第3話 神様の友達

「あたしゃ神様だよ」


 倒れている女性が絞り出すような声でそう言った。俺は碧ヶ島みどりがしまの港の東側にある社に行く途中、倒れている女性を見つけたのだが、それがその社の祭神だと気づけなかったのだ。ピンクのジャージにざっくりとまとめられたポニーテール、よく見たら足元はクロックスだった。生活感あふれる姿に、てっきり地元の若奥様かと思った。


「大丈夫ですか!?」


 浮田うきたさんが駆け寄る。


「この方が、海照比売命あまてるひめのみこと様です」

「本当にっ!?」


 思わずそう言ってしまった。気づかなかったことに驚いたのだ。研修期間に経験も積み、もう神様と一般人を見間違えるようなことはない、そういう自負はあったのに。


「これは随分弱っていらっしゃる……」


 浮田うきたさんは呻くように言った。弱っている、ということは人々から忘れられつつあるということだ。このままだと消滅の危険性もある。


 海照神あまてるしんは、そんな浮田うきたさんを見て何も言わずにふっと笑う。言えないのだろう。汗は見られないものの、まるで熱病に侵されたように辛そうだ。肌に精気がなく、目を開けるのにも一苦労といった様子に見える。俺の神祇庁での勤務は研修期間を含めても一年と少しだが、ここまで弱っている神様は初めて見た。正直、俺の手に負えるものではない。


「祭祀局に連絡を取りますか? 動いてくれるか、私には分かりませんが」


 祭祀局は神祇庁の中でも、古代の祭祀手法の探究や、弱ってしまった神々の一時的な回復を司るかなり特殊な部局だ。神祇庁の中でも特に人員規模の小さな局で、全員が神官だとか、全員が中臣なかとみ氏、忌部いんべ氏のような祭祀呪術関係の氏族の末裔だとか言われている。どこまで本当なのか知らないが、大和朝廷より伝わる秘儀により、弱った神々の活力をある程度回復させることができる、と言っている職員もいた。だが、秘儀だけにその力のある者は少ないとも聞く。また人のわざである以上、あくまで一時的な対症療法にしかならない。


「来てくれますかね、こんなところまで……いや、でも……お願いできますか。いや、申し訳ない。私がこの島にいながら……まさか、ここまで弱っていらっしゃったとは……」


 通常、神様と触れ合ったり、掴んだりすることはできない。せめて、と持っていたピクニックシートを広げ、海照神あまてるしんに横になるよう勧める。


「てるちゃん、大丈夫?」


 ふと女性の声がした。振り返ると長い髪の巫女装束の少女が立っていた。顔にはまだ幼さが残るが、しっかり者といった顔だちをしている。見た感じ、中学生か高校生くらいだろうか。


 この子、神だ。


 少し神としての輝きが弱いがすぐに分かった。この島でこの子に該当するような神様は確か……


麻子あさこ様!」


 浮田うきたさんが驚いたように名を呼ぶ。その名前はこことは別の神社のご祭神だったはずだ。


 麻子あさこ様と浮田うきたさんが話すには、元々、てるちゃん―海照神あまてるしんはこの岬に祀られた海上や津(港)を見守る神だったらしい。漁が難しいこの島でも、昔はわずかな浜から出船し、さらに村人総出で船を安全な外輪山の裾野まで持ち上げるといった生活を送っていたらしい。火山島で水も天水頼みであり、農耕だけではやっていけなかったのだろう。そんな村人の海での活動を見守るのが海照神あまてるしんの役目だったらしい。だが、戦後、人々はより大きな島や本土に移住するようになり、漁師の数は急速に減った。残った人々も危険な海に出るよりも、技術を導入して商品作物を栽培したり、観光業に転職する者がほとんどになった。この神社の存在意義は低下していく一方だったようだ。


