2日目
目が醒めた時、カーテンから漏れる朝日の明るさと部屋に充満する蒸し暑さで、早朝はとっくに過ぎたこと私は理解した。私は畳に頬ずりするようにして寝ていた。重い腰を老婆のように叩いて、身体に喝を入れた。炭酸は蓋が開いたまま、放置されていた。最早中身はただのグレープジュースである。私は幻想の崩壊を直視した。
私は適当に顔を洗って、脳を起こした。部屋の時計は、9時過ぎを指し示した。新聞部やらサーカスライオンのメンバーらはもう合宿の準備をしているのだろうかと、漠然と考えた。
しかし、よく思えば、どこでバンドの練習をするんだろうか。設備はないし、酷暑は極まっている。塹壕かシェルターでもあるのかと、軍人めいたことを私はつい考えた。
シャカシャカと歯磨きを済ませて、私は手軽なナップサックを肩に携えて部屋を出た。部屋の前には書き置きで、朝食の時間に声を掛けたが返事がなかったため、すっ飛ばした旨が記されていた。
私は新聞部が集う隣の部屋の様子を窺ったが、人が滞在している様子は見られなかった。おそらくどこかへ出かけたのだろう。私はエントランスに向かった。運良く女将さんに出会えた。
「みなさん行っちゃいました?」
「ええ。少し前に、荷物を抱えて」
「どこに行ったか知りませんか?」
「武道場へ行くと、そう仰っていました」
「ありがとうございます」
私はそこそこにお礼を言って、エントランスを後にした。
しかし、すぐに問題にぶち当たった。私は武道場の位置を知らなかった。見当すらつかない。ただ、勢いよく飛び出した手前、トボトボとまた旅館内に引き返し、女将さんにかかる事情を説明するのは決まりの悪さが計り知れない。せめて、少しは自分で探してから、最後に当てにしようと思った。
旅館は小高い丘の上にある。S字に蛇行した砂利道の両端に向日葵が植えられている。きっと、この向日葵が私を導いてくれる、私はそう考えて、ひまわりに付き従って歩くことに決めた。それが、この時の私にとっての、大いなる真実だった。
……。
……。
……。
当ては完全に外れた。太陽がじりじりと私の体力を奪うだけで、お目当ての武道場はどこにも見つからなかった。首筋から滴る汗が、妙に鬱陶しい。結局、私がたどり着いたのは、昨日やって来た向日葵畑の入り口だった。向日葵の後を追ったら、向日葵にたどり着いただけだった。
私はほとほと自分の浅慮に呆れていたが、もう一度くらい向日葵を眺めてもバチは当たらないと考えて、向日葵畑をずんずんと突き進んだ。やがて、昨日レイナさんと腰掛けた、ベンチが姿を現わした。太陽光線を一身に受けているから、昨日の夕刻見たときと比べて、乾燥が進み幾分か縮み上がっているような印象を受けた。また、白日の元だと、その老朽具合はより酷く映った。天色に彩られた塗装は、辛うじて台座と腰掛けともにその色の原型を留めたが、所々色がくすんでいたり、塗装が剥離して生々しい木片が物騒な肌色を露呈していたり、台座の木材と木材との間に、長年の枯れ葉や塵芥が詰まっていたりした。こうまじまじと見てしまうと、よく昨日はここに座る勇気が出たものだと感心してしまう。
ただ、このベンチが完成した当初、完全な天色が向日葵に囲まれる中存在していたことを想像すると、それはとても私を豊かにするのだった。よしいっちょ座ってみようとそこで思い立ったが、台座が木にしては全く熱過ぎて即座に断念した。
私はナップサックからタオルを取り出した。流石に汗が止まらなかった。忌々しく太陽を睨みつけたが、それは何ら意味がなかった。
私は先を進んだ。この先に何があるのか気にかかった。もしかしたら、突然、武道場が現れ出るかもしれないと思い込むことで、私の足を動かした。
「?」
しばらく進んで、遠くの川のせせらぎが微かに聞こえるくらいの場所まで到着した頃、向日葵の茎と茎との間から、変に開けた場所が奥の方にあることを見出した。私は気になって、間を縫うようにして、その現場へ向かった。
「うわあ」
奥は酷かった。四方1・5mほどの空き地が広がっていたが、向日葵がなぎ倒され、それらはあちこちに散乱していた。茎をすり潰すように握られたものもあり、中の道管はとっくに水気を喪失していた。色を失った向日葵の花弁が死骸のように転がり、虚しさを際立たせていた。花占いように、花弁全てが取り除かれたものもあた。
私はしゃがんで空を見上げた。視界の端は向日葵で覆われ、その中心に青い空が広がった。向日葵の花にはよく知らない蚊虻の類が羽音を撒き散らして集っていた。遠くの方からせせらぎが聞こえた。蝉の鳴き声も良く聞こえた。向日葵が揺れる度に、向日葵同士が触れ合う音や青い空に色を添えるように向日葵の花が視界を掠めた。私はこの光景をしばらく眺め続けた。そして、もしも犯人がこの向日葵によって切り取られた空の風景を望んで、向日葵を荒らし尽くしたのだとしたら、それはある種無理からぬ本能であったのではないかと、そんな同情を私は覚える始末だった。
私はスタコラとその空き地を這い出て、本道へ戻った。いつの間にかズボンに付着した土を丹念に払った。この道から、あの空き地を眺めると、また違った情感が芽生えたが、うまく言葉にはならなかった。
私は最終目的地を、川に設定した。せせらぎの正体を突き止めなければ、私は気が済まなかった。
