3日目

 翌日、私は早起きした。妙に寝覚めが良かった。肌寒さからとりあえずエアコンを消した。カーテンをちらっと動かして外を窺ったが、宵闇を示すような薄暗い青が基調だった。鉛雲もいくらか見えた。後数時間もすれば、雨が降り出すのだろう。特にすることもなく、ならば散歩にでも行こうと思った。 

 部屋を後にして、エントランスに向かった。流石にあの三人の姿は見えなかった。

 私はそこで、ケイコさんと鉢合わせした。。お風呂帰りらしく、頰や髪の毛が特有の湿り気を帯びた。ケイコさんは私を見るなり、とても気まずそうな顔を見せて、視線を逸らした。その横顔は相当に赤らんでいた。

「朝早いんだね」

そして、小さな声でそう言った。丁寧に掻き分けられた髪の毛から生え出る耳朶には、丸っこい銀色のイヤリングが装着されていた。彼女の童顔には似合っているとは言い難かったが、大人びた印象を与える効果はあった。

「お風呂お好きなんですか?」

私は何気無しにそう尋ねた。明朝、払暁、爽昧、時刻で言えばそれくらいだ。その時間にお風呂は、物好きとしか思えなかった。

「え、ええ。まあ、そうね」

ケイコさんはそう口ごもったように答えた。その後わざとらしい咳払いを何度かして、私の方を見た。イヤリングがぶらぶらと揺れていた。頰の赤らみは若干落ち着いて、整然とした肌色を加えた。

「石枝さんは今からどちらへ?」

「なんか早く目覚めてしまったので、とりあえずその辺散歩しようかなと」

「普段はそうじゃないの?」

「今日はイレギュラーです。普段は、死ぬまで寝てやろうって腹づもりのことが多いです」

「そうなの」

ケイコさんはそう言って、イヤリングを何度か弄んだ。それが時折、照明に当たって、独特の鈍感な閃光を帯びた。その仕草はどこか艶かしい。

「それじゃあ、私部屋に戻るね」

ケイコさんはそう言って、足早に立ち去った。私はその後ろ姿を最後まで見送らず、エントランスを後にした。

 明け方とあって、陽射しはない。炭を混ぜたような青色と灰色の雲の群れが空一面に広がっていた。空気もひんやりとして、心地良い風が辺りを吹きさらしていた。道に転がった砂利を踏み均すのが面白くて、私はすっかり童心に返った気分だった。

 だいぶ寄り道して、私は向日葵畑へ到着した。明朝、それも至近距離で見ると、また違った味わいが生じていた。月明かりも星明かりも太陽もない。そんな中でも、この向日葵たちは息づいている、それはどこか不思議な感覚だった。

「あれ?」

中腹あたりで、ベンチに佇む人影を発見した。無機物のように動かず、ただ一心不乱に向日葵を見つめていた。私は忍者のような身のこなしでその人影に接近した。

「あれ?部長」

部長だった。缶コーヒーを片手に、膠着している。私の呼びかけにも答える様子はない。

「部長?」

私はさらに近づいて、そう言った。

「え?」

その声に覇気はない。眠そうな気もない。釣り上げられた魚のような、そんな調子を含んでいた。

「何してるんですか?」

「その声は、石枝くん?」

「ええ。そうです」

「そうか。何しに来た?」

「散歩です。珍しく寝覚めが良くて」

「なるほど」

部長は重厚に頷いた。

「ところで、このコーヒー飲むかい?すっかり冷めてしまったけど」

部長はそう言って、缶コーヒーを差し出した。チャポチャポと中の液体が揺れる音がした。

「いるわけないでしょう」

「あははは」

早朝とは思えないくらい痛快に笑って、部長はコーヒーを口に含んだ。苦味を耐え忍ぶかのように、頰を忙しなく動かしていた。飲み下す時の喉仏の震えが、暗がりでもはっきり視認できた。心肺停止した心臓がもう一度脈打つかのような胎動を想起させた。

「それで、何してたんですか?」

私は気を取り直して尋ねた。

「早起きは三文の徳と言うでしょう」

「言いますね」

「つまり、そういうことですよ」

「はあ」

答えているような、答えていないような。

「いつからここに?」

「さあ。忘れました」

「そうですか。ちなみに変な人影とかは見ませんでした?」

「僕はずっと向日葵を見ていたから、わかりません」

「そうですか」

「つい先ほどそう言えば、師範がジョギングしているのは見かけました」

「ジョギング?師範が」

「ええ。顎鬚を揺らして走り去って行きました」

向日葵畑の入り口の方を指差した。つまり、奥からやって来たと言いたいのだろう。

「師範ねえ……」

あの人が向日葵荒らしの可能性が俄かに浮上した。まあ、何考えてるかわからない人だから、犯人であってもさして驚きはない。幕引きを図るとしたら、一番具合の良いシナリオであるのも間違いない。賢しらに、外部犯の犯行に相違ない、と連呼する探偵小説のモブの心情に通底するものがある。

「しかし、いつもこんな早起きしてるんですか?」

私は部長に尋ねる。

「なんとなく目が覚めてしまっただけですよ」

「……」

先ほどの早起きは三文の徳とかいう言葉を早々に撤回した。部長は缶コーヒーの口に片目を当てて、後どれくらい残っているか確かめていた。多分、闇しか見えてないと思う。

「向日葵の花言葉は知ってるかい?石枝くんは」

ふと部長がそう言った。

「上島くんにも言われましたよ。それ」

「そうか。まあ、有名だからね」

「ええ。君だけを見つめる、とかですよね」

「そうだ。美しい花言葉だ」

そう言って、部長は缶コーヒーを一気に飲み干して、思いっきり手で握り潰した。そして、

「これ向日葵の中に投げ飛ばしちゃ駄目かな?」

と言って、ひしゃげた缶コーヒーを指差した。

「駄目に決まってるでしょう」

どこに承認の余地があったのか問い詰めたい。

「なら百歩譲って天空に」

「大気圏まで届く腕力があるなら良いですけど」

「ああもちろんさ」

そう言って、部長は間髪入れずに空めがけてその空き缶を投げ飛ばした。私たちはその缶の行方を目で辿った。高々と空中に回転して、若干の白みを加えた薄暗い大空に一瞬同化したかと思うと、部長が投げ飛ばした速度の倍近い速さでさっさと地上に落下してしまった。カランカラン、と空虚な音が数回辺りに響き渡った。

「どうやら無理でした」

「当たり前でしょう」

私は呆れていたが、落下したその空き缶を見つめる部長の瞳を検討するに、強ちギャグでやったわけでもなさそうだった。ペンギンが猛禽類を羨望するかのような憂いに満ちていた。

 それから部長はトボトボと空き缶を携えて帰ってしまった。

 私はしばらく漫然と向日葵を眺めた。同心円上に広がる花の中心が、ブラックホールのように私の視線を集中させた。あの中に広大な世界が広がっていれば、それはとても具合が良いと、そんなことを考えた。

 予報通り、雨が朝方の早いうちに降り始めた。あっと言う間に地面は泥濘み、向日葵はどれも視線を下ろしてその黄色を希薄にした。連日の猛暑を忘れさせる涼しさが、濡れた地面からほのめいた。

私は、武道場へ向かう道中、一行の最後尾につけて周囲を見回した。木々の葉に落ちる雨粒が、木陰に零れ落ち、それは小さな水たまりを作っていた。その上にはアメンボや、落ち葉が浮かんでいた。

「儂は修行に赴く」

武道場に着くなり、師範はそう宣言して武道場を立ち去った。蛇のように長く束ねられた髪の毛が地面と擦れて早々に泥だらけになっていた。そのまま森の奥地へ消えた。我々はその後ろ姿をただ見るしかできなかった。

