第5話 《審判》は違和感を覚える

 その違和感に気付き始めたのは、いつ頃からだったか。

「あ、れ……」

 最初は些細なものだった。

 それまで一緒によく話していた相手と過ごす時間が減ってきた。

 仲が良いと思っていた相手が自分以外の相手と過ごしている姿を見かけることが増えてきた。

 挨拶をしても返ってくるのは挨拶だけで、そこから会話に発展することがなくなってきた。

 最初はそんな、些細な違和感。学園で生活を送る中で交友関係が変化し、それを違和感に感じたのだと思える範囲のものだった。

 しかし、時が経つごとに違和感は大きく膨れ上がり、より具体的なものへと形を変えていった。

 小さなものだったはずの違和感は、確かに以前よりも大きくなっている。

 そして、それは今日もだった。

「なんで……確かにここに入れておいたはずなのに……」

 今日は、鞄の中に入れておいたはずの物が違う物と入れ替わっていた。もちろん見覚えがない物だ。

 わずかに震える手で見覚えのないハンカチを手に取り、鞄から取り出す。とりあえずこれは先生のところに届けなくてはと思い、顔をあげたところでクラスメイトたちの視線が突き刺さった。

「――ッ」

 息が詰まる、冷たい視線。

 それに混じって聞こえる、こちらを見てひそひそと囁き話す声。

 今よりも小さい頃は日常的に感じていたそれらは、悪意に満ちたものだった。


 どうしよう。

 どうしたらいいんだろう。


 混乱しきった頭のまま、ハンカチを持って逃げるように教室を飛び出す。

 少しずつ、少しずつ酸素を奪われているかのように息苦しさが増していく。

 仲が良い相手と同じクラスになれて、その人と仲が良い相手とも親しくなれて、楽しい学園生活になると思っていたのに。

 ハンカチを握りしめて廊下を駆けるルクレーシャの表情は、苦しげに歪められていた。





 最近、学園の空気がおかしい気がする。

 学園内に設置された庭園テラスにて、フェリシアは考えながら溜息をついた。

 時間は昼。午前中の授業も一区切りついたこの時間は、昼食をとる生徒たちで賑わっている。フェリシアが今過ごしているテラスにも多くの生徒が集まっており、思い思いの時間を過ごしていた。

 食堂で淹れてもらった紅茶を一口飲み、フェリシアは再度溜息をつく。

「……最初は気のせいかとも思ってたんだけど」

 独り言を呟きながら考えるのは、最近の学園生活のことだ。

 周囲とは少し遅れて学園生活をスタートし、最初のうちは普通に過ごせていたと思う。けれど、いつからか何かがおかしいと感じ始めるようになり、今では明確な違和感を覚えるほどになった。

 どんな違和感があるのかと問いかけられたら、説明するのは少し難しい。前よりも教室内の空気が重く感じるとか、水面下でギスギスしているような気がするとか、全てフェリシアの考えすぎで終わらせることができそうなものだ。

(でも、考えすぎじゃないような気がする)

 何故そのように感じるのかはわからない。だが、これは気のせいではなく、水面下で何かが起きているような――予感めいたものに近い。

(……もしかして、誰かのルートに入ってる?)

 その可能性は――あるかもしれない。なんていったって、ここはアルカナ・ラヴァーズの世界。フェリシアがかつて愛した乙女ゲームの世界だ。

 フェリシアが知らない間にルクレーシャが誰かとのルートに突入していて、イベントが起きている。その結果、学園の空気が変わったように感じられる。可能性は十分ありそうだ。

 だが、それなら誰のルートに入ったのだろう。学園生活が始まってから、フェリシアはルクレーシャと直接会話をする機会が以前よりも多くなった。フェリシアが知っている範囲では、ルクレーシャが特定の誰かを大切に思っている様子はなさそうだった。

 アルカナ・ラヴァーズのイベントは好感度の影響を受けるもの。何らかのイベントが発生している説が合っているのなら、ルクレーシャが特定の誰かに想いを寄せていてもおかしくないはずだ。

「……駄目ね。考えても答えがはっきりしない」

 頭を抱えたくなるのを堪えながら、本日何度目かになる溜息をついた。

 頭上に広がる空は晴れ渡っているのに、今はそれがほんの少しだけ恨めしくなった。

 手に持ったままのティーカップへもう一度口をつけ、紅茶と一緒にモヤモヤとした感情を飲み込む。ティーカップをソーサーの上に戻す微かな音が、フェリシアの鼓膜をわずかに揺らした。


「なーに浮かない顔してるんだ」


 そんなフェリシアへ声がかけられる。

 視線をそちらへ向ければ、見覚えのある新緑と目が合った。今よりも小さい頃に再会し、それっきりになってしまっていた相手――以前よりも騎士めいた雰囲気へと成長したフラン・レノンフォードが、食事を載せたボードを手にこちらへ近寄ってきているところだった。

 懐かしい顔との再会に、曇っていた表情が和らいだのが自分でもよくわかった。

「レノンフォード様。あなたもここへ来ていたのですね」

「まあな、これでもカード持ちだ。ここなら魔法について学べるし、たくさんの人と交流できるから自分の成長に繋がるだろうって考えてな。……それよりも」

 フェリシアと向かい合うように椅子へ座り、フランはテーブルの上に持っていたボードを置いた。

「何かあったのか? 随分と浮かない顔をしてるじゃないか」

 先ほど彼が口にしていた言葉を、もう一度繰り返す。

 素直に話すかどうか、フェリシアはほんの少しだけ考えた。感じているのは予感に近いもの。はっきりとこのようなことが起きていると話すには、弱い材料しか揃っていない。そんな状態で誰かに話していいものか、不安に近い疑問があった。

 だが。相手はフラン・レノンフォード。《力》のカードを手にした、あらゆる障害を打ち砕くことに長けた力を持つ相手だ。


 もしかしたら、フランならフェリシアが気付けない『何か』を見つけられるかもしれない。


 わずかな希望がフェリシアの心の中で芽を出した。

「……実は」

 芽吹いた希望に背中を押され、フェリシアは自分が感じていることを話した。

 最近、教室の空気がおかしく感じられること。水面下でお互いいがみ合っているような違和感を覚えること。どこかで何かが起きているような予感を感じること。

 さすがにイベントが起きているとは口に出しづらく、その部分だけはぼやかしたが、今自分が抱えている疑問を全て吐き出した。

 目の前に座っているフランは、フェリシアが話している間、黙ってそれを聞いていた。時折相槌を打つように頷き、何かを考えたりもしながら、フェリシアの話に一生懸命耳を傾ける。