少し進むと、向日葵がこちらを向いて植えられているスポットにぶつかった。その奥には檜の喬木が何本も植えられていた。ゴツゴツした葉っぱが向日葵の遥か高みで陽を浴びていた。その葉っぱの影がいくらか向日葵とかち合っていた。そのさらに奥が、せせらぎの音源らしかった。蝉の声もそちらの方から聞こえてくる。
私は石で乱雑に作られた階段を見つけ、それを駆け下りた。
その奥は、白い砂浜が広がった。植物の生育を許さなさそうな、全く湿りっ気のない土壌だったが、ひょろひょろした雑草が両脇に広く繁茂していた。そこから、名も知れない虫の鳴き声が聞こえた。
砂に足を埋めるようにして、川の方へ近づいた。砂浜は、流れ着いたの流木がそこかしこに落ちていた。刺さると痛そうだった。川の向こう側には、重苦しい木々が広がっていた。ここが蝉の住処らしい。間近で聞くと、そのうるささには遠慮は知らないのかと文句の一つも言いたくなる。
川の流れは至って穏やかだったが、いくらか露出した岩礁では、わずかながら白波が巻き起こっていた。酷く水は澄んでいて、小魚が太陽と戯れるように泳ぐ姿を私は発見した。私に童心が蘇って、手頃な石をその小魚の付近に投げ落とした。ぽちゃんと音を立てて、石は静かに沈んだ。そこを窺えば、最早小魚の類は一掃され、水面に太陽の光が揺れるだけだった。平穏を阻害したという罪悪感はあったが、それ以上に、先の見えない好奇心が私をこの時ばかりは虜にして止めなかった。こういう好奇心は最後には諦観と虚しさが襲うものだけど……。
しばらく、流木や小石を川へ投げて遊んだ。対岸まではかなりの距離があったが、届くという謎の自信に当てられて、私は思いっきり振りかぶって小石を投げてみたが、イップスの選手のように、小石は川に落ちるどころか、砂浜へと強烈に叩きつけられた。ザス、と渋い音を立てて、小石は砂浜に減り込んでいた。私は呆然とその小石を眺めた。
手に馴染まなかったか、そんな見苦しい言い訳で心を落ち着かせながら、私は自ずと周囲を見渡して、今の痴態を目撃されていないか確かめた。幸い、蝉がやかましいだけで、特に支障は無かった。しかし、なぜ私は対岸まで届くと考えたのか、それは全く謎であった。そういうことを、日本では元来、
「魔が差した」
と称して誤魔化す習わしがある。妖怪の仕業だ!と言っているのと根底は変わらないような気はするが、使い勝手の良い言葉だとは思う。
私はひとしきり満足して、砂浜を後にした。階段を登り切って右方向の突き当たりに自販機らしき設置物を発見した。私は興味本位でそこまで歩いた。
それは、どうやら女将さんが言及していた自販機らしく、炭酸飲料がしっかり売られていた。商品はかなり幅広く、この時期なのに暑い缶コーヒーだったり、なぜかタバコも一緒に売られていた。規律がなっちゃいない。
ともかく、私は丁度喉が乾いていたので、気分を良くした。ただ、女将さんの証言通り、その自販機は商品の他にも胡散臭かった。薄桃色の塗装は白濁した色合いに変わってるし、落書きも多数残されていた。
『我思う故に我ありbyモンテスキュー』
という楷書体の落書きを側面に発見した時は、私も困り果てた。
また自販機の正面には注意書きがぶら下げてあって、
『1000円札のご利用はご遠慮ください』
と木の板にやっつけ仕事のような赤字で書かれていた。ただその割に、ちゃっかり1000円札の投入口はあったりして、余計に混乱は極まった。
私は、いくら何でも1000円札を犠牲にするわけにもいかず、ちびちび硬貨を取り出して、昨日の反省を踏まえて普通の水を購入した。女将さんの証言とは反して、出てきたのは真冬かと思えるくらいに冷え切ったペットボトルだった。意外に中の作りはちゃんとしているらしい。
私はその水を口に含みながら、この自販機がなぜここへ置かれているのかを考えた。だいたい自販機というのは道路沿いに面しているのが基本だが、この自販機は奥まったも、奥まった場所へポツンと置かれている。どうやって商品の入れ替えをしているのかは甚だ謎に満ちた。それに合理性や利便性は完全に度外視されている。もしかして、設置した人は馬鹿だった?そんなことを考えて、喉を潤した。
水も残り少なくなってきた頃合いに、もしやこの自販機の設置者は、自販機をどこかに置きたいという野望を叶えんがために、ここへ自販機設置したのではないかという、極めて滑稽な可能性を発見して、私は妙な沈黙をした。それ以上考えが広がらなくなるほど、その可能性は私に巨大な沈黙を与えたのだった。
私は沈黙のまま旅館へと引き返した。
「ずっと迷っていらしたんですか?」
女将さんに開口一番そう瞠目した。私は視線を逸らすことでしかその気まずさをやり過ごせなかった。
懇切丁寧に私は武道場の位置を教えてもらった。私がバスを降りてからの道中の山奥にそれはあるらしかった。旅館の裏手なぞ、全く見当違いも良いところだった。
「そう言えば、昨日女将さんが言ってくれた自動販売機見つけましたよ」
私は出発前にそのことを言及した。
「あ、そうですか……」
女将さんは少し決まりが悪そうな顔をした。
「商品が全然冷えてないって話もありましたけど、私の買ったのは全然そんなことありませんでしたよ。むしろ、最高レベルに冷え切っていてました。これですこれ」
私は先の水をひけらかすように見せた。とは言え、もう中身は枯渇している。
「そうでしたか。それは良かったです」
「あの自販機って誰が維持してるんですか?」
「私も詳しくは知らないんですが、一説では師範が道楽で設置したと言われています」
「師範?誰ですか?」
新キャラに私の目も丸くなる。
