4日目

 翌朝、雨は降り止んでいた。相当のぬかるみと水たまりと鉛雲を置き土産としたが、傘を携行する必要はなくなった。私は名残惜しさを感じながら、吹き曝しの窓を閉じた。カーテンはずぶ濡れで、端っこは絞り残した雑巾のように濡れて、そのすぐ下の床には小さな水たまりが作られていた。

 私は寝ぼけ半分でそれを雑巾で拭った。嫌な気はしなかった。

 散歩でもしようかと部屋を出ると、浩三くんとばったり出くわした。適当に挨拶をすませて、今日の予定を尋ねた。

「今日は山の方に行くみたいです。山菜採りだとか言ってました。お昼ご飯にしてもらうそうです」

浩三くんが眠そうな顔でそう言った。

「君らも行くの?」

「そりゃ、紛いなりにも密着中ですから」

「まあ、そうだよね」

「先輩は行かないんですか?」

「うーん」

昨日のこともあって、あまり行く気は起こらなかった。

「うががががががが」

およそ人の声とは思われない声とともに、部長が部屋から出てきた。アフロのような寝癖と癖毛を露呈していた。瞳の焦点はぶれぶれだった。

「なんですか今の声は」

私は試しにそう言ってみたが、部長の途方もない欠伸に掻き消された。表情は瞼に錘でも仕込んだみたいに、顔全体が垂れ下がった印象がある。ゾンビのように首は前方に曲げていた。

「石枝くん。君はよく眠れたか?」

そんな寝ぼけ半分の言葉が飛んできた。

「ええ。まあ」

「そうか。それは良かった」

「部長も大丈夫なんですか?昨日、なんか体調が悪いかもしれない、とか言ってたらしいですけど」

「ああ。それはもう万事オーケー。体調の権化というレベルで、今日は元気だ」

「ああ。そうですか」

空元気というか、空回りというか。言葉の言い回しも、空々しさに溢れている。浩三くんはそんな部長を尻目に

「それで、先輩、今日はどうしますか?来ますか?」

と言った。

「あーそう言えば、そういう話だったね……」

同行するかどうか。行かないほうが賢明だろうと思って、その旨を伝えようとした。そんなおり、部屋に戻りかけていたボンバーヘアーの部長が、そこで立ち止まって振り返った。

「石枝くん。今日、来るつもりなのかね?」

「あーいや。どうでしょう」

咄嗟のことで、私ははぐらかしてしまった。

「女子禁制だ。君は、勉強に勤しむがよい」

「は?」

部長は私に明瞭な説明も残さず、苛立たしげに部屋の扉を閉めた。

「なんすかあれ」

浩三くんがぽかんとした顔でそう言った。

「知らないって」

私は呆れてそう答えた。

「何かありました?」

「いーや。怖いくらいに何にもないけど」

「それじゃあ、部長なりの生理なのかもしれませんね」

浩三くんがしみじみ言った。私は無視した。

「そっちこそ何か心当たりないの?」

「ありませんよ」

「じゃあ何?」

「さあ……。先輩何もしてないんですよね?」

「うん」

「なら、よくわかりませんね。まあ、勝手について来ても部長が追い払う権限はありませんから、来たかったらどうぞ。9時くらいにエントランス集合です」

浩三くんはそう言い残して部屋に戻った。部長の言葉に重みはないようだった。

「あ、ああ。思い出した。それとね」

浩三くんと入れ替わりに依然として頭に盆栽でもしているかのような部長が扉から顔だけを出して、そう言った。奇怪である。

「向日葵畑の方は少しの間立ち入り禁止にするそうだ。荒らしがまた入るかもわからないから。だから、あまり近づかないように」

そう言って、部長はすっと扉を閉めた。どこかから朝を喜ぶ鳥の鳴き声が聞こえた気がした。

「はあ」

私は色々綯交ぜの溜息を吐いて部屋に戻った。断る腹づもりだったが、来るな!と言われると行きたくなる人間性が発生していた。私は行くかどうかしばらく悩んだ。 

 ……。

「そうですか。やめときますか」

浩三くんは少し意外そうな顔で私の答えを受け止めた。私は結局断った。行っても多分、楽しめないだろうというのが決定打となった。

「もしかして昨日のこと気にしてますか?」

浩三くんは懸念を示すように頰を歪めてそう尋ねた。私は虚を突かれる思いだった。まさか、シュウさんとのあのやり取りを見られていたのだろうか。気まずさと気恥ずかしさが一挙に押し寄せた。

「上島先輩のあれのこと」

「あ、ああ。あれね。ああ。そうかそうか」

私の早合点だった。確かにそう言えば、上島くんからわがままと言われた事件もあった。そちらはレイナさんに励まされて、だいぶ私の中での折り合いもつけられていた。ただ、こうして言及されると、当時の苦々しさがありありと舌先に蘇る。

「まあ、正論だったからね」

「気にしてはないんですか?」

「ぐさりとは来たけど、怒ってはないよ」

「そうですか。上島先輩、言い過ぎたかって昨日部屋帰った後、ちょっと嘆いていたんですよ」

「ああ、そうなの」

私は少し胸をなで下ろす。殴る方の拳も痛いだああだ言われるが、彼もまたその呵責を多少なりとも感じていたようだ。逆に言えば、そんな人間に、詰るような言葉を言わせた私も悪いのかもしれない。しかし、正論を言った本人が嘆くというのは人間の面倒臭さを表す話だった。

「骨に染みる言葉をありがとうってそう伝えておいて」

私はできるだけの笑顔でそう言って、浩三くんと別れた。

 私は部屋に一人だった。そう言えば、皆が川釣りに行っていた時も、私はこうして一人だったことを思い出す。あの時は、何と無く彼らに遠慮していたが、今は、単に行きたくないという理由で、この部屋に一人になっていた。その遷移が私には虚しくも面白くも思われた。

 私は昼頃、部長の言葉を破って向日葵畑の方に行った。

 部長の言葉通り、入り口は安物のテープが両端に至極面倒そうに地面へと突き刺された鉄の棒に貼り付けられる形で塞がれていた。とは言え、応急処置以外の何物でもなく、私は易々と中に入ることができた。

 空は鉛雲だったが、時折その隙間から太陽の姿が伺われた。足元は水捌け悪く茶色にぬかるんでいたが、なんとか歩けた。チャプチャプという音ともに、どろっとした感触が靴底に伝わるのが気色悪かった。

 しばらく歩いて、私はあの例の場所へ到達した。私は濡れた向日葵を掻き分けて、そこを目指した。

「……」

無残なものだった。地面から溢れた土壌が大波のように手折られた向日葵の上にのしかかっていた。太陽を目指していた輝きはそこにはない。やがて地面と同化し埋もれ行く何かでしかなかった。

 地面に朽ち果てた泥塗れの向日葵の花を持ち上げた。ただ、持ち上げるや否や幻想のようにそれは原型を止めずに、風に揺られ脆く崩れ去った。死んだ黄色と土塊を帯びたその花弁は、一枚一枚虚弱な病人のような動きで何処に飛び散った。私はそれをひとしきり眺めて、手についた土を払った。匂いを嗅ぐと、土の匂いしかしなかった。

 目の前には向日葵がいくつか見えた。曇天の中、ふやけた皮膚のような水気を帯びていたが、それでもそれらは天を目指しているようだった。私は、その中の朽ちた一つを手に取っただけに過ぎなかった。そう思うと、私の感傷は酷く空々しいような、そんな思いだった。

 昨日考えた審美について私は思い出す。今朽ち果てた向日葵は果たして美しくないものだろうか。ただの残骸でしかないのだろうか。茎を直立させて、黄色の花を咲かせることが、美しいことなのだろうか。地面に落ちれば、それで終わりなのだろうか。私は深淵に嵌るようにそのことを考えた。