 そして、フェリシアが全て話し終わると、入れ替わるように口を開いた。

「違和感か……。フェリシアも感じてたんだな、それ」

「え……」

 フェリシアも――ということは。

 フェリシア以外に、同じような違和感を覚えている人がいるということだ。

 ボードに載っているパンをちぎって口に運び、食事をしながらフランは言葉を続ける。

「実は俺がいるクラス――戦闘に使える魔法を中心に学んでるクラスでも、似たようなことを言ってる奴がいる。いつもより教室で過ごしづらいとか、何かおかしい気がするとか。気のせいなんじゃないかと思ってたんだが……フェリシアもそう感じるのなら、気のせいじゃないのかもしれない」

「……レノンフォード様のクラスでも……」

 フェリシアが所属しているクラスだけでなく、フランが所属しているクラスでも似たような訴えがある。

 こうなってくると、フェリシアたちのクラスだけで起きているということよりも、学園全体に起きていることと表現したほうが近い。

 自分も野菜スープに口をつけ、すっかり止まっていた食事を再開しながらフェリシアは考える。

「ここに入学してから数日の間は平和だった――というか、そういう訴えをする奴はいなかった。フェリシアのほうはどうだ?」

「私のほうは、私以外にこのような訴えをしている方はいらっしゃいません。が、確かに入学してからしばらくの間は平和でした」

「そうか……なら、いよいよ気のせいじゃなくなってきたな」

 パンを咀嚼するフランの眉間にシワが寄る。

「二つのクラスで同じようなことを感じる奴がいるのは、さすがに何かがおかしいと思う。俺たちの預かり知らないところで何かが起きている可能性は、十分考えられる」

「……でも、だとしたら何が起きているのでしょうか」

「さあ……そこまではわからない。が、どっちかっていうとマイナスな訴えだ。ろくなことじゃないと思うぞ」

 フランはそう返事をして、今度は網焼きにした鶏肉をナイフで食べやすい大きさに切ってから口へ運んだ。

 フェリシアやフランの知らないところで、何らかのイベントが起きている可能性は高そうだ。だが、イベントが起きているとしたら一体どのような内容のものなのだろうか。

(私の覚えてる範囲では、こんな学園内の空気が悪くなりそうな内容のイベントはない……)

 ゲームの『フェリシア』が絡んでいるイベントは、少々シリアスな雰囲気のものだったがこんなに空気が悪くなりそうなことは起きていなかったはずだ。

 それに何より、そのイベントが発生するためには『フェリシア』がルクレーシャと敵対していなくてはならない。ルクレーシャと積極的に親しくしている今のフェリシアでは、ゲームのようなイベントは発生しないと断言できる。

 プレイヤーとしての視点と思考を持つフェリシアは、もっともこの世界についての情報を持っているといえる。そんなフェリシアでもわからないということは、少々不気味に感じられた。

 フェリシアとフランの間に沈黙が広がる。

 周囲の楽しそうな昼食の風景とは対照的に、フェリシアとフランの席はしんと静まり返り少々異様な雰囲気に包まれていた。

「……なあ、フェリシア」

 無言で食事を進めていたフランが、ふいに顔をあげる。

 彼の声に反応し、フェリシアは一度食事の手を止めて彼へ目を向けた。

 フランはきょろきょろと周囲を見渡してから、テーブルへ片手をつき、大きく身を乗り出した。

「午後の授業が終わったあと、時間はあるか?」

「……? ええ。今のところ、特に何の予定もないので空いておりますが」

 耳元で小さく囁き、フランは予定を問いかけてくる。

 まるで秘密の話をしているかのような雰囲気につられ、フェリシアも同じように小さな声で言葉を返した。

 返事を聞いたフランは小さく頷いて、さらに言葉を重ねる。

「なら、午後の授業が終わったら薔薇庭園の奥……そこにある旧棟まで来てほしい。会わせたい奴と……少し話したいことがある」

「……それは、私一人だけで向かったほうがよろしいでしょうか」

 疑問に思う点もあるが、とりあえず今はそれを飲み込んで問いかける。

 わざわざこうして小声で話しかけてきているのだ、フェリシア以外の誰かに知られるとまずい何かを持ちかけてきているのかもしれない。

「できればフェリシア一人で頼みたい」

 そして、それは確信へと変わった。

 必要最低限の微かな動きで頷き返し、フェリシアは小さな声で言葉を返す。

「わかりました。レノンフォード様の指示に従いましょう」

「……悪いな。助かる」

 至近距離で申し訳なさそうに笑い、フランは再び椅子に座り直した。

 再び食事に手をつける彼の顔にはもう、先ほどまでの申し訳なさそうな色はなかった。

「なら、そういうことで。学園が完全に閉まる前には来てくれると助かる」

「ええ。できるだけ早く向かいますので。待っていてくださいませ」

 普通の声量で言葉を交わし、お互いに微かな笑みを浮かべる。

 傍目から見れば、一緒に出かける約束か何かを取り付けただけに見えるはずだ。

 手をつけていたパンの最後の一口を口の中に放り込み、フェリシアは止まっていた食事を再開した。

(……でも、わざわざレノンフォード様が周囲に内緒で来てほしい、だなんて……)

 彼は、何を考えているのだろうか。





 午後の授業を告げる鐘の音が響く。

 昼食後、フランと別れて校舎内へと戻ったフェリシアは、教科書やノートといった筆記用具を抱えて移動先の教室へ足を踏み入れた。

 午後に予定されている授業の内容は魔法の実習と勉学。魔法の力が開花している者はグラウンドで実習を行い、未だに魔法の力が開花していない者はその様子を見ながら教室で魔法の基礎について学ぶ――そういった内容の授業だ。

 移動先の教室は、大きめの窓がついた広々とした教室だ。取り付けられている窓が大きいため、太陽の光が多く差し込んできており全体的に明るい印象を受ける。窓から外へ視線を向ければ、動きやすい服装に着替えた生徒たちがグラウンドに集まっている様子が見えた。

 窓際にある机へ持ってきた筆記用具を置き、フェリシアは席につく。そこから教室全体を見渡したところで、ふとこの場にいるはずの姿が見当たらないことに気付いた。


 ルクレーシャがいない。


 ルクレーシャは、フェリシアと同じように魔法の力をまだ開花させていない。故に、この場にいるはず――なのに、教室のどこを見てもルクレーシャの姿は見当たらなかった。

 移動教室であることを忘れている? いや、ルクレーシャはいつも次の授業に遅れないようにする真面目な生徒だ。移動教室があるのを忘れたことは今まで一度もなかった。

 では、どうしてルクレーシャの姿が見当たらない?