「それじゃあ、始めようか」

レイナさんのそんな号令で、メンバーは一様に準備を始めた。その間も、部長と浩三くんがカメラを回して、熱心にその様子を撮影している。

「映像撮ってどこかに発表でもするの?」

私は手持ち無沙汰そうな上島くんに話しかけた。今日は麦わら帽子は被っていなかった。雨に濡れると嫌だからと、持参しなかったそうだ。

「特にその予定はないですね」

「ふーん。ならどうして撮影するの?」

「大仕事がしたいとは言ってましたよ」

「うん。それは私も聞いたんだけど、でも、発表はしないんでしょ?」

「ええ」

「なら、撮影する意味なくない?取材だけで終わるよね?」

「まあ、そうなりますね」

上島くんは特に気にも留めない口調でそう言った。

「気にならないの?」

「部長は大雑把なんですよ。最近執筆した記事を知ってますか?」

「ああ。学校の焼却炉について丸々一面割いたんだよね」

少し前聞かされた。

「そうです。つまり、そういう人なんですよ」

「ああ。なるほどね」

それで言いたいことの大半は伝わった。

「でも、良いの?そんな道楽に付き合わされて」

「僕らに何か報道マン的な信条もないですから。楽しくやれれば十分ですよ」

「ふーん」

「不満ですか?」

「まあ、だからうまく回ってるのかもね」

「?」

上島くんは首を傾げていたが、私はそれについて補足はしなかった。私は上島くんの元を離れて、隅っこへと移った。

 武道場には備品から引っ張り出した廃品同然の扇風機の羽音がガタガタと響いていた。強と中のスイッチが壊れており、弱風しか送りこめなかった。まああるだけマシか、と皆口々に嘯いた。

 そうこうするうちに準備が整った。私はワクワクを滾らせながら、その場で体操座りした。

「ここで本当にやるの?」

コウタさんが、辟易した様子でそう言う。他の面子も似たり寄ったりだ。ただ、レイナさんだけ顔は明るい。

「折角撮影してもらえるんだから。それには雨だから、今日くらいしかこんな機会ないだろうし」

そう励ましていたが、メンバーの顔は冴えない。無理もない。

「それじゃあ、一曲目。サーカスライオン」

レイナさんはそれから向き直って、そう宣言した。そして、サーカスライオンの練習が開始された。私は、彼らの練習をほぼ独占できる状況にいるという事実に酔いしれて、肝心の曲への集中を怠った。そう言えば、今日は蝉の鳴き声が聞こえないとそんなことに今更気づかされた。

 ……。

 練習は休憩を挟んで、夕方まで及んだ。雨脚は安定して強かった。蝉の声は一切鳴り響かず、全てが土塊へと還ったようだった。私は目を閉じて曲だけに意識を向けていた。そうすれば、色々と考えなくて済んだ。

「あーあ。雨だ」

休憩中、コウタさんはそう言って憂鬱そうに窓辺から外を眺めていた。

「雨ですね」

近くにいたケイコさんは呼応するようにそう言っていた。イヤリングが揺れている。

「雨かよ」

シュウさんもそう呟いた。そして、大きな欠伸をした。

「雨ね」

ミワさんだけは平坦そうだった。マニキュアを撫でて時間を潰していた。

「……」

レイナさんは何も言わず、その場で放心したように脱力して座っていた。

「天の恵みを大地が噛み締めている……。全ての神に感謝を」

部長はそう言った。アーメン、とでも言い出しそうだった。 

「良い映像撮れた?」

私は合間に、浩三くんに話しかけた。何やら映像チェックをしているらしい。

「ええ。もちろんです。見ますか?」

「長そうだから遠慮しとく」

私は慇懃に断った。しかし、意外にも熱心なのだなと思った。上島くんは始終怠惰に座っているだけだったから、ずっとカメラを回した浩三くんは対照的に勤勉にも映る。

「大変じゃない?カメラマンの役目も」

「いえいえ。案外楽しいですよ」

あっさり否定された。

「映像撮って、それって誰が編集するの?」

「部長です。俺の腕が鳴るぜって言ってましたよ」

「部長の腕って鳴るの?」

「さあ」

せいぜい貧相な力瘤が浮かび上がる程度だろう。

「部長ってそういう技術もあるの?」

「わかりません。編集界隈の小津安二郎って呼ばれたこともある、とは言ってましたよ」

「喩えが古いな……」

イマジナリーフレンドに言われたとかそんなオチだろう。

そんな私の気難しい顔を見て、浩三くんは、

「心配ですか?」

と尋ねた。

「心配っていうか、まあ、気になるっていうか」

有り体に言えば、野次馬気分だった。

「ただ、部長が案外乗り気なのはびっくりですよ」

そう言って、浩三くんは部長の方を見た。部長は窓の外の様子を楽しそうに見つめていた。

「どうして?」

「部長は、取材旅行に来たというよりは、旅行の一環に取材をしに行くってテンションだったんですよ。旅行での一番の楽しみは、カードゲームだ、と豪語するくらいでしたし」

「……そうなの」

「それが、こうして引っ付いて撮影ですから。相手もここまで密着されるとは思ってなかったんじゃないですかね」

「君は嫌じゃないの?」

「僕ですか?別に、部長に任せるだけですよ」

あっさりそう言った。あの人はあの人で、それなりの人望を得ているのだなと思った。

私はそこで何と無く向日葵畑のことを話してみるつもりになった。私は出し抜けにその件を一方的に語った。

「物騒ですね。向日葵荒らしなんて」

聞き終えると、そんな月並みな感想を述懐した。

「夜通し誰か来ないか見張る気とかはない?」

私は流れでパスしてみる。

「嫌ですね」

あっさり断られた。

「そりゃそうだ」

私は食い下がらずその判断を肯定する。

「ちなみに、心当たりとかは?」

「残念ながらないですね。初日以来行ってませんし」

「不審人物とかも見なかった?」

「ええ。誰も見ませんでしたよ」

「そっか」

有力な情報は得られなかった。私の落胆ぶりに浩三くんは同情的だった。

「そんなに気になりますか?」

「なんか引っかかるというか」

私もうまく言葉に表すことができなかった。期せずして沈黙が広がり、それは雨脚が強まっていることを知らせてくれた。浩三くんは、その間、ずっと表情を動かさなかった。

「でも、女将さんの話では、獣だったり、酔っ払いだったりの可能性もあるんですよね?」

「うん」

「なら、そうなんじゃないですか?」

「まあ、そう考えるのは確かに手っ取り早いんだけど」

私の観念がそれを否定した。あれをそう片付けるには、橙色を赤色と言いくるめるような違和感が伴った。確かに、見方によればそれも不可能ではない。しかし、それだけの話だった。

強烈な己のうちの溝を埋めることは叶わなかった。

「そろそろ始まるみたいです。それでは」

浩三くんは申し訳なさそうにそう言って、鼻を引っ掻きながら立ち去った。私はもどかしい思いを抱えながら、また隅っこへと移動した。肌寒さが急に私を襲って身震いした。

 辺りが薄暗くなり始めた頃に、師範が帰還した。藍色の道着がビッチョリと濡れて、自慢げに蓄えられた顎髭は、泥だらけだった。

「ゲッラウ!(=get outと言いたかったのだろうと思われる)」

師範はそう言って、立ち退きを要求した。頭を振って言うものだから、少林拳の一門のように長く束ねられた髪の毛から水滴と泥濘がびちゃびちゃ、と飛び散った。白髪の髪の毛が土色になっていた。皆、ひどく疲れていたし、それに言い返せばどう考えても面倒が巻き起こるというのが理解されていたため、誰一人文句は言わなかった。部長が師範に稽古の誘いを受けていたが、流石に固辞したようだった。

 片付けはすぐに終わった。外は何とか前方が窺えるくらいの明るさだった。ポツンポツンと設置された外灯も寿命を間近と言いたげに、微弱な光しか飛ばさなかった。その光に照らされ青葉は、どれも雨で垂れ下がっていた。皆疲れていたらしく、ぬかるんだ足場に体勢を崩す姿が散見された。