「それでもね、てるちゃんには人間の友達がいて、よくお参りに来てくれていたの。佐予さよちゃんって言うんだけど」

菱井ひしいさんとこのばあさまか、確かにここ最近姿を見ないような……」


 なんでもその佐予さよさんという人は、いわゆる「見える人」らしい。当たり前だが、世の中の神様を見ることができる人がすべて神祇庁にスカウトされるわけではない。佐予さんは幼少時より、海照神あまてるしんに可愛がられ、よく一緒に遊んでいたという。老いておばあさんになってからも、決して楽ではない道を通って、二日に一度は社を訪ねていたのだそうだ。


佐予さよが来ていないの……大丈夫かなぁ……心配……」


 海照神あまてるしんは相変わらず苦しそうに横になりながらも、うめくようにつぶやく。


「……それとも……あたしのこと、忘れちゃったかなぁ……」


 声に少し涙声が混ざっているように聞こえ、胸が痛んだ。ひょっとして浮田うきたさんを除けば、その佐予さよさんがこの海照神あまてるしんをはっきりと信仰していた唯一の人物だったのだろうか。


水祭みずまつりさん」


 浮田うきたさんが決意したような顔でこちらを向く。


「お願いします。東京に連絡して、祭祀局に来ていただけないか問い合わせていただけませんか? 私はその間に、今、佐予さよさんがどうされているのか、菱井ひしいさんのお宅に行ってみます。麻子あさこ様、海照比売命あまてるひめのみこと様と一緒にいていただけますか?」


 麻子あさこ様と呼ばれた神は浮田うきたさんからの要請にこくりとうなずいた。ふと、この神様はなぜ、ここまで出歩いていられるのだろう、と疑問を持った。通常、神は神社を仮の住まいとし、自然の中や自分に縁がある土地にいる。まるで溶け込んでいるかのようにして。この状態の神々は我々神祇庁の者でも見えない。感覚の鋭い者は気配を感じるそうだが。麻子あさこ様のようにはっきりと見える形で出歩いているのは非常に珍しい。


 不思議だとは思うが、先にやることがあった。この島は携帯電話の電波が入るが、外輪山の裾野は地形の問題なのか、入らない。港か集落のあたりまで移動してから電話する必要があった。急ぎ集落のあたりまで戻り、上司に連絡する。祭祀局から応援をもらえるかどうか確認しなければならない。


「それは私にも分からないな。助けるかどうか、助けられるかどうかの判断は祭祀局がする。言えるだけのことは言って、お願いしてみよう」


 上司の声はいつも通り事務的だったが、言ったことは絶対にやってくれる人だった。


「どうか、よろしくお願いします!」


 なんとなく始めた仕事であったが、神様が消えるところに出会いたくはなかった。今はただ、上司を信じるしかない。

 


   ◇



 電話を終えて、岬の社に戻るとシートに横になったジャージ姿の海照神あまてるしんと、その傍らに静かに座っている巫女装束の麻子あさこ様がいた。なんだか、神社で倒れた一般人が巫女さんに面倒見てもらっているかのようだった。


「お帰りなさい。てるちゃん寝ちゃってるわ」


 麻子あさこ様がそう言って海照神あまてるしんの寝顔を優し気に見つめていた。麻子あさこ様の碧の黒髪を初夏の太陽が照らす。古ぼけた社に、海に囲まれた岬、何とも言えない光景だった。


「貴方が新人さんね、よろしくね。私は麻子あさこ

「確か、江浜えのはま神社の。話は少し浮田うきたさんからお聞きしました。よろしくお願いします」


 一瞬、麻子あさこ様の目元が悲し気な表情を見せたように思えた。


「せっかくだから、てるちゃんのこと、教えてあげるね!」


 だが、次の瞬間には先ほどの優しい少女のような口調で話を始めた。麻子あさこ様の話によれば、漁師が減ったことは海神たる海照神あまてるしんに大きな影響を与えたが、それだけではなかったという。


