第2話 勤務先は碧ヶ島

「まもなく碧ヶ島みどりがしま碧ヶ島みどりがしま、本船はまもなく碧ヶ島新港みどりがしましんこうに到着します。下船の案内があるまで、お席から離れずにお待ちください」


 それほど広くない小型フェリーの船内に放送が入る。俺が窓から外の様子をうかがうと、紺碧の海の向こうに見える断崖絶壁が少しずつ窓の中で大きくなっていく。

 ここは伊豆諸島の八丈島からさらにフェリ―で三十分ほどの距離にある島、碧ヶ島だ。島全体が一つの大きなカルデラであり、島の中央は巨大な窪地になっている。島の周囲はほとんどが断崖絶壁であり、釣りや海水浴ができるような浜辺がほぼない。辛うじて島の南側に湾があり、そこに船は停泊する。


「どなた様もお忘れ物の~」


 放送の共に船を出て、桟橋に降り立つ。ごうっと少し強めの風が吹き抜けていった。コンクリートの塊のような桟橋、その先端にある白く、古ぼけた灯台。そして、その反対側には島の大部分を占めるカルデラ壁が外輪山として空へ向かって駆けあがっている。カルデラ壁は新緑の緑でいっぱいだ。空は雲が青く、まるで海と青さを競い合っているようだが、海の青さの方が少し深みがある。この海に囲まれた碧ヶ島みどりがしまが、新人研修を終えた俺の最初の赴任先だった。


水祭みずまつりさんですな?」


 出迎えてくれたのは、眼鏡をかけた小柄な初老の男性だった。眼鏡のフレームは鼈甲べっこうだろうか、良いものを使っている。髪は白髪、だいぶくたびれた髪質をされているが、眼鏡の奥に光る両目には温厚そうでありながら、理知的な輝きがあった。田舎の郷土史家といった雰囲気だ。


「私は観光協会の会長をしております。浮田うきたです。かつては神祇庁に勤めておりました。今は碧ヶ島八幡みどりがしまはちまん神社の神主をしつつ、郷土史家をしております」

 

 ああ、やっぱり郷土史家だった。名刺を交換し、簡単に自己紹介をする。


「お話は地方振興局より承っています。こちらで水祭みずまつりさんの住まいを用意してあります。またお仕事で何か困ったことがありましたら、私もできることがあれば力になります」

「ありがとうございます。何から何までありがたいことです」


 神祇庁はある意味で非公式組織だ。神社を統括する国の組織が敗戦後GHQに解体されて以降、国の組織としては作ることができなかった。だから地方に出向く際に地方自治体とのつながりが強くはない。それよりも、観光協会や教育委員会などにパイプがある。OBや支援者、あるいはサポートを必要としている神社の関係者がそこにいるのだ。神流かんなねーちゃんも一時期、地方振興局にいたらしいが、その時は温泉旅館の社長がサポートしてくれたらしく、料理も温泉も堪能しながら仕事ができて幸せだったらしい。神流かんなねーちゃんは、出港前に「がんばれ!」とメールを送ってくれた。


「まずは住まいに案内するので、荷物を置かれると良いでしょう。重そうだ」


 浮田うきたさん私の青くてでかいスーツケースを見るとにこにこと笑った。


「その後、うちの八幡様に会っていただきます。村の鎮守ですので」


 俺は浮田うきたさんに先導されるがままに歩きだした。港の周囲にはぼろぼろになった漁師小屋のようなものが二棟あるだけで民家はない。港から出て二十分ほど歩くとカルデラが作った外輪山の中へと入っていく。外輪山は南側のみ削れて崩壊しており、ここからカルデラ内に入ることができるのだ。上空から見たら、ドーナツが南側だけ齧られたような地形に見えることだろう。少し上り坂になり、運動不足の身にスーツケースを持ってこの坂を越えていくのは苦しいが、浮田さんはひょいひょいと進んでしまう。


「お、お元気ですね!」


 そう言いかけた時、ふと、足元に何かがあった。


「うわぁっ!」


 思わず飛びのいてしまい、転びそうになった。


「大丈夫ですか! ……ああ、アオダイショウですね」


 ゆうに子供くらいの大きさはあるヘビが道の端から端へと渡っていた。ヘビは驚くこちらのことなど意に介すことすらなく、藪の中へと這っていく。島の大自然から歓迎を受けてしまったようだ。


