第8話 島の「守り神」
ここはどこだろうか。
暗くてじめじめしている。よく目を凝らすと、真っ赤な管があちこちに張り巡らされていた。なんだか薄気味悪く、呼吸も苦しかった。どろどろのゼリーの中に閉じ込められてしまったみたいだ。
え、ちょ、気持ち悪っ!
そう思ってあがく。時折、このどろどろの世界に気泡が湧いたかのように何かが破裂する音が響く。その度に怖くて怖くてたまらなかった。
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
「おい、……早く乗せろ!」
「しかし、例え……ても……この風では!」
何かざわめきが聞こえてくる。小声でよく聞きとれないが、言葉のようだ。まるで寝ている時に、小人たちが自分の周りで話しているような、そんな感じだった。
早くここから出ないと!
必死にゼリーのような何か、俺にまとわりついてくる何かをかき分けて進む。少しずつだが確実に進んでいる。光が透けて届くようになってきた。もう少しだ。
ぷはっ!
抜け出したと思った途端、光があふれ、呼吸が楽になった。少し深呼吸を繰り返して、落ち着きを取り戻す。
空気が美味しい!
まるで空そのものの味が肺に流れ込んでくるようだった。朝の新鮮さ、昼の甘さ、夕方の酸味、夜のコク深い苦み……
「やぁ、……行くのかい?」
小さな光点が漂ってきた。緑色に点滅発光している。
行くのかと言われて気が付いた。そうだ俺は行かなければならないのだ。もっとこの上の世界に。そこはきっともっとずっと美しいから。
「まぁ、そう焦らなくてもいいと思うな。ここも悪くないよ」
緑色の光点はそう話しかけてくる。俺はこの光点を怪しんだ。
なんでこんな息苦しいところに長居しなければならないのだ!
そう思うと俺の体がすっと上昇した。あの茶色いどろどろの世界から完全に抜け出したのだ。上空を見ると光が溢れている。まずはあそこまで行けるはずだ。
「そうかなぁ? 君はいろいろできるんだ。ここをこんなにも良くしたじゃないか。君は自分で思っている以上に、周囲を幸せにできる人間だよ」
何を言っているのだろう、この光点は。俺は一介の人間に過ぎない。望んでもできないことばかりだ。だがあそこまで到達すれば、すべて受け入れてもらえるのだ。
「だからいいんじゃないか、一介の人間だからこそみんなと結びつき、できないものがあるからこそ他人に同情し、他人を思いやる。まあ、他の意見も聞いてごらん」
すぅっと緑色の光点が消えて、青い光点がすぐ横に出現した。突然のことにびっくりしたが、俺はどちらの色の光点のことも知っている気がした。
「ちょっとちょっと! あんまりじゃないの!」
青い光点がぎらぎらと発光して、こちらに不満をぶつけてくる。何をそんなに怒っているのだろう。ぎらぎらとした光のせいで目が痛い。
「あんた、どんだけ他人を待たせているか分かっているの! 何事もないと信頼しているから、心配せずに待っていられるんでしょう!」
この光点は何を言っているのだろう。俺を待つのはその人の勝手だが、俺には俺の目的や希望がある。それに、俺は誰かに待ってもらうほどの人間じゃない。それはよくわかっているのだ。
「バカッ!」
一瞬だが、青い光点が爆発したように発光した。思わず目を覆う。
「本気で言っている? それ、親に言える? 友達や同僚は? あんたがそんなにつまらない存在なら、その人たちはそんなあんたとの時間に付き合っているどうしようもない連中ってこと!?」
いや、それとこれとは別だ。俺の家族や友達が徳の高い人間なのか低い人間なのか知らないが、俺にとってありがたい存在であったことは間違いない。彼らの価値は俺の価値とは無関係のはずだ。
「両親は今どこで何していると思う?」
両親?