「岬さんが今から行く目的地、つまり武道場に住まう人です。有り体に言えば、おじさんです。武芸の腕は確かですが、いかんせん暑苦しさに辟易する方が多くて……」
その口調には実感がこもっていた。
「その人が作ったんですか?」
「ええ。その人も炭酸が好きらしくて、この一帯には遠出しないと見つかりませんから、わざわざあんなところに設置したと聞いています」
「また酔狂な人ですね。冷蔵庫を家に置いておく方が余程建設的だろうに」
「私も一説で聞いただけですから、あくまで参考に止めて置いて頂けると幸いです」
「ええ。わかりました」
私はそう言ったが、大方女将さんの師範説を支持していた。会ったこともない人だったが、そんなことをしかねなさそうな響きを感じた。そう考えれば、自販機に収められた商品の傾向にも納得できる。あれは本人の趣向のみを優先していたわけだ。
「あー、後、向日葵畑が荒らされた形跡がありましたよ」
私はそのことも思い出して告げた。
「荒らされた?」
女将さんが怪訝そうに顔を歪めた。
「はい。なんか、奥の方に向日葵が薙ぎ倒されてました」
「なるほど……」
女将さんはそう言って、少し目を細めた。
「何か心当たりがあるかなと思って」
女将さんは少し考えて、
「多分、近所の獣の仕業じゃないでしょうか」
と言った。
「獣?」
「ええ。時折、山を下って田畑を荒らすんです」
「そうなんですか」
私は承服しかねた。野獣のような本能に従ったものではなく、きちんとした意図を持って、あの空間は誂えられているように見えた。獣である可能性も当然それで却下されるわけにもいくまいが、とは言え、その説を額面通り受け取るには釈然としないのも事実だった。
「あるいは、酔っ払いの仕業かもしれません」
「酔っ払い?」
「ええ。お客さんが時々、酔っ払ってあの辺で寝転んでしまうんですよ。でも、来年にはまた綺麗な花を咲かせてくれるはずですから」
「なるほど」
しかし、酔っ払いならもっと脈絡なく荒らすはずじゃないだろうか。人目のつかなそうなところをわざわざ選んで、そこを荒らすというのはどうにも関連性を見出せない。私は首を捻った。
「ところで、お時間は大丈夫ですか?」
そんな折、女将さんが心配そうに尋ねた。
「何がですか?」
「武道場、行かなくていいんですか?」
「あー。そう言えばそうでしたね」
後頭部をやにわに撫でて、私は気恥ずかしさを押し殺す。10時をとっくに過ぎていた。私の目的はそもそも武道場だった。
「というわけで、気をつけて下さい」
私はそう言い残して、また旅館を飛び出した。一気に蒸し暑さと、蝉の鳴き声とが広がり、心底気が滅入った。
私は急いで武道場へ向かった。親切にも武道場こちらという看板を発見でき、私は容易に探し当てることができた。ただ、武道場を囲む樹木から蝉が赤子のように泣き叫んでいたり、武道場からは何者かの奇声が絶え間なく発せられていたりして、私は立ち往生でもしようかしらと思った。
「あ、先輩」
外には麦わら帽子をかぶった上島くんがいた。ヤンキー座りして、武道場の日陰に身を潜めていた。首には白いタオルをかけて、眠そうに空を見つめている。
「これは一体どういう状況?」
単刀直入に私は尋ねた。
「食い違いがあったみたいですね」
「食い違い?」
「はい。ここの師範は、武術の稽古に来ると聞かされていたとか何とか言って譲らなくて、結局みんな武道をやっているんです」
「……なるほ……ど?」
その言葉を肺から絞り出した。ともかく、中で稽古が進んでいるらしい。
「気合が足らん気合が!」
そんな中野太い老爺の声が聞こえた。この人が師範だろうとすぐ察しがついた。
「それで、上島くんはどうして外に?」
「面倒だから抜けました」
「そう簡単に許してもらえるものなの?」
「やる気がない奴は帰れって、そう言われました」
「ああ。勘当されたの」
「そんなところですね。なぜか部長とかは熱心に取り組んでますけど」
そう言って、上島くんは窓から内部を見るよう私に促した。
「はあああああああああああああああああああああああ」
気功の達人のような出で立ちと声量で、部長が身体をしならせていた。その奥にはぐったりとその場で脱力して遠謀な瞳で虚空を見つめるサーカスライオンのメンバーがいた。
「お主!その調子じゃ!」
「はい!師匠!」
「……」
何してんだ。私は黙って窓辺を離れた。
「昨日、部長あんなに死にそうだったのに。テンションどうなってるんだろう」
「そうだったんですか?僕が起きた時には、やけにハイテンションでしたよ。7時くらいだったか、そのくらいです」
「じゃあ立ち直ったんだ。昨日、急性の腹痛で顔真っ青にしてたの」
「それは大変でしたね」
「うん。死に際から帰還した戦士のような雄大さもそう言えばあったかもしれない」
「何言ってるんですか?」
上島くんは忌むべき太陽を睨むような瞳の色で私を見た。私もなぜそんなことを口走ったか謎で、しばらく蝉の鳴き声と奇声とに耳を欹てる謎の時間が経過した。
気まずさもだいぶ緩和されたので、会話を再開した。
「サーカスライオンのみなさん死にそうな顔してるけど」
「ええ。災難な話ですよ」
上島くんはそこで、面倒そうに地面へ尻を着けた。両手も地面へ引っ付けた、足は前方へと伸ばした。いかにも僕はもう疲れましたと、そう言いたげだった。私はそれに構わず、質問した。
「ていうか、ここで皆さん練習するんじゃないの?何、部長と師範のランデブーが行われてるの?」
