第5話 潮の香り

 少し、飲みすぎたか。


 駅から自宅へ向かうタクシーが、川沿いの土手に差し掛かる頃、県立水蘭高校社会科教師、井岡義秀はそう思った。


 日頃は生徒達に自己管理の大切さを説いておきながら、自分がこの有様では生徒達に示しがつかないと自責の念に駆られつつも、たまには酒でも飲まなければやっていられない、とも思う。


 義秀は、三年生の学年主任でもある。


 担任を受け持っているクラスは無いが、職務上の責任は重い。


 以前より、酒を飲む機会も増えた気がする。


 水蘭高校は、県内有数の進学校なだけに、基本的には真面目で手の掛からない生徒が多いが、それでもやはり、どこの学校にも問題児というのはいるものだ。


 今義秀が授業を受けもっているクラスに、安西という生徒がいた。


 安西は赤点の常習犯で、何度も補修授業や追試を受けさせた。


 留年ぎりぎりで二年生になった去年の一学期も、中間、期末共に、テストの点数が芳しくなかったため、補習授業を受けさせることになった。


 内容は、フランス革命についてだった。


 絶対王政の社会で、特権階級に虐げられてきた平民達が決起して起こしたこの革命は、現代における民主主義の原点とも言われている。


 補修を受けさせられているというのに、全く危機感の感じられない様子の安西に「安西。今俺達が、民主主義の世の中で独裁者に抑圧されずに生きていられるのは、こういう人たちが、命がけで戦ってくれたおかげなんだぞ。お前も成人したら選挙には必ず行きなさい。せっかく与えられた権利を自ら放棄するのは怠慢だ。これは平和な時代に生まれた人間の義務だぞ」と問いかけると、安西は表情の無い顔で「別に、俺がそいつらに革命起こしてくれって頼んだわけじゃないし。政治とか興味ないし」と答えたあと、すぐに目を逸らし、虚ろな表情のまま窓の向こうへ視線を送ったのだった。


 態度の悪い生徒を、ぶん殴ってやりたいと思ったことは一度や二度ではない。


 だが、それをやってしまえば、こちらの負けだ。


 そして、おそらく生徒達も、最終的にこちらが手を上げることはできないとわかっているからこそ、増長している部分もあるのだろう。


 だが、義秀が生徒を殴らない理由は、それだけではない。


 義秀は、教師としても、父親としても、教育者として、何があっても決して暴力だけは振るうまいと、硬く心に決めているのだ。


 酔いと車の揺れが、猛烈に眠気を誘う。


 シートに身を預けて目を閉じたら、今にも眠ってしまいそうだ。


 義秀は、タクシーの窓を半分ほど開けた。


 窓から吹き込む風には、微かに潮の香りが混じっている。


 海からさほど離れていないこの辺りの川は、海水が混じっている汽水域なのだ。


 義秀にとって、潮の香りは故郷の香りだった。


 義秀は、海辺の小さな漁師町で育った。


 義秀の父忠雄も、その父も、そのまた父も、漁師だった。


 忠雄も当然、一人息子の義秀を漁師にするつもりでいた。


 幼少期より、聡明で物覚えの良かった義秀は、忠雄の期待を一身に受けていたし、自分が将来漁師になることは、ごく自然な事だと思っていた。


 忠雄の漁師としての技量は、決して悪くなかった。


 だが自然を相手にする職業である以上、どうしても収入は不安定になる。


 井岡家の経済事情は、決して恵まれているとは言えなかった。


 その上忠雄は、稼ぎの大半を酒とギャンブルにつぎ込んでしまうものだから、家計は傾く一方で、両親が金の事で口論になることは、日常茶飯事だった。


 両親が、互いを口汚く罵りあう姿を何度も見せられるうちに、義秀は、自分の将来に不安を持つようになり、自分は将来安定した仕事に就いて、家族に経済的な負担を掛けない家庭を築きたいと願うようになっていった。


 だが、一人息子である自分が他の職業に就く事を、父は決して許さないだろうということは、よくわかっていた。


 だから義秀は、その想いを、誰にも打ち明けることが出来なかった。


 同級生同士で、将来について話し合っている時に、高校を卒業したらアパートを

借りて都会の大学へ通うなどと語って、目を輝かせている仲間達の話を聞かされた時の肩身の狭い気持ちは、今でも忘れられない。


 大学へ通わせて貰うのはさすがに厳しいかもしれないけれど、せめて収入の安定した職業に就きたい。


 将来自分が家庭を持った時は、家族に経済的な負担を掛けたくない。


 そう思って、一度意を決して、忠雄に相談した事があった。


 晩酌中だった忠雄は、すでに赤くなり始めていた顔をさらに赤くして、義秀を拳で思い切り殴りつけた。


 忠雄は、気性の荒い漁師仲間の内でも、特に短気で知られた男で、口より先に手が出るタイプだった。


 そんな父に、家業を継ぎたくないなどと言えば、こうなる事は目に見えていた。それでも、言わずにはいられなかった。


 再び拳が飛んでくる。鼻からも口からも血が流れた。


 畳にこぼせば、母が気づいた時に心配させてしまう。


 それが発端になり、また夫婦喧嘩が始まってしまうかもしれない。


 自分のした事が原因で、両親が争う姿を見たくない。


 そう思って、懸命に手で顔を抑えた。


 その後も忠雄は執拗に義秀を殴り続けた。


 父に殴られたことは、今までに何度もあったが、この時ほど執拗に殴られたことは無かった。


 義秀は、頭を抱え込んで亀のように丸くなった姿で、恐怖と屈辱に耐えながら、自分に言い聞かせた。


 自分は、こんな大人には絶対になりたくない。


 自分の思い通りにならなければ、暴力で人を捻じ伏せるなんて、絶対に間違っている。


 正しい大人になりたい。


 正しいこととは何なのか、正しい事が、何故正しいのか、それを子供に言って聞かせることの出来る大人になりたい。


 教師という職業を密かに志すようになったのは、その頃からだった。




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