第6話 《審判》と《隠者》はお互いの手を握る
張り詰めたような嫌な空気が教室の中に満ちている。
教室の片隅で、フェリシアはある一点を見つめながら溜息をついた。
視線の先にいるのは、ジュアニッタと親しそうに話すシャロンの姿だ。
二人はとても楽しそうに話しており、窓からそれを眺めているフェリシアに気付いている様子はない。ジュアニッタを見つめるシャロンの瞳は穏やかで、昨日フェリシアに向けていたものとは正反対だった。
――前は、あの目をこちらに向けてくれていたのに。
「……?」
そのような言葉が頭に浮かび、フェリシアは首を傾げた。
どうしてそのような言葉が浮かんできたのだろう。確かに、以前まではあの目を向けてもらうことができていたが。
今まで当然だと思っていたものが突然なくなってしまったから、複雑な気持ちになっているのかもしれない。先ほどから胸が何やら痛むような気がするのも、きっとそのせいだ。
(……そういうことにしておこう)
心の中で再び溜息をついて、フェリシアは楽しそうにどこかへ歩いていくジュアニッタとシャロンから視線をそらす。
「今日も浮かない顔、してるね」
「リヴァーモア様」
かたり。
椅子を引く音のあと、フェリシアの目の前にユリシーズが座った。
「あいつが、あいつと仲良くしてるの。そんなに複雑?」
そういって、ユリシーズは首を傾げた。
あいつとあいつ――というのは、もしかしなくても。
「……シャロン様とポップルウェル様のことでしょうか」
「そう。その二人。ブレーデフェルト、あいつらをじっと見て動かなかったから」
自分ではそれほど見つめていなかったつもりだが、ユリシーズからそういわれるくらいには見つめてしまっていたのか。
思わず苦笑いを浮かべ、フェリシアは肩をすくめた。
「少々思うことがあるだけですよ」
「それは複雑な気持ちってことじゃないの」
「それは……まあ、そうともいいますが」
ふんわりとした表現でごまかそうとしたが、ユリシーズはフェリシアが抱えている感情をぴたりと言い当ててきた。
彼とこうして顔をあわせて会話をした回数はまだ少ないが、ユリシーズ・リヴァーモアという少年は曖昧な表現を好まず、単刀直入な、はっきりとした表現を好んでいるようだ。ずけずけと相手の領域に踏み込んでいくのを好まないフェリシアとは、正反対のタイプといえる。
「ブレーデフェルトは、なんでそんなにぼんやりした態度なの。もうちょっとはっきり嫌なことは嫌って言えばいいんじゃないの」
「いえ……それで仲に亀裂が入ってしまったら、そっちのほうが嫌なので」
それに今、シャロン絡みのことで誰かに敵意を持った態度をはっきりととったら、自分が避けたいと思っている未来に片足を突っ込みそうで恐ろしい。
(ちょっと嫌な気持ちになってるのは確かだけど……それでゲームの『フェリシア』と同じ末路を辿ることになったら、全部水の泡だし)
それに今、自分がやるべきことは観察だ。
昨日、薔薇庭園の小屋でジュリウスにされた頼まれごとを思い浮かべる。
教室の空気に変化はあるか。
短期間で振る舞い方や考え方が急変した人物がいないか。
そういったことを見据え、観察し、情報を集めて回るのが今のフェリシアのやるべきことだ。
今、変に目立ったらその目的を達成できなくなる可能性がある。だからこそ、今はぼんやりとした曖昧な態度でいたほうがいいだろう。
さながら、ゲーム序盤の『フェリシア』のように。
――そういえば。
ふと思い出し、フェリシアは頬杖をついてこちらを見つめているユリシーズを見つめる。
(ユリシーズは忠告してくれたんだよね)
薔薇庭園へフランの話を聞きに行った日、ユリシーズはフェリシアへ忠告をしてきた。
嫌な奴――ジュアニッタが何か企んでいる。
あのときはただの忠告だと思っていたが、今思い返すとあの時点での忠告にしてはずいぶん具体的だ。
怪しいでもなく、警戒しろでもなく、企んでいる。彼女が何かを企んでいると確信した出来事があるはずだ。
「……何? 俺の顔に何かついてる?」
ユリシーズが不審そうに眉をひそめる。
フェリシアは一度教室を見渡し、シャロンやジュアニッタが教室に戻ってきていないことを確認し、そっと口を開いた。
「今、疑問に思ったんですが……リヴァーモア様は、いつポップルウェル様が何か企んでいると気付いたんですか?」
できるだけ小さな声で、囁くように問いかける。
ユリシーズの表情は変わらない。昨日と同じような、眠たそうな顔のままだ。
だが、少ししたらユリシーズは猫のように目を細め、にんまりと楽しそうに唇の端を持ち上げた。
「そこに気付いたんだ。やっぱり面白いね、ブレーデフェルトは」
心底楽しそうな弾んだ声。
肩を微かに揺らして笑い、ユリシーズはさらに言葉を続ける。
「答えてあげてもいいよ。けど、そのかわりに俺の質問に答えてくれないかな」
「それは、一種の取引でしょうか」
「そうだよ」
猫のような笑みを浮かべたまま、ユリシーズは頷いた。
「だって、これは一種の大事な情報だよ。だから、ブレーデフェルトも大事な情報を一つ僕に渡してくれたら嬉しいな?」
「……まるでお願いのように言っていますが、それは確定事項でしょう?」
「そうともいうね」
さあ、どうする?
