第6話 神々の黄昏(後)

「ああああああああああああ!」


 奇声で気勢を上げながら、下り坂を自転車で進む。


 俺は風!


 無性に熱い、いや、あっつい温泉の後に自転車に乗って、下り坂で風になる。島の中で最高に気持ちいい瞬間ではないだろうか。外輪山の途中まで登り、そこから一気に下っていた。この辺りは確か、江浜えのはまの集落があった場所に近い。麻子あさこ様が祀られている、火山で潰えた集落のあったあたりだ。当時の面影が何かあるかと思ったが、すべて火砕流かさいりゅうか何かで埋まってしまったのだろうか。目立つものは何もなく、ただ緑に覆われ、あちこちを小さなチョウが舞っていた。


 その時である。前方から何か小さなものが飛んできた。自転車でかなりのスピードを出していた俺は咄嗟のことでよけられない。それは俺の開けっ放しの口の中に飛び込んできた。思わず「それ」をぺっと吐きだしたが、その動きでバランスが崩れ、自転車ごと道のわきの草むらへと突っ込んだ。


「いててて……あっぐ……!」


 借りていたママチャリのカゴがひしゃげ、右腕に無数の擦り傷が入っている。ジーパンの下で見えないが、脚にも傷がありそうだ。膝がじんじんと痛む。


「大丈夫ですか?」


 巫女装束の足元が見えた。麻子あさこ様だ。この人、いや神様は気づくと背後にいる。今回も転ぶところをがっつりと見られてしまった。


「ああ、多分大丈夫です……! 見られちゃいましたか?」

「道で滑ったんですか?」

「いや、何かが口に入ってきて驚いてしまい……」


 ちらりと滑ったあたりを見る。俺の唾液に絡まれて金属光沢が暴れていた。カナブンかコガネムシだろう。それを認識した途端、発狂しそうになった。


「うわぁっ! 虫がぁっ!」


 麻子あさこ様の見ている前で一心不乱につばを吐く。口内の液体をすべて出し切らないと、あの甲虫の成分が体内に入ってきそうで気持ち悪かった。自転車のカゴに入れてあった水筒を取り出し、中に入っていた麦茶で口をゆすぐ。


「え!? うわっ! きったなっ!……だ、大丈夫ですか?」


 麻子あさこ様の大丈夫?が、先ほどの心配する口調から今度は若干侮蔑ぶべつが混じった口調に変わった気がする。顔を上げると麻子あさこ様のいつも優しげなかんばせが嫌悪で歪んでいた。


「ああっ、お、お見苦しいところを! ごめんなさい!」


 なんとか事情を話し、理解していただく。そのためにも話題を切り替えた。


「そう言えば、麻子あさこ様の神社はこの辺りですか? 」

「え? あ、すぐそこですよ」


 麻子あさこ様自ら神社を案内してくれた。不揃いな石で組まれた階段を上っていく。そこは神社と言っても、苔むした鳥居がある他は、社、そして、まるで古代の祭祀所のようにいろいろな石が組まれた石場と呼ばれる部分から成っていた。


「ここにいかに大きくてきれいな石を持ってくるか、それが神様への崇敬になっていたんですよ」


 麻子あさこ様が在りし日の信仰を語ってくれる。そう言えば浮田うきたさんとこの八幡はちまん神社の隅にも幾つかきれいな石が置かれていた。人々は何かお祈りする際など、海に出てきれいで持ち運び甲斐のある石を探したのだそうだ。


麻子あさこ様はお名前からして人間だったのですか?」


 ふと聞いてみる。神社に祀られているご祭神の由来は様々だ。有名な記紀神話の神々以外にも、ローカルな神様もいれば、武将や義民が祀られているところもある。


「私……ですか?」


 悲しそうな顔をしていた。やってしまった。これは聞いてはいけない質問だったのだ。


「私は火山への生贄いけにえでした」


 てっきり村に功のある人物や貴人が亡くなって祀られたのだと思っていた。あまりのことに言葉が出ない。


「私は火口に……」


 麻子あさこ様は何かを話そうとして言葉に詰まった。生贄いけにえならば火口に生き埋めにされたとか、溶岩湖に落とされたとか、そんなことがあったのだろうか。唇が少し震えていた。当時のことは神となった今でも辛いのだろう。 


