第4話 人恋しい神様

 次の日も雨だった。風も相変わらず強い。集落はカルデラの外輪山に守られているため、そんなに強く感じないが、外輪山の外へ出た途端にその吹き抜ける風に驚愕する。海から直接吹き付ける風とはこんなにも凶暴なのかと。


 その日もなんとか岬へと到着し、神饌しんせんを備えた。


「今日も来てくれたの? 悪いわね」


 いつの間にか後ろに天照神がいた。やっぱりピンクのジャージを着ている。俺はその姿を見て、あれ?と思った。昨日よりもずっと血色がよく、輪郭が輝いているように見えた。信仰が急に回復したのだろうか。


「あんた、なんかしてくれた? 一晩寝たら、ずいぶん調子よくなっちゃった。毎日お参りに来てくれるせいかしらね?」

「そうですか? そうならいいんですけど……」


 俺が一人毎日お参りに来たところでたかが知れている。ましてや、俺は佐予さよのおばあさんのように、この神様にとって強い縁のある存在というわけでもないのだから。一つ気になるとすれば、昨日見たあの白い謎の光のことだ。ひょっとしてあれは祭祀局に関係のある存在なのだろうか。上司からの連絡は特にない。そもそも連絡があるのかも分からないが。


「……こんなとこに座っていると雨に濡れますよ?」

「あはっ、本気で言ってるー? 神様よ、あたしゃ。それにここが一番濡れないのよ、木の下だから」


 なんだか、しょうもないことを話し掛けてしまった。神饌しんせんも供えたので帰ろうとする。


佐予さよ、どうよ?」 


 それを聞かれたくなかったから帰ろうとしたのに。


「今日もこの波では病院に行けなそうです……」


 少し、話をはぐらかす。この神様は佐予さよさんの容態を聞いてきたが、あえて病院のことを話した。


「……けっこう、危ないのね」


 見抜かれていた。


「あたしゃ、神様だよ。隠し事なんて通用しないさ」


 そう言って悲しそうにほほ笑んだ。


「ほら、神様って基本的に寿命ないようなもんじゃない。だから、佐予さよだけじゃなく、いろんな人の生き死にを、この島のみんなの移り変わりを見てきたんだけどさ……」


 海照神あまてるしんが地面を見つめながら語りだす。


「この島も時代とともに変化して、あたしの役割もなくなっていったわけよ。今じゃ、あたしが力貸さなくても、人間は天気を読んで、安全に船を動かせるみたいだしね。そうなったら、誰もあたしのとこには来てくれなくなってさ……当たり前だよね、何の役にも立たないんだから」


 それは冷たい語りだった。自嘲と悲哀がにじんでいる。自分の体温が下がっていく感覚があるのは、きっとこの雨のせいばかりではない。


「それなのにお参りに来てくれる子がいたんだ。それが佐予さよなの。たまにいるのよね、あたしらを見れる島の人。何が気に入ったのか、子供の頃の佐予さよは毎日遊びに来てくれてさ。あたしは海の神様だから、まあせめて佐予さよが浜で遊んでる時にケガしないよう気を張るぐらいしかしてあげられないんだけど……」


 海照神あまてるしんの声がつまる。その顔が濡れているのは、雨のせいばかりではないのだろう。


「いっつも、幾つになっても、結婚してもお参りに来て、話をしていってくれるの……うれしかったなぁ……それなのにさぁ」


 目を真っ赤に泣き腫らした海照神あまてるしんがこちらを見上げる。神様ともあろう者が、一体なんて顔をしているのだろうか。


佐予さよのためになんにもできないんだよ、あたし。ほんっとバカげてるよね」


 この神様に俺は何と言えばいいのだろう。まるで人間のようだった。自分の非力さを嘆き、大事なもののために心を震わせる。島の人々は気づいているのだろうか、神様がこんなにも人間を愛していることを。いや、この島だけの話ではないのかもしれない。