 暗がりでは、隣と隣の傘がしばしばぶつかった。プラスチック製の素材が衣擦れのような音を立てていた、ガサガサと木々が風に揺れて怪しい音を出した。私は傘からポタポタと零れ落ちる雨粒が、私の靴に落下するのを何度も目で追った。その度に靴に水は侵食し、いつの間にか、靴下はずぶ濡れになっていた。真っ黒なものだったが、明日になれば鼠色に変わっているかもしれないと、そんなことを思った。

 私は最後尾を歩いた。、何か前では話をしているらしい声がボソボソ聞こえた。私はそれに耳を傾ける気力がなかった。

 空は鉛色で覆われた。ビニール傘を通して見れば、その様子は俄然曖昧さを増す。仕切りに打ち付ける雨粒が、抽象画のような印象を与える。

 私はそこで足を滑らしてすっ転んだ。後頭部を強かに打ち付け、背中には泥っぽい蠢動がじくじくと感じられた。倒れた衝撃で、泥が飛び散り、私の唇や頰にもいくらかその一部が付着した。拭おうとしたが、それはビロビロと汚れを伸ばすだけだった。やがてそれは雨粒で綺麗に流れ落とされた。

傘はその辺に弾き落とされ、その上には依然として雨がポツポツと落下した。私は助けが来る間、痛みにも鈍感になって、空を眺めていた。確かに泥だらけで、みっともない格好ではあったけど、官能的な心地がした。

「大丈夫!?」

重たげな足音を引っさげて、レイナさんが私の元へ駆けつけた。靴底は泥だらけだった。酷く焦った顔をしていた。髪の毛は雨に打たれ、額からは汗と雨粒が混じったような雫が頰を流れ落ちた。

「ええ」

私は全く呑気な声でそう答えた。レイナさんは安堵したよう頰を少し緩めた後に、

「肩を貸して!」

と大声で叫んだ。

 私と言えば、レイナさんが私を助けてくれたという感慨よりも、鉛色の空にまた意識を向けていた。向日葵を荒らした何者か。その人もまた、こんな心地を求めていたのだろうかと、そんなことを考えた。

 ……。

 介抱されながら旅館に戻った。服は泥だらけだったが、身体に異常はなく頗る健康だった。私は、とりあえずこの衣服は洗濯しておきますので、という女将さんに感謝して、我先にと温泉へ向かった。誰もいない貸切の中、私は汗を流した。久しぶりにゆっくりしたお湯を楽しめた。私はそこで、先の鉛雲への心酔について考えたが、魔が差したという結論を見るしかなかった。

 エントランスに戻ってくると、ソファに深く腰掛けたシュウさんが足を組みながら、スマホをいじっていた。不健康そうな目つきをして、スマホからの光が彼の鼻梁に溜まった微かな脂を光らせた。そこはいつもなら新聞部3人が陣取っている場所だった。

 シュウさんは、サーカスライオンのビジュアル系担当だった。髪の毛は金髪で、トゲトゲした髪の毛を好んでしていた。耳には大仰なエメラルド色のピアスがぶら下がった。彼から私は、女性ファンからの黄色い声援にいかにも貴公子然とした表情で応えている姿を私は真っ先に思い浮かべる。偶像的な人だった。私とはあまり話は合わそうな気はしていた。

「ねえ、君」

私が素通りしようとすると、そんな具合に呼び止められた。スマホはすでにポケットに仕舞われた。

「なんですか?」

「お風呂上がり?」

「そうですが」

「いいじゃない」

キザな台詞を口にした。その人だからこそ許される言葉というのは遍く存在するが、シュウさんはそんな言葉を発していた。

「ちょっとお話しない?」

「お話?」

「うん」

そう言って、柔和な笑みを見せて私を誘った。私は自分の意志に反して、彼にはにじり寄った。目つきの荒々しさをひた隠すように丸みを帯びた目尻が、私には末恐ろしかった。手汗が滲むのがわかった。

「ほら座ってよ」

私は言われるがままに、彼の隣の席に座った。そこそこの距離があるのが救いだった。

「君は、僕たちのファンだってね。聞いたよ」

「そ、そうですか。誰からですか?」

「ミワが言ってた」

「なるほど」

「誰が好きなんだい?」

射抜くような目つきで以ってそう言われた。私が視線を外そうとしても、そちらへ視線をずらした。その瞳は作為的なほど穏やかだった。

彼は柑橘系のスプレーでも首筋に吹きかけているようだった。その香りがプーンと私の鼻を掠めた。やにわに先ほど強打した後頭部の傷が思い出され、私は酩酊したように頭痛を覚えた。

「み、みなさん素晴らしくてみなさん大好きです」

一般論に逃げた。さっさとここから逃げたかった。

「本当?」

囁くようにそう言われる。気づけば、彼はソファの縁に座って私との距離を狭めていた。彼の甘い香りに身が竦む。思考が鈍る。頭が痛い。逃げようにも磔にされたように身体は動かない。

「レイナさんが一番で好きです。あの声が好きです」

無理にでも大声を出してそう言った。

「へえ。そうなんだ」

あっけらかんとした態度。それは余計に私に緊張をもたらした。

「君さ、彼氏とかいる?」

唐突にそんな質問をされた。

「え?」

「不躾でごめんね。ただ、気になるからさ」

「あーいや、どうでしょう……」

私は口籠る。ずっと彼のペースだった。その軌道から逃れようとしても、なんだか思考がうまく機能しない。頭が酷くクラクラする。

 どうしてこんな風になっているのか。ふと考えて、それは例えば、彼の甘ったるい香りであるとか、私を見つめる瞳であるとか、私自身の弱さであるとか、色々と言うことができた。私はとにかく俯いた。

「こんな綺麗な手なのに」

俄かにそんな言葉が聞こえて、シュウさんは私の手を取った。彼は私の肌を何往復も撫でた。彼の手は驚くくらい冷め切って、冷血だった。

撫でる。

撫でる。

撫で回す。

それは死人を愛するかのように執拗で、好色的だった。私はしばらく顔を震わせるだけだった。カーッと身体に熱が瞬く速さで循環した。酷く熱かった。

ようやく私は顔を上げて非難を示そうとしたが、明確な拒否ができなかった。身体が虚脱したように力が入らず、声も出なかった。彼はそれを待っていたとでも言いたげに、唇を僅かに掲げた。

「ここじゃなんだから、外に行かない?夏の雨の夜というのも悪くないよ」

「あ、いや、それは……」

「いいじゃない。ね」

彼はそう言って、私を外に導こうとする。ピアスが荒々しく振動した。彼の手つきは手慣れているようで、魔法のように私の腰を浮かしてしまう。彼はその時、ここぞとばかりに私の腕に力を込めた。獲物を離すまいとする狩人のようだった。

 しかし、私は何をやっているのだろう。現状を鑑みる私が存在した。でも、同時に、このまま彼に連れて行かれてどうなるのかを気にする未熟な私もいた。そして、今の私のなかでは、その未熟さが優っているようだった。漠然とした高揚感と夢見心地。それが今の私を取り巻いていた。

「何してるの」

私のスリップした感覚は、そんな凛とした言葉で排斥された。

「チッ」

大仰な舌打ちとともに、私の手はぶっきらぼうに離された。私はその剣呑さに、言葉を失った。シュウさんはエントランスの入り口にちょうど手をかけていたのだ。

「何してるのって聞いてるの」

声の主はレイナさんだった。その顔は鬼気迫るものがあった。私はその場にへたり込んだ。

「別に。外の雨でも見に行こうって言っただけだけど」

「許可は?」

「取ったよ。な?」

シュウさんはそう言って、私を覗き込む。私は放心していた。その対応に、シュウさんはまた舌打ちを繰り返した。

「岬ちゃんはそうでもないみたいだけど」

レイナさんがそう言った。シュウさんは、

「あーあ」

と退屈そうに嘆いて、後頭部をバリバリと引っ掻いていた。先ほどまでの優しい空気が消え去っていた。そこにあるのは打算と私欲の権化。彼の目には初めから私など映っていなかったようだ。

「あーあ。興醒めだよ」

彼はそう言い残して、スタスタと立ち去ってしまった。イラついたように大仰な足音を立てていた。レイナさんは最後まで彼の後ろ姿を見失わなかった。シュウさんの姿が消えた瞬間、振り向いて私を気遣った。私は何も言わずに、レイナさんの身体に抱きついた。