最後に一言付け足し、ユリシーズは笑顔のままフェリシアの出方を見ている。
そこで、ようやく思い出した。
ユリシーズ・リヴァーモアは、ゲーム中でも今のように取引を持ちかけてくるタイプのキャラクターだった。彼のルートに入っても入らなくても、それは変わらない。取引に応じたらさまざまな情報を手に入れられるが、時には優先度が低い情報を渡してくることもあった。
猫のように気分屋で、シャロンよりも厄介な質ともいえる少年。それが、《隠者》のカードを手にしたユリシーズ・リヴァーモアという人物だ。
(ここで大人しく情報を渡しても、情報だけを取られてぼやかされる可能性もある)
だが、素直にフェリシアが欲しいと思っている情報を渡してくれる可能性も十分にある。
可能性は半分半分。実際に彼へ情報を渡してみなければ、結果はわからない。
(……覚悟を決めよう)
軽く深呼吸をし、気持ちを落ち着ける。
もう一度周囲を確認してから、フェリシアはメモを取り出してそこへペンを走らせる。必要な情報を全て書き込むと、それをユリシーズへ差し出した。
「わかりました。取引に応じますので、本日の授業後、ここへ来ていただけませんか」
フェリシアがメモに書いて指定したのは、トゥール・ドゥ・マギア学園の敷地内にある建物だ。他とは少々雰囲気の異なるゴシック調の建物は、主に図書館のような役割をはたしている場所だ。
あの場所なら静かに話ができる。開けるたびに扉が軋んだ音をたてるため、誰かが入ってきたときもすぐに気付いて対処ができる。建物そのものの雰囲気が少々近寄りがたいものを感じるため、人通りそのものも少ない。内緒話をするには絶好の場所のはずだ。
手渡されたメモの裏表を確認し、内容に目を通したユリシーズがますます楽しそうな笑みを浮かべる。
「オッケー、わかった。君の誘いにのってあげる」
「感謝します。では、また授業後に」
フェリシアがその一言で話を締めくくる。
ユリシーズも満足したらしく、メモを大切そうに折りたたんで制服の胸ポケットへしまった。
「……あー、そうだ」
そのまま立ち去るかと思われたが、ふいにユリシーズが何かを思い出したように声をあげた。
内心、首を傾げながらフェリシアはユリシーズへ視線を向ける。ちょうど同じタイミングでユリシーズもフェリシアへ視線を向け、ばちりと目が合った。
何を考えているのかわからない曇天と、冷ややかな印象を与える薄氷色が重なり合う。
「ブレーデフェルト、ブルームフィールドと仲が良かったよね」
「レーシャ様ですか? ええ、仲が良いと思っていますしその自信がありますが」
「ふぅん。なら、ブルームフィールドがこの授業を休んでる理由とか、わかる?」
彼の言葉を聞いて、そこで気付いた。
慌てて教室の中を見渡したが、確かにルクレーシャの姿はどこにも見当たらなかった。