「あの……」

「大丈夫だよ、慰めてくれなくても」


 海照神あまてるしんはこちらの期先を制し、悲し気に笑う。


「あんたに言ってもしょうがないのかもしれないけど、佐予さよのこと、島のこと、よろしくね。ああ、月様にもそう伝えておいて」


 なんとかしてあげたいが、俺にできることはない。俺は何も言えず、そのまま帰って来た。その途中、ちょうど観光協会の事務所で浮田うきたさんがテレビを見ながらお茶をすすっていた。


「島から出せる船はないのですか?」

「この悪天候下では無理ですね。一応、漁船が何隻かありますが、この天気ではとても……」

「……そうですか、海照神あまてるしん様が佐予さよさんのこと、案じていました」

「目が覚められたのですか?」


 浮田うきたさんは少し驚いたようだった。無理もない。昨日の様子では今にも消滅してしまいそうなくらい弱っていたから。俺は今までのことを浮田うきたさんに話した。あの不思議な光のことをのぞいて。どうしてもあのことだけは気安く他言する気になれなかったのだ。


「ちょっと行ってきます。佐予さよさんの状態をお伝えしなければ」


 浮田うきたさんが立ち上がり、支度を始める。


「状況が悪いことを伝えに行くのですか!?」


 俺はいささか驚いた。伝えることはあの神様にとって悪い意味でのダメ押しになりそうに思えたからだ。


「あの方と佐予さよさんとの関係を思えば、知らないことこそが酷だと思うのです」


 そう真面目な顔で言った。浮田うきたさんが長年この島で神様と付き合ってきたことを考えれば、異論など挟む余地もなかった。俺も同行し、今来た道をもう一度岬に向かう。



   ◇



佐予さよ……!」


 我々からの報告を聞いた海照神あまてるしんは泣き崩れた。予想できたことだが、やはり伝えることは残酷だったのではと思ってしまう。


「……てるちゃん」


 いつの間にか、再びあの麻子あさこ様が後ろに立っていた。神様なりに慌てて来たのだろうか。長い髪が少し乱れている。


麻子あさこ?」


 麻子あさこ様は我々を意に介することなく、海照神あまてるしんの手を取った。


「てるちゃん、今、頑張らなかったらきっと後悔すると思うの。できることはしましょう。私も何か手伝えるかもしれないし……」


 思いつめたように海照神あまてるしんに話し掛ける。一体、何をしようと言うのだろうか。


「……そうね、他にやりようもない。今さら惜しむものもない」


 嘆き続けていた海照神あまてるしんの目がぎらりと光る。そして俺と浮田うきたさんに向かって土下座した。


「え? 海照比売命あまてるひめのみこと様!?」


 浮田うきたさんが困惑する。俺も何が何だか分からなかった。だが、海照神あまてるしんはこちらのことを待ってはくれたない。


「あんたたちに頼みがある! 佐予さよを連れて島の外の病院に連れて行ってあげて!」


 こちらが咄嗟のことに反応できないでいると、海照神あまてるしんはさらに言葉を続けた。決意のみなぎった表情で。


「分かってる、この悪天候じゃ船が出せないってことでしょ? 大丈夫、船さえ見つけてくれれば道中の航路の安全は私が保証する!」


 先ほどまで泣きじゃくっていたのとは雰囲気が打って変わっていた。輪郭がはっきりと輝き、力がみなぎっている。


「しかし、今はお元気なようですが……」

「消えてもかまわん……」


 静かに言い切った。力を燃やし尽くすつもりなのだろう。神にとって捨て身の決意と言える。


「私は腐っても津の神、絶対に船を無事に送って見せる。例え……いえ、どうせこのまま消えていくくらいなら!」


 確かに今回、海照神あまてるしんは奇跡的に復活したが、このままでは一時的なものだろう。


「しかし、一体誰がこの天気で船を出してくれるか……それに菱井ひしいさんのお宅がそれを許してくれるか……」


 浮田うきたさんが絞り出すような声で言う。確かに、神様が大丈夫って言っているから!と船を出してくれる人はいないだろう。神様が見えている者でもない限りは。また、佐予さよさんのご家族にしたって同様だろう。


