第6話 灰色の教室

 中学を卒業した義秀は、地元の公立高校に進んだ。


 放課後は、父には秘密で学区外の飲食店でアルバイトをし、大学進学の為の貯金に当てた。


 自宅からも学校からも離れた場所を、敢えて選んだのは、近隣の人間の視線が煩わしかったからだ。


 良くも悪くも、隣近所との繋がりが強い地方社会では、プライベートなどあったものではない。


 どんな些細な情報も、噂好きで口の軽い主婦たちの口から、あっという間に町中に広まってしまう。


 忠雄に、自分がアルバイトをしていることが知られたら、何かしら勘繰られるに違いない。そうなれば、また面倒な事になる。


 自分の将来のために努力をすることは正しい事なのに、どうしてこんなに、こそこそしなければならないのだろう。

 

 粗暴で理不尽な父と、閉塞的な地方社会から、逃げ出したかった。義秀は、自分の生い立ちや父に対する、怒りにも似た劣等感をぶつけるかのように、勉強に打ち込んだ。


 予備校に通う余裕は無かったから、書店で赤本や参考書を買ってきては、独学で勉強し、二浪の末に国立大学の教育学部に合格し、家出同然で実家を飛び出した。


 塾の講師や喫茶店のアルバイトで稼いだ金と奨学金を頼りに、六年かけて大学を卒業した。生活費も学費も自力で賄っている自分がよりも先に、親の脛を齧って通っている年下の同級生が、先に卒業して就職していく姿を見て、一人悔し涙を流した事もあったが、それでも義秀は、諦めなかった。


 そんな苦学生時代に、後に妻となる田口美奈子とバイト先の喫茶店で出会った。


 義秀とは別の短大に通っていた美奈子はあまり勉強熱心な学生ではなかったが、良くも悪くも大らかで、時にはその大らかさに呆れる事もあるけれど、一緒にいると肩の力を抜いてリラックスできる妻は、義秀にとってかけがえの無い存在だ。

 

 大学を卒業して、教師になって三年目に結婚。


 誠が生まれたのは、その二年後だった。大人しくて、手の掛からない、心の優しい子に育ってくれた。

 

 家業を継がなかったことを根に持っていて、結婚にもあまり言い顔をしていなかった忠雄も、たった一人の孫である誠のことは、可愛がってくれている。


 今にしてみれば、父もそれなりに苦労したのだとは思う。


 娯楽の少ない地方では、酒やギャンブルくらいしか楽しみが無かったのかもしれないし、忠雄なりに、先祖代々続けてきた漁師と言う稼業を、自分の代で途絶えさせてしまう事に対する、後ろめたさもあったのかもしれない。


 だが、当時の義秀は、そこまで気が回るほど大人ではなかったし、父もまた、そういう気持ちをストレートに表現できるタイプではなかった。


 誠が小学校へ上がる前年に、母が死んだ。


 その時忠雄に、一緒に暮らさないかと誘ってみたが、忠雄は「今さらここを離れられるか」と吐き捨てて義秀の申し出を拒み、義秀もそれ以上何も言わなかった。


 その時の義秀の胸の裡には、齢を重ねてますます頑固になる父の態度に辟易としながらも、内心ほっとしている気持ちもあった。


 やはり心のどこかに、父に対するわだかまりがまだ残っていたのだろう。


 それに、父の性格を考えると、一緒に暮らせばまた自分と衝突することがあるかもしれない。


 昔ほどの粗暴さはなくなったとはいえ、妻や息子の見ている前で、父と喧嘩をするところは見せたくなかった。


 多少後ろめたくはあったけれど、これでよかったのだと思う。


 人より少し、遠回りをしたかもしれない。


 だけど、後悔はしていない。


 人より苦労をしたからこそ、当たり前の事を幸せだと思える。


 自分も中学生の時に、自分の進路を巡って父と衝突した。


 もしかしたら、あの時の自分と同じような気持ちを、自分も息子にさせてしまっているのかもしれないという罪悪感も、無いわけではない。


 だけど、自分の言う事は現実的で、理に適っている。


 今は自分の気持ちがわからなくても、将来きっとわかってくれる時が来るはずだ。


 義秀は、そう信じていた。 


 タクシーが自宅の前に到着し、料金を払い終えた義秀は、少しふらつく足取りで玄関まで歩き、扉を開けた。


「ただいま」


「お帰りなさい。すぐにお風呂入る?」


「ああ」 


 風呂場へ向かった義秀は、シャワーでざっと体を洗い流しただけで、すぐに浴槽に身を沈めた。


 風呂の温度は、義秀の好みの、少し熱めになっている。


 おそらく、美奈子が調節してくれていたのだろう。


 義秀にとって、熱い湯にたっぷり浸かるのは、仕事を終えた後のささやかな楽しみだった。


「あぁ……」


 浴槽の縁に後頭部を預けるようにして、体の力を抜くと、いつもこんな声が出る。


 我ながら年寄りくさいとは思うが、声と一緒に疲れも吐き出せるような感覚が、何とも心地良かった。


 疲れた。


 酔っているせいもあるのだろう。


 身体が重く、瞼を開けていることすら億劫だった。


 湯の熱が体に沁みてくるのと同調するように、瞼が重くなる。





 灰色の、音の無い世界。 

 

 靄がかかったような教室で、たった一人の生徒を前に、授業をする自分。 




 風呂場の扉をトントンと叩く音に、義秀は目を覚ました。


「あなた、起きてる?」


 美奈子の声だ。


 いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。


「あ……、ああ。少しうとうとしていたみたいだけど、大丈夫。もうすぐ出るよ」


「そう。いつもより出るのが遅いから気になったんだけど、大丈夫ならいいわ。足を滑らせたりないように、気をつけてね」


「ああ」


 そういって浴槽から立ち上がろうとしたが、まだ身体が重い。


 浴槽の縁に手をかけて両腕で力いっぱい体を引き起こし、風呂場から出た。

 

 寝巻きに着替え、リビングでミネラルウォーターを飲む。


 冷蔵庫でよく冷やされた水の冷たさが、体の内側から染み渡った。

 

 それにしても、あれは一体何だったのだろう。

 

 浴槽で転寝をしている時に浮かんだ、灰色の教室。

 

 “夢を見た”と言うほど、はっきりとした体感ではなかった。


 意識のどこかに、あの映像を微かに“感じていた”と言った程度のものでしかなかった。 


「どうしたの?」


 美奈子の声に、はっとして顔を上げる。


「何か考え事でもしてたみたいだったけど、大丈夫?」


「いや、なんでもない。大丈夫だ」


「疲れてるんじゃない? 早く寝たら?」


「ああ、そうするよ」


 妻の言葉に素直に従い、義秀は寝室へ向かった。


 ベッドに身を放り出すようにして寝そべって目を閉じると、すぐに再び睡魔が襲ってきて、ぐっすりと眠ってしまった。

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群青の夏 @NAWOTOITO

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