「昔はね、ここが、この岬の下に見えるあの小さな浜辺が、小さいけど波から守られてるから港として使われていたの。でも、台風の時は、船を高いところまで上げないといけなかったから大変だったのよ。不便よね。それに島に大きな船が来るようになって、あの新しい港ができたのよ。確か……戦争の後だったかしらね」


 戊辰、西南、日清、日露、第一次世界大戦、第二次世界大戦、彼女のいう戦争とはどれのことだろう。


「てるちゃん、もう船を見守るにも港が遠くになっちゃってね、あの時はひどく落ち込んでずーっとお酒飲んでいたわ。かわいそうだったなぁ……月様もそうだけど、てるちゃんはそれ以上にここの村の人のこと大好きだから……」


 なるほどと思った。きっと港が新造されたことで、完全に村人の生活から切り離されてしまったのだろう。港が変われば、人の動く道も変わる。

 

 がさがさっと音がした。浮田うきたさんが息を切らしながらやって来た。


佐予さよちゃん、どうだった?」


 麻子あさこ様が先に尋ねた。


「貧血で、先月から寝込むことが多くなったそうです。最近は自力で歩けないほどで、八丈島か東京の病院に連れて行くことも考えていると、ご家族が」


 まずいな


 老人の貧血は原因不明だったり、そもそもの造血能力が弱っていたりで治せないケースも少なくないと聞く。入院が長期化したり、そのまま亡くなったりすることがあれば、海照神あまてるしんにとっても悪影響を与えるだろう。だが、俺は医者ではない。佐予さよさんが良い病院に行って回復することを願う、海照神あまてるしんのためにもそれしかできないのではないか。


「元気になってくれるといいですね……」

「ええ……」


 俺も浮田うきたさんもそんな会話しかできなかった。


「大丈夫よ、佐予さよちゃん絶対戻ってくるよ、元気になって。この島の火山が噴火した時も、いろんなものが失われて、人もたくさん亡くなったし、島の外へも逃げたけど、何十年もかかったけどみんな戻ってきたんだから!」


 麻子あさこ様の話しぶりはまるで自分に言い聞かせているようだった。



   ◇



 翌日から天候が崩れた。この時期にしては発達した前線が近づいているらしい。夕方には風もかなり強くなり、明日のフェリ―は欠航が予想された。この島から外へ出ようとするとフェリ―に乗るか、非常時に要請できる自衛隊のヘリコプターに八丈島から来てもらう他ない。だが、フェリ―が欠航するような時はヘリコプターもダメだ。強い前線が来ると、島の断崖上に設けられたヘリポートはひどい風に脅かされるのが常らしい。


佐予さよさん、波が収まらないと本土の病院に行けませんね」


 空を見上げながら、浮田うきたさんがぼやく。まだ、祭祀局がどう判断したのか、上司から連絡はないが、例え祭祀局が動いてくれても船が出なければ来れない。


「雨、降らないうちに行ってきます」


 俺は島の神々が少しでも活力を取り戻してくれるようにと、毎日それぞれの神社をお参りすることにした。自転車のカゴと背中のリュックに神饌しんせんや水を入れて出発する。八幡はちまん神社はそもそも浮田うきたさんが管理しているので、まず岬の社に向かう。あの海照あまてる神社だ。その後、たちばな神社も行ってみようと思っていた。本来なら麻子あさこ様の神社も訪ねたいが場所を聞きそびれた。後で確認しようと思う。


 ひいひいと悲鳴をあげながら、自転車を漕いで外輪山を突破する。自転車を漕ぐことに夢中になっていたら、途中で大きなカタツムリを轢きそうになり肝が冷えた。ぼうぼうの草をかき分けて岬の上の社に着くと、海照神あまてるしんは社の前に胡坐をかいて座っていた。神としての力は少し回復しているようだが、か弱い。前回同様、ピンク色のジャージに髪をざっくりとポニーテールにしている。なんだか、田舎のコンビニの駐車場でタバコを吸ってそうだ。気だるそうな目でこちらを見て来る。