そう言えば俺には両親がいる。父はしがないサラリーマンで、仕事から帰ると風呂上がりに半裸みたいな格好でビールを飲んでいる、お世辞にもかっこよくはない人だ。それでも受験で失敗した時や、大学院の研究で行き詰った時は、「お前の好きにしろ」と余計なことは言わずに応援してくれた。
母は高卒でパートしかやったことがないため、政治や経済など難しい話ができない人だ。就職の心配はするくせに、現代の就職事情はまるでわかっていない。それでも学生時代は毎日お弁当を作ってくれたし、最近は寂しいのか、たまに用もないのに電話をかけてきて長電話をしたがる。
ああ、そうか。どうしよう……父さんも母さんも俺が行ったら困るだろうなぁ……
「行ってしまうのですか?」
もう一つ、桜色の光点が現れた。青色の光点とは違い、穏やかだが熱量のある輝きを放っている。
「行かないで下さい。みんなまだ貴方が必要です」
そう言われても困惑する。緑色の光点や青色の光点が言っていたことに引っかかるものもあるが、行かなければならないという気持ちはある。この上に俺の本来の居場所があるのだ。
「それは貴方のわがままです。それでもそうしたいと言うのでしたら、私もわがままを言います。ここにいて下さい。私たちのために」
それは困る。俺がわがままだからと言って、他人のわがままを聞く義理があるのだろうか。
「貴方といることが楽しいからです」
これにはぐっと来た。ありがたいという思いになる。一緒にいてくれると楽しい友達という存在はいた。だが、俺と一緒にいるということは無理していてくれているように思えて、申し訳なかった。そんなことなかったのだろうか。そうだったら嬉しい。なんだか、そう言われるともっと自分のことばかりでなく、他人のことを大事にしないと、という気になる。
「おい、貴様ぁ! どこ行くんだよ!」
今度は言葉は刺々しいが、弱々しい光を放つ黄色い光点が現れる。
「せっかく会えたのに、行っちまうのかよ! 俺のこと放っておくのかよ!」
お前もか。みんな俺に依存し過ぎだろう!
「そんな大げさなもんじゃねーよ! そんなべったりしたもんじゃねーよ! でも、やっぱり寂しいじゃねーか! むかつく時もあったけど、楽しかった時もあったじゃねーか!」
この光点が何を言いたいのか、よく分からない部分もある。きっと、特別な関係じゃなくても、一緒に良い時間を過ごせたと思えることはある。そういう時間にどれだけ救われてきたか。
「それに……貴様が島に戻らないと俺がやばいじゃねーかよ……」
島……?
懐かしい響きがする。あの切り立った崖の上から見た景色。夏の光に海面がぎらぎらと照り返し、夜は星空が静かに大地を照らす。
「そろそろ分かってきたんじゃないかな、自分のことが」
どこからともなく緑の光点が降りてきた。
「これでもまだあそこに行きたいかい?」
緑色の光点が上を指し示す。
いや、行く気であったけど、なんだか後ろめたい。上に行くには、まだまだ何かを残している気がする。何を残しているのだろう。ああ、分かるけど何て言えばいいか分からない。思い出とかやらなければいけないこととか、義務とか、当たり前のこととか……
「そうだね、もう一度下を見てごらんよ新人君、いや
ふと言われたとおりに下を見ると自分がいた。包帯を巻かれ、その一部が血で真っ赤になった自分が。真っ白な部屋だ。ここは病室だろうか。部屋の入口に
ああ、母さんと父さんが俺のために泣いているなんて。ダメだ、それはダメだ!