「あ、あの、ごめんなさい! 変なことを聞いてしまって!」


 俺は必死に謝った。この話題を中断しかった。他人の心に土足で入り込む。例え、わざとでなくてもこれほど罪深いコミュニケーションはなかなかないだろう。


「いいえ、貴方の立場からすれば知りたかったでしょう。私が死んだあと、村のみんなが魂を鎮めて、石場に祭神として祀ってくれたんです」


 麻子あさこ様が祭神となった後も、時に江浜えのはま村に神様が「見える」子供が生まれると、一緒に遊んでいたという。


「神社もですね、最初は御幣が一本あるだけだったんですが、ほら、今は社をいただいているんですよ!」


 麻子あさこ様はにっこりと笑う。その無邪気さは外見の見た目相応のものだった。


「まあ、今は噴火して村もなくなってしまって……ちょっと寂しいですけどね」


 麻子あさこ様は明るくそう言った。その笑顔に俺は謝りたかった。若く見えていたのは、きっと生贄いけにえにされた歳のままなのだろう。俺は案内してくれた礼を言うと、そろそろ港に権太郎ごんたろうさんの船が戻っていないか見に行くと言って別れた。これ以上、話を聞くともっと麻子あさこ様を傷つけることになりそうだったから。


 かわいそうだ……


 そう思う。神様になっても子供たちと遊ぶのが楽しいと言っていた。だが、その村はその後の火山で消えてしまったのだ。きっと寂しいだろう。火山の生贄になったのに、結局は噴火して村がなくなったのだから。


 でも……


 ふと思う。村がなくなっても麻子あさこ様が海照神あまてるしんのようにまだ弱っていないのはなぜだろうか。誰が彼女を信仰しているというのだろう。



   ◇



 盛夏が来た。


 その夏は忘れられない夏だった。天水への依存が今だ大きい碧ヶ島みどりがしまでは、台風が歓迎される。その一方で、絶海の孤島だけに台風の脅威はすごい、やばい。俺も何度となく、各地のおじいさん、おばあさんの家の補強に駆り出された。


 「おまえさん、なんでうちの手伝いには来ないんだー!」


 どこかの家の手伝いをしたことが知れると、今度は他の住民も手伝わないと不公平だと言われてしまう……主に権太郎ごんたろうさんに。


 台風の後は、散乱した植物やらゴミやらを掃除し、家の補修を手伝う。一度、一番最初に権太郎ごんたろうさんの家に手伝いに行くとやたらと喜んで歓迎してくれた。


 「いやぁ、やっぱこいつは見どころあっと、俺ぁ思ってたんだよ!」


 乾いた笑いがあふれそうになったが、その一方で権太郎ごんたろうさんのわがままだが、純朴な心を見た気がした。



 そして、佐予さよさんが八丈島から帰って来た。肺炎は完治したのだ。貧血の方は完治するものではないらしく、定期的に診察を受けなければならないそうだが、今は安定しているらしい。その後もよく岬の海照神あまてるしんのところに遊びに行っていたが、浮田うきたさんが観光案内所の近くに海照神あまてるしんを勧請してくれた。島らしい、御幣と社、そして急ごしらえの石場が組まれた簡素な分社だが、作ってみると分社のところへは海照神あまてるしんが顔を出せた。これで佐予さよさんが遠く、岬まで歩かなくても神様に会えるようになったのだ。佐予さよさんも、海照神あまてるしんも喜んでいた。

 浮田うきたさんと俺はさらに、フェリ―の港近くの観光協会で持っている土地にもう一つ小さな分社を作った。これで海照神あまてるしんは海を行く人々を岬でも港でも見守れる。港に神様がいれば意識してくれる島民や旅行客もいるだろう。この分社のアイディアは神流かんなねーちゃんとのメールの中で出てきたものだが、まさか実現するとは思わなかった。設置や交渉で動いてくれた浮田うきたさんのおかげだ。