「あれぇ? どうしたんですかぁ? フェリシア様。そんなにきょろきょろしちゃってぇ」

 少々間延びした、特徴的な声がフェリシアへかけられた。

 ゆるりとした動きで視線を動かし、フェリシアはこちらへ近づいてくるジュアニッタのほうを向いた。

「あ、もしかしてシャロン様のこと探してます? シャロン様はお外ですよぉ」

「いえ、それはわかっているんですが……。ポップルウェル様、レーシャ様……ブルームフィールド様はどこにいるのかご存知ありませんか? まだ姿が見当たらないので……」

 くすくすと笑いながらそういったジュアニッタへ首を振り、フェリシアはルクレーシャの行方を知らないか問いかけた。

 瞬間、ジュアニッタの表情がわずかに歪む。

「いーえー。私はあの子がどこにいるのかなんて知りません。私、あの子のことはあんまり好きじゃありませんしぃ」

 唇を尖らせ、髪を自分の指に巻きつけて遊びながら、ジュアニッタはそういった。

 その態度や声には、興味のなさとわずかな嫌悪感が混ざっている。つい先ほどまでの甘やかな雰囲気とは対照的だ。

「……そうですか。答えてくれてありがとうございました、ポップルウェル様」

「いーえー。……フェリシア様、あの子と仲が良いんですかぁ? やめておいたほうがいいですよぉ。あの子、嫌な子じゃないですかぁ」

 今。

 今、ジュアニッタは何と言った?

「……」

「知らないんですかぁ? フェリシア様。あの子の悪い噂って結構聞きますよぉ。私も何度か隠れて嫌がらせみたいなことされましたしぃ……シャロン様が助けてくれたので、なんとかなりましたけどぉ」

 フェリシアの表情が凍りつく。

 ジュアニッタが口にしていることが、全くといっていいほど理解できなかった。

 フェリシアはあの日、ルクレーシャと出会ってからずっと彼女の隣に立ってきた。彼女の隣に立ち、ルクレーシャ・ブルームフィールドという少女がどのような人物なのかを見てきた。

 彼女のことは、シャロンやジュアニッタよりもよく知っていると自信がある。故に、ジュアニッタが口にしたルクレーシャ像と、自分がよく知っているルクレーシャの姿がイコールで結びつかなかった。

 心無い言葉を向けられ、誰にも言えずに深く傷つき、涙を流していた彼女。

 彼女が、ジュアニッタに対して同じようなことをするとは思えない。

「……そうですか。ご忠告ありがとうございます、ポップルウェル様」

「いえいえー。フェリシア様にも嫌な思いはしてほしくな」

「ですが、その情報にはポップルウェル様の感情が多分に含まれている可能性があります。私は私でブルームフィールド様と接触し、その噂が真実なのか確かめようと思います」

 ジュアニッタが言い切るよりも前に言葉を重ね、自分の意思を伝える。

 すると、ジュアニッタの眉が微かに動き、表情がほんの僅かに変化した。はたから見るとほとんど変わっていないように見える。しかし、日々表情の変化が乏しいバロンと接しているフェリシアは簡単に気付くことができた。

 面白くなさそうな、こちらに対しての苛立ちを感じさせる表情。

 彼女の表情に釣られるように、フェリシアもわずかに目を細める。

「ふぅん……そうですかぁ。まあ、フェリシア様がそうしたいって言うなら私は強く止めたりしませんけどぉ」

「ええ。ご忠告感謝します」

 最後に綺麗な笑顔をジュアニッタへ向けて、フェリシアは手元のノートを開いて視線を落とした。

 ジュアニッタも気が済んだのか、そこで会話を打ち切ってフェリシアの席から離れていった。

 彼女の気配が完全に遠ざかってから、フェリシアは教科書で口元を隠し、静かに息を吐き出した。

(……なんだか嫌な感じがする、あの子)

 思い出すのは、ジュアニッタが見せた表情だ。

 まるで自分の思い通りにいくと思っていたのに、予想と異なる結果になって不満に思うような表情の変化だった。

 はじめて会った日も薄々感じていたが、なんとも嫌な予感がする。

(杞憂であればいいんだけど……杞憂で終わらないような気もする)

 悲しいことに、こういうときの嫌な予感は大体当たってしまうものだ。

 胸の中になんともいえない靄が広がり、フェリシアは深く溜息をついた。

「……珍しく浮かない顔だね」

 直後、静かな声がジュアニッタと入れ替わるようにかけられた。

 どうやら、今日はクラスメイトから声をかけられやすい日のようだ。

 教科書から顔をあげて隣を見ると、眠たげな曇天の瞳がフェリシアの姿を見つめていた。

「少々考えたいことができてしまったので。あなたもこちら側だったのですね、リヴァーモア様」

 目の前にいる少年の名前を口にすれば、彼はわずかに目を見開いた。

 ユリシーズ・リヴァーモア――それが今、フェリシアに声をかけてきたクラスメイトの名前だ。

 彼もまた、アルカナ・ラヴァーズに登場する攻略キャラクターの一人だ。ぼさぼさとしたくすんだアッシュブロンドの髪は肩の辺りまで伸ばされており、瞳は曇天を連想させるグレー。掴みどころのないふわふわとしたような印象を与える彼は、《隠者》のカードを手にしているはずだ。