 私は深呼吸した。耳元に、ハエの類が止まった。普段なら、悲鳴を上げて卒倒しているところだったが、私は気にも留めなかった。

 あるいは。私は考える。

 あるいは、朽ちた向日葵が多くの向日葵達を生かしているのかもしれない。昆虫や魚介類の多くは、無数の卵を産む。それは出来る限りの子孫を残そうという思いゆえであるが、同時に、それ程多く産まなければ、成体へと行き着くのは数少ないということを明瞭に理解しているからとも捉えられる。数百、数千、数万、数億、数兆の中の一つでも生き残れば良いと、そんな思想の元に、無数の卵は海藻の袂や、岩場の影、葉脈の上、側溝の石壁、木々の根元、そんなところへ産み付けられる。そう考えれば、今広大に咲き誇る黄色の花の群衆は、幸せすぎるとも言える。競争がない。天敵がいない。肥沃な土地から水と栄養分を吸収し、陽光を浴びていればそれで十分なのだ。だからむしろ、少しくらい、腐敗し朽ちた数本くらいなければ、割に合わないような、私はそんな気がした。生け贄、必要経費、仕方がない、そんな打算的言葉が脳を巡る。向日葵は短命ではあるけれど、その生涯を何不自由なく暮らしたとしたら、私はそれを幸福と形容する以外に言葉を持たなかった。

 ああそう言えば、そんなことを語った小説があったなあと、そんなことを思い出す。

 私はもう一度、土を被った向日葵を見つめた。そして、私の考えの薄情さと自らを重ねた。私もあるいは、この向日葵のように朽ちて埋もれることで人を生かしているのだとしたら。私はそんなことを考えて、大きく溜息を吐いた。私のまた考え過ぎ病が発生したのか、あるいは何かの暗示か。思案したが、答えは出なかった。

 そんな折、その脱力した茶色の向日葵達に光が差した。最後の力を振り絞るように、花弁が星の瞬きのように、輝いているような、そんな風に私には見えた。私は片手で庇を作って空を見上げた。

 雲を食い破るように太陽が姿を現した。残っている雲も、蜘蛛の子散らすようにして、その流れを早めていた。私はなんとなく安堵して、地面のぬかるみも、朽ちた向日葵も、私の不安も、この光で全て丸く収まってほしいと思った。

 私は少し笑って、その場を立ち去った。もう少し奥へ行こうと思った。

「やっぱり、獣でも、酔っ払いでも、部長でも、師範でもないよなあ」

私はそう呟いた。直感だが、そう思った。ならば、自然と犯人は限られる。そしてそれは、非常に胃の重たい話であった。私は無言で先を急いだ。

 しばらくして強烈なせせらぎが耳を伝った。向日葵と木々が立ちふさがる向こう側に、川はある。木々はまだ少し雨の残滓を漂わせていた。青々とした葉っぱに点在する露が太陽の光を反射させていた。

私はそこを抜けて川へ赴いた。白い砂浜は、地中の濁った土を掘り返していた。初日の柔らかな流れと色彩は消え去り、多分に土砂を含んだ茶色の水が、露出する岩を叩き削るように流れていた。その周辺では、鼠色っぽい白波が幾重にも湧いていた。川辺の幅員も増して、繁茂した雑草のいくらかを呑み込んでいた。

私は遠巻きにその光景を眺めた。向こう岸に繁茂する樹木の群生の中で蝉がまた勢いを取り戻したように鳴いていた。昨日、一体どこになりを潜めていたのか、私は問いただしたくなった。葉の裏側か、民家の庇か、あるいは単に力尽きて仰向けになり空を見つめたか、そして、それを椋鳥に見つかって捕食されたか。もしもそうなら、彼らが見た最後の空というのは、単なる灰色だったということになる。その瞳に光は届いていなかったのだろう。そのイメージは、先の朽ち果てた向日葵と似通って、鮮やかな色味を生じ始めた。。

私は椋鳥の口先で、瞳の色を薄れさせる蝉を想像した。それは、彼の体内から溢れる液体や、甲殻の咀嚼される音を伴った。羽は捥げ、足は弛緩し、意識は遠のく。そんな中、その瞳は何を見つめたのだろうか。

私はそんな過度に押し広げられた空想から何でもない小学生の時のことをふと思い出した。私が3年生か4年生の頃だったと思う。突然全校集会が開かれ、当時6年生だった男子児童が死亡したことが告げられた。顔も知らない生徒だった。今を以ってその死因は定かではない。事故死か自殺か、あるいは事件絡みなのか。校長が頰に豊満な贅肉を柳のように垂れ下げて、恰幅の良い胴体を教卓で覆い隠しながら、それでも悲痛そうに視線を下げて話していたのを覚えている。その後に、教頭か生徒指導かの先生が現れ、事務的な話をした。眼鏡をぶら下げて、言葉にも瞳にも生気が籠っていなかった。諸般の手続きが煩雑で苛立っていたのか、官僚的な威厳を示そうとしたのか、何れにしても、冷酷だった。

私はあの日以来その男子生徒のことをついぞ思い出さなかった。知らない人だったから。無関係な人だったから。感慨が湧かなかったから。クラスメイトもまた同様で、その男児が話題に上ることはなかった。ニュースに流れる事件の一つとして、記憶の奥に仕舞われて、急速に色褪せた。それは最早、道端の石ころを見つめるのと大差は無かった。

その彼のことが今、私が思い描いた捕食される蝉のイメージと重なった。その男児が最後に見た光景が気になった。それは煤けた殺風景な空だったのか、あるいは空想的な青空か。あるいは、無機質な天井だったかもしれない。

 そんな空想の渦の中、当時の6年生の児童の群れの中に、啜り泣く声がいくらか聞こえたのを私は今になって思い出した。集められた体育館を出る寸前に少し立ち止まって、その鳴き声がする方を私は一瞥した。時間にして1秒にも満たなかったと思う。後ろの子に、

「岬ちゃん?」

と訝られて、すぐに足を動かしたからだ。

 その時、私の視界は、大勢の人の中から目尻を濡らした一人の男子生徒を捉えた。斜め後ろからの光景で、表情は上手く読み取れなかった。体操座りをして、両手でかたく膝を結んで、誰と話すでもなく前を見つめていた。ただ、目尻が、体育館独特の薄暗い照明にくぐもった輝きを見せていたのは確かだった。今、その光景がありありと浮かび上がった。ずっと顧みられなかった記憶だった。

 私はあの時、その目尻が濡れていたのを見て何を思ったのだろうか。考えたが、多分、すぐ忘れたのだと思った。当時は、それくらいの光景だった。

それが今になって、ようやく、彼の涙の残り香のようなものが私に伝わって来たのだろうと思った。それも一部も一部だろうけど、ただそれはなぜだか、死んだ彼が見た最後の光景は、おそらく悪くないものだったのだろうと私に思わせた。

 蝉が鳴いていた。椋鳥に胴体を咀嚼され、オレンジ色の体液が、嘴を染めている。食べ損ねられた、右翼の細片がひらひらと舞い降りて、地面へと舞い落ちる。私はその光景を想像しながら、それが風に飛ばされ塵と化したか、その前に腐食するか、あるいは働きアリに餌として抱えあげられるか、あるいはその前に木漏れ日を浴びるのかと、そんな空想をした。そして、森閑とした林床に落ちる僅かな陽射しが蝉の羽の欠片を照らすという情景だけが、不思議と最後まで私の心に居残った。

 私は拙い足取りで、旅館へと引き返した。帰ると、新聞部、サーカスライオンのメンバーどちらも帰って来たようだった。部長がエントランスで私を待ち構えていた。

「どこ行ってたんですか?」

「いやあ、まあね」

私は曖昧に嘯く。

「まさか、向日葵畑には行ってないですよね?」

「そりゃあ、勿論」

「行きましたね?」

「行ってないって」

「じゃあ、どこ行ってたんですか?」

「その辺をプラプラと」

「言えないと?」

「言う義務がある?」

話は平行線を辿った。部長は珍しく怒っているようだった。私はなんとなく決まりが悪くなった。そんなに怒られるとは……。

「はあ」

部長は、私の態度に大仰に溜息を吐いた。同時に、大きく肩を落とした。その背後に、髪の長い亡霊が彼の肩を抱いているような、そんな風にも映った。

「まあ、もうなんでもいいです。ただ、現状、あなたもまた向日葵荒らしの犯人から除外されていないんですよ」

「容疑者?」

「ええ。だって、あなたが向日葵荒らしの犯人ではないと証明できる人はいますか?」

「そりゃあ……」

と言って、私は口籠る。確かに、私でないと証明できるのは私だけだ。それはすなわち、説得力は皆無。というか、比較的頻繁に通ってる私が一番怪しいという論法も当然立てられる。