   ◇



「おお! 光ったぞ!」


 俺がはしゃぐ姿を浮田うきたさんが、鼈甲べっこうフレームの眼鏡越しに微笑まし気に見ている。その日は浮田うきたさんと島の焼酎を持ちよって港で夕涼みと洒落込んでいた。権太郎ごんたろうさんが最近、ウミホタルが見えてきれいだと教えてくれたからだ。ウミホタルは海底に砂地がある環境に生息しているはずだが、この絶海の孤島周辺にそんなところがあるのだろうか。

 暗くなると、波が港の桟橋や海岸に打ち寄せるたびに青く光る。夜にフェリーが停泊することはないから、視界も良好だ。桟橋にシートを広げて座り、たまに寄ってくるフナムシを追い払いながら杯を重ねた。

 真っ黒な海面をよーく見ていると、あちこちでウミホタルが発光しながら泳いでおり、素朴なプラネタリウムが水面に広がっているみたいだった。見上げれば夜空に満天の星空があり、眼下にはウミホタルの偽星空があるというわけだ。小石を海に投げ込むと、驚いたウミホタルがぱっと発光し、真っ暗な海で超新星爆発が起きたみたいだ。美しかった。


 こんな風景を見ていると、もっと多くの人を誘いたくなるが、この島に子供はほとんどいない。代わりに神様が二柱ついてきた。このあたりが行動範囲の海照神あまてるしんとどこにでも来る麻子あさこ様も最初、ウミホタルに感動していたが、今は二柱ともお神酒が入ってしまい、桟橋で競争を始めてしまっていた。女性は二人でもかしましい。


「よーし、浮田うきた水祭みずまつり、お前らも競争するぞ!」


 海照神あまてるしんが完全に出来上がって、周囲を酔いの勢いで巻き込む迷惑な存在になり果てている。佐予さよさんが復帰したことと、海が見えるようになったことで少し元気を取り戻したようだ。それとも、もう港に分社を作った効果が出ているのだろうか。

 だが、不安もある。島の人口は減少し、数少ない子供は進学のために島の外へ出ていく。この先、海照神あまてるしん八幡はちまん神社の月様もいつか十分な信仰を得られない日が来るのではないだろうか。俺や浮田うきたさんが頑張っても、良くて十年二十年の延命にしかならないのではないだろうか。人口減少社会で祀られる神々とは、黄昏たそがれの神々なのではないだろうか。


「走りましょー! かぜになるれすよ!」


 麻子あさこ様もお酒でダメになっている。


「すいません麻子あさこ様、海照比売命あまてるひめのみこと様、私はもう歳ですので、この水祭みずまつりさんが……」

「ええっ! ちょっと!」


 信じていた浮田うきたさんに裏切られる。結局、俺が走るはめになった。神様と50m走をしたのは人生で初めてだ。その後、なぜかシャトルランもすることになり、酔いが回って倒れた。


「ちょっと、水祭みずまつりさん!?」


 麻子あさこ様の声が霞んで聞こえる。俺が目を覚ましたのは一時間後だった。桟橋のコンクリートが少し、俺の体温で温まってしまっていた。


「大丈夫ですか、水祭みずまつりさん……?」


 心配そうに俺をのぞき込む浮田うきたさんの顔が月明かりに照らされている。


「さ、もう帰りませんと夜も遅くなりました」

「あ、寝てしまいましたか、すいません……あれ、麻子あさこ様たちは?」

「もう帰られましたよ」


 あの二柱、騒ぐだけ騒いでさっさと帰るとは!


「あれ?」


ふと、月明かりに照らされた対岸に子供がいた。だがすぐにいなくなってしまった。何度目を凝らしても、ただ静かに岩礁が月の銀色の光を浴びているだけだ。


「どうしました、水祭みずまつりさん?」

「いえ、今あっちに子供がいたような気がしたんですが、あっちは何もないですよね……まだ酔っているのかな、俺」

「ああ……」


 浮田うきたさんが何か知っているように呻く。


「それがたちばな神社跡にいらっしゃる神様ですよ」

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