「練習ですか?まあ、練習はするかもしれないですけど、こんなあっついところで誰もやりたくないでしょう」
「でも、そういう合宿でしょ?他に施設とかあるわけ?」
「?」
上島くんがいかにも不思議そうな顔をした。私は若干の不安を覚えながらも、
「え?音楽の練磨的な目的でここまで来たんじゃないの?」
と言った。上島くんは、平然とこう答えた。
「違いますよ。こんな暑苦しいところにわざわざやって来て音楽の練習するわけがないでしょう。サウナで良い音楽が作れますか?」
「……。じゃあ、なんでここまで来たわけ?」
「一応、演奏する時に使えなくもないからってだけです。割と建物の骨格はしっかりしてるし、防音も山の上だからある程度は期待できるって具合です。今日は、荷物をとりあえず保管するってこと以外にやって来た意図はありません。」
「……そうなんだ」
ぐうの音もない。てっきり己の技量を高める合宿とばかり考えていたから、全く見当が外れた。しかし、それじゃあ、レイナさんたちがここまでやって来た理由がよくわからなくなる。私がそのことを尋ねると、
「思い出旅行らしいですよ」
という言葉が返った。
「思い出旅行?それじゃあ、ノー音楽?」
「ノー音楽かは僕も知りませんけど、少なくとも、音楽中心ではないことは確かですね。知らなかったんですか?」
「……」
視線を擡げた。空一面の青が憎らしい。
「聞きそびれてたけど、それじゃあどうして君らがレイナさんたちの取材許可をもらえたの?ツテとかあったの?」
「ここの女将さんから僕に話が舞い込んだんですよ。今度、ここにちょっと有名なバンドがくるけど、駄目元で取材をお願いしてみないかって。もちろん、僕は無理だろうと思って断ったんですけど、部長がその話を聞くなり、『チャンスだああ!』とか息巻いちゃって。それで、頼んでみたらオッケーで、それも映像まで撮らせてくれるなんて言われて。それで今に至るんです」
「それ大丈夫なの?個人情報の秘匿がどうとかに抵触しない?」
「まあ、向こう側が乗り気だったらしくて、そこはモウマンタイという感じです」
「なら良いけど」
プライベートな旅行の取材を許すとは太っ腹な話だった。私なら断固として拒否する。
「しかし、どうして言ってくれなかったのよ」
「先輩には関係ない話でしょう。サーカスライオンが来れば、満足だったんじゃないですか?」
「……」
私はわかりやすく沈黙した。思えば、確かに、こんな暑い場所で練習のために合宿するはずがないのだ。言葉だけを追って、内容を一切見なかった私に責任があるのは明瞭だった。とは言え、生演奏が聞けないだろうという事実は幾分か私の心を曇らせた。
私はその場に屈みこんだ。辺りは鬱蒼とした葉っぱに覆われて、遠くの空がどのようか全くわからなかった。
「入道雲が動いてる気がする」
「どこでですか?」
「向こうの山の方」
「全然見えないですけど」
「あっついなあほんと」
「そうですね」
その上島くんの返事は部長の奇声と蝉の鳴き声でほとんど聞き取れなかった。
「部長もうるさいし蝉もうるさいなあ」
「本当ですね。蛙鳴蝉噪って言葉にある通りです」
「アーメン?戦争?」
「あめいせんそうです。蛙に鳥が鳴くとかの鳴くに、蝉に、左に口書いて、右に操作の操の字のつくりを右に書いてあめいせんそうと読むんです」
「あー。もういいや。それで、そのあーめん戦争とかいう言葉の意味は?」
私は般若のような顔でそう言った。私の態度に、上島くんはやや悲しげだった。
「要するに、蛙や蝉の鳴き声ってのは、うるさいだけで無用のものってことです」
「なるほど。それじゃあ、部長は蛙ってこと?」
「それだと具合は良いですけど、あいにく部長は金槌らしいので真逆ですね」
「それはつまらないね」
私は部長の奇声を聞きながらそう答えた。キエーキエーと新種の鳥のような声だった。しばらく、二人で空を眺めた。流れる雲になりたいと言おうと一瞬考えたが、陳腐過ぎたので差し控えた。
「そう言えばさ、レイナさんが言ってたんだよね。もしも天地が逆だったらって」
「どういう意味ですか?」
「ここにはないけど、もしも天空一面に向日葵畑が広がっていたら、綺麗じゃないかってそんなこと言ってた」
「中々詩的ですね」
「そう思わない?」
「先輩はどうなんですか?」
「私は綺麗だと思う」
「それって、憧れの人がそう言ったからその流れでそう思うとかいう類のあれですか?」
なんだか悪辣な言い方だった。ただし、強い否定はできない。まあでも世の言説なんて大抵はそんな受け売りばかりだと思えば気も楽だ。
「それで、君はどう思うの」
「僕は、今のままが好きですよ」
上島くんは当然のようにそう言った。
「こんなに暑苦しいのに?」
「夏ってそういうものじゃないですか?それに、ずっと頭上に向日葵が広がっているなんて何だか不気味ですよ」
「まあ、それもそっか」
「先輩は、向日葵の花言葉知ってますか?」
「うん知ってるよ。使い古されてるし」
―君だけを見つめる、確かそんな具合だった。
「そうです。そんな花が空一面に広がっているなんて、僕には不気味で仕方ありません。そこら中に目ん玉が転がってるようなものですよ」
「でも、向日葵の花弁が降りしきるというもの乙じゃない?」
「別に向日葵である必要はないでしょう。桜でも銀杏でも変わりませんよ」
「……」
「……」
そこで何気なしに私は上島くんの方を見た。上島くんも私の方を見たが、全く瞳が据わっていた。泥水でも目薬の代用に使ったのかと思った。
「キエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ」
「ミーンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミン」
部長と蝉の鳴き声が交互に聞こえた。
「あーうるさいですね」
「全くね」
二人してまた空を見上げた。雲が流れていた。
「とは言えやっぱり空は味気ないですね。夜空がスクリーンみたくなっていたら、と僕は思います」
「確かに。空一面に映画とか投影してくれたら楽しそうだけど」
「僕なら、もういっそのこと裸体をずっと浮かべておいてほしいですね。そうすれば、世の中から争いはなくなります」
「そんな世界平和の提言は私じゃなく大統領にでも語ってあげて」
私はそう言って膝小僧に手を当てて力を入れ、徐に立ち上がった。ふくらはぎが良い感じに伸びて心地が良い。
「どこ行くんですか?」
「さすがにこれ以上部長の奇声を聞くのも耐え難いからね」
「そうですか。頑張ってください」
見送られた。お前も来るんだよ、とは言えなかった。上島くんは呆けたように空を見つめていた。先の裸体がどうとかいう戯言を現実に見出そうとしている片鱗ではないかと思うと、変な涙が出て来そうだ。
私は恐る恐る武道場の中へ入った。中はこんもりと熱気が凝縮されていた。とてもじゃないが、人を収容する気があるとは思えなかった。
「キエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ」
部長が叫んでいた。
「あー先輩」
浩三くんがカメラ片手に私に挨拶した。顔は健康的だった。
「何してるの?」
「部長がとにかくカメラを回せってうるさくて」
「はあ。今どれくらい回してるの?」
「小一時間くらいですかね」
「あっそう」
「確認しますか」
「いや、いらない」
死ぬほど暇でも見ようとは思わないだろう。
「ともかく、一旦やめさせてよ。意味わからないから」
「そうですよね。実はさっきからそう思ってたんですよ」
「……」
さっきじゃなく、当初気づいてほしかった。
私はサーカスライオンのメンバーを窺った。みんな死んだ蝉のような顔をしていた。解脱待ちの列かと思った。この空気感に当てられて、退出する機会を逸したのだろう。
「あのーすみません」
私は暴れ狂う二人に声をかけた。師範は藍色の道着を着て、白い顎髭と口髭を尊大に生やしていた。目つきは如何にも鋭い。
床には二人の汗が零れ落ちていた。全く、これを掃除する人の気持ちが思いやられる。
「あのーすみません」
案の定動きが止まらなかったので、もう一度声をかける。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
「キエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ」
「……」
私は黙って、浩三くんの方を見た。まだカメラを回していた。私は溜息を吐いた。
私はスタコラとサーカスライオンのメンバーの方へ向かった。
「あのー、帰って良いと思いますよ」
非常に申し訳なさそうに私は言った。
「なんでこんなことになったのかしら」
ミワさんが呆然と私を見つめて、そう言った。
「さあ」
「今何時?」
「11時手前です」
「あらそう」
他のメンバーは半ば放心状態だった。一体、この空間で何が行われたのかは一生の謎として私にも彼らにも刻まれるのだろうと思った。
「ええ。どうぞどうぞ」
私はとりあえず、メンバーを退室させた。その間も、カメラは回されていたし、奇声もよく聞こえた。
「何やってるんですか」
メンバーがいなくなったのを頃合いに私は暴れ回る二人に問いかけた。疲労もピークだったのか、二人は立ち止まった。こめかみから汗が垂れ落ちた。髪の毛が汗ばんで跳ねていた。
「修行さ」
「なんで修行してるんですか?」
「人生は修行じゃ」
師範が口を挟んだ。
「いや、禅問答をしに来たんじゃないんですよ私」
「石枝くんも興味が出たか?」
「話を聞いてください」
「人生は修行じゃ」
「……」
私は振り返って、浩三くんを見た。カメラを回していた。
「浩三くん。とりあえず、カメラ止めて」
私はそう言って、カメラを止めさせた。浩三くんは何食わぬ顔でカメラを下ろした。
「まあ、もう良いです。経緯とかはもうどうでも良いので、帰りますよ」
「どうして?」
「部長は修行をしに来たわけじゃないでしょう?」
「人生は修行じゃ」
師範が口を挟んだ。臨戦体勢っぽく両手を構えている。
「いやもうわかりましたよ」
私はそこで説得を諦めた。これはもう私が仲裁できるような話ではない。私は浩三くんのところに戻った。床がツルツル滑る。
「この後、君らに予定とかないの?別にこのまま修行続けさせるのも、最早部外者の私にとっては面白い話ではあるけど」
「それは困りますね。メンバーの皆さん、これから川釣りに行くらしいので。それを撮影する段取りになってるはずです」
「……」
無言で部長たちの方を窺うと、その頃には、部長は威勢を取り戻して、師範に襲いかかっていた。師範の藍色の道着の襟首を掴んで投げ飛ばさんばかりに強硬に揺らしていた。そのまましばし鍔迫り合いのように拮抗が続いた。師範も相手の隙に乗じて身体を柔軟に動かせるようにと、フットワークは軽かったし、瞳孔は異様なくらいに収縮して豆粒ほどになっていた。