「あはは。気をつけるよ」

私はそう言った。笑ってはいたが、背中がやけにスースーした。

「全く。頼みますよ」

そう言って、部長はすごすごと立ち去った。入れ替わりに上島くんがやって来た。屋内なのに、また麦わら帽子を被っていた。

「部長と何かありましたか?偉く元気なさそうでしたけど」

「うーん。どうだろう」

私は一瞬話すか迷って、結局事実を話すことに決めた。昨日のこともあるし、上島くんにまた面倒な奴と思われるのは少し心苦しかった。

「そうですか。先輩も大胆というか強情というか向こう見ずというか……」

結局また小言に近いことを言われた。上島くんはまた言いすぎたと思ったのか、居心地悪そうに麦わら帽子を左右に揺らしていた。

「しかし、向日葵荒らしですか。僕は聞いてませんよ」

「そうだったっけ。まあでも、言いふらすような話でもないし」

言いふらしても解決しないだろうし。

「犯人に目星とかはついてるんですか?」

「いーや。色々と説はあるんだけど」

私はそう言って、女将さんが提示してくれた説や自説を話した。

「どれも説得力としては五十歩百歩ですね」

「まあね」

「一番ありそうなのは、師範説でしょうか」

上島くんは意味ありげに唇を歪めてそう言った。

「収まりはいいだろうね」

「納得行きませんか?」

「上島くんはどうなの?」

「正直言えば、どうでも良いというか……」

申し訳なさそうにそう言う。

「だろうね」

私も否定する気は無い。犯人がわかったとて私が何か罰するというわけでもない。

「それ以前から荒らされてたってことはないんですか?」

上島くんは私にそう尋ねた。私はあの光景を思い浮かべて、即座に否定した。

「それはないと思う」

「はあ。先輩がそう断言するならそうなんでしょうね」

上島くんは全く冷淡にそう言った。百聞は一見に如かずと言うように、私の言葉では然程の説得力を持たなかった。

「しかし、その犯人の目的は何なんでしょう」

「目的?」

「ええ。向日葵を荒らす目的」

そう言って、上島くんは首を捻る。それに合わせて、麦わら帽子が傾いてあわや落ちそうになっていた。

「美への反抗とか」

「随分と倒錯してますね」

「上島くんは何か無いの?」

「むしゃくしゃしたとか」

「何に?」

「日々の鬱屈です。こういう人目がないところだったら、何してもオッケーみたいな、そんな解放感に任せて一思いにやっちゃったんじゃないですか?」

「なくはないけど……」

あるとも言い難い。

「ところで向日葵荒らしと一言で言いますけど、どんな風に荒らされてたんですか?」

「奥の方に向日葵の一群がなぎ倒されて、その辺に横たわってる感じ」

「足跡とかはどうだったんですか?」

「ごめん。覚えてない」

とにかく踏み荒らされていたのは確かだった。

「向日葵は引きちぎられていたって感じだったんですか?なんか状態は覚えてませんか?」

「荒らし方は割と整然としてたかな。スペースを広げようとしたって感じで」

「そうなると、あれじゃないですか?大の字になって、空でも眺めたかったとか」

田舎の夜空は綺麗ですからね、上島くんは笑ってそう言った。わたしは愕然としていた。それはまさに私が考えた目的と合致した。

「もしかして、犯人上島くん?」

だから、私が試しにそう言うと、全く素っ頓狂な顔をされた。目が点になって、私を異物でも見るかのように凝視した。私は誤魔化すように笑って、私も同じ意見だったことを明かした。彼は、そうですか、と笑っていたが、目は依然として怖かった。

「ですから、不届き者ではありますけど、まあ、ある意味人間の欲望に忠実だったと、そうとも言えるんじゃないですか。大量の向日葵に囲まれて、デネブ、アルタイル、ベガが輝く満天の星空が拝めるなんて、そんな贅沢ありませんよ。禁忌を犯してだって、一度は体験してみる価値はあるかもしれません」

上島くんは捲し立てるようにそう言った。自らの空想が膨らんで来たのかもしれない。頰が少し紅潮して、顔はにやけていた。所作的にはやはり一番犯人臭い。

「ともかく放っておいていいんじゃないですか?立ち入り禁止らしいですし、それに、もしも僕の予想が正しかったのなら、犯人はその空き地を作ったことで満足しているはずです」

「まあそうか」

一応の相槌を打った。しかし、別の目的だってもちろん考えられる。その意味では、彼の言葉は気休めにしかならなかった。

「ところで、どうして今日来なかったんです?前の川釣りも来ませんでしたし」

上島くんは私の心中をよそに話題を変えた。

「盛り上がった?」

私はどことなく後ろめたさがあり、上島くんの質問をはぐらかした。

「まあ程々には。いい画が取れましたよ。見ますか?」

テレビマンみたいな笑みでテレビマンみたいなことを言っていた。

「先輩、サーカスライオンのファンじゃなかったんですか?プライベートに同行できるチャンスなのに、2回もふいにして」

「そうなんだよねえ」

私はしみじみ頷く。後悔もあるが、だからと言って、やり直す機会が与えられたとしても、私は同じように行かない選択肢を取っただろうと思った。シュウさんのこともあったし、レイナさんに迷惑かけそうだし、向日葵荒らしのことも気にかかる。一人でいる方が得策に思えた。

「また、あれですか?」

上島くんが私の無言に、そう言う。

「あれ?」

「あれです」

上島くんは皆を言わずそう言った。ああ。私は理解した。私のわがままの再来を言っているのだろう。

「人にはそう簡単に言えないこともあったりするのよ」

私はしみじみそう言った。昨日のシュウさんの話をどうしてポンポン語れよう。それに、どう咀嚼して、分解して、平易にしたって、どうやったって、心の隅々まで伝えられないことはある。それを理解してもらうには、時間をかけるくらいしか具体策は浮かばない。

「乙女の秘密って奴ですか?」

「乙女も誰でも一緒だよ」

 私は笑ってそう答えた。上島くんも納得したように笑っていた。

「それじゃあ」

「ええ。また明日」

そう言って別れた。今日は比較的温暖に済んで安堵する私がいた。

部屋に戻った。私は一人になった。私はそこで、本格的に向日葵荒らしのことについて考え始めた。誰が犯人か。誰が薙ぎ倒したのか。

そこで、私は考え直す。果たして犯人を探すことにメリットがあるのか。有耶無耶にした方が、私にとってはむしろプラスではないか。

……。

私は窓の外を見た。光が兆し始め、向日葵はまたその花弁を擡げ始めていた。ただ、その色は少し脱色して、盛りの衰微をほのめかすようでもあった。

私は畳の上に胡座をかいて、頬杖をついて考えた。

 日程的には、今日、明日が終われば、明後日の昼ごろまたバスに乗り、新幹線に乗って帰る手筈になっている。このまま私が大人しくしていれば、何事もなく合宿は終わるのだろう。それはとても素晴らしいことだろう。少なくとも、私は何食わぬ顔で、家に帰ることができる。レイナさんの笑顔や、向日葵の美しさだけを持ち帰って。

 ……。

 それで良いのか?