「本当にごめんなさい……」

レイナさんはそう言って、私の頭をずっと撫でてくれた。私は理由もわからない涙がハラハラと流れるのに気がついた。それは、私の服を静かに濡らしていた。

 レイナさんは私を座らせて、売店でお水を買って来てくれた。私の奢り、と笑顔で言ってくれるのが嬉しかった。

「落ち着いた?」

「まあ、何とか」

私は水を含みながら、そう言った。錯乱していた心もだいぶ理性を取り戻していた。

 その後、お互い無言だった。聞きたいことは多分二人ともあったが、そうさせないのは、そんな単純に切り出せる話ではないというのが理解されていたからだと思う。

 私は間断と水を飲みながら、シュウさんは私を外に連れ出して何をしようとしていたのか考えた。そして、それは蜘蛛が腹上を這いずり回るような悪寒と恐怖とを私にもたらした。降り続く雨の音が今日はいつになく不穏じみていた。泥水が私の血液となっているような、不気味な感覚に襲われた。どうして私はノコノコと……。そんな後悔にも似た疑問が水を喉に流し込むたびに思われた。

甘美なデオドラント、縋り付くような瞳、エメラルドのピアス、後頭部の疼痛、、異性であるということ……。ああ、きっとあれらが、とそんなことを思った。

「どうして、ついて行こうとしたの?」

レイナさんはぽつりそう言った。私はハッとなってレイナさんを見たが、レイナさんの視線は机の方へ向けられていた。その表情は、苦渋に満ちていた。それを私へと見せまいと、苦悶しているようでもあった。

 私は必死に理由を考えた。しかし、結局思い当たるのは、個々の言葉ばかりで、有機的な説明はできそうもなかった。だから私は逃げるような、弱々しい笑みを見せて、

「魔が差したんだと思います」

と答えるしかなかった。レイナさんは、少し表情を和らげて、

「そっか」

と言うだけで、それ以上は何も聞かなかった。

「とにかく、気をつけてね。私もずっと見張っていられるわけじゃないから」

レイナさんは、そしてそう言った。語尾に行くに連れて、声音は落ち込んだ。

「シュウさんって……その……」

私はおずおずとそう言った。それだけで、レイナさんは私が言わんとしていることを把捉したようで、自嘲じみた笑みを浮かべた。

「ああいう人なのよ」

そして、そう言うだけだった。嘆息するでも、呆れるでもなく、その顔は平素と全く隔たりがなかった。それだけで、私はその言葉の意味を理解できた。

 私は初日にレイナさんから言われた言葉を思い出す。


―なんてことないんだけど他のメンバーともしお話ししたかったら、私を通してもらえないかな


 この言葉があるいはそんな具合の意味を持っていたとしたら。私は失笑して、思わず残りの水を飲み干してしまった。きっと違うと表面的に否定しても、その認識は深まるばかりだった。

その後は、薬にも毒にもならない雑談をした。帰り際、レイナさんは丁寧に私を部屋まで送り届けてくれた。

「ごめんね」

扉を閉める間際、そんな悲痛な言葉と瞳が残された。バタンと扉を閉めるのが、私には申し訳なく感じた。

 私は別にレイナさんにあんな顔をさせたかったわけではなかった。楽しくこの合宿を過ごせれば良かった。しかし、現状はどうだろう。妙な不安と悪寒に襲われてばかりだ。

「あーあ」

私は一人部屋で嘆いた。シュウさんに手を撫でられた時の火照りが今でも思い出される。

「はあ」

私は大仰に溜息を吐いた。本来疲れているはずなのに、全然睡魔はやって来なかった。かと言って、何かをする集中力も当然のようになかった。私は茶褐色の天井を眺めて、その上に広がっているであろう、鉛色の雲を想起した。

 私はレイナさんの言葉を思い出す。

―空と地上とが逆さまだったら。

 もしもこの空一面に、向日葵が咲き誇っていたら。私はこの瞬間だけは、その世界に感謝したと思う。きっとそれは、沼地から手だけを差し出す私を引き上げてくれるような、そんな明朗さを持っていたに違いない。そして、その先には、レイナさんが笑っている光景が、後光のようにほのめいていた。

 気づけばもう、夜深い時間になっていた。私はなんとなく新聞部の面子がいる気がして、エントランスへと向かった。

「僕の勝ちです。降りてください」

「ハッタリだよ」

「上島先輩の方こそ、さっき顔しかめていたの、僕は見ましたよ」

「それがフェイクって可能性は?」

「そんなところにまで、先輩は頭回りません」

「お前、結構失敬だな……」

上島くんと浩三くんがポーカーに興じていた。私は酷く安心した気持ちになって、二人に近づいた。ただ、部長の姿が見えない。

「あ、先輩ですか」

浩三くんが私に気がついた。

「部長は?」

「気分が悪いかもしれない、とか言って、今日はお休みです」

「何それ」

気分が悪いかもしれない、という状態は一体どのようなのか疑問だった。限りなくそれは仮病だろう。

「でも、部長珍しく今日は無口だったな」

上島くんが思い出したように浩三くんに言った。

「そうだったの?」

私はサーカスライオンの演奏に夢中でそんなところにまで気が回らなかった。割と熱心にやってた記憶はあるけど。

「まあ、僕の印象ですけど。浩三はどう思った?」

「口数は確かに少ないとは思いましたけど、誤差の範疇じゃないですか?ジェットコースターみたいにテンションの起伏が激しい人ですから。それに、ずぶ濡れの師範が帰還した時、やたらに騒いでたじゃないですか。あなたのような人がいてくれて本当に嬉しいとかなんとか」

「それはもう信者の領域だ……」

私は呆れたようにそう言う。

「君らは、サーカスライオンのことって知ってたの?」

私は興味本位でそう尋ねる。二人は次のゲームの準備をしながら、頭を巡らせるように首を傾けていた。

「少なくとも僕は知らなかったですね」

浩三くんがシャッフルしながらそう言った。

「同じく」

上島くんが、面倒そうに手を挙げている。

「そうなんだ。だったら、あまり興味もないのかな?」

「本音を言えばですけどね」

浩三くんは特に躊躇もなくそう言った。

「僕は、こんな山林じゃなく海を希望してたんですけど、部長が、これはいけるって、押しが強いものですから、僕ら二人も根負けしたんです。まあ、そこまで海に行きたかったわけでもないですし」

結局は海に行けど男三人が並ぶだけですからね、といらぬ補足をした。

「そうやって口に出すから、運が逃げて行くんだよ」

上島くんが浩三くんを諌めた。言霊を信仰しているらしい。

「ところで、先輩はなぜにサーカスライオンがお好きなんですか?」

上島くんが、配られた手配を眺めながらそう尋ねた。私はつったているのも疲れ始めた頃だったので、もう一つ空いている席へと腰掛けた。いつも部長が座っている席だ。二人は、その私の行為が予想外だったらしく、動きがかなりぎこちなくなっていたが、かと言って言及するのも憚られるといった様子で、ただ自らの手配を凝視していた。

「なんでだろうねえ」

私はそんな二人の様子を尻目に、理由を考えた。

「君たちって、好きな本とかないの?」

私は少し考えて、そんな質問をした。

「生憎僕は映画派でして」

浩三くんが申し訳なさそうにそう言う。私はじゃあ君は除外だ、と宣告して上島くんに目を向けた。

「好きって言われても、そんな心の底から琴線に触れたみたいな作品には未だ出会ってないですね」

「なに。二人して」

私は話の流れを阻害されて気になって、悪態をついた。二人はへこへこしてしながら、山札からカードを引いていた。

「それで、何が言いたかったんですか?」

平然と上島くんはそう言った。その様子はある種白々しく、おそらく既に手札の合計は21を超えているのだろうという予測がついた。

「それじゃあ、今まで生きてきた衝撃だったこととかない?」

私はもったいぶって話を続けた。

「まだ続けますか?」

「説明するのに必要なの」

私はそう言って宥めた。上島くんは特に納得しているようでもなかったが、あるいは自分の手札が悪いことを隠すために注意を逸らしているとも考えられた。

「ほら、浩三。なんかないか?」

上島くんが、浩三くんに促す。

「じいちゃんが死んだ時のこととかですかね」

「詳しく教えて」

「その前に、一旦勝負の続きを」

そう言って、浩三くんはポーカーの続きを促した。上島くんは、散々お前降りろと言ったが、互いに譲らず、結局同時に見せようという話になった。結果、浩三くんがスペードの2、ハートの5、クローバーの2という惨憺たる手札で勝利した。