ハブとマングース。因縁の相手ととうとう対面したかのように二人は熱気をぶつけていた。師範の平静や老獪な様子はハブを思わせ、部長の力任せな様子はマングースを思わせた。
「いやー青春ですね」
浩三くんがそう呟いた。これが青い春?赤い冬とかの方がしっくり来る。赤冬(せきとう)。死に際の蝉がジジッと鳴くかのような退廃的悲哀を表す的な、そんな具合。
「キウエアアアアアアアアオオオオオアアアアアアア」
決着は、意外にも部長の腕力が優る形となった。全く身体は病身のようにひょろひょろなのに、魔法みたいに力を湧きたてて、がたいの良い師範を一本背負いで投げ飛ばしてしまった。師範は受け身も取れないまま、仰向けで汗だまりに投げ飛ばされた。道着はみるみるうちに汗を吸収した。
「君の勝ちだ」
師範は絞り出すようにそう言った。部長は師範に近づいた。
「ありがとうございました」
そう言って、手を差し出した。師範はその手をがっちりと握り、起き上がった。二人はそこで目を合わせて、笑いあ合った。充足した笑みが目尻に窺われた。二人の笑い声は蝉の鳴き声に負けないくらいやかましい。
「何これ」
「さあ。でも良かったじゃないですか。昨日あんなに死にそうになってた人がここまで回復したんですから」
「これは回復なの?」
「元気になったという意味では、そうでしょう」
「まあ、大目に見て言えばそうかもしれないけど……」
回復とは元通りになるという意味だ。職務を放り出して汗まみれで修行に勤しむことは回復なのだろうか。
「しかし、こういう戦いの後の握手というのは美しいものですね」
「……そうかな」
「そう思わないですか?」
「いや、もうなんでも良い。とにかく、部長さん連れて、君らの仕事しに行ったら」
私はそう言って、武道場を後にした。まだ、日陰で休息する上島くんがいた。麦わら帽子は脱ぎ捨てていた。蒸れたらしい。
「うまく行きました?」
「どうだろう。多分、何してもうまく行くという結果はなかったと思う」
どんな名探偵でさえ無理だろう。相手がこちらの話を聞いてくれないのだから。
「それは残念でしたね」
「上島くんも手伝ってくれれば良かったのに」
「僕が行っても多分、傍観するくらいしかできないと思って、だから行かなかったんですよ」
「まあ、理解できなくはない話だけど」
ただ、そもそもあの二人をどうして私が止めに行ったんだと、そういう根本的な疑問は残る。まあもう忘れよう。
またしばらく二人で空を眺めていた。今日一番、平和を感じた時間だったかもしれない。
「お待たせしました」
着替えた部長がやって来た。折良く持って来た手提げに着替えを持っていたらしい。部長らしい、白のTシャツに茶色のズボンという地味さしかないものだった。
「何やってたんですか」
私は同じような質問する。
「まあ、成り行きで」
「ああそうですか」
追求しても意味がなさそうだったので、私はこれ以上何も尋ねなかった。
4人で山を下りた。色々な感情が逆巻いたが、結局は、暑苦しさで全てどうでも良くなってしまった。前方やや離れて上島くんと浩三くんが歩いた。
「部長はどうしてサーカスライオンの映像を撮りたいって思ったんですか?」
私は気になって、そう尋ねた。今の部長は、先ほどまでの狂気を消失させるどころか、悟ったように落ち着いていた。UNOの時の高慢さばかり目についていたから、こんな一面もあったのかと、物珍しさと若干の居心地の悪さを同時に感じていた。
「上島から持ちかけられたんですよ」
「それは上島くんから聞きました。問題は、どうして映像を撮ろうと思ったかです。だって新聞部ですよね?」
「新聞部がカメラを回して何が悪い」
「悪いとは言いませんけど、なんか特別な思い入れでもないとそんなことしなくないですか?」
「僕もね、何か大きなことを一つ成し遂げたかったんですよ」
「大きなこと?」
「ええ。石枝くんは、校内日報をご覧になったことはあるかい?」
「何ですかそれ」
私が間髪入れずにそう言うと、部長は酷く落胆した顔を見せた。
「僕たちの活動です。一応、部活だったり、先生だったり、学校の穴場だったりをリサーチして、記事を書いて、学校の掲示板に貼ったりしてるんですよ」
「そうなんだ。ごめん。掲示板なんて基本的に見ないから」
私はそう平謝りしたが、部長の顔は晴れない。
「いや、いいんです。僕も知ってるんですよ。あんなものいくら書いたって、誰も見やしないってことも。それなのに僕は、文章校正の徹底さを止めることができない……。誰も見ないってことも知っているのに!」
「それは……残念でしたね」
私は阿るような笑いをする。少しくらいは興味を振りまいた方が良いかもしれない。
「ちなみに、最近はどんな記事を書いたんですか?」
私はそんなことを尋ねた。
「学校の焼却炉がいかに風情があるかについて」
「それで紙面を飾ったとか、そういうことじゃないですよね?」
「いや、一面それだ。写真をでかでかと掲載して、色合いとか錆び具合とか、夜中薄暗い照明にライトアップされる感じとか」
「……。そりゃ誰も読みませんよ」
一気に同情心が消えてしまった。経典が羅列されてるみたいなものだ。
「それで、映像の話ですよ。どうしてサーカスライオンを撮影しようと思ったか」
「ああ。そうでしたね」
部長はそこで大欠伸をした。先の反動か、寝不足が加速しているのかもしれない。
「さっきも言った通り、大仕事がしたかったんですよ」
「それが、映像ですか?」