 反芻する。答えは出ない。

 私は笑った。別に意味はなかった。そういう気分だった。私は窓を締め切って、エアコンのスイッチもオフにした。部屋は悉皆無音になった。私の体を流れる血液だけが、感じられた。

 その時、私は秘められた懊悩に気がつく。記憶が攪拌される。固形物は曖昧に、液体はより流動的に、それ以外は気化してしまう。それで現れるのはおどろおどろしい吐瀉物のような異形。臭気と衝動の塊。それでいて、原形を留めているものも中にはあるから、私は嘔気を催さずにはいられない。だからもっと撹拌を進めようとする。

 人は一度認めたものを捨て去るのには苦労する。私は心の隅に思われた、懸念が現前化した。それがつまり、吐瀉物のような幻影だった。そして、それから得られた一つの感情は、急速に肥大化する。まるで、無限に広がる風船のように当て所なく膨張する。私を飲み込み、地球を飲み込み、太陽を飲み込み、宇宙まで飲み込んでしまう。だから、私は、あらゆるものが私を不安にする根拠のように思われ始める。

 心に有限値はない。座標平面のようにいくらでも拡大される。終わりはない。止めようにも止まらない。私は円形に拡大する不安の種を見つめる他ない。いつか弾けることを願う他ない。私は内臓も肝臓も胃も膵臓も腎臓も脳も全ての細胞の内容物が、ミトコンドリアも核も細胞膜も皆ことごとく消え去って、身体の中が空っぽになって宙吊りになるような心地になった。ただ、心臓の辺りがヒューヒューともがり笛のような音を立てている心地になった。

 私は不安を認めた。しかしそれは、凶兆めいた暗示のようなものでしかなかった。だから、私がこれからしようとするのは、それをより鮮明にする作業だった。

 その不穏な影は私の記憶に容赦なく翳りを加えた。私の仄暗い感情が、記憶の隅々まで暗色で染め上げたようだった。太陽までもが暗くなった。色彩に明るいものはなかった。どれも淀んでいた。それはあらぬ情景までも捏造するように付加した。ムカデが這いずり回る音、ゴキブリの触覚の蠢き、血液が爆発したような色のミミズ、握りつぶされた向日葵、赤黒い夕焼け、血液を降らす雨雲、人骨を食らったように緑色に変色するドブ川、骨だけを晒す川魚……。

 私は首を振って、この合宿中の記憶を洗いざらい思い出そうとした。私の苦悩の源泉はおそらくそこにある。ヒントは山のように転がっている。手がかりはサブリミナルに散乱している。端緒は断片的で、それらを有機的に結びつける必要がある。全てを虫眼鏡や、顕微鏡的な視点で検証する謂れはない。鳥が見るような視点が必要だった。

 私は状況と皮膚感覚を頼りにする。こんな時、依拠すべきは、何も客観的事実ではない。私の肌触りが、物事を批評する大きな拠り所になる。

 例えば、コウタさんの私を品定めするような瞳、獣じみた掌で撫でるように私と握手したこと、陽気な鼻歌、それに、あの後向日葵畑の奥に何をしに行った?あれは向日葵見物だったのか?もっと別の何かではなかったか?レイナさんは、花より団子だと、そう証言した。

 あの時の、レイナさんの棘のある様子も意味深いものがあったのだろうか。親鳥が雛を守るような、そんなものではなかったか。首元を大きく腫らした蛇のような獰猛さを、コウタさんに見出したから、あんなにも強硬だったのではないか。他にも、帰り道、私がコウタさんの行方を気にした時、やけに考え込んでいた。あれは、もしかして、コウタさんの行動に心当たりがあったからではないか。その理由がわかったから、私に、他のメンバーとの個別の接触を控えろなんて、そんな忠告をしたのではないか。だから、あんな深刻そうな顔をしていたのではないか。

 では、コウタさんはあの奥で一体何をしていた?赤黒い夕焼けと、血を動脈に流したように花弁を真っ赤にする向日葵と、仄かなせせらぎの音に包まれて、コウタさんは一体何をしていた?私の耳には、土を踏み均す音と、根元から手折られていく植物の無機質な音が交互に響いた。

 私はまた別のことを思い出す。

 ミワさんとケイコさんが、お風呂が一緒にお風呂に入っていた。あそこで一体何を話していたのか。なぜレイナさんと一緒ではなかったのか。私が入って行くと、ミワさんはやけに不機嫌そうだった。自らのテリトリーを侵されまいとするような瞳を私に見せつけた。そこまで聞かれたくない話だったのか。なら一体何を話していたのか。

 私はまた別のことを思い出す。

 妙に寝覚めが良かったある日。私は朝早く散歩に出た。その時、ケイコさんとすれ違った。ケイコさんは頰を赤く染めて、お風呂場から帰っていた。私が話しかけると、酷く罰の悪そうな顔を浮かべていた。朝風呂が見つかったから、その気恥ずかしさからだと私は思った。

本当にそうだろうか?もっと別に、理由があったのではないか。それゆえに、彼女は頰を桃のように染め上げていたのではないか。それに、なぜあの時、彼女はイヤリングをしていたのか。明朝のお風呂にそれを身に付けて湯船に浸かる必要性はどこにあったのか。

 私はまた別のことを思い出す。

 朝、ケイコさんとばったり会った後、私は向日葵畑に向かった。私はそこで部長に遭遇した。缶コーヒー片手に、向日葵畑を眺めていた。本来なら眠いはずの時刻なのに、その時の部長は特にそんな様子は感じられなかった。真夏には似つかわしくない熱いコーヒーを飲んでいた。そして、空き缶を投げ飛ばして良いかなど突飛なことを聞いた。私はそれを当時の寝ぼけ具合で、まあそうなのだろうと受け取った。しかし、実際は違ったとしたら?

 そもそも、部長の、初日に見せた腹痛が別の理由だったとしたら?あれが何か良からぬものを目撃して、そのせいであーなったとしたら?そう言えば、あの時、私は炭酸に心奪われて、部長の行方を一切気にしていなかったし、どれくらい席を外していたのかも知らない。もしあの時、トイレではなく、別の場所に行っていたとしたら……。

 ……。

 これは考えすぎか?私は思い直す。いや、証拠はない。私の皮膚感覚だけが頼りだ。今、総毛立っている私の皮膚が、私の信じられる唯一のものだった。過度に鋭利になってはいたが、私は見当違いなことを言っているとも思えなかった。

 血液の湖のような、そんなイメージを心臓の真上に浮かび上がり、私の声がそこに強く反響する。波紋は起こらない。ただ、ヘモグロビンが、餌を求める鯉のように水面に集くだけだった。静脈血と動脈血が混在したその赤色は、獣が食い散らした後の骨に付着した血痕と全く同じ色をしていた。ナメクジみたいな感触、墓地を掘り起こしたみたいな臭気、ハエ、蛆虫が次々湧き出ていることも同じだった。

 私は腕時計を確認した。3時だった。昼寝しようにも、私が思い浮かべた血の湖のイメージが夢にまで進行して来そうで私は眠ることを拒んだ。微睡みはすなわち私の白目を充血させ、疲労させるだけの意味しか持たなそうだった。それはまるで、髪の毛の一本まで真紅に染めそうで、私を戦慄させた。あるいは、毛穴の隅々にその血液が逆流して、私を真っ赤に染め上げるか。ただ全身から滴る血液とその臭気というのは、あるいは案外綺麗なものかもしれない。少なくとも、それを当人として近くする限りは。

 私は誰もいない通路を死にかけの蚊のように進み、入り口まで至った。誰にも会わなかった。外には、太陽が鳴り響いた。道中の向日葵も少し赤色に染まっているように見えた。

 私は武道場へ向かっていた。

 私は平穏を望んだ。おそらく、あの部屋に一人でいても、何者かと話をしても、私に平穏は訪れないという確信があった。私に今必要なのは、平穏などというレッテル的言葉ではなく、カウンセリングだった。

 武道場にたどり着いた。中から何者の声も聞こえなかったが、中を伺うと、奥の方に、師範が、藍色の道着を身につけて正座しているのが見て取れた。目は見開かれているのか、あるいは閉じられているのか、それは判然としなかった。ただ、その藍色の道着が私に言っての安らぎを与えたのは確かだった。