「驚いた。君、クラスメイトの名前をちゃんと覚えてるんだ」

 小さな声で呟いて、ユリシーズは当然のようにフェリシアの隣の席に座った。小脇に抱えていた教科書とノートを置いて、改めてフェリシアへ視線を向ける。

「全員の名前を覚えているわけではありませんが……可能な範囲では覚えています。相手の名前を間違えるのは失礼ですから」

 正確には、攻略対象やライバルなどゲームの主要キャラクターの名前は覚えている。

 だが、正直にそれを口にしても相手には伝わらない。それどころか、怪訝そうな顔をするに決まっている。

 それっぽい理由をつけて言葉を返すと、ユリシーズの瞳にほんの少しの光が煌めいた。

「ふぅん。真面目だね、ブレーデフェルトのお嬢様は。俺、興味がない相手のことは覚えられない。覚えるだけ無駄じゃないの?」

「相手の名前は覚えても無駄になることはないかと」

「ふぅん……変なの」

 反応は興味が薄そうだが、ユリシーズの目は言葉とは対照的に、好奇心で輝いている。

 彼には興味がない相手にはとことん冷たいが、少しでも興味を抱いたら積極的になる性質があったはずだ。フェリシアは彼にとって興味がわく対象に分類されたのかもしれない。

 フェリシアへ視線を向けたまま、ユリシーズは頬杖をついて言葉を続けた。

「あんな奴の名前もちゃんと覚えるなんて、ブレーデフェルトは優しいね」

「……あんな奴というのは、ポップルウェル様のことでしょうか」

「それ以外に誰がいるの?」

 念の為に確認をとれば、すかさず辛辣な言葉が返る。

 今はこの場にいない相手への嫌悪感を隠しもしない様子には、フェリシアも苦笑いを浮かべるしかない。

「……随分きっぱりと言うのですね。リヴァーモア様は」

「はっきり口にしなきゃ伝わらないでしょ。特に、ああいうタイプの奴には」

 そこで一度言葉を切り、ユリシーズはあくびをこぼした。

 片手で軽く目をこすってから、改めて口を開く。

「ああいうタイプの奴は、なんでも自分の思い通りになると思ってる。自分の言うことに異を唱える奴なんていないと思ってる。だから、はっきり言わなきゃ伝わらない」

 フェリシアの脳内に、一瞬見せたジュアニッタの表情が蘇る。

 あのとき、彼女は見せた表情は確かにそのようなことを思わせる力があった。

 普段、教室で見せている少女らしい仕草や表情とは大きく異なる、人を人とも思っていなさそうなあの目は思い出すだけでもぞっとする。

 フェリシアは表情をこわばらせ、膝の上で握り拳を作る。

 そんな彼女とは反対に、ユリシーズは微かに肩を揺らして思い出し笑いをした。

「だから、ブレーデフェルトが自分で確かめるってはっきり言ったとき、ちょっと笑いそうになった。あの顔、ほんっとうに最高」

 そういって、ユリシーズは目元を緩ませ唇の端を上へ持ち上げた。

 その笑みには、ジュアニッタにに対する恐怖はどこにも見当たらない。

 きっと、今のフェリシアはぽかんとした間抜け面をしているだろう――それくらい、彼の表情には衝撃に近いものを感じた。

「……リヴァーモア様は、あの瞬間のポップルウェル様が怖くないのでしょうか」

「全く? 何、ブレーデフェルトは怖かったの?」

「……普段よく知っているお姿と違いすぎたので、少々恐ろしく感じました」

 あと、嫌な予感のようなものも。

 ユリシーズの問いかけに答えてから、最後に小さな声で付け足す。

 すぐ隣にいる彼は無言でこちらを見つめてきたのちに、おもむろに手を伸ばす。そして、フェリシアの頬をつまみ、痛みを感じない程度に引っ張ってきた。

 突然の行動が理解できない。ユリシーズ・リヴァーモアはわりと突拍子もない行動をとる何を考えているか全くわからない人物だ。彼の行動の意味を理解しようとしても意味がないことが多いため、この行動の意味が理解できなくても仕方ない――といえば、仕方ないのかもしれないが。それでも、この行動の意味が気になってしまう。

 ぽかんとした顔でユリシーズを見つめる。

 ユリシーズは無言でフェリシアを見つめ返していたが、やがて肩を震わせて笑い出した。

「あ、あの……リヴァーモア様?」

「間抜け面。普段、感情に乏しい顔かキリッとした顔をしてるから今のお前の顔、すごく面白い」

「……誰のせいだと思ってるんですか、誰の」

 わずかに眉間にシワを寄せ、言い返す。

 ユリシーズは最後にフェリシアの頬の柔らかさで遊んでから、ぱっと手を離した。

「やっぱり、ブレーデフェルトは悲しそうな顔とか暗い顔よりいつもの顔のほうが似合ってる」

「――」

 これは。

 これは、もしかして元気づけようとしてくれたのだろうか。

 やり方がわかりにくいうえに、かなり変わっていたから気付くことができなかった。だが、このタイミングでそのような言葉が出てくるということは、おそらくそういうことだ。

 つい数秒前までつままれていた頬を軽く撫で、フェリシアは口を開いた。

「……ありがとうございます。リヴァーモア様」

「さて、ね。なんでお礼言ってるのか、俺にはよくわかんないけど。でも、どういたしまして」

 照れ隠しのようにも聞こえる言葉を口にし、ユリシーズは片手をひらひらとさせる。

 その後、少しの間沈黙してから、そっとフェリシアのほうへ顔を寄せた。


「……ブレーデフェルトは仲間っぽいから言っておくけど。あの嫌な奴には気をつけなよ。多分、あいつ何か企んでる」


 小さな声で囁かれた言葉は、忠告だった。

 ジュアニッタが何かを企んでいる。

 彼が何故そのように思ったのかを尋ねる前に、ユリシーズはすっと身体を離して机に突っ伏してしまった。まもなくして、小さな寝息が聞こえ始める。

 もう少し詳しい話を聞きたくてユリシーズの身体を揺さぶってみても、彼は小さく寝息をたてたままだった。





 ユリシーズが口にした言葉が、未だに耳の中に残っている。

 午後の授業を終え、教科書やノートを鞄の中へしまう間、フェリシアはどこか現実味のない気持ちのままだった。


 ジュアニッタが何かを企んでいる。


 その言葉が本当かどうかはわからない。彼女のことを嫌悪している相手の言葉だ。ユリシーズの主観や感情が多分に含まれているからこそ、そう見えているだけで本当は何かを企んでいるわけではない可能性もある。