昨日、午後の授業のときも同様のことがあった。あのときも、ルクレーシャはどこにも見当たらなかった。結局授業が始まっても、彼女が教室に来ることはなかった。
そして、今日。昨日と同じように、ルクレーシャの姿が教室にない。
ひやりとした何かがフェリシアの心臓を射抜いた。
「……い、え。寮の部屋を出るときは、すでに寮を出ていたようでしたので……」
「じゃあ、今日は一度も姿を見てないんだ」
心臓が嫌に早く鼓動を打っている。
自分でもみるみる間に顔色が悪くなっているだろうことが、自分でもわかる。
ユリシーズは無言でフェリシアを見つめ――やがて、興味をなくしたように顔をそむけながら呟いた。
「ちょっと、探してあげたほうがいいかもね」
普段よりもほんの少し声のトーンを落とし、ユリシーズが言葉を口にする。
「なんだか、よろしくないものを感じるからさ。俺の気のせいならいいんだけど」
おそらくきっと、気のせいではないのだろう。
きっと――最初から、気のせいなどではなかったのだ。
薄暗く、本棚に囲まれた部屋の中で、ルクレーシャは膝を抱えたまま時間が過ぎるのを待っていた。
今頃、教室では授業が行われていることだろう。入学して日が浅いのに、授業に出席せずサボるなんてよくないことだ。ここに父がいれば、きっとこっぴどく叱られる。だが、今のルクレーシャは教室まで行くことができなかった。
入学したときはそうでもなかったのに、今の教室はただただ息苦しい。
陸にいるのに溺れているようで、何も悪いことをしていないはずなのに罪悪感で胸が苦しくなる。一歩、教室へ足を踏み入れた瞬間にクラスメイトたちから厳しい視線で串刺しにされる瞬間など、自分が罪人になったかのような気分だった。
どうしてこんなことになってしまったのか、ルクレーシャには理由が何もわからなかった。
なんで、こんなことになっちゃったんだろう。
もう何度思い浮かべたかわからない言葉を思い浮かべる。
最初は気のせいだと思っていた。気のせいだと思いたかっただけなのかもしれない。
ほんの少しの違和感から始まった歪みは、今ではすっかり大きくなりすぎてルクレーシャ一人ではどうしようもできないレベルにまで広がってしまった。おかしいと声を上げるには遅すぎて、誰かに助けを求めるには恐怖を感じるくらいに。
ルクレーシャが気のせいだと自分をごまかし続けていただけで、きっと最初から気のせいなどではなかったのだ。
後悔。寂しさ。恐怖。孤独感。さまざまな仄暗い感情がルクレーシャの胸を支配し、視界を潤ませた。
同時に思い浮かべるのは、今と同じ気持ちを抱えていたときに助けてくれた少女の顔。
冷たさを感じさせる色合いとは反対に、不器用な暖かさを持った唯一無二の親友の姿。
「……駄目」
彼女へ助けを求めたくなった。
だが、それ以上に助けを求める声をあげるほうが恐ろしかった。
もし、彼女にまでクラスメイトたちが向けてくるものと同じ目を向けられたら?