「誰だ?」

樽に反響させたような声で私を尋ねた。

「新聞部の付き添いの者です」

私はそう言いながら、武道場に入った。中は蒸し暑かった。蝉の生命力を凝集したようだった。一気に首筋に汗が生じた。

「何の用だ」

「ちょっとお話をば」

私はそう言いながら、師範の数メートル前に正座した。なんだか、空気がそんな姿勢にさせた。

「お話?」

「ええ。あそこは少し、私には良くないようです」

「うむ」

師範はそれ以上は聞かなかった。聞いても無意味だとでも思ったのだろうか。

 師範は依然として目を閉じていた。膝の上で重々しく閉じられた拳が黒ずんで、橋の欄干のような湿り気を帯びているのに私は気が付いた。唯一露呈した親指は、時折力を入れられるのか、赤みを帯びたり、白くなったりを繰り返していた。

「師範は何故ここに?」

「聞きたいことを聞け」

「あ、あはは」

私のジャブ的な質問はあっさり見抜かれたようだった。私は居住まいを正して、恭しく咳払いしてこう言った。

「例えば、向日葵畑を荒らしたりとか、そんなことはしてませんか?」

「何の話だ?」

「師範、数日前に、旅館の裏手にある向日葵畑をランニングしてませんでした?あの道中に向日葵が荒らされたような、そんな形跡があったんですよ」

「そうか。儂は知らん」

「そうですか」

「儂が犯人だとでも?」

「あくまで可能性として。なにせ、奇怪な人に見えますから」

私がそう言うと、師範は愉快そうに笑った。その声は、完全に蝉の鳴き声を掻き消した。ともすれば、蝉が鳴くのをやめたのかとさえ私は感じた。

「面白い話だ」

「ええ。私もそう思います」

「何が言いたい?」

「師範のせいにしておけば、私自身もすごい楽ですね」

「ほう。そうは思ってないと?」

師範は一息吐くようにそう言った。

「それで、犯人の目星は?」

「いいえ。全く」

「本当はついているんじゃないか?」

「ええ。ただ、証拠と言える証拠は皆無でして」

私はそう言って、共感を誘うように笑った。師範は、ひたすらに正座するだけで、クスリともしなかった。

「しかし、何故儂にそんな話を?」

「さっき言った通りです。あの旅館は今の私には良くないようですから」

与太話として、誰かに拭浄してほしい話だった。一端でも口に出さなければ、私の身体の中で腐敗して、細胞の悉皆を堕落させる気配を感じていた。

「つまり、お前らの誰かの仕業というわけか」

師範はあっさりそう言い放った。私は喉の奥が、急に干からびるのに気が付いた。ナイフを突きつけられるような感覚だった。改めて他者から言われると、その言葉の重みが急激に増加する。

「ええ。まあ、そう疑っています」

「どちらだ?」

「というのは?」

「君らの方か、あのバンドをやっとるとかいう集まりの方か、どちらかという意味だ」

「ああ。それは多分……」

私は先を言おうとして、吐き気を感じて思わず口元を抑えた。空ぶかししたバイクの煙を余さず吸い込んだような、嫌な感覚が私の気管に張り付いた。肺から擡げられる空気が皆、汚染されているのではないかと思うほど、私は神経質になっていた。口腔に溢れた唾液を下で転がしながら、私は自分の呼吸を整えた。

「どうした?」

「いや、問題ありません」

私はそれを飲み下して、口元から手を離した。唇が少し涎で濡れていた。私はそれを手の甲で緩慢に拭い去った。

「おそらく、バンドメンバーの誰かでしょうね」

そして、やっとの事でそう言った。

「根拠は?」

「さっき言った通り、それはありません。私がそう感じるというのが、まあ、現状言えることです」

「感じるとは?」

「私の主観です。主観的記憶を洗いざらいしてみたら、疑わしくなって来たと、それだけの話です」

私はそう言って、咳払いした。沈黙が、私にはいろいろな空想を膨らませる契機にしかならなかった。

「どうするつもりだ?」

「さあ。わかりません」

私はそう言った。師範は私の瞳を、マムシのような峻烈な目つきで見定めたが、私は脱力してそれに応えるしかなかった。

「君のとこの眼鏡掛けた子がいただろう」

師範は唐突にそんな話をした。

「ええ」

「彼も君と似たような目をしていた」

「え?」

「だから、稽古をしたのだ」

「はあ」

「君は気づいていたか?」

「あ、いや……」

ついさっきその疑問にぶつかったばかりだった。

「彼は泣き言を言っていたか?」

師範は一言そう言った。

「いや特には」

「……そうか」

師範は重苦しくそう言うと、徐に立ち上がった。

「行け。儂にはどうにもできん話じゃ」

そしてそう言うと、そっぽ向いてしまった。私がそれでもオロオロしていると、

「ゲッラウ!」

と叫んだ。

「は、はい!」

私はそう言って立ち上がった。正直、正座も限界だった。私はドタドタと入り口まで走った。

「突然話に付き合っていただきありがとうございました。だいぶ落ち着きました」

私は捨て台詞のようにそんな言葉を残して立ち去ろうとした。私は別に解決を求めてここにやって来たわけではなかった。折り合い、妥協点、安寧、そんな具合の良いものを享受したくてここまで来たのだった。心地の良い夢を見続けるための処方箋を。その意味で、私は一定の安堵を獲得したと言って良かった。

 不安というのは、何も個から発生するのではない。不安が発生した瞬間に、個へとそれが伝播するように広がっていく。それが不安だ。旅館での私は、この合宿中の全てのことにその不安の感染を広げようとしていた。それは際限なく広がった。それが、あの血の湖の正体だった。だから、私はここに来たのだった。

「ちょいと待て」

だが、あっさり師範に止められてしまった。振り向くと、藍色の道着をたなびかせて、師範が私ににじり寄った。精悍な瞳は凍てついていた。豆粒みたいに小さい黒目はピクリとも動かなかった。焦点は私の眉間にでも絞られているように見えた。

「健闘を祈る」

師範はそう言って、私の手を握った。私は呆けて碌な返事もできなかった。その手は、温もりを湛えていた。数秒後、師範はまた奥の方に引き返して正座し始めた。もうこれ以上話すことはない、そう言いたげにまた瞳は閉じられた。重く下された瞼には深く皺が刻み込まれていた。

 私は小声でお礼を言って、武道場を立ち去った。

 心は幾分か楽になった。しかし、謎が解き明かされたわけでもない。

 私は帰り道、師範の言葉を考えた。部長と私の目が同じ?それはつまり……。

 私は首を振った。単純な話だ。何もかもが、私には、あの荒らされた向日葵畑に繋がっているように思えてならなかった。あそこが磁場のように、私を捉えて離さない。あれが持つ意味こそ、私の不安、焦燥、緊張から解き放つ鍵だろう。今度は、自分の目で確かめなければならない。私はそう考えた。

 辺りは静かなものだった。時折、荷物をたくさん乗せているのであろう大型トラックが何処へと立ち去ろうとして、エンジンを掛けて、排気ガスの狼煙を上げる音が耳に入った。とは言え、どこにそのトラックがいるのかはわからない。私は殺風景な景色にパノラマ的に囲まれていた。電柱はひねもすこんな様子だと思うと、妙な漫ろを覚えた。やがて砂利と車輪とが噛み合わずに、車体がガタガタと揺れる音が遠くに微かにほのめいた。私もその荷台に乗せてもらったら、さぞ幸福だろうと、そんなことを考えた。

「あー先輩。どちらへ?」

エントランスには浩三くんが手持ち無沙汰そうに突っ立っていた。私に片手を上げて挨拶する。

「その辺をぶらぶらと」

「そうですか。楽しかったですか?」

「まあね」

「それは良かったです」

空虚なやり取りを済ませた。

「ところで、明日は、試写会をやろうって話になってるんです」

「試写会?」

「ええ。今まで撮影した映像を、目下、部長が血眼になって編集してます。それを明日、みんなで見ようって」

「スクリーンとかあるの?」

「ええ。貸してもらえるみたいです」

「編集は間に合うの?」

「さあ。部長の裁量次第ですね」

浩三くんの口ぶりはあまり信頼を置くものではなかった。間に合えばいいな、と言っているようだった。頰の辺りをぽりぽり引っ掻いていた。

「もし間に合えば、ご覧になりますか?」

「そうだね。そうしようかな」

私はそう答えた。

「ところで、君は何してるのここで」

「僕ですか?部長が、お前らは作業の邪魔だから散ってな、とか言うものですから、こうして迷子のようにぼーっとしているしかないわけです」

「あっそう。上島くんは?」

「魚を釣って来るとか言って、釣り道具を抱えてどっか行っちゃいました」

「なるほどね」

おそらく、初日に私に漏らした釣りスポットに行っているのだろう。そして、楽しげに語っていた鰍を釣り上げて、当時と変わらない興奮を抱えて私に見せるのだろう。今から、その時のための反応を考えておかなきゃいけない。