「上島先輩、めちゃくちゃ平静である感を出していたからどうせ駄目なんだろうなと思ってたんですよ」

上島くんの方策は容易く見抜かれていたようだった。上島くんは欺いている自信があったらしく、わかりやすく項垂れていた。

「この辺にしておきましょうか」

浩三くんはそう言って、トランプいじりをやめた。

「それで、じいちゃんが死んだ時の話は?」

「ええ。長くなりますけど」

そう前置きして、浩三くんは話を開始した。上島くんはまだ項垂れていた。

「なんてこともない話です。僕が中学1年生の頃にうちのじいちゃん、父方の方ですけど、が危篤に近いってことで、朝早くに車を飛ばして療養している親戚の家に連れて行かれたんです。僕が到着した頃には、気息奄々という容態で、結局ものの数分で亡くなってしまいました。集まった親戚が泣きながら、じいちゃんの身体を拭いていました。十分人は足りているように見えたんですが、僕はちょっと手伝おうとおじいちゃんの体に触れました。その時、感触自体は人肌なのに、野ざらしにされたコンクリートのようにじいちゃんが冷え切っていたのを覚えています。それが子どもながら妙に怖くて、結局碌に手伝えませんでした」「後、お酒がすごい好きで、よく近所の酒屋に行って紙パックのお酒を買っていました。幼稚園の送り迎えも自転車の後部座席に僕を乗せてくれました。まあ、それで一回僕が不注意で足を自転車の後輪に挟まれるっていう事件があって、ちょうどその時サンダルだったので、くるぶし近くの皮膚がめくれてすごい痛くて、数週間通院する羽目になったってこともありましたね」

「何の話だよ」

少し回復した上島くんがそんな茶々を入れる。ただ、浩三くんはあまりそれに反応する様子もなかった。

「そんなじいちゃんが死んだんですけど、不思議と死んだという感覚がなくて、まあ親戚一同が、僕のうちはじいちゃんばあちゃんと一緒に暮らしていたものですから、挙って僕の家に集まったんですが、僕は従兄弟と頗る仲が良くてですね、じいちゃんの死を悼む以前にその従兄弟と会う機会が得られたということの方に気が取られていたんです。その従兄弟が、お経を読み上げる坊さんの『合掌』という言葉を『合唱』と取りちがえるなんてこともありました。一緒にお経を読みましょう、の合図かと思ったらしいんです」

浩三くんはしみじみとそう言う。懐古めいた表情が滲み出ていた。反面、上島くんは興味なさそうに欠伸をしていた。目尻に涙が溜まっていた。

「とまあそんなこんなで、納骨まで至りました。焼けて残った骨はまだ熱気を帯びていて、母親が、『あんたも取りなさい』って勧めるんですけど、熱くて重いから、子供の僕には難しくて、結局小さいのを2、3取って、親戚の誰かに手渡したのを覚えています。ただ、その時も、じいちゃんの細胞が燃えきって、それを支えていた名残が残るという感覚が欠如していて、夢見心地でした。骨を取るという行為をしているという自覚だけがあって、それが僕のじいちゃんの物だという感覚は希薄に近かったです」

「へえ」

私は何となくその光景や感覚を脳内に再現しようとしたが、ついぞ叶わなかった。再現するための根拠や材料が私の中には致命的に欠如した。

「それで、僕は帰りました。家に帰って適当な挨拶をしながら、親戚が一人、また一人と帰りました。段々と賑やかさがなくなって、最後には僕の家族だけになりました。それで、一人部屋に帰ったんです。凪いだように静まり返っていたのを覚えています。そこで初めて、僕はじいちゃんの死ということに向き合ったんです。ずっと、誰かと一緒にいたから、だから僕は気を逸らすことができていたのだと、そう思いました。あの静寂は、僕に死の現前として理解されました。その時、僕は涙を流しました。死んだんだなと思って」

「それが、衝撃?」

「ありがちな話ですけど」

浩三くんは照れ臭そうにそう言う。

「あの感覚は当時は衝撃でしたよ。言いようもなくって」

「なるほどね」

私は満足して頷く。

「何で、酒好きとか、後輪に足突っ込んだ話とかしたんだ?いらなくないか?」

一方、上島くんが非難するようにそう言う。手元では、トランプを乱雑にシャッフルしていた。シャカシャカとプラスチックの擦れる音が響いた。

「なんでか僕もわかりません。喋るうちに思い出しちゃって……」

浩三くんは語尾を濁した。上島くんは不服そうだった。

「何だそれ」

「あくまで個人の経験とそれに基づく感想ですから」

浩三くんはそう言って、話を打ち切ろうとした。上島くんもそれ以上は追求しなかった。興味もなさそうだった。

「それで、先輩はどうしてそんな話を浩三にさせたんですか?サーカスライオンの話に関係あるんですか?」

上島くんが慇懃にそう尋ねる。浩三くんに対するタメ口と私に対する敬語との違いに戸惑いながら、私は答えた。

「要するに、そういういこと」

「?」

「個人の感覚なの」

「はあ」

曖昧に反応する。

「私が、ビビッと来た、とか、歌声に惚れた、とか言っても、はあ、とかし思わないでしょう?」

「まあ、そうかもしれませんね」

「だから、そういうこと」

「はあ」

上島くんは、依然として不服そうだった。あるいは、まだ先ほどの敗北から立ち直れていないのかもしれない。私はその表情を見て、初日に上島くんが発した言葉を思い出した。

「ねえ、上島くん。そう言えば、初日にさ、こんなこと言ったよね?」

川沿いを歩いて、旅館まで私たちはやって来た。部長が飛ばしすぎて、死にかけるなんてこともあった。その途中、上島くんはこんなことを言った。

―僕ね、昔この川で釣りしたことあるんですよ。もっと上流の方ですけど。そこそこ大きい鰍も釣れたんです。茶色くて不気味な感じもしましたけどー

 これは紛れもなく個人の記憶だった。私が漠然としか反応できなかったのがその証拠だった。

「ああ。なんかそんなこともありましたね」

上島くんは平坦にそう言ったきり、何も言わなくなった。私の言わんとしたことを理解したのか、反芻しているのか、あるいは問題にすらしなかったのか、彼の萎れた花のような目つきからは何事も判別できなかった。

「先輩が言ってること、僕は何とかなくわかりますよ」

そんな上島くんを他所に、浩三くんは神妙にそう言った。彼の童顔に似つかわしく、ふくよかな微笑を顔には浮かべていた。

「ありがとう」

私は月並みのお礼を言う。でも、結局、私の言っていることを朧げに理解してくれても、私の主観的な感動についてはどう苦慮しても真に理解はされないだろうと思うと、それはやはり虚しく思えた。

「先輩、今日はどうですか?」

浩三くんが、トランプの誘いをする。私は少し考えて、

「お邪魔しようかな」

と答えた。上島くんは想定外だったらしく、

「どんな心変わりですか?」

と言った。浩三くんも、まさかと、瞠目している。

「失敬だね」

「だって、いっつも門前払いだったじゃないですか」

「いいじゃないの。私だって、そういう気分の時もあるってこと」

私はそこでつい先ほど浩三くんが話してくれた話を思い出した。部屋に一人っきりになって、初めておじいちゃんの死というのが意識されたこと。それまでは、人の輪にあって、自ずと深くは意識されなかったこと。 