「……それだけは、絶対に駄目」
恐ろしい想像を頭の中にしまい込み、ルクレーシャは俯いた。
彼女にまで冷たい目を向けられたら、自分はきっと立ち直れない。
それに何より、彼女に迷惑をかけるわけにはいかなかった。ただでさえ、彼女には精神的に頼りっきりになってしまっているのだから。これくらいは自分一人だけでなんとかしなくてはならない。
大丈夫。一人きりで頑張るのには、慣れている。
(……慣れてるはずなのに)
こんなに、胸がギリギリと痛むのはどうしてだろう。
――ぎぃ。
「!」
扉が開く音が静寂を切り裂いた。
目を見開き、ルクレーシャはとっさに出入り口のほうを見た。
ルクレーシャが隠れているのは、部屋の奥にある本棚の影だ。全体的に室内が薄暗いこともあり、ルクレーシャがここにいると即座に気付かれる可能性は低い。相手がこちらへ近づいてこない限り、じっとしていれば見つかる心配は少ない。
今は誰にも会いたくない。どうか、こちらに気付かないまま、ここを立ち去ってほしい。
だが、こんなときに限って神様は意地悪だった。
「わざわざ場所を変えるようなことをして、すみません。ご足労いただき感謝します」
「別に。取引に応じるって決めたのは俺だし。それに、君のそういう慎重なところ、嫌いじゃないよ」
ほんの短い間だが、呼吸が詰まった。
ルクレーシャが望む静寂を切り裂いたのは、今一番会いたくて――けれど、今一番会いたくない相手だった。
もう一人誰か連れてきているようだが、そちらの声には聞き覚えがない。
彼女の隣をいつもキープしていたあの人ではなく、別の誰かが彼女の隣にいるというのはなんだか違和感があった。
薄暗闇の中、ルクレーシャは強く膝を抱え、可能な限り身体を小さくする。
二人の声の主は、何気ない会話をしながらルクレーシャが隠れているほうへと近づいてきた。
そして。
「……? ブレーデフェルト、そこ」
「あら、先客が――……」
――ああ。見つかりたくなかったのに。
開かれたままになっている扉から差し込む光を背に、彼女がついにこちらを見た。
白に近い桜の髪に、冷たく見えるけれど不器用な暖かさを奥に秘めた薄氷色の瞳――ルクレーシャにとって大事な親友であるフェリシアが、そこにいた。
まるで、彼女とはじめて会ったあのときのように。
「……レーシャ、様……? こんなところで、何を……。ああ、いえ、それよりも大丈夫ですか? 昨日も今日も、教室で姿をお見かけしなかったので何かあったのかと……」
驚いたような、心配そうな、フェリシアの声がルクレーシャの心に広がる。
彼女の声は強がっていたルクレーシャの心に波紋を作り、感情を揺らがせた。
「……フェア、様……」
ぼろりと涙がこぼれ落ちる。
慌ててこちらに駆け寄ってくるフェリシアの姿がぼやけて見えなくなり、次の瞬間には大声をあげて泣き出していた。
ルクレーシャの泣き声が図書棟の中に響き渡る。
授業後、ユリシーズを連れてここに来たら、姿をまともに見なかったルクレーシャがいたことにも驚いたが、それ以上にルクレーシャがフェリシアを見た瞬間に泣き出したことに驚いた。
フェリシアは急いでルクレーシャとの距離を詰め、幼い子供にするように背中を擦る。
表向きは慌てつつも落ち着いた対処をしながら、フェリシアは混乱している頭を必死に動かしていた。
(これ、一体どんな状況?)
様子のおかしいシャロンと会話をした日のように、短時間で一度に多くのことが起こりすぎている。
ぼろぼろ泣き続けるルクレーシャを落ち着かせながら、横目でここまで共に来たユリシーズを見る。
ユリシーズは少し戸惑っていたようだが、すぐに落ち着きを取り戻し、何やら考え事をしていた。やがて、何か結論が出たのか、彼は床に座り込んでいるルクレーシャの前に片膝をついて視線を近づけた。
「ねえ。君、ルクレーシャ・ブルームフィールドであってるよね」
しゃくりあげながら、ルクレーシャが数回頷く。
一体何をするつもりなのか、困惑しながらフェリシアが見守る前で、ユリシーズはさらに言葉を重ねる。
「何があったか教えてくれない? 君の答えによっては、俺も振る舞い方を変えないといけない」
「……あの。リヴァーモア様、一体何を……」
「ブレーデフェルトは少し静かにしてて。で、教えてくれるの? くれないの?」