「ともかく、人目を集めたかったんです」
「ああ。なるほど」
私は納得した。それなら映像を撮るという手段も合点が行く。サーカスライオンというそこそこ有名な被写体というのも、注目を集めるには効果的だろう。
「しかし、運が良かったですね。上島くんが部活にいて。そのおかげでサーカスライオンの取材にありつけたわけですから」
「……」
「部長?」
「……」
「部長!?」
「あい?」
塾考するような、あるいは単に瞼が重そうな顔で猿ような声が返った。
「眠いですか?」
「眠いね」
「昨日の腹痛は治りました?」
「腹痛?」
「ええ。昨日、死にそうな顔で部屋に帰ってきたじゃないですか」
「ああ。そんなこともあったね」
部長は目を殆ど閉じて笑っていた。
「昨日心配してたんですよ。それがさっきのあれだから。わけわかりませんよ」
「いやあ……」
「どういう心変わりですか?」
「眠気を覚ましたかったし、己の殻というのを破りたかったのかもしれない」
「それにしては、唐突すぎるでしょ」
思い立ったが吉日なんてのは諺だけの世界だと思っていた。とは言え、部長は、
「いやあ。あはは」
と力なく笑うだけだった。
麓まで歩いた頃に、部長が私にこう尋ねた。
「石枝くんは、この後同行しますか?」
「川釣りに行くんでしたっけ」
「そうです」
「どこでですか?」
「向日葵畑を奥にずっと進んだところに川があって、そこでするらしいです」
「多分、そこ、武道場へ来る前に私行ってますね」
「そうですか。それで、どうします?」
「どうしよっかなあ……」
興味半分、躊躇い半分という塩梅だった。そうやって悩んでいると、向日葵荒らしの件を思い出した。
「そう言えば、向日葵畑の奥の方に、向日葵が荒らされてる形跡があったんですけど、心当たりとかないですか?」
私はそう切り出してみた。
「それは……野蛮ですね」
「そうだよね。知らない?」
「さあ。僕は心当たりはないですね」
部長はそう言って、額の汗を手の甲で拭った。そこに付着した汗は、太陽に漂白されるようにして、キラキラと輝いていた。
部長は極めて冷静に、足と手を交互に繰り出して、歩いていた。当たり前の話だったけど、初日飛ばしすぎてぶっ倒れていた人とは思えなかった。ただ、目つきは初日と比べればだいぶ老け込んだ印象があった。
「ああ。サナトリウムがあったら入りたい」
「諺のパロディみたいに言わないでください」
「多分、サナトリウムを一番欲しているのは僕だろうから」
「何故ですか?」
「こんなにも疲れているからだろう!」
両手を仰々しく広げて私にアピールしたが、特に同情心は生じない。そもそも、修行なるものをしなければ何の問題もなかった。部長は、その後、全く気疲れだけを湛えた顔に戻って、
「それで、どうしますか?川釣りは」
と言った。
「あー。そう言えば、そんな話でしたね」
すっかり失念していた。
「行きたいけど、変に気を遣われるのも嫌だしなあ……」
「石枝くんは、サーカスライオンが好きなんですよね?」
「?ええ。まあ、そうですけど」
「なら、やめておいた方がいいかもしれませんね」
「え?何で?」
そこで、部長は一つ神妙な顔をした。頰が緊張で張り詰めていた。何度も瞬きして、威厳を出そうとした。
「僕がさっきあんなことをしたから、多分腹の虫の居所は悪いです。不和が目の前で怒っても、僕は責任を取れません」
「……なるほど」
もっともな話だったが、張本人にそう言われると、釈然としない。私は落ちていた小石を思いっきり蹴っ飛ばした。意外に大きく、衝撃が爪先に広がって、早々に自分の行いを一人後悔していた。部長はぼんやりと空を眺めているだけで、私の愚行には気づいていなかったのは僥倖だった。
「熱りが冷めるのを待つのが得策でしょう」
「腹立たしいけど、そうかもしれない」
顔をしかめながら、そう答えた。部長は、一件落着と言いたげに、瞳を閉じてミサのそれのような顔をしてこう言った。
「ああ。サナトリウム」
太陽を全身に受けるようなポーズもした。
何言ってんだ、と思いながら、私は前方を窺った。旅館がようやく姿を現した。部屋に入ったらとにかく休もう。そう思いながら、最後の坂道を、砂利を踏みしめて登り切った。
部長は路傍に咲いた向日葵を賞翫するように歩いて、私から遅れていた。何もこんな暑い中、愛でる必要もないのに、そんなことを考えて私は旅館へ入った。冷房が効いていて、神々しい心地になった。
私は部屋に閉じこもった。暇があればやってしまおうと持参した夏休みの課題に関しては、一切のやる気を起こさなかった。冷房を二十三度に設定して、安楽の権化を享受した。
ああ。今頃川釣りしてるんだなあ、とか思ったが、その楽しさを想起できないくらい、今の私は幸せの中にいた。そして、幸せとはこういうものだろう。夏真っ盛りの中、冷房をガンガンに効かせた部屋に閉じこもること。
「……」
とは言え、やはり暇だった。テレビは3、4チャンネルしかなく、どれもローカル過ぎるか、通販かという具合で、数分待たずに飽きて消した。持ってきたポテトチップスの袋を開けたが、食べ終えるまで、部屋にはバリバリと私がポテチを噛む音と冷房の音だけが響いた。鼻孔にはじゃがいもの香りがよく伝わった。重く閉じられたカーテンから漏れ出る日差しが、、もう懐かしくなって来た。
「はあああああ」
私は大きな溜息を吐いて、机に頬杖をついた。眠くはないが、瞼は重かった。
私は、向日葵荒らしのことを暇つぶしに考えた。