私もまた同じだ。今、部屋に戻れば、また私は物思いに沈むのだろう。荒らされた向日葵畑、レイナさんの悲しげな顔、シュウさんの人肌。あれらがごった返して、私は酷く頭を痛めるのだろう。馬鹿らしいと断じたところで、思考は止まることを知らないから太刀が悪い。だから、私は時折、地面で干からびて死んだミミズを見て、憐憫とともにほんの僅かな憧憬を見出すのだと思う。

「まあいいですけど」

上島くんはそう言って、私の参加を認めてくれた。

 三人だからと、ゲームは容易なババ抜きに移行した。二人は強くもなく弱くもなかった。皆均等に勝った。私はその間、いらぬことを考えずに済んで、細やかな享楽に勤しんだ。

「そう言えば、ここでずっとゲームやってて文句とか言われなかった?」

私はなんとなくそう尋ねた。

「文句というか、話しかけられたことはありましたよ」

浩三くんがそう言う。

「初日に、ここで遊んでたら、向日葵畑は見た?って、ミワさん?でしたっけ。確かその人に言われました」

「なんて答えたの?」

「三人で見に行きましたって答えたら、それは良かった、と言って帰られました」

「ふーん」

それは私も言われたことだった。しかし、どうしてそんなに向日葵畑を見に行ったか気にしているのだろう。

「なんか文句言ってる人でもいたんですか?」

上島くんが口を挟んだ。その後適当に浩三くんの手札を取り、畜生、と何やら小言を言っていた。ジョーカーを引いたのだろうと思われた。

「文句ってわけでもないけど」

私はそう言って、私が今座ってる席に、シュウさんが座っていたことを明かした。彼があるいは、この席に座りたがっていたとしたら、新聞部はこの上なく邪魔だろうということも、興味本位で付け加えた。。勿論、手を掴まれたなど諸々の話は割愛した。

「うへー。それはまずいですね。というか、早く言ってくださいよ。ボコボコにされたくないですから」

俄かに活気付いた浩三くんがそう捲し立てた。

「浩三の言う通りですよ。何黙ってたんですか。あの人強そうだし、裏でボコボコにされるのは嫌ですよ」

上島くんもそう同調する。二人揃って、シュウさんの心象は悪かった。

二人は手札をすぐに場へと放棄して、即刻片付けを始めた。クローバーやら、ハートやら、クイーンやらがごった返して机に広がっていた。その中に、ジョーカーがあった。上島くんの手元からそれが放たれたのは容易に理解できた。見かけによらず負けず嫌いらしかった。

「まあまあ、この一戦が終わってからでも遅くないから」

私はそう宥めたが、二人の顔は晴れない。というより、疑り深い。上島くんの場合は、また別の意味かもしれないけど。

「どうしてそんな前向きにババ抜きやってるんですか?昨日まで、誰が参加するかって笑ってたのに

「変装でもしてますか?」

二人して、懐疑の言葉を向ける。無理もない。急にカードゲームがやりたくなってさあ、とかそんな言葉は到底信じられないだろう。心変わりというのはそれ相応の理由がいる。現状の私の態度は確かに奇怪の他ないだろう。尺取り虫が枝を這いずる具合に彼らの皺は脈打っていた。ただ、問題は、彼らの納得し得る解答を私が持っていないことだった。

「色々あったのよ」

だから、私はしんみりとそう答えた。同情を誘うように、彼らから視線を外した。その視線の先には、名も知れない観葉植物があった。それは黒い容器と白い軽石とで表土を覆われており、ごぼう色で肉付きの良い茎がDNAのように二重に絡み合い、互いを抱き合うようにして伸長していた。先端は複数に枝分かれして、その先からは掌サイズの青々しい葉っぱがいくつも重複するようにして姿を見せていた。私はその観葉植物が、今の私の気持ちを全てうまいこと代弁してくれたいいなとか、そんな都合の良い展開を夢想した。この青い葉が、ネジ巻かれたような茶褐色の茎が、散りばめられた白い軽石が、私の思いを結実した権化であったら、そして、それに触れれば、朧げな感覚が知覚されたら、とそんなことを考えた。

「いや、全然意味わからないんですけど」

浩三くんは非難がましい視線を向ける。上島くんも同様だ。私の空想はあっさり空想で終わった。当然だった。

「これも同じだよ」

私はそう言った。

「同じ?」

「うん。これも私がサーカスライオンが好きなことも、浩三くんがおじいちゃんが死んだ時泣いたことも、上島くんがここらの川で大昔魚釣りをしたことも、みんな同じ」

 私はすっかり説明放棄の説明をした。

「……」

「……」

「……」

三人言葉はなかった。雨が地面を打ち付ける音と、酔っ払った客の鼻歌がエントランスに響いていた。

 二人が何を考えていたのかはわからない。私の言葉を考えていたのかも、明日の食事について考えていたのかも、あるいは、単にこの合宿の終わりを渇望しているのかも、私には見当がつかなかった。ただ、私を含めて、三人とも、妙に逼迫した手つきでトランプをケースへとしまっているのだけは確実なことだった。

「あれですね」

渋るような口調で、上島くんが不意に口を開いた。私と浩三くんは何と無く彼の方に視線を向けた。彼の視線は私ではなく、観葉植物へと向けられていた。私の思念がそこへまだ残留しているような、そんな幻想に私は囚われた。

「先輩は、わがままなんですね。多分」

彼はただそう言った。私はその言葉ですぐに現実へ立ち返った。彼の瞳は、それでも私を捉えずに、観葉植物へと向けられていた。その横顔に表情は無い。夏の日差しで脱色したような唇が、蜃気楼のように揺れるだけだった。

「それじゃあ、これで」

そう言って、二人は立ち去った。私は曖昧に返事をして、また椅子に座った。自然と肩が落ちる。なんだろう。出し抜けにボディーブローを食らった感覚に近い。あるいは、酷い二日酔いから覚めた人は案外こんな気持ちなのかもしれない。何れにしても、心持ちは頗る悪い。ヘドロにまみれた池に取り残された錦鯉を眺めているような気分だ。

 上島くんの言葉。多分、あれに詰る気など一切ないのだろう。ただ、思ったことを言ったのだろう。だから、私は今のように黙るしかない。

 人に理解を求めること。それは誰しも当たり前だ。ただ、私の場合、それを最初から相手に理解してもらえないだろうと、そんな風に高を括っていた。それが、上島くんには、高慢にも傲慢にも面倒にも鬱陶しくも映ったのかもしれなかった。

「どうかしたの?」

そんな声とともに、ほんのりと甘い香りが鼻に広がった。一瞬シュウさんかと総毛立ったが、幾分か優しい声音であったことを認識してすぐ安堵した。振り向くと、レイナさんがいた。

「ああ、いや。別に」

私ははぐらかした。今の心情はとてもじゃないが説明できない。

「部屋に寄ったら返事がなかったから、来てみたの」

レイナさんは私を見ながらそう言った。だらっとした黒色のスウェットを上下身につけている。あまり出歩くのに適した格好ではなさそうだった。意外に撫で肩であるのがその時わかった。

「さっさと寝ちゃおうって、そう思ってたんだけどね。他の二人がうるさくて中々眠れなかったの。だから、岬ちゃんとお話しようと思って」

目尻を下げて、レイナさんは笑っていた。その様子は、私を最大限気遣っているように見えた。

「何かあった?」

繰り返しレイナさんは私に聞いた。私が何らかの苦衷を抱えているのを確信しているようだった。

「まあ、あったと言えばありましたね」

私は視線を逸らしてそう答えた。あまり話すつもりもなかったが、そう心配されると黙っているのも悪い気がした。これは私の問題ですから、そう突き放すのも憚られた。

「話してみて」

レイナさんは、優しくそう言った。私の瞳を覗き込んだが、シュウさんのような居心地の悪さは感じなかった。私は大きく息を吸った。

「全然何でもない話かもしれないですけど……」

私はそんな枕詞を置き去りにして、先ほどの一連の流れを話した。この時には、いくらか落胆からも立ち直っていたが、改めて話すと、居た堪れない恥ずかしさが私を襲った。レイナさんは、頷くばかりで、特に私の言葉を止めなかった。