「それじゃ」

私はそう言って、浩三くんを後にした。

 部屋に戻った。何も考えないようにするのは難しい。畳の香りすら、麻薬的な蠱惑となって私には感ぜられた。

「仕方ないか」

私はそう言って、目を閉じた。瞼の裏は案外暗くはない。蝉の羽のようだったり、蛇の柄のようだったり、五臓六腑のようだったり、宇宙のようだったり、沼の底のようだったり、記憶のようだったりする。その乱雑に脈絡なく入れ替わるイメージは、私を急かすようであり、同時に、胎盤へと遡行するような穏やかさも有していた。

 眠りにつくのは難しい話ではなかった。屋根の上で横になるように、私は頭の上に両手を、枕のように差し込んで眠った。久しぶりの快眠に落ち合った気分だった。

 目を開けると、部屋はすっかり暗かった。私は緩慢な手つきで明かりを点けて、腕時計を確認した。もう0時を回ろうとしていた。私は逡巡して、まずお風呂へ入ることに決めた。

 全くいつも通り、新聞部の面子はエントランスにたむろしていた。

「いい加減にしたらどうですか?」

私は彼らにそう言う。

「あー先輩ですか」

浩三くんが私の忠告を全く気に留めずに返事した。

「部長。ここであんまりたむろしてると怒られますよ。取材相手から」

私は呆れた声でそう言った。

「いや、実はこれ部長の発案なんですよ」

「え?」

浩三くんの言葉に私は驚く。

「俺の最後の反抗だ、とか言い出して」

「はあ」

私は溜息と感嘆との間の声を漏らす。

「どういうことですか?部長?」

「字義通りだ」

「はあ」

「不服か?」

「それは自由ですけど、ともかく怒られますよ」

「いいじゃないか。どうせ明日で終わりなんだから」

「まあそうですけど」

「さあ。続きをやろう。なあ」

部長はそう言って話を打ち切った。古典的な7並べをしていた。師範の言葉を思い出したが、部長自身に何か変わった様子は見られなかった。

「先輩、これ見てください」

次は、上島くんが口を開いた。手元にあったスマホをせっかちな手つきで弄って、写真を見せてくれた。そこには、山椒魚のような顔をした魚が映し出されていた。頰の辺りから両方に小さく横長の鰭が伸びている。体色は茶色と肌色を斑らに配色したようで、体つき自体は小ぶりであった。

「鰍です!」

「……いいじゃない」

結局、望ましい反応はできなかった。上島くんはしょんぼりしていた。自分の感動がこうして具体的になってもなお伝わらなかったことがショックなのだろう。私は同情で質問する。

「これ、今日釣ったやつ?」

「ええ」

「良かったじゃない」

「でも、大体はメダカがでっかくなったみたいな、魚ばかり釣れましたよ。鰍はたった一匹です」

「レアキャラだ」

「そうなんですよ」

語気を強めたが、私はいまいちそのレア感に乗っかれない。

「餌は?」

「魚肉ソーセージをちぎったものです」

「へえ」

「つまみ食いしたりもしましたよ」

「はあ」

盛り上がらない会話だった。

 私は彼らを置いて、大浴場へ向かった。風呂場には誰もいなかった。

 さっさと部屋に戻って、私は今日の身支度をした。予感があった。今日、あの向日葵畑に誰かがやって来るという予感が。これまでの日々の細片がそう告げているようであった。

 私は深夜3時頃に、部屋を出た。エントランスは人工的な照明でなおも明るい。出ようとすると、後ろから私を止める声があった。

「どちらへ?」

女将さんだった。

「ちょっとそこらへ」

「この時間は危ないですよ」

「ええ。わかってます」

「どちらへ?」

女将さんは繰り返し尋ねる。私の身を案じているのか、それとも。

「炭酸ジュースを買いに行こうと思って」

私はそう言った。そのためには、あの向日葵畑を通らなければならない。私は暗にそのことを告げた。

そこで、女将さんは血相を変えた。寝不足を掻き消すように瞼を擡げた。荒く塗られた薄紫のアイシャドウが古傷のように疼いていた。身に付けられた浴衣の山吹色が、急激に霞むようだった。耳朶に無骨に開けられたピアスの跡を見せるのも厭わないという様子で、髪の毛を振り乱した。慌ただしく揺らされる両手にはいくつものあかぎれが伺われた。そのあかぎれを瞼のアイシャドウに拭わせるような、そんな仕草もしていた。これが、自分を落ち着かせる女将さんなりの手段なのだろうと、私はそう思った。

「やめておきなさい」

「なぜですか?」

「暗いですから」

「でも、炭酸を喉が欲していて」

「水でもいいでしょう」

「気分の問題ですよ」

私は女将さんの動転にさも鈍感であるかのように振る舞った。幼児的な純粋さで脳を満たしているように見せた。首筋に微かにきらめくレモン的な香水の郁郁も、瞼の紫のアイシャドウも、頰の鴇色のチークも、生肉を食らった後のように赤い口紅にも、気づかないふりをした。網膜からは、女将さんの額に滲む苦労皺の事実を捨象して、彼女の若かりし頃の姿を代わりに差し込んだ。

「駄目です。危ないです」

「良いじゃないですか。すぐに戻りますから」

「危ないです。だって、あなたも言っていたでしょう?向日葵荒らしがいるって。もしかしたら、襲われるかもしれない」

「それなら、誰か別の人を連れて行けば問題ありませんか?」

「え、あ……。えっと……。とにかくやめなさい」

連れて行く人なんて心当たりはなかったが、出任せに言ってみると、女将さんがたちどころに言葉を詰まらせた。口だけでなく鼻梁まで覆うように手を当てて、視線を見えもしない向日葵畑の方に向けた。

「大丈夫です。すぐに戻りますから」

「あ、ちょっと。それに今あそこは封鎖中……」

女将さんは私の片手を、あかぎれたその手で掴もうとしたが、呆気なく失敗していた。引き戸を無造作に開けて私はエントランスを後にした。振り返ると、あかぎれを赤子を撫でるようになぞる女将さんを空虚に開いた入り口の向こうに見出した。表情は、全く穏やかそのものだったが、その唇は、こう言っているようだった。

「あーあ」

……。

 私は砂利を蹴散らして、裏手に急いだ。もしかしたら、女将さんが私を追って来るかもしれなかったが、幸い誰も私を止める人間はいなかった。

 松虫か蟋蟀かは知らないが、ススキの揺れる情景を思わせるような鳴き音が聞こえた。早く降りた夜露を啜りに来たのか、葵の真緑色の扁平な葉っぱにしがみつくカタツムリの貝殻が見えた。その重さで、葉っぱはシーソーのように揺れていたが、カタツムリは、その危機に気づかないのか、月明かりの肌触りを確かめるように鼠色の触角を無闇に燻らせるだけだった。

私は、森の方に目を移す。木々が互いを守るように折れ曲がっているように見えた。昼間うるさかった蝉の音は聞こえない。葉っぱを揺らす音だけが、森の方から聞こえた。だから、中の方は見えない。私はその先を想像した。例えば、夜半が終われば、もっと露が降りて、キリギリスや、バッタ、ムカデ、ゴキブリ、蟻の群れが水を求めて雑草の奥地に姿を見せるのだろう。熊だって、猪だって、蛇だって、あるいはその露を貪るかもしれない。そして、その時ばかりは、獲物とか、天敵とか、狩猟とか忘れて、葉っぱに付着した水滴で喉を潤すのだろう。その水はさぞうまいのだろう。学校で、汗ばむ体操着の湿り気を一切気にしないで、後先考えずに蛇口を上向きにして勢いよくその水を顔面に浴びる運動部の姿を度々目撃したが、彼らと感覚はそう違わないのかもしれない。