「捕まえた!」
誰かにがっしりと体を抱き留められた。初めて聞く女性の声だった。いや、どこかで覚えがあった。そして、懐かしい匂いがした。
「久しぶりね、大きく成長したわね。さぁ戻ろう。待っている者のところへ」
そこには真っ赤な着物を着た女性がいた。どこかで会った覚えがあった。
そして、目が覚めた。
◇
「まもなく
荷物を持って、フェリ―から下船する。半年ぶりくらいに島に立った。まだぎりぎり三月だというのに、もうこの島では桜が咲いていた。桟橋から見ると、にょっきりと青空に伸びた外輪山のあちこちが桜色に染まっている。
みんなで花見がしたいなぁ
そう思いながら桟橋を歩く。他の乗客はほとんど島民だろう。迎えに来たらしい家族が友人と抱き合い、挨拶を交わし、笑顔がこぼれている。それをなんだか邪魔したくなくて、彼らがいなくなるまで待ってから桟橋を歩き始めた。今日は部屋に荷物を置き、明後日には出勤しなければならない。また研修の日々が始まる。
ふと、桟橋の入口に懐かしい顔が並んでいた。まず、
「
「
抱き着かれてしまった。なんだか目が熱くなる。ガラではないが、優しく肩を抱き、返事をする。
「ご心配おかけしました」
感動の再開の途中だったが、いきなり背中を叩かれた。
「いって!」
「いやー! よう戻ってきた! さ、将棋するぞ!」
「お帰りなさーい!」
二柱の神々が出迎えてくれた。巫女装束に長い髪が映える
「あー! ちょうどいい時期に戻りましたね! 桜が見ごろですよ!」
トレードマークのピンクのジャージ姿のポニーテール奥様といった感じの
「
なんて言えばいいのだろう。何か言いたいが、言葉が出ずにただにこにこしてしまう。それでもなんとか言葉を絞り出した。
「みんな……ただいま! その、助けてくれてありがとうございました!」
深々と礼をする。俺が生きてまたここに来られたのは、きっと神々が呼びかけてくれたからだと思っている。この島の神々は俺にとってかけがえのない守り神だ。
「改めてお帰りなさい!」
「いやぁ、よかったよ戻ってきてくれてさ。月様もずいぶん心配していたんだよ」
「あんたはあたしたちの、神様の守り神みたいなもんなんだからさ!」
◇
俺が崖から落ちた後、
脚や肋骨を骨折していたが、それに加えて外傷性の
「自分たちにできることはないのか?」
“
古文書をたどると元々は雨の神様だったらしい。島には人が亡くなった際、雨が降っていると神々がその人の死を惜しんでいるという信仰があり、それと結びついて人の生死にも関わる神になっていったらしい。
「その
俺は興味が湧いて
「はい、
「赤い……?」
「はい、この島は年に一度か二度、赤い雨が降ります。昔、テレビで扱われたのですが、科学的調査によれば南方の菌類だが藻類だかの胞子がたくさん含まれていたとか」
以前、地球外生命体だと騒がれたことがある、ケーララの赤い雨みたいな現象だろうか。
「まあ、昔はその原因が分からず、神様の雨だと言われたみたいですね。そこからこの
ふと、疑問に思ったことがあった。
「その
「どうでしょうね」
「誰か、
「え?」
浮田さんによれば、俺はいつの間にか何とも言えない表情をしていたらしい。まるで懐かしい人に会った時のような。そう、きっと俺は見つけたのだ。神隠しの時に、そして生死の境で会った方を。
◇
その日、研修を終えて、実質的に俺の初仕事の日がやって来た。
「おはようございます!」
同僚にあいさつし、パソコンの電源を入れる。
この島を元気にしたい。そのためには、お金が入り、若い人が生活できるようにしないといけない。かといって、経済効果を求めすぎて島らしい生活が壊されるのは違う。バランスは島の人々と見極めないといけないだろう。
俺は気づいたのだ。本当に信仰が失われつつある神々を後世に伝えられるのは、地元の人々だけだ。どんなに神祇庁が頑張っても地元の人々との縁が切れていたら、その神様はもうどうしようもない。本当に神様を残したいならば、その地元の人になるか、地元の人々の暮らしを支えないといけないのだ。
あの神々のためならそれができる気がする。
俺は島の観光を盛んにしたかった。他の島では漁業ができなくても、ホエールウォッチング等で観光客を呼んでいるところもある。
あーーーー! 何からやればいいのか、俺に何ができるのか!
そう、ぐじゃぐじゃと考えていると、突然目の前の電話が鳴った。自作した電話対応マニュアルを横に置き、一呼吸置いてから受話器を取る。
「はい、こちら
<了>
こちら神祇庁地方振興局 テナガエビ @lake-shrimp
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