「なるほどね」

聞き終わるや否や、レイナさんはそう言った。

「ちなみに、その私らを好きになった理由、教えてもらっても良い?」

そして、そう尋ねた。私は、変な慰めの言葉が飛んでくるものとばかり思っていたから、少し表紙抜けた。レイナさんは表情は変わらず優しかった。私はそれで安心して、その理由について考える余裕が生まれた。風船が膨らむように、それに関する記憶が大きくなった。私は徐に口を開いた。

「中学3年生の頃、ちょうどこの時期に、家族で都会の方に旅行に行ったんです。私の地元は、どちらかと言えば、田舎寄りの街だから、林立するビルと犇めく雑踏と熱気とで、私はあっという間に打ちのめされていました。どこへ行っても静かじゃなくて、人工物ばかりで、それに太陽は照りつけているから、早々にここは私には似つかわしくないって、そう思ったのを覚えています」

私は話しながら、当時の感覚を徐々に回復する。それは、私の五感にヒリヒリと摩擦熱のようなエネルギーを滞留させ、酷く厚ぼったい何かを蓄積させるようだった。私は雑踏の中にいる。私は一人だった。雑踏に揉まれて、家族と離れ離れになり一人群衆の中に取り残されていたのだ。頼りは充電残りわずかな携帯だけ。自分がどこにいるのかもわからない。私は途方に暮れながら、雑踏の波を切り裂くように横切って、跨線橋の下にあったボロボロのベンチにようやく辿り着いた。その間、幾度となく肩をぶつけられて、私はすっかり摩耗していた。ただ、座ろうにも台座には落ち葉と埃とが溜まって、とても座れるような状況ではなかった。私はしかめ面で半袖の服に手を亀のようにしまい込んで、断腸の思いで服の裾でその落ち葉と埃とを拭った。足を引きずるような音を立てて、それらは地面に落下するか、私の半袖に付着するかした。青色のTシャツの袖はそれで汚らしい灰色になってしまった。   

ともかく、そうしてようやく私はそのベンチに腰掛けて、行き交う人々をぼんやりと眺めることができた。照りつける太陽を忌々しく見上げるおじさんはいても、電話口の相手に楽しげに会話する金髪の女性がいても、脇目も振らず首からぶら下げたネクタイを揺らして走る精悍な男性はいても、助けを求めるような視線を投げかける私に気がつく人は一人もいなかった。

路上には、植え込みから這い出て来たのであろうミミズが干からびて太陽に漂白されていた。植え込みの樹木は多くの葉っぱを携えていたが、太陽はその間隙を縫って陽射しを地面に浴びせていた。ミミズの血を凝固させたような青紫色の小さな体躯は、パンクしたタイヤのように縮み上がっていた。その身体はどれもフックのような楕円型の丸みを帯びて横たわっていたが、いずれも薔薇の茎のようにその表皮は凸凹としていた。最後に彼らの血が煮えたぎって沸騰したのかと、そんな所感を私はぼんやり持った。そして、それらは、アスファルトと同化するように地面にへばりついて、生きていた頃の胎動を那辺にもほのめかさなかった。散らばった死。骸の死臭。それが、思念と化して雑踏へと遍く行き渡り、それが雑踏の無関心の原因ではないかと、そんなことすら私は考えた。だから皆一様に、太陽を忌避するように行き交っている……。

「その時、私はずっと地面ばかり見ていました。死んだミミズばかりに目がいっていました。ただ、ふと、歌声が聞こえたんです」

都会だから、当然騒音は小蝿のように、至る所から自然発生する。それは人間の血のように雑多に混ざり合って、一つの大きな環境音として結晶する。蝉の鳴き声も、店の呼び込みも、靴音も、列車の音も、車の排気音も、鳥の囀りも、私の鼓動すらも、そこへ収斂される。

「あの歌声だけは違いました。凛とした生命力と、心に訴える情緒と迫力がありました。私はそう感じました」

私は独白するようにそう言った。その瞳はレイナさんに向けられていたが、そこに誰がいようと、私の口調は変わらなかっただろうと思う。

その後、私はふらふらと立ち上がって、その声の在り処を探し求めた。ミミズの死骸に近づくと、まだうようよとボウフラのような挙措で太陽に照りつけられるのが数匹見出されたが、私はもう興味を抱けなくなっていた。私の五感は、聴覚に偏重になっていた。あの歌声だけが私は支配した。麻薬でも注射されたかのように、私は五感に対する鋭敏な優位を手に入れた。視界が線形になり、音が3次元化した。音のサインカーブが、平面的な滑らかさではなく立体的な偶像として現れた。私はまた雑踏に紛れ、幾度となく肩をぶつけられながら、その声の場所を求めた。

「丁度、信号を渡り切った先にそれはありました」

私はともかくその辺りに音源があることを突き止めた。ただ、肝心の正確な位置がわからず、立ち往生した。その間も、私の耳にはあの歌声が聞こえていた。

「サーカスライオン!」

けたたましい声だった。本当はもっと柔らかで、控えめなものだったかもしれないが、私はともかくその声にハッとなったのを覚えている。とにかく私はこの声の所在を突き止めなければならない。そう思った。

私は視覚を取り戻し始めた。私の目の前には2、3メートルくらいの灌木を取り囲むような形でドーナツ型の木製のベンチが設えられており、そんな休憩場所がいくらか並んでいた。そこでは色んな人が腰掛けたり、談笑していた。家族連れがよく伺われ、彼らの笑い声が雑踏の足音を指揮するようにほのめいた。どこかでイベントでもやっていたのか、色とりどりの風船が子供の手には握られていた。赤、青、黄、緑、白、紫、橙、黒、鼠色……。どれも不安定に風に揺られて、今の私の心情を表しているかのような錯覚を抱いた。

そのベンチの奥には一つのビルが聳えていた。1階はカフェらしく、そこで寛ぐ女性客の姿が、ガラス張り越しに伺えた。コーヒーに小カップ入りのミルクを注いでいたが、その残り一滴まで注ごうと躍起になってしかめ面でカップを上下させていたのを覚えている。中途半端に剥がされたカップの蓋が甲虫の羽のようにばたついていた。私は、ともすれば、そのミルクがコーヒーへと零れ落ちる水音が聞こえるのではないかと思えるほど、私の感覚は犀利になり、過集中していた。

ビルは、それは竹のように空高く伸びていた。

「あ!」

私はそんな驚嘆の言葉を耳にした。

「風船が!」

子供の声だった。見れば、先ほどまで握られていたはずの風船がどこにも見当たらない。彼は仕切りに上の方を指差して、視線も上の方に向けて、あれあれ、と唸っていた。両親と思しき二人も、空を見上げて口をあんぐり開けていた。確か、この子は赤色の風船を握っていたはず……。

私はそう思いながら首を擡げて、カラスのような挙措でずんぐりに視線を上げていくと、ビルには大型の電光掲示板が取り付けられているのがわかった。そして、丁度その画面と被るように赤い色の風船が空へ空へと浮き上がっていた。重力を忘れたように、その風船は加速動的に空を目指した。そしてそれはやがて背景に黒ずんだガラス張りのビルを掲げながら、燦然とする太陽に重なって消えた。太陽がブラックホールのように、それを吸い込んだのだと当時の私は認識した。私はそれから、太陽と地表との間にあった電光掲示板の方に目をやった。そこには、いかにも若者らしい顔つきの人たちが、マイクやら楽器やらを手に取って、演説するように歌っていた。灯台下暗しだった。音源はそこだった。私はフッと笑って、風船を手放した子供の方に目を向けた。彼は、消えちゃった、とその風船を嘆きながら、恨みがましくまだ上空を見つめていた。私は内心彼に感謝した。風船が私を導くように、電光掲示板が音源だったことに気付かせてくれたのだから。

