。

(やっぱり、騒動の主犯……ジュアニッタは、しつこく攻撃を繰り返してくる)

 ルクレーシャの保護をお願いしてよかった。あのとき、彼女を保護するように頼まなかったらこの場に立っていたのはルクレーシャだったかもしれない。

 自分が攻撃されるのは苦しいけれど耐えられる。だが、ルクレーシャがあれ以上攻撃されるのには耐えられそうにない。

「用、ですか」

 まるで、はじめてシャロンの様子がおかしいと気付いたあのときのようだ。

 あのときは廊下で、今は寮に続く道中で。場所は違うが、交わしているやりとりはあの日のやりとりと同じだ。

 今度はどうくるか――表情一つ変えずにシャロンの出方を伺う。

 シャロンもシャロンで、無言でフェリシアを見つめていたが、やがて深い溜息をついた。

「心当たりがないみたいな反応ですね。全く、前回といい今回といい……」

「本当に心当たりがありませんので」

 短く、そっけなく言葉を返す。

 シャロンらしくない振る舞いを見聞きするたびに、彼を狂わせている魔法の存在が腹立たしくなってくる。

 シャロン・リズレイを返せ。

 腹の奥底で、フェリシアの何かが叫ぶ。

「……心当たりがないなんて、嘘までつきますか」

「嘘ではありませんよ。本心からの言葉です」

 シャロンの目の奥に宿っている冷え冷えとした色が深くなる。

 凍てつくような視線は、フェリシアの奥底にある彼への恐怖を思い出させる力がある。シャロンと親しくなってからはだいぶ感じなくなっていたが、やはりシャロンの冷え冷えとした目は恐ろしい。

 だが、今はその恐怖を押し返すように大声で叫びたくなる感情が湧き上がってくる。

 数分の間のあと、シャロンがもう一度深い溜息をついて口を開いた。

「なら、単刀直入に申し上げます。フェリシア、ジュアニッタから奪ったものを返してください」

「……は?」

「あなたが身につけているペンダント。元はジュアニッタのものだったのでしょう?」

 思わずワントーン低い声が出た。

 シャロンが指で示すのは、フェリシアの首元。幼い頃、シャロンからもらったペンダントだ。

 二人だけでスネーウの町に出かけた日、シャロンが買い与えてくれたシルバーペンダント。妖精の羽のようなモチーフが使われた、大事な思い出の品。

 買ってもらった翌日から身につけているそれを、返せ――だなんて。

(これは、私がシャロンからもらったものだ)

 フェリシアの頭の中に、シャロンがペンダントをくれたときの記憶が蘇る。

(これは、私の宝物だ。私の、大事な)

 シャロン本人だけでなく、思い出の品物まで奪われてたまるか。


 ――シャロン本人だけでなく?


 自分の思考に、ふと疑問を抱く。

 そして、ようやく理解した。奥底にあった、手が届かずにいた感情にようやく手が届いた。

(……そっか。そういうことなんだ)

 シャロンが隣にいなくなって寂しいと感じるようになったのも。

 彼がジュアニッタと二人で過ごしているのを見たときに複雑な感情を抱いたのも。

 敵意を満ちた瞳で見られたときに胸が痛むのも。

 点と点が結ばれて、ぼやけていた答えの輪郭がはっきりしていく。

 なかなか返事をしないフェリシアにシャロンが顔をしかめたところで、フェリシアは淋しげに笑ってみせた。

「……そこまで敵視されると、さすがに苦しくなりますね」

「……何を言っているんですか。僕があなたに好意を向けていたとでも?」

「そう思ってしまうくらいには、シャロン様は私に優しくしてくれましたものね。ですが、それもシャロン様が目的を達成するためのリップサービスだったんでしょう?」

 知っていますよ。うんと小さな頃から。

 小さく最後に付け足して、フェリシアは自らシャロンとの距離を詰めていった。

 シャロンの表情が訝しげなものへ変化していく。

「シャロン様。今の貴方様は、私をさながら物語に登場する意地悪な悪役のご令嬢に仕立て上げたいようですが……覚えていますか? このペンダントは貴方様が私にくれたものですよ」