 だが、フェリシア自身も彼女の様子には嫌な予感のようなものを感じた。彼の感情的な言葉ではなく、本当に何かを企んでいる可能性も十分に考えられる。

 もし、本当に企んでいるのだとしたら、次に問題になってくるのは何を企んでいて、何をするつもりなのかだ。

 ゲームのアルカナ・ラヴァーズには、ジュアニッタが積極的に邪魔をしてくるルートもある。誰のルートに入ったときに立ちふさがるのかは思い出せないが、フェリシアとはまた違った手段で邪魔をしてきたことはよく覚えている。

 そのことを考えると、早め早めに彼女のことを警戒しておくのは正解なのかもしれない。

(……駄目だ、考えが散らばって上手く答えが出せない)

 人がまばらになり始めている廊下を歩きながら、フェリシアは眉間を軽く揉んだ。

 気付かないうちに眉間にシワが寄っていたようだ。指先から伝わってくるシワを押して、シワを伸ばすようにぐいぐい伸ばす。

 フランと昼時に交わした約束といい、ジュアニッタの態度の急変といい、ユリシーズが残した忠告といい、今日一日だけで情報過多だ。

(まだ比較的考えることができてるのは、私が『フェリシア』だからかもしれないな……)

 こんな状態、『フェリシア』になる前だったら混乱しすぎて思考放棄していたに違いない。

 静かな廊下に足音が響く。歩いているうちにだいぶ人が少なくなってきたようで、いつのまにか聞こえるのはフェリシアの足音くらいになっていた。

 このまま道に沿って歩いていけば、昼食をとったテラスに出る。さらにそこから歩いていけば、フランが指定してきた薔薇庭園に出るはずだ。

 早く彼と合流しよう。あんまり待たせてしまっても申し訳ない。

「――フェリシア」

 それを引き止めるように、シャロンの声が鼓膜を震わせた。

 ぴたりと足を止め、声が聞こえたほうへ目を向ける。いつ頃からそこにいたのか、シャロンが壁にもたれてこちらを見ていた。

 射抜くようにこちらを見つめてくる瞳は、どこか冷たい。

「……シャロン様。何かご用でしょうか」

 普段とは異なるシャロンの雰囲気が、その場の空気を張り詰めたものへ変えていく。温かみのない、氷のようなそれは彼と親しくなる前によく見ていたものだ。

(……なんで今、こんな目を向けてくるの)

 だからこそ、わからない。

 自分は、シャロンにこのような目を向けられるようなことはしていないはずだ。

 フェリシアの問いかけにシャロンは答えない。無言のまま、もたれていた壁から背を離してこちらとの距離を詰めてきた。

 思わず後ろへ下がりそうになるのを堪え、フェリシアはシャロンの言葉を待つ。

「フェリシア。今日、ポップルウェル様に心無いことを言ったというのは本当でしょうか」

「……え?」

 シャロンの口から飛び出してきたのは、全くといっていいほど心当たりのない言葉だった。

 今日、フェリシアがジュアニッタが傷つくようなことを言った? いつ? どこで?

 突然のことにぽかんとしていると、シャロンは深く溜息をついた。

「フェリシアがあまり人付き合いが得意ではなさそうなことはよく知っていましたが……何もしていない相手にそのようなことを言うのかはどうかと思いますよ」

「ッ待ってくださいシャロン様! 確かに今日、ポップルウェル様と少しお話をしましたが彼女が傷つくようなことは言っていません!」

 たまらず、フェリシアは声をあげる。

 先ほどから状況やシャロンの言葉は理解できないが、自分は本当に何もしていない。それだけは胸を張って言える。

「しらばっくれるんですか? それとも無自覚でしょうか、どちらにしても厄介ですね」

 しかし、返ってきたのはぞっとするほど冷たい声と言葉だった。

 シャロンの中では、フェリシアがジュアニッタを傷つけたことが真実になっている。

 そのことが理解できなくて、恐ろしくて――とても不気味だった。

「しらばっくれるも何も、私は本当に何もしていません。会話の中で、ポップルウェル様が傷ついた顔をした様子もありませんでした。何か勘違いをされているのでは?」

「ですが、そのポップルウェル様自身は傷ついたと言っています。泣いてすらいました。……ああ、これは本当に無自覚なんですね」

 どくどくと心臓が嫌な音をたてはじめる。

 シャロンとの付き合いは長い。彼と言葉を交わした回数も多いし、時間も長い。だが、こんなに噛み合わない会話をしたのははじめてだった。

 言いようのない不気味さがフェリシアの胸に広がり、思わず一歩後ろへ下がってしまう。

「ッ申し訳ありませんシャロン様! 私、本日は急いでいるのでこれで!」

「あ、ちょっと、フェリシア!」

 そして、大声で一言そういって逃げるように廊下を走り出す。

 背後でシャロンが呼び止めようとしている声が聞こえたが、構わずフェリシアはテラスに飛び出してそのまま奥にある薔薇庭園のほうへと逃げ込んだ。

 今のシャロンの様子が不気味で不気味で、とにかく一刻でも早く彼の傍から離れたかった。





 走って、走って、走る。

 夕方の薔薇庭園の中は驚くほどに人の気配が少なく、突然駆け込んできたフェリシアに声をかける者は一人もいなかった。

 庭園の中に設置されているベンチや噴水にぶつかったり、薔薇を引っ掛けてしまったりしないように気をつけながら、フェリシアは庭園の奥を目指してひたすらに走る。

 シャロンの声はもうすでに聞こえない。彼の気配も感じない。それでも、フェリシアはわけのわからない不気味さに突き動かされるようにして走り続けていた。

(何あれ、何あれ、何あれ)

 フェリシアが知っているシャロンは、冷酷なところがあるけれどいつも落ち着いていて、冷静に物事を判断できる人物だった。何かを疑っていても、まずは相手の言い分を聞き、言い返す材料を十分集めてから言葉を発する人物だった。