「そこをなんとかして! お願いだから! あたしじゃ、佐予さよを連れていけないの! できるならとっくにしてるわ! わかるでしょ?」


 歯をかみしめ、海照神あまてるしんはどこか虚空をにらみつけていた。佐予さよさんを助けるために実質的な行動がとれない自分をにらみつけているのだろうか。

 俺はこの状況下で感動していた。ここまで人を想う神様がいたことに。人生で神頼みをする度に、結局自分に相応の結果しか得られずに終わった。そんなものだと思う。この仕事に就いてからも、神様の人間への関心はそれほどでもなかったと思う。元々、人間とは無関係に泰然とこの地にある存在、神様にそんなイメージを持っていた。だが、神にはできないこともあったのだ。それに苦しみ、人を想う神がいたのだ。なんとか、この神様の願いを叶えてあげたいと思った。


「ああ、忌々しい! 手を合わせてくれる人を守れずして、何が神だっ!」

「分かりました」


 自身の無力への憤怒に染まる海照神あまてるしんに対して、浮田うきたさんがきっぱりと言い放つ。眼鏡越しに見えるその目は決意に満ちていた。


「できる限り説得してみます。それで事が成らない時は、どうぞ私をお怨み下さい」


 海照神あまてるしんの表情から怒りが消える。先ほどの弱々しいまでの悲し気な表情が戻ってくる。


浮田うきた……すまない。どうしてあんたを怨もうか」



   ◇



「頭おかしいんじゃねーか!? こんな日に船を出せだと!?」


 大洋ホエールズの野球帽を被った権太郎ごんたろうのじいさんは顔を真っ赤にして叫んだ。


「おめぇ、東京のもんが海のなにをわかるってんだ!? ああ!? 俺に死ねって言いてえのか? ああ!?」

「お願いします! 人の命がかかっているんです!」


 俺は権太郎ごんたろうさんの自宅の玄関で必死に頭を下げる。海照神あまてるしんのように土下座するには、玄関に物がありすぎてスペースがなかった。


浮田うきたさん、あんたもあんただよ!」

権太郎ごんたろうさん、私も無茶なことだとは分かっている」


 権太郎ごんたろうさんが怒るのももっともなことだった。神様が捨て身で守ってくれるからきっと大丈夫だろうと我々は信じている。だが、それを神様の見えない人にどう説得すればいいのだろう。


佐予さよさんを病院に送るために船が必要なんだ」


 浮田うきたさんも必死になって説得にあたってくれた。いつも穏やかなこの人がここまで必死の形相をするとは意外だった。この島や神々への愛情ゆえだろう。


「お願いします! この島では他に頼れる人もいません。何かあれば、何かあれば俺が責任を取ります!」


 俺も必死に説得にあたる。必死な神様や浮田うきたさんの姿を見て、俺だけのほほんと立っていたくはなかった。


「お前さんにどう責任取れるっつんだよ!?」

「万が一のことがあったら責任とって自殺します!」

「お前さんが死んでもどうにもならんだろうがっ!」


 佐予さよさんのことを思えば時間がない。そしてこれは海照神あまてるしんのためでもあった。必死になるが、相手を説得できる理屈がない以上、いろいろと破れかぶれになってくる。


「無理なお願いだと分かってます。でも、どうしても権太郎ごんたろうさんにお願いするしかないのです!」


 浮田うきたさんによれば、この島で一番立派な漁船を持っているのは、この権太郎ごんたろうさんとのことだった。他に二人ほどいるとは聞いているが、一人は旅行にでも出ているのか連絡がとれず、もう一人は船が故障中だったのだ。

 

「無理だわかってお願いするって、お前さんバカなのか、狂ってるんか!!」


 理があるとかないとかではない。なんとしてもお願いしなければならないのだ。


「いい加減にせえよ、俺も暇じゃ……」


 権太郎ごんたろうさんの怒気が急に収まり、ふうふうと落ち着きを取り戻そうとするかのように息を深く吸い始めた。


 麻子あさこ様……!