「……何を、言っているんですか。それは僕が、ジュアニッタに買い与えた、もので……」

 ぱきん。

 一歩、シャロンへ向かって踏み出すたびにフェリシアの耳の奥で何かがひび割れるような音が響く。

「貴方様が誘ってくれたスネーウの町への外出。母を亡くして内心落ち込んでいた私を、外に連れ出してくださいましたね。おかげで、だいぶ楽しい時間を過ごせました」

 ぱきん。

 シャロンへ語りかけるのを止めずに、フェリシアはもう一歩シャロンへ近づいた。

 訝しげだったシャロンの表情が焦ったようなものへ変化していき、後ずさりをしてフェリシアから距離をとろうとする。

 以前はフェリシアがシャロンから距離をとろうとしていたが、今この瞬間では立場が入れ替わっていた。

「母を亡くしたときに、貴方様は私の特別が欲しいとも言ってくれました。あのときの言葉も、一緒に出かけたときの優しさも、全てはリップサービスとわかっていました。それでも嬉しかったし、助かった面もあります」

「……何を、訳のわからないことを。それよりも、早くペンダントを」

「渡しませんよ。さっきも言ったでしょう? このペンダントは、シャロン様が私にくれたもの。ポップルウェル様のものだったことなんて、一度もありません」

 シャロンがわずかに怯えたような表情になる。

 いつも余裕綽々な態度の彼がそのような顔をするなんて、ゲーム越しでも『フェリシア』になってからも一度もなかった。非常に珍しい表情を見れたのが嬉しくて、シャロンが怯えているという状況が少しだけ楽しくて、思わず口元に笑みが浮かぶ。

 きっと、ほの暗いこの感情は『フェリシア』が持っていたものだ。

 開いていたシャロンとの距離がゼロになり、顔をあげるだけで見慣れたブルーグレーの瞳と簡単に目が合う。


 取り戻せ。


 耳の奥で聞こえていた、何かがひび割れる音に混じって誰かの声が聞こえる。

 幾度となく繰り返し聞いたこの声は――『フェリシア』の声だ。


 取り戻せ。取り戻せ。取り戻せ。


 内なる自分の声に導かれ、フェリシアは手を伸ばせば触れられる距離にいるシャロンへ手を伸ばす。

「シャロン様」

 一言、彼の名前を呼んで。

「私、貴方様のことが怖かったんです。怖かったはずなのに――ふふ。どうしてでしょうね」

 目を見開いたまま動けずにいる彼の頬を優しく撫でて。

 フェリシアは。


 そっと、自分の唇を彼の唇に触れ合わせた。


 時間にしてほんの数秒。触れるだけの短いキスだが、その数秒がとても長く感じられた。

「お慕いしておりますよ。シャロン様」

 自覚したばかりの想いをそっと告げる。

 彼のことを好きになったら、ゲームの『フェリシア』と同じ末路を辿るのではと不安に思い、彼を好きにならないようにしてきた。なのに、結局はゲームの『フェリシア』と同じように、シャロンのことを好きになっていたなんて。幼い頃の自分が見れば、何をしているのかと大声をあげそうだ。

 けれど、フェリシアがシャロンのことを好きになったのは、ゲームの『フェリシア』が彼のことを好きになるからではない。彼に依存して好きになったわけでもない。

 れっきとした、自分自身の意思で彼のことを好きになった。それだけは、胸を張って答えることができる。

 何をされたのか、フェリシアが何を言ったのか、少し遅れて理解したらしい。シャロンの顔に一気に熱が集まり、彼は口元を手で覆った。

 ぱきん。耳の奥で、再び何かがひび割れる音が聞こえる。

「な……あ、の、フェリシア、突然何を」

「あら。貴方様の告白を一度断った私に対し、気が変わったらいつでも教えてくださいと言ったのはシャロン様ではありませんか」

 あのときは、シャロンのことは完全な恐怖の対象でしかなかった。

 自分が『フェリシア』になってしまった以上、シャロンを好きになってしまったら自分も孤独の道を歩むのではという不安もあった。

 だが、フェリシアはゲームの『フェリシア』とは違う道を歩んできた。ゲームの『フェリシア』のようにシャロンだけに心を許している状態ではない。主人公であるルクレーシャを敵視する気も毛頭ない。今のフェリシアなら、ゲームの『フェリシア』のように孤独の道を歩むことは、おそらくない。