 だが、先ほどのシャロンにはそのような様子はなかった。ジュアニッタの言葉だけを信じて、それが確定した真実であるかのように言葉をぶつけてくる。普段のシャロンにあったはずの冷静さや観察能力が全くといっていいほど失われていた。

 シャロンの姿をしているのに、シャロンではないようで――本当に、不気味だった。

「っけほ、はあ……ッぜぇ……」

 体力の限界を迎え、足を止める。

 ふらふらと数歩前方へふらつき、崩れ落ちるようにその場へ座り込む。突然走った影響で頭がくらくらして喉が貼り付きそうなほどに乾いていた。ひりつく感覚を我慢しながら、大きく息を吸って、吐いて、呼吸を整える。

 それを繰り返していると正面から足音が聞こえ、フェリシアは顔をあげた。

「おいおい、大丈夫か? 何かあったのか?」

「……レノンフォード、様……」

 まだ十分に潤っていない喉が掠れた声を出す。

 フェリシアの前に姿をあらわしたフランは、目を丸くしてこちらを見下ろしている。少々慌てた様子でその場に膝をつき、フェリシアへ片手を差し出す。

「とりあえず、来てくれてありがとう。場所を変えて話したいんだが、動けるか?」

「……ええ、まあ。動けなくなるほど、疲れているというわけではありませんから……」

 掠れた声で答え、フランの手を取って立ち上がった。

 心配そうな顔をした彼に手を引かれ、薔薇庭園のさらに奥へと歩いていく。

 フェリシアが自力で辿り着いた地点から少し歩いた先に建てられた、ひっそりとした印象のある小屋を見つけるとフランが声をあげた。

「あそこだ。あそこで話をしようと思ってたんだ、もうちょっとでたどり着くからな」

「わかりました……。あの、レノンフォード様。私は重傷者というわけでは、ありませんので……」

 そこまで心配していただかなくても――と小さな声で呟くように続きを口にする。

 なりふり構わず走り続けて疲れ切った状態になっただけなので、ここまで心配されると少々申し訳なくなってくる。

 だが、フランはそんなフェリシアの声には答えず、やや急いだ様子で小屋の扉へと向かっていった。

 先ほどよりは落ち着いてきた息を整えながら、フェリシアはすぐ目の前にまで迫った小屋を見上げた。

 とにかく古いという印象を抱く小屋だ。定期的に人の手が入っている気配はあるが、建てられてから年月が経っていそうな壁にはところどころ蔦が這っており、見る者に不気味な印象を与える。木製の屋根は、建てられた直後は可愛らしい雰囲気だったのだろうが、古くなった今では不気味さを際立てていた。

 学園の敷地内にこんな建物があったとは。

 目を丸くするフェリシアを尻目に、フランは扉を数回ノックした。

「俺だ、戻ってきた」

 一言、扉に向かって呼びかける。

 数秒の短い間のあと、かちゃんと鍵が開かれる音がし、次の瞬間には一人でに扉が開かれた。

「よし。フェリシア、中に入るぞ」

「え、ええ……」

 こんなところ、本当に入って大丈夫なのか――だんだん不安になってくる。

 だが、フランは元々ここで話をしようと思っていたそうだし、見た目が不気味なだけで安全な場所なのかもしれない。

 相変わらずフランの手に引かれ、思い切って小屋の中に足を踏み入れる。

 小屋の中は、見た目とは反対に綺麗に掃除されていた。机や椅子がいくつか設置されており、そのどれもが埃一つない状態で保たれている。床にも腐った箇所は見当たらず、汚れや埃なども見当たらなかった。

 フランはフェリシアの両肩を軽く押し、設置されている椅子の一つに座らせた。微かにきしむような音はしたが、椅子は壊れたりせずにフェリシアの体重を受け止めてみせた。

「とりあえず、ここで座って休んでてくれ。俺はちょっと人を呼んでくる」

「え? 人、というのは」

「わざわざ呼びにいく必要はありませんよ」

 フェリシアの声を遮り、第三者の声が小屋の中に響く。

 こつこつと軽い靴音を響かせ、小屋の奥から姿をあらわした男子生徒はフェリシアを一瞥し、次にフランを見やり、深く息を吐きだした。

「……で。フラン? この状況は一体何なのか、詳しく説明していただけるんでしょうね?」

「ジュリウス! よかった、今から呼びに行こうと思ってたんだ。なあ、フェリシアに疲労を吹っ飛ばせそうな何かって出してやれないか?」

「あんたは僕をなんだと……。そんなに劇的に疲労を取り除けるものなんて用意できませんよ。ハーブティーならお出しできますが、それでいいですよね?」

「頼んだ」

 短い会話をし、ジュリウスと呼ばれた男子生徒は再び奥のほうへ戻っていった。

 ぽかんとした顔でそれを見送っていると、フランもフェリシアの隣にある椅子に座ってこちらへ声をかけてきた。

「置いてけぼりにして悪かったな。呼吸はもう大丈夫か?」

「このとおり、だいぶ落ち着きました。それより、あのお方は……?」

 フェリシアは、てっきりフランと二人きりで何かを話すのだと思っていた。だが、実際にこうして来てみるとフラン以外の人物もいて驚いた。

 あの男子生徒は何者なのか。正体を知りたくて尋ねると、フランは小さく声を出してから答えた。

「そっか、フェリシアはあいつと初対面だったな。悪い悪い」

 申し訳なさそうに苦笑いを浮かべてから、彼はさらに言葉を続ける。

「あいつはジュリウスっていうんだ。ジュリウス・デルヴィーニュ。俺のクラスメイトで、《魔術師》のカード持ちの奴」

 カード持ち――ということは。彼もまた、攻略対象の一人だ。

 全員のルートを遊んでいたわけではないため、ジュリウスのことはあまりよく知らない。フランのルートでも名前を聞かなかったので、まさか彼と親交があるとは知らなかった。

 心の中で頷いて、フェリシアは口を開く。

「あのお方はデルヴィーニュ様とおっしゃるのですね。しかし、レノンフォード様。一体、どうしてデルヴィーニュ様にも今回お声をかけたのでしょうか。私はてっきり、レノンフォード様と二人だけでお話をするのかと思っていましたが」