おずおずと彼へ問いかけようとしたが、ぴしゃりと言い返され、フェリシアは口を閉ざした。
しばらくぐすぐす泣いていたルクレーシャだったが、だんだん落ち着いてきたようで、時折言葉を詰まらせながらも口を開いた。
「……最初は……最初は、本当に、小さな違和感から、だったんです」
その言葉を皮切りに、ルクレーシャは話し始める。彼女の口から語られたのは、フェリシアが感じていた違和感を思い出させるものだった。
一緒によく話していた相手と過ごす時間が減り、仲が良いと思っていた相手がルクレーシャ以外の誰かと一緒に過ごしているほうが多くなった。
クラスメイトに挨拶をしても、そこから会話に発展することがなくなっていった。
自分の持ち物の中に心当たりがないものが増えるようになり、周囲から向けられる目が厳しいものへ変化していった。
そして、それまで仲良くしてもらっていたと思っていた相手と話すことがなくなり、一人きりになっている時間のほうが増えていった。
ルクレーシャの話に耳を傾けているうちに、フェリシアとユリシーズの表情が険しくなっていく。
「……で。そういうことが重なったから、ここに隠れてたってわけ?」
「それだけだったら、まだ、我慢できたんです。でも……」
少々言いづらそうにしながらも、ルクレーシャは言葉を続けた。
「……昨日、突然クラスの人たちに囲まれて、言われたんです。ジュアニッタさんにひどいことをするなって」
ルクレーシャが呟くように口にした言葉。
その一言を聞いた瞬間、フェリシアの脳内に昨日の出来事が蘇った。
もしかしたら、フェリシアやフラン、ジュリウスだけでなくルクレーシャも似たような違和感を覚えていたのかもしれない――。
目を見開いたフェリシアを横目に見て、ユリシーズはすぐにまたルクレーシャへ視線を戻す。
「その言葉に心当たりは?」
「ありません。私、ジュアニッタさんとは、何度か話したことはありますけど……ひどいことはしていません」
ルクレーシャは首を横に振って答えた。
それに何より、彼女がジュアニッタにひどいことをする理由はない。ルクレーシャという人物は、自分が何か嫌なことをされても同じことや似たようなことを他の人物にもするような人間ではないことを、フェリシアはよく知っている。
彼女の返事を聞いたユリシーズは、顎に手を当てて再び考え事をしていたが、やがてゆるりとした動きでフェリシアを見た。
「ブレーデフェルト、突然だけど予定変更。俺が思っていた以上に、あの嫌な奴の動きが激しいかもしれない」
そういってから、身体ごとフェリシアのほうへ向き直る。
こちらを真っ直ぐ見つめてくる曇天の瞳は、いつもの雰囲気とは異なり、真剣な光を宿していた。
「取引はなし。俺の予想込みで、俺は持ってる情報を君に渡す。おそらく君は、俺と似たようなことを考えてる仲間だと思うし」
無償で持っている情報を渡す。
ユリシーズが口にした言葉に目を見開いたが、同時に気付いた。
自分たちが目の当たりにしている不可思議な状況は――フェリシアたちが予想しているものよりも、はるかに悪いものなのではないか。
その可能性に行き着いた瞬間、焦りや静かな恐怖がフェリシアの心の中に戻ってくる。
しかし、それをはっきりとは表に出さず、軽く深呼吸をして心を落ち着かせてから口を開いた。
「それはつまり、私が予想しているよりもはるかに状況が悪くなっているということでよろしいでしょうか」
「さすが、ブレーデフェルト。そういうことで合ってるよ」
確認のための言葉に肯定で返し、ユリシーズは続ける。
「俺の予想以上に、あの嫌な奴は大胆かつ積極的に行動してるみたい。ブレーデフェルト、何か対策をしようとしてるんでしょ? なら、ここでどうにかしないとまずいと思う」
「……私が何かをしようとしているのも、お見通しでしたか」
さすがはアルカナ・ラヴァーズで情報屋のようなポジションに座っているだけのことはある。
フェリシアは一瞬だけ苦笑いを浮かべた。
二人の話についていけず、きょとんとしているルクレーシャの頭を優しく撫で、もう一度口を開いた。
「……では、私もお話しましょうか。事態が悪化しているのであれば、無駄に秘密にしている理由はないでしょう」
最後にぽんぽんとルクレーシャの頭を数回優しくタッチして、フェリシアは立ち上がった。
腹の奥でぐつぐつ煮詰められているこの感情は、きっとどうしようもないくらいの怒りだ。