「この島には神社が四つあります。だいたい四柱の神様がいらっしゃると思ってください」


 浮田うきたさんは歩きながら島のことを話してくれた。


「まず、村の鎮守、この島で一番大きい碧ヶ島八幡みどりがしまはちまん神社。祭神は黒津月彦命くろつのつきひこのみこと様」

「あれ? 八幡神って応神おうじん天皇が祭神では?」

「そうですね、本来ならばそうです。ですが……」


 なんでも浮田うきたさんの説明によれば、元々はその黒津なんとかという神様をお祀りしていた神社だったが、江戸時代末期か明治のあたりに八幡神社と改称されたらしい。


「その辺りで八幡神が勧請されたのですか?」

「うーん、それがですね」


 浮田うきたさんがまだ神祇庁に勤めていた頃、思い切って黒津月彦命くろつのつきひこのみことに尋ねたことがあったらしい。だが、神社には八幡神も応神天皇もいない、なぜ名前が変わったかは自分は知らないとのことであった。


「ちょうどその頃に御岳おんたけが噴火しているんです。あ、御岳おんたけとはこの島の火山のことです。これでかなり島の集落がやられ、人口も減りました。島の南には黒津くろつ、北には江浜えのはまという集落があったのですが、江浜えのはまは結局復活しませんでした。噴火後十年ぐらいで八幡神社が再建されているのですが、この時に名前が変わったみたいなのです。理由は私も調べているのですが、まだ分かっていません」


 俺はなるほどとうなずくことしかできなかった。神社の名前や由来とはそこまで分からないものなのだろうか。もっとも八幡神自体が正体不明だの、原始仏教由来だのいろいろと議論されているらしいが、最新の学説などは俺も勉強していない。


「港の方に小さめの社があり、そこにはアマテル……」

「おお、天照大神あまてらすおおみかみですか?」


 天照大神あまてらすおおみかみは言わずと知れた伊勢神宮の祭神だ。日本の神々の中でも強大な信仰を集めている。なお、神祇庁の管轄下にはない。


「いや、名前は似ているが海照比売命あまてるのひめのみことといって、別の神様です。海上の人々を守って来た神様ですよ」


 確か対馬にも名前が似ている神様がいた気がするが、それとは別なのだろうか。


「次に北部の江浜えのはま神社。ここは先ほど申し上げた噴火で壊滅した集落の名残です。神社だけ残っており、麻子あさこ様という神様が祀られています」


 名前からして記紀神話や地方の古代信仰とは別の神様なのだろう。人間が死後、神として祀られたものだろうか。


「あと島でも数少ない浜辺になっているところに、社殿などはなくなっていますが、たちばな神社だったとされる跡地があります」

「では、祭神は弟橘媛命おとたちばなひめのみことですか?」


 弟橘媛命おとたちばなひめのみことと言えば、日本武尊命やまとたけるのみことの妃で、夫に代わって入水することで航路の安全を願った逸話が有名だ。


「いいえ、これも名前がそうだったとされているだけで、確たる物証はありません。火山が噴火した時に、多くの住民が島外に避難を余儀なくされ、そこでいろいろな混乱があったようです」

「ご祭神に直接尋ねられたことは?」


 浮田うきたさんも神祇庁にいたということは、神様とコミュニケーションが取れるはずだ。現に先ほどは、あのなんとかという八幡神社の祭神に尋ねたと言っていた。だが、浮田うきたさんは眉間にしわを寄せて困った顔をしていた。


「実はあそこの神様は人間に関わることがなく、他人を寄せ付けません。私も何度か行きましたが、相手にされず。それ以来、たまに掃除に行くくらいのことしかしていません」


 なんだか、今まで聞いた中で、一番曰くがありそうな神社だった。そうこうしているうちに視界が開ける。外輪山の中、カルデラ内部へと入ってきたのだ。正面には数件の家が道沿いに固まり、浮田うきたさんが「碧ヶ島みどりがしまのスーパーマーケット」と呼ぶ、くたびれた商店だけが目立っていた。もっとも内部では洗剤やらお菓子やらがかなりすかすかに陳列されている。寂しい気持ちになったが、浮田うきたさんがここの刺身は美味しいというので、いずれ利用することになるだろう。