空には昨日の天気が不思議なくらい、雲一つもなかった。星が全て目に入った。夏の大三角という言葉が小さく思えるほど、数多の星が見えた。その中心には月があった。地球が太陽を中心に回っているように、私には、目に入り得る限り全ての星々が、月を中心に公転しているのではないかと錯覚した。月も動いているわけだから、それは全く妄念ではあるけれど、私にそう思わせる力があったのは事実だった。また私には、いずれこれらの星々が、いずれ月へと吸い込まれるのではないかと思えた。その引力が増大する。月は人の黒目のように、夜空を支配した。今日もこうしてぎょろぎょろと夜空を動き回っては私たちを監視しているのだ。

今日の月は満月だった。クレーターの堀が、恰も子供の落書きのようなデタラメさで表面に刻まれている。あれが何かの形に見えると、子供の頃は随分と友人と議論したが、今思えば、あれは何でもない。玉虫色の権化のようなものだ。オリジナルがないから、好き勝手言える。オリジナルがないから、どれが正当だとも言えない。ならば、その議論に意味はない。月の使者か、かぐや姫でも出てきて、

「あれは実は、鼠の後ろ姿を模したものなんです」

とか、

「工事に失敗しちゃって」

とか言えば、すぐに異論、異説の類は収束を見るのだろうと思う。ただし、現状の玉虫色加減が保たれるからこそ、皆の空想が膨らんで、あれこれと説が出て来るのも一種の道楽ではあるのかもしれない。だから、かぐや姫が出てこない限り、その道楽は安泰だろう。逆に、天文学者のもっともらしい説には意味がない。それは、たとえ説明が正論であっても皆が理解しようとも思わないから。突き詰めれば、そんな話をしていないから、とも言えるかもしれない。学説と俗説は相容れない。論理と空想は交わらない。2次元座標平面上で見れば交わっているようにも見えるが、3次元でみれば、全く違った概形を描いていることがわかる。だから、まあ、放っておくのが懸命なのだろう。嘲笑するように光り輝く月を見て、そんなことを考えた。

 裏手は酷く寒々しかった。向日葵が月明かりに稲穂を揺らすような儚さで揺れていた。これから萎れ、地面へ少しでも多くの種子を落とす時を夢想するような憂いで以って空を向いていた。本来であれば、今頃太陽は地球の反対側を照らしているはずだから、字義通りならば、下を向いているのが正しいのに、向日葵たちは一様に空を見ていた。その現状に、私は何と無く笑った。

 入り口にあったテープはまだ健在だったが、はじめと比べて幾分か力を弱めているように見えた。蚤の腕でさえ、取っ払えそうな様子だった。私はそれをくぐって向日葵畑へ足を踏み入れた。

 私はずんずんと進んだ。誰かに会うかもしれないとかそんなことは考えなかった。すぐに中腹まで至った。外灯の類はなく、月明かり、星明かりしか頼りがなかった。ベンチに座って休憩を取った。

「?」

そこで、私は何者かの声を耳にした。依然として鳴り響く、鈴を弱々しく鳴らしたような虫の鳴き声の中、子犬が泣きわめくような、そんな声が湧き出るように鼓膜に届いた。しかし、幾分蜃気楼のように曖昧なものだったので、幻聴とも取れた。おまけに、声というよりは鳴き声に近い。キャンキャン、キャンキャン、そんな類の。そこで、私は、女将さんの獣説を思い出し、妙な身震いをした。本当に猛禽、野獣の類がここの辺りを根城にしていたとしたら……。

 ひんやりとした空気が、私の肌をちくりと刺す。まさかと思っても、勝手に広がる焦燥を抑えることはできない。

 私は深呼吸をして、ベンチを立った。

 とにかく、女将さんにあんなことを言った手前、炭酸ジュースだけは買って帰ろう、そう思った。空には、やはり星々と月が蟻塚のように点在した。その光どれもが私を見ているように感じた。

 私はほんの少しぬかるみの残る足場を着実に進んだ。そのぬかるみのおかげで、足音は土中に吸収された。泥の感触が嫌で、私は途中から、つま先歩きで進んだ。足先は、確実に泥まみれになるが仕方がないだろう。

 進むにつれて、その鳴き声はより鮮明になった。そして、同時に、何者かの息遣いが、その鳴き声に紛れていることに気がついた。荒々しくて、まるで度を失ったかのような。

 犬の戯れ?私はそんなことを考えて、向日葵を見た。

 向日葵の茎に、夜露が降りていた。それは一体どの星か、月からかはわからないが、光を反射させて、キラキラと光っていた。そして、それは茎を伝って、フリーフォールのようにスーッと地面へと落下した。その落下の一瞬間に、その雫が私の顔を映し出したような、そんな気がした。そして、その時映った私の顔は醜く歪んでいるように見えた。

 私は足を進めた。子犬のような声と荒い息遣いとは、虫のさざめきを上塗りするようにして、私の耳奥を支配的になった。音であるのに、妄念のように肥大化した印象として感じられた。ヒルが足先に巣食っているような、物々しい悪寒が靴の装甲を食い破ろうとしていた。背中には、冷や汗が集積して、それは脊椎までも冷却するのではないかと思わされた。動悸が止まらなかった。泥を気管に詰め込まれたように喉が開かなかった。ぎこちない鼻呼吸だけが、私を貫いた。

 今はまだモザイクだ。私の脳にそんな警鐘が走る。脳みその中心からサイレンを鳴らされている気分だった。それは酷く緊張感に塗れており、同時に、私の思考を遅疑へと追い込むものでもある。一体何が言いたいのか、と反論する余地さえもそのけたたましいサイレンは阻害する。脳にはサイレンがこだまし、聴覚は子犬のような声と荒い息遣いだけが排他的に流入した。救急車の音とシンバルをかち合わせる音が、全く連続している気分だった。

 私は女将さんの表情を思い出す。そして、レイナさんや部長、それに浩三くんやミワさんなど、合宿中に会った人の顔全てを思い出す。皆、しかめ面をしていた。黒々とした頰の贅肉を見せつけるかのように、目は釣り上がっていた。ミワさんの真っ白な白目すら真っ黒に染まる。これらもまた私への警告なのだろうか。いや、この向日葵たちもそうだ。なぜ月を見ている?太陽だけを見つめるのではなかったのか?嘘つきだったのか?

 あるいは、この世界全てが嘘つきだったのか?私は錯乱したような気持ちになる。私は何を焦っている?何を恐れている?また、猜疑心に苛まれて、あの血の張った湖に戻りたいのか?あの血生臭い湖を見出したいのか?なぜここまで来て、私はこんななのだ?全てを見通すのではなかったのか?狂乱と理性との狭間で、私は振り子のように右往左往した。私に中間という概念が喪失していた。見えるのは、どちらも血の湖とその臭気だった。どちらへ行こうとも、私は鼻腔に血液を流し込まれたような心地を見出さなければならなかった。

 私はその場でうずくまった。光を遮断した。視界には、闇が舞い降りた。蝶のような仕草で、それは私の視界を踊った。

 私は目を閉じて、耳を塞いだ。唇はわなわなと震えたが、なんとか食いしばってその口を固定した。何か落ち着くものを考えたが、何も思い浮かばなかった。脳内は、勝手な幻想が周匝した。それは無限に続くものと思われた。今まで私が見過ごした光景を浚うようだった。

 私の目は極めて小さい。スプーン一掬いにも満たない現実しか、私は見定めることができない。宇宙は膨張している。私は宇宙の果てに視点を置かなければならない。私の目の前に広がる向日葵も、結局、宇宙の果てからみれば、壮麗も、絢爛も、豪奢もない。目にすら入らないのだろう。だから、ある意味で、闇に目を遣ることは宇宙の果てにいる誰かの眼とそう大きくは変わらないのかもしれない。