 気が付くと麻子あさこ様が権太郎ごんたろうさんを後ろから必死な顔で抱きしめていた。白い顔が真っ赤になっている。麻子あさこ様の姿は権太郎ごんたろうさんには見えないはずだ。せめて怒りを鎮めようとでもしているのだろうか。


「おまえさん、なんでそんな佐予さよさんのために気張ってるんだ? 俺だって、なんとかできるならなんとかしてやりてぇよ……」


 権太郎ごんたろうさんがふっと寂しそうな顔をする。ある意味俺は滑稽なのだ。佐予さよさんとずっと一緒に生きてきた人たちに、佐予さよさんを助けろと部外者が無理を言っているのだから。一体何なのだろう、この図は。


「お願いします! どうか、どうか! 岬の神様が、てるちゃんが佐予さよさんを助けたがっているんです……!」

「……」


 権太郎ごんたろうさんは黙り込んでしまった。その視線が宙をさまよう。何を思っているのだろう。


「神様が、そう言ったのか……」


 意外な言葉だった。権太郎ごんたろうさんは神様を見えないはずだ。それなのに、その口調は明らかに先ほどまでと変わっていた。

 

「岬んとこ言ったら、佐予さよさんがいっつも行ってたとこの神様だろう?」

「そうです! 岬の神様が、絶対に船を守るから佐予さよさんを病院に送れと」

「そうか……岬の神様がなぁ……」


 権太郎ごんたろうさんから怒気はすっかり抜けていた。後ろから怒りを押さえ込もうとするかのように抱き着いていた麻子あさこ様もその様子をじっと見ている。


「分かった。行こう。八丈島の病院だな? 神様にお願いされちゃしかたねぇ」

「あ、ありがとうございます!」

ごん……さん……!」


 浮田うきたさんは感謝を述べようとして言葉に詰まっていた。


「すぐ支度する。佐予さよさん連れて、漁港さ来い!」


 そう言い放った権太郎ごんたろうさんは本当に頼もしく見えた。俺はバカだった。島の人々の方が、俺のような部外者よりもずっとずっと島の神様と一緒に生きてきたのだ。姿が見えるとか見えないとか、そんなことは問題ではなかったのだ。



   ◇



海照比売命あまてるひめのみこと様、行ってまいります」


 俺は出発を知らせるために岬の社を訪れていた。海照神あまてるしん権太郎ごんたろうさんの船を風雨からしっかり守ってくれるという。


「うむ、道中の航路の安全は私が保証する。私は津の守り神、海照比売命あまてるひめのみこと、我を信じよ」


 その時の海照神あまてるしん様はいつになく、落ち着き、そして威厳にあふれていた。服装や姿はいつも通りであったが、やっぱりこの方は神様なのだと実感させられた。


水祭みずまつりさん、八丈へは私が行くよ。これは島のことなんだからね」


 港まで戻ると浮田うきたさんがそう申し出てきた。若い自分が行くべきだと思っていたが、こう言われては食い下がるわけにもいかなかった。浮田うきたさんは俺よりずっと前からこの島の神様を見てきたのだから。佐予さよさんを権太郎ごんたろうさんと浮田うきたさんとで抱えて、漁船の中に毛布を敷いてそっと下ろす。佐予さよさんは息苦しそうにぐったりしていた。

 

 佐予さよさんの旦那さんは、はじめ八丈島までこの天気の中船で送ると聞いて驚いていたが、岬の神様のことを話すとすんなりと了解してくれた。


「あの神様は佐予さよにとって、こう言ってはなんですが親友のようなものなんです。導いてくださると言うなら、佐予さよのこと神様に預けましょう」


 さらに旦那さんと、若い頃には看護師をしていたという隣家のおばさんも船に残り込み、これで出発するメンバーは全員だ。


「私たちは信じて待ちましょう。てるちゃんのことも見守ってあげないと」


 麻子あさこ様がそう言ってくる。俺は黙ってうなずいた。


 船が動き出す。不思議な船出だった。船に乗っている人々にはどう見えているのだろうか。岸から見ていると、船の行く先の海が青く輝き、雨も風も波もまるでそこだけ消えているかのように見える。


「……すごい」


 思わず唸っていた。これが神様の力なのかと。その横で麻子あさこ様が誰に話し掛けるわけでもなくつぶやいていた。


「てるちゃん……無理を……」

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