「なんです。フラン、詳しい話をせずに約束を取り付けてきたんですか」

 呆れたような声が再び聞こえる。

 小屋の奥から戻ってきたジュリウスは、手に持っていたカップをフェリシアの前に置いた。カップの中にはお茶らしきものが入っており、微かに甘い香りがする。

 ジュリウスはフランの前にも同じようなお茶が入ったカップを置いて、フェリシアと向かう合うように椅子へ座った。

「わざわざすみません。ありがとうございます、デルヴィーニュ様」

「お気になさらず。フランに頼まれただけですから」

 彼へ感謝の言葉を告げながら、フェリシアは改めて正面にいるジュリウスを観察する。

 美丈夫という言葉が似合いそうなほどに整った顔立ちをした男子生徒だ。束ねられた濃紺の髪に柘榴のような深い赤色の瞳をしている。首元は夜空を映したような特殊な色合いのストールで飾られていた。見た目だけだと非常に綺麗な印象を与えるが、鋭い瞳が周囲に対して近づきにくい印象を与えている。

(まるで、私みたい)

 そのようなことを考え、フェリシアは自分の頬に触れた。

 フェリシアも表情の作り方が不器用なためか、どちらかといえば周囲へ近づきがたい印象を与えてしまう。そのせいだろうか、ジュリウスとは初対面だがちょっとした仲間意識のようなものを感じた。

 フェリシアの観察するような視線を気にもとめずに、ジュリウスは口を開く。

「改めて自己紹介を。僕はジュリウス・デルヴィーニュ。《魔術師》のカードを受け取ったバトルクラスの一員です。貴方様はフェリシア・ブレーデフェルト様でよろしいですね?」

「はい」

 確認するかのような問いかけに、フェリシアは短い言葉で答える。

「本日はご足労いただきありがとうございます。とりあえず、随分とお疲れだったそうですので、まずはお茶をどうぞ。クコの実から作ったお茶です。劇的な効果はありませんが、疲労回復にちょうどいいので少しは身体が楽になることかと」

「本当にわざわざすみません。いただきます」

 頭を下げ、フェリシアはカップに口をつけた。

 クコの実から作られたというお茶は、ほのかな甘い香りと味が特徴的なお茶だった。砂糖でつけたような甘ったるい感じではなく、すっきりとした自然な甘さで飲みやすい。疲労回復に効果的というのもなんとなくわかる味がした。

 一口、二口とお茶を口に運び、ほうっと息をつく。

 フェリシアが一息ついたタイミングを見計らい、ジュリウスは再び口を開いて言葉を続けた。

「今回、貴方様に来てもらったのは貴方様がクラスに広がる違和感に気付いていたためです」

「違和感に……ですか」

「ええ」

 ジュリウスが小さく頷く。

「貴方様は僕らがクラスで感じていたことと、同じことを感じていた。一種の仲間のようなものだと僕は判断しました」

「それで、この場に呼ぼうと思った……と?」

「そのとおりです。もっとも、実際にそう決めたのは僕ではなくフランですが」

 そういって、ジュリウスはフェリシアの隣にいるフランへと視線を向けた。

 フェリシアも彼につられるようにして、フランへと目を向ける。

 フランはジュリウスが用意したお茶を飲んでいたが、二人分の視線を向けられると、それぞれの顔を見てから笑みを浮かべた。

「だって、貴重な人材だろ? サポータークラスで俺たちと同じことを感じてるなんて。だからジュリウスも興味を示したんだろ」

「まあ、それはそうなのですが。……が、丁寧な詳細を説明してから来てくれないか尋ねるべきです。戸惑っていたじゃないですか」

「そこはちょっと申し訳なく思ってるけどよ」

 深い溜息をつくジュリウスと、申し訳なさそうに苦笑いを浮かべるフラン。

 ここまでの会話だけでも、二人がいかに親しい仲であるかがなんとなく伝わってきた。

 思わずフェリシアの口元に笑みが浮かぶ。

「お二人とも、仲がよろしいんですね」

「……あまり認めたくありませんが、まあそうですね」

「なんだかんだ言って一緒に行動すること多いよな。フェリシアにもそういう奴がいるだろ? ほら、あのとき一緒に出かけてたリズレイの奴とかはどうなんだ?」

 小さい頃に一緒に出かけてたくらいなんだから、親しいんだろ?