「なんだ、あんちゃん、観光かい?」


 いつの間にか俺の後ろに色あせたTシャツに大洋ホエールズ(過去の野球チームである)の野球帽をかぶった男が立っていた。おじさんと表現すべきか、おじいさんと表現すべきか微妙な外見だ。


「おお、権太郎ごんたろうさん! 腰はいいのかい? この方は東京からうちの手伝いに来てくれた方だよ」


 浮田うきたさんが紹介する。俺は表向きは観光協会の手伝いだ。

 この大洋おじさん改め、権太郎ごんたろうさんはこの村の数少ない漁師らしい。島に漁師が少ないのは意外かもしれないが、この島は周囲の潮流も早く、また漁船を守れるような防波堤が設置できない。そのため、漁師で食っていくことはかなり勇気がいることだと本で読んだことがあった。


「そうか、あんちゃん、しっかり働いてくれよぉ、よろしくなぁ。ところで、将棋さしていかないか?」


 権太郎ごんたろうさんは握手するが早いか、年季の入った将棋セットを取り出す。どこに持っていたのだろう。この手のぐいぐい来るラフな田舎の方は自分は苦手だ。


「いや、ちょっとこれから行かないといけないところがありますので……」


 断った途端に、権太郎ごんたろうさんは不服そうな顔をする。


「人がせっかく誘ってやってんのによぉ!」


 権太郎ごんたろうさんはタンを吐くとどこかに行ってしまった。急にこの島でやっていけるか不安になる。


「まあ、島にはいろんな人がいるから……」


 浮田うきたさんはそんな俺を慰めるように八幡神社へと案内してくれた。八幡神社へは、観光協会事務所の隣の横道から入っていく、ちょっとした高台にあった。



   ◇



 神社の階段のところに……ああ、なんて言ったらいいのだろうか、金田一なんとかみたいなお釜帽を被り、和服を着た芋みたいな顔の男性が座っていた。見た感じ三十代くらいであろうか。


 この人や、この方が八幡神社のご祭神かな……?


 研修を通して神祇庁の新人は神様の「雰囲気」に慣れる。これまたなんと表現したらいいのか分からないが、なんとなく体の輪郭が淡く発光している、そんな印象を受けるのだ。一度慣れてしまえば、普通の人間と神様を間違えることはない。


「やー、新人君。待っていたよ。私がこの神社の黒津月彦命くろつのつきひこのみこと……長いだろう? 月様でいいからね」

「はい?」


 つい、神様に対して疑問形で返してしまった。まさかこんな離島にこんなラフな神様がいるとは思わなかったのだ。その上、申し訳ないがその顔面偏差値で「月様」とか浪漫的な名乗りは勘弁してほしい。


「で、新人君、君は私と話をしに来た。そうだね? どんな話題がお望みかな?」

「……つ、月様は何かお困りですか?」


 なんとか月様と言い放つ。意外だったのか、月様の目が丸く見開かれた。


「懐かしいな。その言い方、ね、浮田うきた君」

「は、はあ?」


 急に話をふられた浮田うきたさんも困惑した顔をする。考えてみれば、神様からすれば浮田うきたさんのような老人も、お子様のようなものなのだから、君付けなのだろう。


「忘れちゃったかな? 君も私に最初にそう言ったんだよ。何かお困りですか?って」

「そうでしたか?」


 浮田うきたさんは忘れてしまっていたそうだが、月様は不快そうな顔もせず笑っていた。浮田うきたさんはずっとここで島の神様を見てきたのだ。八幡神社の再興にはかなり功があったあった方だとも聞いている。きっと二人にだけ通用するものがあるのだろう。


「さて、質問への答えだけど、まあ簡単に言うと慢性的な信仰不足かな? 消えるほどではないけどね」


 神々にとって大事なのは、なんとなくでもよいからこういう神がいると意識し、祈ったり、お供えをしたりしてくれる人々がいることだ。誰からも忘れられた時、神は消滅するとされる。すると、その神が土地に対して持っていた力は行使されない。それを防ぐことが神祇庁の目的だと教わった。これから人口が減る時代だからこそ、民間の力だけでなく、神祇庁が神々のサポート ―誰も保護とは言わなかった― することで、地方のQuality of Lifeを維持するのだ、と。