「――私は、水面下でこの学園に異変が起きていると考えています」
ルクレーシャがすっかり落ち着いたのを見計らって、より人気が少ないクラブ棟の奥へ移動し、フェリシアは静かな声で切り出した。
きちんと明かりをつけているのにも関わらず、クラブ棟の中は相変わらず薄暗い。その奥ともなると、ルクレーシャが隠れていた場所よりも薄闇は色濃いものだった。しかし、今はその薄闇が秘密の話をするのに適している。
奥に設置されていた椅子に座っているのは、フェリシアを含めて三人。ルクレーシャとユリシーズだ。ルクレーシャはまだ少し戸惑った顔をしているが、ユリシーズは普段の眠たげな表情ではなく、真剣さを感じさせる顔と目をしている。
「私もレーシャ様と同じように、最初は小さな違和感から始まりました。……ここで一度確認しておきたいのですが、レーシャ様は教室内の空気がおかしいと感じたことは?」
突然話題を振られ、ルクレーシャが目を丸くする。
えっと、その、と咄嗟に言葉が出ずに言いよどんでいたが、やがて彼女はフェリシアの質問に答えた。
「おかしいというか……なんだか、ぴりぴりしてる? と思ったことはあります。そのあとに、私が話した違和感に変わったんですけど……」
「ありがとうございます。……では、私が覚えた違和感とレーシャ様が覚えた違和感、元は同じである可能性がありますね」
スタートは、教室内の空気の変化。
「つまり、そのタイミングで教室の空気が変わるような何かが起きたってことだよね」
「もしくは、前々から少しずつ教室内の空気は変化していたけれど、私とレーシャ様が違和感を覚えたタイミングでその違和感が隠せないほどに大きなものになったか……」
あの瞬間まで特に何も感じずに過ごせていたことを考える辺り、おそらくだがこちらの可能性が高いだろう。
「ともかく、この瞬間で何かが起きたというのは確定でしょう」
「俺も同意」
ゆるりとユリシーズが頷く。
フェリシアも同じように頷いて、話を続ける。
「……実は、同じ違和感を別のクラスの方々も感じています」
「えっ……他のクラスって……隣のバトルクラスですか?」
ルクレーシャが驚き、目を丸くしながら問いかけてきた。
フェリシアは彼女へ静かに頷いてみせ、それを返事とする。
「そして、同室。明らかに様子のおかしいシャロン様とお話をしました」
「シャロン様の様子が、おかしい……?」
「ええ。おそらくですが、レーシャ様が遭遇したクラスメイトの方々と同じ状態になっていたと思われます」
「話して」
フェリシアがルクレーシャへ言葉を返した瞬間、ユリシーズが食いついてきた。
じっとフェリシアを射抜く瞳は、先ほどまでと比べると少々剣呑な光を宿している。
「私がポップルウェル様を傷つけることを言った、と。そう口にしていました」
ルクレーシャの表情が強ばる。
「そんなことはしていないと否定しても、全く聞き入れてもらえず。ポップルウェル様の主張を鵜呑みにして信じ切っている様子でした」
改めて思い出すと、あの姿は不気味以外の何物でもなかった。
普段は冷静に物事を判断し、怖いくらいに水面下で自分の都合のいいように人を動かし、有利な状況を作って物事を進めていくシャロン。あのときの彼からは、フェリシアにとっては恐怖の対象でもあったそれが失われて一つの意見を盲目的に信じて他を聞き入れない姿勢になっていた。
ジュアニッタがフェリシアのことを敵だと言ったから、敵なのだと言いたげな姿勢。
あんなに、仲良くしてきたのに。
フェリシアの心の奥底でそんな声が聞こえ、ぎゅうっと苦しくなるくらいに胸が締め付けられた。
思わず胸の前で手を握り、唇を噛んだ。
「……あんなの、シャロン様らしくない」
あんなシャロン、シャロンの顔と声をした別人だ。
「ふぅん……ブレーデフェルトはブレーデフェルトで、そういうことがあったんだ」
フェリシアの話が一段落したと判断し、ユリシーズがぽつりと呟いた。
唇を閉ざし、無言で彼へ視線を向ける。すると、話し終わったフェリシアと入れ替わるように、今度はユリシーズが口を開いた。
「俺があの嫌な奴を警戒するようになったのは、もっと前だよ。なんなら、入学式が終わったときにはもう警戒してた」
「え……そんなに早くから、ですか?」
先ほどのルクレーシャのように、思わず驚いたような声がフェリシアの口から出た。