 何気ない様子でフランが話題を振ってくる。だが、その話題はフェリシアの心に重い衝撃を与えた。

 心に杭を撃たれたような重い衝撃が広がり、心臓が再び嫌な音をたてはじめる。

 フェリシアの脳裏に浮かんだのは、数分前に目にした不気味なシャロンの姿だった。

「――」

 ぎゅっと唇を噛み、押し黙る。

 その様子から何かを感じ取ったらしい。フランとジュリウスの表情が険しくなった。

「……あいつと何かあったのか?」

 先に口を開いたのは、フランのほうだった。

 優しく穏やかな声でフェリシアへ問いかける。

「……何かあった……といえば、そうなのかもしれません」

 緊張で乾いてくる口の中をクコの実のお茶で潤わせる。

 ジュリウスも目に真剣さを宿し、テーブルの手で指を組んだ。

「何があったのか、お聞かせ願えませんか」

「……わかりました。私も、これを一人だけで抱えるのは少々怖く感じますから」

 意を決し、フェリシアは先ほどの出来事をフランとジュリウスへ話した。

 フランはほんの一部分だが、幼い頃のシャロンを実際に目にしたことがあるためか、フェリシアの話を聞くうちにどんどん苦々しい表情へ変わっていった。

 一方、ジュリウスは表情を全く変えることがなく、真剣そうな顔で時折何かを考えながらフェリシアの話に耳を傾けている。

 思い出せば思い出すほど、フェリシアの心に数分前に感じた不気味さが蘇ってくる。

 だが、今はフランとジュリウスがいるからだろうか――逃げ出したくなるほどの不気味さは少なかった。

 最後に軽く息を吐き出し、フェリシアは自分が体験した出来事を全て話し終わる。

 数分の短い沈黙が小屋の中を満たしたが、ジュリウスの声がそれを破った。

「なるほど、話してくれてありがとうございます。フェリシア様」

「……だから、あのときあんなに疲れ切ってたのか……」

 ジュリウスに続き、フランも苦々しい顔のまま呟いた。

 二人に対し、フェリシアは緩く首を横に振って苦笑する。

「こちらこそありがとうございます。ほんの少しですが、気持ちが軽くなったような気がします」

「少しでも貴方様の気持ちが軽くなったのならよかった。……しかし、突然話が通じなくなった……ですか」

 顎に手を当て、ジュリウスは小さな声で呟く。

 彼の呟きに対し、フェリシアは微かに頷いてから口を開いた。

「はい。私が違うと否定しても、片方のみの主張を信じてそれが真実であると確信しているかのようでした」

「それは……普段の様子とは大きく異なるんでしたよね?」

「はい。……私は、シャロン様とは幼い頃からの仲ですが。あんな片方だけの主張を鵜呑みにした様子は、はじめてでした」

 そして、その姿はフェリシアがよく知っているシャロン・リズレイとは大きく異なるものだ。

 フェリシアから視線をそらし、ジュリウスは唇を閉ざす。

 そんな彼の様子を眺めつつ、フェリシアはまだもう少し残っているお茶を再び口に運んだ。

「そうなる前のリズレイの様子はどうだったんだ? フェリシア。普段どおりだったか?」

 黙り込んだジュリウスのかわりに、今度はフランが問いかけてくる。

 彼の問いかけに対し、フェリシアはゆったりとした動作で頷いてみせた。

「私が教室に入ったときに少し言葉を交わしましたが、普段どおりで違和感を覚える点はありませんでした。今日の朝は、シャロン様のお姿が見えずに言葉を交わすことはできませんでしたが……」

「じゃあ、本当に短時間で人が変わったのか。なんか不気味だな……」

 自分の髪をかき乱し、フランが苦々しい顔で呟く。

 その意見にはフェリシアも全面的に同意だった。一体シャロンの身に何が起きたのかはわからない。だが、短い時間で振る舞い方や考え方があっという間に変化したのは、あまりにも不気味すぎる。

 シャロン本人のはずなのに、外見はそのままに中身だけまるっと入れ替えられてしまったかのようだ。

「なあ、ジュリウス。お前、俺よりも魔法に詳しいだろ? なんかこう……短時間で相手の考え方とかを変えれるような魔法に心当たりはないのか?」

 フランはそういって、何やら考え込んでいるジュリウスへ話を振った。

「……心当たりが全くないわけではありません。しかし、確証が持てない」

 だが、返ってきた言葉は芳しくなかった。

 首を左右に振り、ジュリウスはフランとフェリシアの顔を見て言葉を続ける。

「確証が持てないまま、相手の手のうちを考えるのはあまり好ましくありません。その予想が誤っていた場合、早いうちに適切な方法で対処できなくなってしまう」

「……その気持ちはわかります」

 特に、今起きているのは明らかな異常事態だ。

 それを引き起こしているのが誰なのか、それとも人為的以外の原因によって引き起こされているのか、そういった基本的な情報が揃っていない状態で対処しようとしても上手くいかないことが大半だ。

 もし、これが人為的な手段によって引き起こされているのなら、慎重すぎるくらいでちょうどいい。フェリシアたちが異常に気付いていることを犯人に知られたら、向こうに何かしらの対策を取られてしまう可能性もある。そうなってしまえば、フェリシアたちは圧倒的に不利な状況におかれてしまう。

「何が起きているのは、未だにはっきりしていないからこそ。少々慎重すぎるくらいがちょうどいいかと」

「さすがブレーデフェルトのお嬢さん。僕もそのように考えています」

 軽く拍手をし、ジュリウスは口元に笑みを浮かべた。だが、笑っているのは口元だけで彼の瞳はほとんど変化がない。

「……お褒めいただきありがとうございます」

 本当に褒められているのか、少々微妙な気持ちになってしまう。

 困ったような複雑そうな表情をしつつも、フェリシアはジュリウスへ頭を下げた。

 拍手していた手を止め、ジュリウスはフェリシアへ頭をあげるように伝えてから再び顎に手を当てた。

「そういうことですので、フェリシア様とフランには少々観察をお願いしてもよろしいでしょうか」

「観察?」

「……ですか?」

 フランが首を傾げ、フェリシアも同じようにわずかに首を傾げる。

 観察とは具体的には一体どのようなことなのか――疑問に感じているフェリシアとフランへ、ジュリウスは答えた。

「観察です。具体的には、教室の空気に変化はあるか。今回のように、短期間で考え方や振る舞い方が変化した者がいないか。そういったことがないか、観察していただきたい」

「このタイミングでそのようなお願いということは……それらの情報が、デルヴィーニュ様にとって必要ということですね?」

「そういうことです。お二人が情報を集めている間に、僕のほうでも調べてみますので。お願いできますか?」

 お願いできるかどうか――答えは決まっている。

「それくらい、お安い御用ですわ。私自身、今の状態はよろしくないと思っています。情報を集めることで、少しでも早く元の状態に戻るのであれば喜んでお手伝いします」

「俺も。俺はジュリウスみたいに魔法に詳しくないからな。魔法について調べるのはお前に任せた!」

 フェリシアは落ち着いた声で、フランは明るい声で頷いた。

 即答で決めた二人に一瞬驚いた顔をしたが、内心安心もしたのだろう。ジュリウスはわずかに目を見開いて、軽く息を吐いて、元の表情に戻った。

「ご協力感謝します。では、そういうことでお願いします」

「ええ。こちらこそ、よろしくお願いします」

「任せてくれ!」

 フェリシアは再びジュリウスへ頭を下げる。

 その隣でフランも胸を軽く叩き、得意げな笑みを浮かべてみせた。

 すぐにまた頭をあげ、フェリシアは心の中でひっそりと溜息をつく。

 普通の学園生活を送れるとは思っていなかったが、明らかにフェリシアの予想を超えた何かが起きている。

 あの不気味なシャロンの姿が、頭の中に何度も思い浮かぶ。

(……無事だといいんだけれど……)

 自分へと向けられた冷たい瞳が、ずきりとフェリシアの胸に見えない傷を与える。

 どうか、彼が無事でありますように。

 どうか、彼をいつものシャロン・リズレイに戻すことができますように。

 傷ついた胸が痛みを放ち、見えない血を流す理由がわからないまま、フェリシアは今この場にいない彼の無事を強く願った。

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