「サーカスライオン!」

そんな張り詰めた声が、辺りに響いた。それとともに曲は終わった。画面は暗転し、私は現実を取り戻したように、雑踏が織りなす悲喜交々の音を取り戻した。しかし同時に、雑踏は全く足踏みしていないことを見出した。あの歌声を環境音の一つとしか認識していないようだった。ぼんやりと立ち尽くす私にぶつかっては、肩をぽんぽんと鬱陶しそうに払った後、睨め付けるような後味の悪い視線ばかりを残していた。私は振り返って、辺りを見回したが、誰も私のように足を止めて、電光掲示板を見入っている人はいなかった。

 どうして足を止めないのだろう。私はそんなことを考えていた。私は周囲の足早に歩く人や、子供を優しく見つめる母親を眺めて、その理由は多分、私が部外者であり、彼らはそうでないという、それだけのことなのだろうと何と無く理解した。

 そうやってしばらく立ち尽くしていると、程なくして私の家族が私を見つけてくれた。彼らは私を心配していたが、私はそれどころではなかった。耳には先ほどのあの曲が幾度となく繰り返されていた。鼓膜がジリジリと痛んだ。

「しかし、どうしてここに?行き先とは反対じゃないか」

父が私を訝しむようにそう言った。私は片手で庇を作って、今や凡庸な企業のコマーシャルを流す電光掲示板を見つめながら、

「わからない」

と、そう答えた。そう言えば、あの干からびていたミミズはどうなったかと、そんなことをその時ようやく思い出していた。

 ……。

「とまあ、こんな具合で……」

私は話し終えた。喋るうちに、当時の感覚が追従するように連鎖的に蘇った。それは、色彩と音響と熱気とミクロな実在と情感とを孕んでいた。私はその熱量に自分で圧倒されていた。

「色々とあったんだね」

レイナさんは私の長話を特に飽きた様子も見せずに、楽しそうに聞いてくれた。

「でも、それが私たちを好きな理由になるのかな?」

「そう言われると返す言葉もなくて……」

私は同意する。このことは私にとっては明らかに、好意を向ける契機に他ならなかった。しかし、それが他者に理解されるかと言われれば、それはまた別問題だった。

「でも、これ以外にどう言うのかも難しくて」

もしこの冗長な説明が許されなくなるのだとしたら、私は結局、黙り込むしかなくなる。表層を掬うのであれば、声が良いとか歌詞に共感したとか色々言えるが、私には、それを確固とした自信で言うことはできないし、そんな建前を述べるくらいならいっそはぐらかしたほうがむしろ心中は穏やかだった。取り繕うからこそ、本心が羽化前の蛹のような蠢動を独りでに催すのだと、私はそう思った。

 煩悶する私を楽しむようにレイナさんは私を見つめていた。その瞳はやはり優しかった。

「そんなに思ってくれる人がいて、私は感謝しないとね。好きになった理由なんて、大抵は後からついてくるものだと思うし」

レイナさんは本当に嬉しそうだった。少し目が潤んでいた。私もそれを見て何だか嬉しくなった。その後、二人で気恥ずかしく笑い合った。穏やかな時間だった。

 不意にレイナさんが言った。

「でも多分それは伝わらないだろうね」

「レイナさんには伝わりましたか?」

「うん。なんとなくね。岬ちゃんの今の話を聞いて、そう言えば、デビュー当時にでっかく宣伝してもらったなあとか、そういうこと思い出した」

レイナさんはそう言って、目元を拭った。優しい目尻は健在だったが、擦ったせいか少し赤みがかっていた。レイナさんもまた、当時の何かを思い出したのかもしれない。確か、デビューはレイナさんたちがまだ大学1年の頃だった。4年も前の話。私はその嚆矢に立ち会ったのだろうと思う。ただ、それ以上の詳細を私は知らない。だから、レイナさんが涙ぐむ理由も深く理解できない。それでも、私はなんだか、今思い出していたミミズの死骸の映像をやけに脳に鮮明にした。特に、あの中でまだ体をポンプのように動かしていたミミズをよく思い浮かべた。あの場所で、死にかけていたミミズがいたという事実が、私を不思議と感傷的にさせたのだと、そう思った。

「だから、気にすることはないと思う。後、そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないかな。他の人はそんなミッチミチなエピソードは期待してないだろうから」

「それはそうなんですけど」

この話くらいは、お守りのように持っていても損はないんじゃないんだろうかと、私はそう思った。私がそんなことを言うと、

「頑固だね。そりゃ、わがままだって言われるよ」

とレイナさんは笑っていた。ただ、別にけなされているような感じもなくて、逆に親しくなったような、そんな気がして私も嬉しくて笑った。

「今のところ、合宿はどう?楽しい?」

「えっと、どうでしょうね」

唐突な質問だった。レイナさんは、私の反応に少し罰の悪そうな顔をしていた。

「ぼちぼちです」

「そっか。なら、良かった」

レイナさんはそう言って、天を仰いだ。その視線の先には、単調な天井があるだけだった。

「また、何かあったら相談して。話くらいなら、私は聞けるから」

レイナさんはそう言って立ち上がった。大欠伸をして、肩を思いっきり上に伸ばした。だらっとしたスウェットが着ぐるみのようにレイナさんの動きにゆっくりと随行していた。その持ち上げられたスウェットから肌色の腹部がちらりと見えて、私は何と無く視線を逸らした。

「あ、そう言えば……」

私はその弾みか、向日葵荒らしの話を思い出した。

「向日葵荒らし?」

「ええ。裏の向日葵畑の、初日に休んだベンチをもう少し奥へ行ったところで……」

私はその荒らされ具合を説明した。レイナさんはそれを聞いて少し動揺したようだった。とは言え、心当たりは特にないらしかった。レイナさんはそれから、顎に手を当てて、仕切りに何か考えていた。

「岬ちゃんは気になるの?その犯人が?」

「気になるというか、何というか……」

歯切れ悪く私は答えた。言ってみれば、私は野次馬だから、執念的なものがあるわけではなかった。気になるという、ただそれだけのことだった。

「わかった。頭に入れておくよ」

レイナさんはこれ以上は埒が明かないと、そう言って思考を打ち切っていた。

「ええお願いします」

「岬ちゃんは、その犯人を捕まえたいとか、そうは思わない?」

「そこまでは……。でも、見てみたい気はします」

目的とか、そこからの眺めの是非とか。

「そっか。でも、危険かもしれないから、見張るってなったら、遠慮なく私も誘ってね」

レイナさんは私にそう言い残して、立ち去った。と思ったら、何かを思い出したようにくるりと身を翻して、私の方に戻って来た。何か良からぬことを言われるのかと、私は身構えた。

「さっきの話、打ち明けてくれてありがとうね。最後に言っておこうと思って」

「え。あ。はい」

「それだけ。おやすみ」

レイナさんはそう言って、今度こそ立ち去った。私は呆然とその姿を追うしかなかった。脱兎のような出来事だった。

 私はトボトボと部屋に戻った。隣の部屋からは音はしなかった。新聞部は、今日は健康的に過ごしているらしい。私はそのことに満足して、部屋の扉を捻った。

 私の耳には、レイナさんの言葉が度々反響した。嬉しさもあったが、わざわざなぜあんなことを言いに来てくれたのかという疑問もあった。私は窓を少し開けて、近くの椅子に座って夜風を浴びた。向日葵は雨に打たれて、皆下を向いていた。

 私はその光景をしばらく眺めた。

 しかし、美しいとは何だろうか。そんなことを考えた。太陽を目指して伸びる向日葵は確かに美しい。では、こうして曇天の暗闇の中、眦を下げるように俯く向日葵は美しくないだろうか。私は同じくらい美しく思えた。花びらの一つ一つから、雨粒が零れ落ちるその姿は、私がすっ転んだ時に眺めた鉛色の大空と通じるものがあるような気がした。

 私は窓を開けたままにして布団に潜った。カーテンが物々しく煽られて濡れていた。遠くの方で、風の音と、雨の打ち付ける音が聞こえた。この雨で向日葵はしにはしまいか。そんな空想に耽って、私は眠りに就いた

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