「本当は、もっと落ち着いた場所で告げたほうがよかったんでしょうけれど……貴方様がポップルウェル様ばかりを見ているのが、ほんのちょっとだけ恨めしかったので」

 ぱき、ぱき、ぱきん。

 耳の奥から聞こえる声がどんどん大きくなっていく。

 何かに導かれるように、操られるように、フェリシアはシャロンの額に優しく手を当てた。

「……そろそろ、その夢から目覚めていただけませんか」

 内なる自分が大声で叫ぶ。

 さあ、告げろ。判決を下せ。


 お前は、《審判(ジャッジメント)》だ。


「《あなたに罪はありません》」

 自然と唇が動き、言葉が溢れる。

 瞬間、ガラス製のものが砕け散るような透き通った音が響き渡った。目に見えない何かがフェリシアとシャロンを取り巻き、風とともにさらっていく。

 見開かれたシャロンの瞳から怯えが抜けていく。それにともない、ブルーグレーの瞳が少しずつ透き通っていく。

 彼の中から、淀んだ不純物が抜けていくかのように。

「……フェリ……シア?」

 呆然とした表情で、シャロンが呟くように名前を呼んだ。

 両手で彼の手をそっと握り、フェリシアはその声に答える。

「なんでしょうか。シャロン様」

 握った手からシャロンの温度が伝わってくる。確かに感じる体温は、フェリシアが幼い頃からずっと感じ続けていたものだ。

「……あなた、今、魔法を……いや、それよりも」

 何が起きたのかわかっていない、混乱した様子でシャロンは言葉を紡ぐ。

 やがて、空いている右手を自分の額に当て、地を這うような低い声で小さく呟く。

「……僕は先ほどまで、あなたに何をしていましたか?」

「……!」

 わずかに震えた声で告げられた言葉は、彼がフェリシアのよく知るシャロン・リズレイに戻ったことを示していた。

 フェリシアは目を見開き、表情をくしゃりと歪め、シャロンへ飛びつくように抱きついた。

「シャロン様! よかった……! 本当によかった……!」

「わ、わ!? どうしたんですかフェリシア、ずいぶんと甘えたですが……」

 急に飛びつかれたシャロンが目を丸くして驚きつつも、フェリシアへ手を伸ばす。控えめに身体に手が回され、あやすように背中を優しく撫でられた。

 そっと背中をさする体温も、こちらを見て瞬くブルーグレーの瞳も、驚きつつもどこか心配そうに見つめてくる表情も――全て、いつものシャロン・リズレイのものだ。

 あれだけ耳の奥から聞こえていた音も、声も、もう聞こえない。聞こえるのはシャロンの声と、風や虫の音だ。

 今、自分が感じている体温を離してしまわないように。

 もう二度と、目の前にいる彼を失ってしまわないように。

 フェリシアは、目の前にいるシャロンの身体を強く抱きしめた。





 溢れ出した感情が次第に落ち着きを取り戻し、風のない湖のような、いつもの平坦とした感情が戻ってくる。

 シャロンにぎゅうっと抱きついた状態のまま離れずにいたフェリシアだったが、自分が何をしているか我に返り、ばっと彼から離れた。

 感情が一気に高ぶった結果の行動だったが、好きだと自覚した相手に抱きつくなんて、普段のフェリシアなら絶対にしない行動だ。遅れて顔に熱が集まっていく。

「も、申し訳ありません。シャロン様。はしたない行動をしてしまいました」

 本当にごめんなさい。

 みるみる間に真っ赤になっていく顔を押さえ、しどろもどろになりながら謝罪する。

 ころころ変わるフェリシアの行動や表情を目にしたシャロンは、ぽかんとした顔をしていたが、しだいに表情を緩ませて笑い出した。

「……く、ふ、ははは! 別に、ここは僕とフェリシアしかいないんですから気にしなくていいのに」

 片手は自分の口元に、もう一方の手は腹部に。上品さを残しながら腹を抱えて笑う。その姿は、落ち着いた振る舞いをする大人びた少年というよりも年相応の少年に見えた。

(シャロンも、こんな笑い方をするんだ)