フェリシアはその日――入学式の瞬間にはいなかったため、どのようなことが起きたのかは自分の目では見ていない。ゲームのシナリオでなら目にしたことがあるが、ゲームのシナリオもルクレーシャの視点でのものだから、フェリシアとしての視点ではやはり見たことがないといえる。
フェリシアの反応に、ユリシーズは一瞬きょとんとして、すぐに何やら納得した顔をした。
「……そういえば、あのときはブレーデフェルトはいなかったんだっけ。ブルームフィールド」
「え、あ、はい。あのとき、フェア様はお家の都合で来れていなかったので……」
きろり。曇天の瞳が、今度はルクレーシャの姿を映し出す。
確認じみた問いかけにルクレーシャは肯定で返し、首を傾げた。
「ですが……あのときのジュアニッタさん、何もしていなかったと思うんですが……」
「確かに、ぱっと見た印象ではそう見えるかもね」
深い溜息混じりに、ユリシーズが言う。
首を左右に振り、まるで嫌なことを思い出したかのように眉間へ皺を寄せた。
「でも、あいつ。入学式が終わったあと、同じクラスの男子ばっかりに自分から話しかけにいってた。女子に話しかけられたら普通に返事してたけど、一瞬苛立った顔してたし」
片手をひらひらとさせて、そういったユリシーズの声は嫌悪感に満ちていた。
けれど、言われてみれば。はじめてジュアニッタと出会ったあのときも、シャロンに返事をするときは心の底からの笑顔を浮かべていた。
もしかしなくても、あれがユリシーズの言っていることなのだろう。
「だから、あいつは嫌な感じがするって警戒してた。何か企んでるって思ったのは、もうちょっと後のことだけど」
「……私が気になっているところですね」
「そうだね。ブレーデフェルトが一番知りたいと思ってるところだよ」
一瞬、にんまりとした笑顔を浮かべ、ユリシーズは話を続ける。
「警戒してる相手だから、あいつのことはできるだけ観察するようにしてたんだけど……あいつが関わったあと、結構な確率であいつのことを贔屓するようになってたんだよね。少しずつ自分を贔屓してくれる奴を増やしてるように見えたから、あいつは何かを企んでると思った」
なんでもないかのように、さらりと告げられた言葉。
そこに含まれていた事実は、フェリシアに強い衝撃を与えるには十分すぎた。
「……つまり……。……つまり、リヴァーモア様は」
一度言葉を切り、フェリシアはユリシーズを見つめる。
「私よりも早く、振る舞い方が変化した人たちがいることに気付いていた……ということで、よろしいですね?」
「そうだよ」
フェリシアの確認に対し、ユリシーズはあっさり肯定で返した。
つまり、ユリシーズ・リヴァーモアは――フェリシアやフラン、ジュリウスと同じ『仲間』だ。
フェリシアたちよりも早くクラス内の変化に気付き、それにジュアニッタが関係している可能性が高いと予想ができていた。だからこそ、彼はあのタイミングでフェリシアに忠告できた。
頭の中でくすぶり続けていた疑問が解消され、入れ替わるように異なる思いがフェリシアの中で芽吹く。
彼の力が欲しい。
フェリシアよりも、フランよりも、そしてジュリウスよりも――シャロンの振る舞い方が急変した『答え』に近づいている彼の力が。
急速に心の中に芽吹いた思いは、急激に成長して葉を茂らせ花を咲かせ、実をつける。熟したその味を知ってしまえば、あとは衝動に突き動かされるままに動くだけだった。
「リヴァーモア様」
「何? ブレーデフェルト」
「私に――私たちに、協力していただけないでしょうか」
自然な動きで、片手がユリシーズへと伸ばされる。
フェリシアがこのようなことを言い出すとは予想ができていなかったのか、それとも違う理由があるのか。フェリシアを見つめ返していた彼の瞳や表情に、驚きの色が混ざった。
「……協力? 何かしてそうだなとは思ってたけど、何。ブレーデフェルト、本当に誰かと手を組んでるの?」
「手を組んでるという表現は正しくないかと。あくまでも協力関係です」
「ふぅん。で、誰と協力して、何をしようとしてるわけ? あの嫌な奴とおかしくなってるリズレイではないってことは確定してるけど」
片手で頬杖をつき、もう一方の手をひらひらとさせてユリシーズが問いかけてくる。
そんな彼の瞳を見つめ返したまま、フェリシアは口を開いて答えた。