 私は目を擦った。目元が少し腫れぼったくなるのを見出したが、ともかく、覚醒感の伴う心地だった。私の目は、あの月であり、私の魂もまた、あの目の中にある。あのクレーターの凹凸も私の一部であり、私というのは、あの月明かりが続く限り意思を放棄する。そう思うと、唐突に後頭葉を引っ張られるような気持ちになった。ニュルニュルと私の頭に風穴を開けて、脳みそさえも、あの月と同化した。

 私は歩いた。声はより鮮明になった。

「あっあっああ。あんあん。あはん。あっあああっ。んんんんあ。あんあっ。ふん。あっ……」

子犬のような声は、女性の声だった。砧を打つような音が響いた。口元を少し抑えるように声は吃りを加えていたが、理性を失った酩酊と快楽を咽ぶような罪悪感とがその声には込められているようだった。しかしそれも束の間の話で、すぐに、主人の帰りを喜んでしっぽを振る犬のような、歓喜に満ち溢れた吐息へと遷移した。肌の擦れるような音も聞こえた。

「ふっん。あっ。ふん。はあ。はあはあ。ふん。うお。あ。うん。はあ」

男の声もよく聞こえた。何も文章らしい言葉は発しなかった。一心不乱、その言葉がまさに正しかった。男が声を高める度に、女の声も高くなった。餅を石壁に叩きつけるような音に続いて、女は口から胃液を出すような息を何度も漏らした。私は、その女性の口元は胃液でドロドロで、セットされた口紅と混濁して、今頃おどろおどろしい黄土色の粘液覆われているのではないかと考えた。それは、私に妙な高揚感と吐き気をもたらすのにそう時間はかからなかった。

 私は空を見上げた。月が出ている。きっと彼らを照らしているのだろう。そして、あれは私の目だ。だから、私は今天上から、彼らを見遣っていることになる。私はなんとなく、着なれたズボンのポケットに手を突っ込んだ。中はボロボロで、中身の綿が一部露出していたが、私にはそれが蜘蛛の糸のように思われた。 

 私は荒らされていた向日葵の中で、なぜか茎のいくらかに思い切り握りつぶされたような痕跡があったことを思い出した。私は強烈に冷えた肺の息を取り出しながら、その意味を考えた。それは多分、熱情の中、近くにあったものを握りしめたのだろう。だから、あんなにも憎悪を隠しきれないように、茎がひしゃげていたのだ。全く獣じみた手つきで。

 ようやくその頃には、松虫の鳴き声も回復し始めた。とは言え、その鳴き声は不平を声高に主張するような無粋なものとしか思えなかった。

 空には星が綺麗に広がる。私は指でデネブ、アルタイル、ベガをなぞって大きな三角形を網膜に映して見せた。

 そうか。そういうわけで、星を見ていたのか。私は大笑いしたくなる欲求を抑えて、納得した。

彼らの鼻腔は、自分ともう一人の滴る獣臭い汗と水っぽい土塊と向日葵の蜜とを相並べているのだろう。しかし、五感の幾らかは、向日葵や虫たちにも取り払われているのか、時折、ほのかな沈黙が訪れ、大きな鼻呼吸の音が挟み込まれた。鼻炎を託つような、強烈な鼻詰まりもそれは伴った。ともかく彼らは、砂一粒くらいの小さな理性を残して、元の空気に立ち返る余地を残しているようだった。それはきっと、下腹部の熱が横たわる向日葵の残骸に冷却されるような、あるいは自分たちの息遣いに紛れる松虫の鳴き声にたしなめられるような、そんな心地なのだろう。当然それは束の間で、彼らの理性はすぐに失われた。何をしているのかについて、考えるまでもなかった。

私はすっかり言葉を失っていた。何を語ろうにもまず、失笑せずにはいられなかった。彼らはこんな気持ちなのだろうか。そう思えば、なぎ倒された向日葵にも納得いくような気がした。この笑みは、動物的な本能に端を発するものだった。

私はしばらく、嬌声と荒い息遣いと、何かを打ち付けるような音を聞いた。時折、甘いささやきのような声も聞こえたが、それはあたかも幻聴のように闇へ紛れた。それは、誰かへ向けられているようでもあり、もはや深酒の後の昔話のような、ナルシズムにも通じた。

私はそこで、漠然とした不安の正体へたどり着いた。私はこんな現実を夢想していたのか。あるいは暗に認めていたのか。否定できないシナリオとして描いていたのか。そう思うとやはり酷く滑稽な感を否めなかった。私が見ようとして見ないようにしたこと。それは、風船のようにあっさり弾けて、中身が全くの空虚であったことを知らしめた。

 私はポケットから抜け出るような綿を引っこ抜いた。老年の熊のような、強情な触り心地だった。私は何度か手先で弄んで、風下へ飛んで行くように掌に乗せて息を吹きかけた。それは、全くたどたどしい風に揺さぶられて、一度突風で舞い上がって無数の星と月とを視界に入れた後に、滑落するような動作で向日葵畑の奥へと消えた。私はその行き先を見届けずに振り返った。きっとそれが彼らの元へたどり着くことを願った。そんな風に、私は折り合いをつけた。

 私はふらふらと旅館へ出戻った。

「炭酸ジュースは買えましたか?」

女将さんが妙にやつれた表情で出迎えた。眼窩の堀が急激に深まったような印象を受けた。あかぎれをやはり紫色のアイシャドウに擦り付けるようにしていた。その度に、化粧は崩れ、瞼は蝙蝠の体表のような色合いに変化していた。

「いええ。失敗しました」

私はそう答えるに留めた。おそらく、頰はげっそりしていただろうが、それも最早どうでも良かった。部屋に私は向かった。少し行ったところで振り返ると、女将さんがまだ私を見つめていた。その視線は、私を哀れむ以外の意味を見出せなかった。

 私は無意識に布団に入っていた。そう言えば、明日は映像を見るんだったけ?

 映像?それは、メンバーが映っている映像か?私は笑った。

映像?どんな映像を見るんだ?それは楽しい映像か?あるいは、楽しそうに見える映像か?その映像にいささかの価値はあるか?

 喉が異常に乾いたが、水を欲しいとも思わなかった。明日いつも通り振る舞えるかが疑わしかった。メンバーの所作のあらゆる点に私は疑問をつけるのだろうと思った。足取り、手つき、目つき、顔つき、頰の張り、癖毛、毛穴、鼻筋、イヤリング、鼻息、皺、額、服装、靴の汚れ、その全てに私は広漠とした作為を見出すのだろう。

 私は昼間に襲われた血の湖のイメージを取り戻す。それはすっかり枯渇して、お椀型の丸っぽい湖の底を見せるだけだった。血がこびりついた痕跡もなく、地面の凹凸しか見出せない。血生臭さの端緒はどこにもない。寂寥感で覆われていた。不安は消えたが、私の記憶の全てが、蝉の鳴き声のようなものへと置き換わった心地がした。何もかもが、錆を抱えたガラクタに映った。全てを廃棄したいと、そんな熱望と落胆とが私には感じられた。

 目を閉じると、私はあの向日葵畑に誘われた。それは平生見せる色彩を全て消し去って、あの二人の声を、特にあの子犬のような鳴き声を否応無く喚起する。

「んあ。ん。ああ。んっ。あん。あっ。んんんんん。ああ。ん。うあん。ん。んあん。あっ……」

松虫が鳴いている。向日葵が私を取り囲む。目の前には無数の星と満月が転がっている。ああ、あの月の表面のあれは、ひょっとして……、いやどうでも良いか。それを考えるのも面倒か。もっと単純な享楽がある。自然に意味を見出すのも面倒だ。見たままが全てであり、それ以上の意味はない。松虫が鳴いて、向日葵が揺れて、星と月とが夜空に広がっている。ともすれば、川のせせらぎまで聞こえる。私はそれを認識するだけで十分だ……。あ、綿のような物が落ちてくる。きっとこれも私を祝いに来たに違いない。ああ、本当に満足だ……。

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