 幼い頃からずっと一緒だったけれど、ずっと知らなかった彼の姿。

 面倒な事件が起きている最中だが、シャロンの新しい一面を知れたのは純粋に嬉しかった。

 シャロンの笑い声につられ、フェリシアも小さくくすくすと笑う。こうして二人一緒に笑い合うのが、とても久しぶりなように感じられた。

 ひとしきり笑ったところで息を吐き、呼吸を落ち着ける。

 笑い出す直前に比べてシャロンの表情は軽やかなものになっていたが、笑う前のやりとりを思い出したのか、またすぐに表情が曇った。

「……あの、ところでフェリシア。先ほどの僕の問いに答えてもらえていないと思うのですが」

 彼の唇から、呟くように言葉がこぼれ落ちる。

 できればそのまま忘れていてほしかったが――残念ながら、そういうわけにはいかないようだ。

 フェリシアもすっかり緩んでいた表情を引き締め、視線をあちらこちらに向けたのち、一度深い溜息をついて口を開いた。

「私としては、そのまま忘れていてほしかったのですが……」

 小さな声で前置きをし、フェリシアは自分の首元で輝いているペンダントに触れる。

「……ポップルウェル様から私がアクセサリーを奪ったと言って、返却するように迫ってきていました。このペンダントを、私ではなくポップルウェル様に贈ったものだとも」

「……は……?」

 先ほどのフェリシアのように、シャロンが低い声を出した。

 片手を頭に当てて、顔をしかめる。細められた瞳の奥には、はっきりとした苛立ちの色が渦巻いている。

「その前にもいろいろありましたが、ご説明しましょうか?」

「……お願いしま……ああ、いえ、大丈夫です。だんだん思い出してきました」

 片手は頭に当てたまま、もう一方の手を前に出してシャロンはフェリシアに待ったをかけた。

 様子がおかしくなっているときのことは覚えていないのかと思ったが、記憶が混乱しているだけで、おかしくなっていたときの出来事や行動などの記憶はどうやら残っているらしい。みるみる間にシャロンの顔色が悪くなっていき、気まずそうな表情へ変化し、最終的に勢いよくフェリシアへ頭を下げた。