 この八幡神社は小さいとは言え、集落の要となる位置にある。この島に人が住む限りは祭神が危ない状態になることはないだろう。もちろん長い目で見れば人口減少が心配だが、移住者の呼び込みは神祇庁の直接の仕事ではない。


「せめて観光客が来たら、私のところにお供えものしてくれるよう誘導、頼むよ!」


 その日は神饌しんせん代わりに菓子折りを捧げ、別れを告げた。月様は最近、同じものばかりだったからと洋菓子を喜んでくれた。


「あ、そうだ!」


 帰り際に、思い出したかのように月様に呼び止められた。


浮田うきた君、新人君、他の連中のこと、よろしく頼むよ」



   ◇



 帰り道で浮田うきたさんは自分のことを語ってくれた。


「私は当時、離れつつあった島の人々に神社を大切にしてくれるよう訴えたり、地元のお祭を絶やさぬよう勤めてきました。ですが、それだけではいかんと思ってます。どうぞ、水祭みずまつりさんみたいに大学でちゃんと勉強してきた方のお力を存分に振るってください」


 期待されると胃が痛む。だが、浮田うきたさんのように地元の方が尽力していればこそ、このご時世にあっても神社やその行事が絶えずに存続できたのだろう。だとしたら、自分が考えるべきは島外出身者だからこそ考え付くものだ。

 

 そして、月様の最後の言葉が気になった。


 ほかの連中のことよろしく頼むよ


 戦前の国による神社の統制には問題もあったとされる。各地で参拝の仕方はばらばらだったのだが、今ではどこの神社にも「二礼 二拍手 一拝」と掲示されている。また、細かい神社は合祀の形でどんどん由来があやふやにされてしまった。それ故に迷う神様もいるのだ。神道としてまとまることがあの時代には必要とされたのかもしれないが、そのために失ったものは小さくないという。

 一方で、国としてのコントロールがなくなって運営上困るのは小さな神社だ。特に地方で地元の人々によってのみ支えられているところだ。大きな神社は国が関与しなくても経済的に困ることはなく、また神々との交信、霊的な業務とでも言うべきものは長年担当する一族がいる。問題になるのは支える人々を失いつつある神社だ。基本的に土地の神々はその土地の安寧や豊漁などを保つ力がある。それは人の力を何倍にもするようなものではなく、あくまで「促進」する程度の力だ。だが、この力をうまくまとめて人々の社会や暮らしを支えてきたのが日本の各地に祀られた神々の力なのだ。以上が、神祇庁が主張する「裏」の神社史だ。


「今日はもう一つ、神社を案内します。観光案内所で自転車を貸しますから乗って下さい」

「ありがとうございます。次はどちらへ?」

海照あまてる神社です。海の方へ行きます」


 かの有名すぎる神様と名前が似ている一柱だ


 浮田うきたさんと自転車をこぎ、外輪山を越える。日が高く上がった時間帯に外輪山の坂道を自転車で行くのは非常につらかった。浮田うきたさんがこれまたすいすいと漕いで行くのに驚かされる。


 なんて元気はおじいさんだ! いっそ海に入れたら八丈島まで泳いでいってしまうんじゃないか!?


 港からやや東側に出たところに、外輪山の裾野がそのまま海へと落ちて岬のようになっている地形がある。その場所に社があるのだが、あたりは鬱蒼とした藪になっていた。


「すいません、この辺りはなかなか手入れが行き届かなくて。昔は村の人と一緒にやっていたんですが、みんな歳を取ってしまい厳しいのです」


 少し傾いた石の鳥居を越えると、その先は少し開けていた。少しだけ石の階段を上がると、そこに社はあった。そしてピンクのジャージを着た女性が倒れていた。


「うわぁっ! 大丈夫ですか!」


 思わず声をかける。


「どうしました!」


 浮田うきたさんが駆け寄る。


「人が倒れているんです。この人、島の人ですか?」


 その姿を見て浮田うきたさんが驚く。だが、次の声は私でも浮田うきたさんでもなく、その倒れている女性から来た。


「あたしゃ神様だよ」

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