「……行儀悪いですよ」


 なんと声をかけて良いか分からず、やっと言えたのがそれだった。


「おう、前回はみっともないとこ見せちまったな……」

「いえ、別に」


 なんと返せばよいかもわからず、せっせと神饌しんせんを並べる。


「ありがたいが、よせよせ。どうせもうすぐ消える身だ。八幡はちまんんとこの月様とか、麻子あさこちゃんとかにくれてやれよ」


 どうもこの神様、少しひねくれているらしい。しゃべり方からそんな印象を受けた。


「そんなこと言ったら、麻子あさこ様が悲しみますよ」

「……ふん」


 お神酒を注いで捧げると、それにはすぐ手を伸ばしてきた。


「……佐予さよはどうだ?」


 一言、そのことを聞いてきた。


「貧血だそうです。一度東京の病院に行くそうなのですが、この天気で……」

「治るのか?」


 この神様のことを思えば、答えないのが一番ではないかと思う質問だった。詳しく知っているわけではないが、浮田さんから聞く話の雰囲気だと、完治するような症状ではない気がするのだ。


「自分は医者じゃないのでなんとも……」

「……そうか」


 結局、曖昧にお茶を濁すことしかできなかった。海照神あまてるしんはいつの間にか瓶子へいしという容器に入っていたお神酒を空にして、お代わりを要求した。


「……海が見てぇな……」


 海照神あまてるしんが寂しそうに呟いて港の方を見る。生い茂った草や木々で海への展望は遮られいる。きっと佐予さよさんのことを心配しているのだろう。この神様の様子には憐れみをおぼえた。なんだか、親戚の安否を心配する人間のようだった。神様とはこんなにも人間くさい存在なのか。人恋しいという感情がひしひしと伝わってくるようだった。


「……寝るわ。雨が来るから帰った方がいいぞ」


 そう言って海照神あまてるしんはごろんと横になった。本当にすぐ雨がぱらつき始めた。この感じからしてすぐに激しくなるだろう。海照神あまてるしんはそんなところに寝ていて風邪を引かないのだろうか。神様の風邪を心配するとは馬鹿げているが、ついそう思ってしまう。だが、もうそこに海照神あまてるしんの姿はなかった。次第に雨の粒が大粒になる。その日は、他の神社に寄ることはあきらめ、逃げるように集落へと自転車を走らせた。


 やばい!


 雨が強い。外輪山の外側から集落へと続く道の途中で、たまらずレインコートを着たが、中にまで水が流れ込んでくるような気がする。地面はすっかり水に濡れており、ところどころに水たまりができていた。道脇の生い茂った草が雨を受けて青々と元気そうな色を見せている。いつの間にかあちこちからカエルの合唱が聞こえていた。海で囲まれたこんな小さな島に、カエルはどこから入りこんだのだろう。そんなことを思っていると、ふと、後方からぞくりと気配を感じた。慌てて振り返るが何もいない。


 気のせいか?


 視線を前方へと戻そうとした時、それを見た。


 海の上に白い輝きが漂っている。ほのかな輝きであったが、信じられないほど神々しかった。その輝きがどんな形をしているのか、浮いているのか、空中を飛んでいるのかすら分からないが、雨の中、海上をゆっくりと移動している。


 あれは、やばいっ!


 直観的にそう感じた。安易に見てはいけないものだ。咄嗟に視線を地面に向ける。見たい好奇心もあるが必死に我慢した。あれは悪いものではない、確かに神々しい。神々しすぎるのだ。


 なんだ……あれは?


 ある程度神様を見慣れてきたつもりだったが、あんなものを見たことはなかった。何と言ったらいいのだろう。上位の神、いや、簡単に会えるようなものではない存在だ。

 

 気が付いたら、俺は雨の中その場で平伏していた。おそるおそる顔を上げると、そこには何もない。ただ雨の中、灰色の海が広がっているだけだった。相変わらずカエルの合唱が続いている。俺は逃げるように用意された家へと帰った。

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