 謝られはすれど、頭を下げられるとまでは思っていなかったため、思わずフェリシアは目を丸くした。

「……本当にすみませんでした、フェリシア。謝っても許してもらえないとわかっていますが……それでも、謝らせてください」

 俯いているため、シャロンが今どのような顔をしているのかはわからない。

 だが。

「あなたを傷つけてしまい……本当に、申し訳ありませんでした」

 今の彼は演技ではなく、心の底から謝っているのだと感じた。

 しんとした静寂がフェリシアとシャロンの周囲を満たす。

 咄嗟に上手く言葉が出てこずに黙り込んでいたが、次第に頭の中で言葉が繋がっていく。自分が何を言いたいのか、何を伝えたいのかが形になっていく。

「……謝らないで。そのような不安そうな顔をなさらないでくださいませ」

 本当に、彼が不安そうな顔をしているのかわからないが、自然とそんな言葉が組み上がった。

 下げられたままのシャロンの頭へ手を伸ばし、さらさらとしていそうな銀髪へ触れる。そのまま彼の頭を優しく撫でれば、シャロンの身体がわずかに震えた。

「大丈夫、わかっていますよ。貴方様の様子がおかしい間、貴方様が口にしたことは全て本心ではないと」

 ですから、謝らないでください。

 優しい手付きで頭を撫で、柔らかい声でフェリシアは言葉を紡ぐ。

 頭を下げたまだったシャロンが息を吐く音がし、ゆっくりと顔をあげた。

「……僕はあなたを傷つけたんですよ。言いがかりをつけて、不当に」

「ええ。確かに傷つきましたし、戸惑いました。ですが、それはシャロン様が望んでやったことではなく、やらされたことでしょう?」

 シャロンが自ら望んでやったのなら、フェリシアも怒りを顕にする。

 だが、今回は彼が心の底から望んだのではなく、外部からの力――魔法によって歪められ、操られてやらされていた。そこに罪はない――と、フェリシアは考えている。

 それに、フェリシアが一番聞きたいのは謝罪の言葉ではない。

「どうしても気が収まらないというのなら……そうですね、今度シャロン様がおすすめの甘いものをご馳走してください。それで手打ちにしましょう」

 ぱんと胸の前で両手を叩いて、この話題に一度終止符を打つ。

「それよりも……シャロン様。一体、貴方様の身に何が起きていたのか、お聞かせ願えますか?」

 声の調子を落とし、真剣そのものな表情でシャロンへ問いかける。

 フェリシアが聞きたいと思っていたのはそれだった。

 シャロンが正気に戻ったのはチャンスだ。正体不明の魔法にかかっていた間、シャロンからは世界がどのように見えていたのか。魔法にかかってしまう直前、彼の身に何があったのか。

 無事に魔法が解けた彼の口から語られる情報は、一連の騒動に関わっている犯人の魔法の正体を探るために必要だ。

「少々納得はできませんが……わかりました。後日、良いお茶菓子を持っていきますよ」

 シャロンが困ったように表情を緩め、小さく呟くようにそういった。

 一度だけ深呼吸をした次の瞬間には、彼もまた、真剣そうな表情へと切り替わった。

「……あなたが知りたいだろう肝心の部分ですが、なんといえばいいのか……。今思い返すと明らかにおかしいのに、当時はその違和感に全く気付いていませんでした」

 シャロンの表情がみるみる間に悔しそうなものへと歪んでいく。

 気付かない間に第三者の魔法にかかっていただけでなく、好きなように操られていたのは彼にとって相当悔しいことだったようだ。

「正直、いつ魔法にかかっていたのかもわかりません。いつのまにかポップルウェル様を幼馴染で守らなくてはならない相手、フェリシアのことを彼女に嫌がらせをする相手……というように認識していました」

 そこで一度言葉を切り、シャロンは舌打ちをした。

 一瞬ひやりとした恐怖がフェリシアの背筋を撫でていく。彼の苛立ちが自分に向けられたものではないとわかっているが、恐怖を感じさせるには十分すぎた。

「……自分の認識を好きに操作されるのは、良い気はしませんね」

「認識を操作……」

 シャロンが口にした一言を、フェリシアも小さな声で繰り返す。

 相手がどのような目的をもって動いているのかは、未だに掴めないまま。しかし、ろくでもない目的であることは簡単に予想できる。

 自分を相手にとって守られる側にして、こちらのことは敵であると認識させる。徹底的に、こちらを悪に仕立て上げようとしてくる姿勢に、強い苛立ちを感じた。

「……なるほど。どうやら、ポップルウェル様は私のことを徹底的に悪役に仕立て上げたいようですね」

 苛立ちとともに、なぜか笑いがこみ上げてくる。

 ルクレーシャがクラスメイトに攻撃されたときも、クラスメイトたちに同じような現象が起きていた可能性は十分考えられる。だとすると、ジュアニッタはフェリシアだけでなくルクレーシャのことも悪役に仕立て上げようとしている。

「……ふ、ふふ、ふふふ」

 こみ上げてくる衝動のまま、フェリシアは肩を揺らして笑う。

「フェリシア? 急に笑いだして……どうかしましたか?」

「私にもよくわかりません。なんだか、急に笑いがこみ上げてきてしまって……ふふ」

 片手で顔を覆い隠し、フェリシアは数歩歩いてシャロンから少し距離をとった。

 理由はわからないが、ジュアニッタはこちらのことを完全に敵視している。シャロンやクラスメイトに魔法をかけて、本人たちにも周囲にも気付かれずに認識を変えて、フェリシアやルクレーシャを悪人に仕立て上げようとしている。

 おそらくだが、彼女の中でフェリシアたちはジュアニッタを傷つける悪役令嬢になっているのだろう。

 そちらがその気なら、いいだろう。

「……お望みどおり、なってあげましょう。傍観令嬢から、悪役令嬢へ」

 ただし、断罪イベントで盛り上げ役になるような悪役令嬢ではない。

 ジュアニッタにとって、最悪の悪役令嬢に。

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