「バトルクラスに所属しているレノンフォード様と、デルヴィーニュ様です。……先ほど私がお話した、バトルクラス側で違和感に気付いたお方々です」
ユリシーズは何も言葉を口にしない。
それを無言の相槌ととらえ、フェリシアはさらに言葉を続けた。
「私がシャロン様とのやり取りをお話した結果、原因を探ってくれています。リヴァーモア様がお話してくれたことは、今、私たちが欲しいと思っている情報です」
そこまで口にすれば、さすがに協力を申し出られた理由がわかったようだ。
一回、二回と頷き、ユリシーズは再び唇の端を緩く持ち上げて笑みを作ってみせた。
「なるほどね。納得した」
「……で、お返事のほうは?」
わずかにユリシーズが肩を揺らして笑う。
そして、伸ばされていたフェリシアの手に自分の手を重ね、簡単には離れないよう指を絡めて握った。
簡単には離れないよう、しっかりと繋がれた手がフェリシアからもよく見えるよう、わずかに高い位置へ掲げられる。
直接的な言葉による返事はない。だが、この行動だけで彼の返事はよくわかった。
「……ご協力いただき、感謝します。リヴァーモア様」
「別に。ブレーデフェルトたちが面白そうなことをしてくれるなら、俺はそれに乗っかるだけだよ」
俺が退屈するような結果にだけはしないでよね。
猫のような笑みを浮かべたまま付け足し、ユリシーズの手がほどかれる。指先でフェリシアの手を一度だけ撫でてから、するりと離れていった。
協力を得られたことにほっとしつつ、フェリシアは続いてルクレーシャのほうを見る。
彼女はフェリシアと揺らしてユリシーズのやりとりを静かに見守っていたが、親友からの視線を感じればそちらへと目を向けた。
不思議そうに首を傾げたルクレーシャへも、フェリシアは手を伸ばす。
「レーシャ様。貴方様も、一連の出来事に関わってらっしゃる方です。もしよろしければ、協力していただけないでしょうか」
ルクレーシャの協力が欲しいという言葉には、嘘はない。
だが、それ以上に彼女のことをなんとかこちら側で保護したいという思いもあった。
この中で、ルクレーシャはフェリシアに続いて直接的な被害を受けたといえる存在だ。フェリシアよりもはっきりと攻撃された辺り、相手に何らかの理由で一方的に敵視されている可能性が高い。
もし、一方的に敵視されているのなら。相手がクラスメイトを使って、また攻撃をしてくるかもしれない。ただでさえ他者から傷つけられた過去を持つルクレーシャが、これ以上不当に傷つけられるのはフェリシアとしては避けたいところだ。
ルクレーシャが不安そうな目で、フェリシアの顔と差し出された手を交互に見つめる。差し出された手をとるか否か迷っていたが、やがて覚悟を決めた。
フェリシアの手に、ルクレーシャの手が重ねられる。大きく息を吸って、深く吐き出して、ルクレーシャはフェリシアの顔を真っ直ぐに見つめた。
「私でよければ、お手伝いさせてください。シャロン様をいつものシャロン様に戻しましょう」
彼女の唇から紡がれた言葉が、静寂を吸った空気を震わせた。
先ほどまで怯えて震えていた少女とは思えない、覚悟を決めた瞳。瞳の奥底では未だに不安が顔を出しているが、それ以上に強い決意が光を放っていた。
(……さすが、ゲームの主人公)
フェリシアの口元に自然な笑みが浮かぶ。
まるで、ルクレーシャが放つ輝きに闇や迷いを払ってもらったかのようだった。
「ありがとうございます、お二人とも」
重ねられた手を優しく握り返す。
全く予想ができない事態に、内心はずっと不安だった。どうしてこんなことになってしまったのかがわからず、混乱していた。
けれど、フランやジュリウスがいる。協力してくれると決めたユリシーズとルクレーシャがいる。この事態に、一人だけで向き合っているわけではない。
今のフェリシアには、ともに立ち向かってくれる仲間がいる。
ゲームの『フェリシア』のように、孤独ではない。一人きりではない。
人によってはそれだけかだと感じそうなこと。だが、ゲームの『フェリシア』が歩んだ結末を知っている今のフェリシアからすると、周囲に友人や協力者がいるのはとてもありがたいことだった。
「……なんとかしましょう。今の状況を」
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