そもそも、あれはいつ頃行われたのだろうか。昨日、私はあの場所まで足を運んでいないから、昨日か一昨日か一昨々日かと大まかな日時さえ特定できない。向日葵の荒廃の具合から、1週間以上前ということもなさそうだけど、それがわかるからなんだという話でもあった。
「……」
私は何となくもう一度テレビを点けた。掃除機についておじさんが声高にプレゼンしていた。
「この吸引力!見てください!ほら、みるみる埃がなくなります!」
床を滑る掃除機とおじさんの忙しなさ。わあすごい、とアシスタントの若い女性が合いの手を入れていた。画面の右上には、常に宛先の電話番号が映し出されていた。
……。
まあ、環境音としてはぴったりだろう。私は視線をテレビから外して暇つぶしに戻った。
日時はともかく、わからない。ならば次は、犯人だ。誰が一体荒らしたか。
昨日、私が知る限りで、部長とコウタさんが向日葵畑の奥へ消えたことは確認されている。あのうち二人が荒らしたという可能性は決して否定できない。しかし、証拠はどこにもない。
コウタさんは情報不足だから置いておくとして、部長の犯行とは考えられないだろうか。例えば、武道場での暴れ具合や、サナトリウムを所望するという言葉。前者は荒れ狂った心の発露であり、後者は自らの心を抑えたいという願望故とは考えられないだろうか。昨日の、顔面蒼白で帰還したことも、あるいは急激に自分の行いに対して後ろめたさを感じ始めたとも見なせ得る。
私はテレビに目を遣った。画面は微動だにしていなかった。実際はしているんだろうけど、同じ宣伝をしていた。掃除機の吸引力をまた説明し出して、思わず、
「もういいよ」
と嘆息した。しかし、これこそ私がテレビを点け直した理由でもあった。私はまた居直った。
部長か。まあ、でも多分違うだろうな。信頼しているというわけでもないけど、善悪についての認識は人並みくらいにはありそうだし、私の妹を同室にせしめようとしていたという話も、思春期特有の見栄張りか、仲間内でのリップサービス的なものだろう。本人と話してみて、そんな気がした。いざ現実になると、怖気付きそうなタイプに見えた。
残るはコウタさんだけど、これは正直深掘りしたくはない。それはもう私が知ると何だか面倒になりそうだし、私もそんな裏の顔を知りたくないし。
よし。それじゃあ、ともかく彼ら二人ではないと仮定しよう。次は、目的だ。どういう意図で向日葵を薙ぎ倒したのか。通販の宣伝に耳を立てながら考えた。そろそろ寒くなって来て、冷房の温度を3度ほど引き上げた。エアコンが怠惰な音を立てて、風量を弱め、自然とテレビの音量が耳により大きく入った。私はすぐにテレビの音量も引き下げた。
スペースは人一人が寝れるくらいのものだった。前考えた通り、向日葵に囲まれながら横になって空を見たかった、と推論するのが妥当に見えた。余程向日葵を愛しているようにも見えるが、向日葵を薙ぎ倒しているし、茎がすり潰されるような形状に陥って干からびた道管を露呈している向日葵もあったしで、自家撞着な感も否めない。芸術は爆発だとも言うし、ストーカーが執着する根源は相手を愛しているが故だし、その倒錯の一つだと考えれば、一応の辻褄は合う。大衆の理解が得られるかは別として。
しかし、他にあそこを荒らす必要があったのだろうか?あそこに例えば、新たな作物を植えるとか?トマト、ナス、キュウリ、そんな野菜でも育てたかったのだろうか?
「お値段なんと、1万5千円!」
テレビからそんな声が聞こえた。安い!、と女性の甲高い声も続いた。
阿呆らしい。そして、私の考えも阿呆らしい。あんな一角に野菜を植えて何をしようと言うのか。もっと良い場所はあるはずだった。
「うーん」
私は唸った。私はもしかして難しく考え過ぎているのだろうか。単に、むしゃくしゃしてとりあえず向日葵を薙ぎ倒したという考えももちろん成立する。当然、感情に任せての行為なら、あんな整然としたスペースになるわけがないという疑問も生じるが、敢えて犯人がそのようにしたとも考えられる。何か意図を持ったように見せかけて……。
「うーん」
これはこれで考え過ぎな感があった。通販は新たな商品の説明を開始した。電動歯ブラシの素晴らしさを力説している。手動で磨けるわ、と思った。電池替えるのもめんどくさいし。
「あーなんかもう面倒だな」
私はそう言った。言霊に導かれるように、私は横になった。部屋には人工的な冷気が満ち溢れ、私は酷く気持ち悪かった。最初は極楽だったが、今はそうでもない。かと言って、冷房を切るわけにもいかない。あー、夏ってのは本当に腹立たしい。そう思って、ずっとぼーっとした。
その間、私はなんとなく、コーヒーのペーパードリップバッグに熱湯を入れる時の私を思い出していた。あの時の幸福感たるや、何物にも表し難いものがある。湯気が立って、コーヒーの香りが急激に増して、それが熱気とともに押し寄せる感覚。思い浮かべるだけでも、鼻梁が熱くなる。そうか。あれが真の幸福だったのか。だから、今思い出したのか。そんなことを思った。
……。
時間が経った。寝ていたのか、ずっと起きていたのかも記憶していなかった。目元を擦って、唸り声を上げる。部屋の明かりは点きっぱなしで、カーテンの向こうはすっかり暗くなっていた。思えば、エアコンの肌寒さもある。テレビは未だ通販をやっていた。一日中通販番組を見ていたら、人はどうなってしまうのかと、ふと疑問に思った。
私は冷房もテレビも消した。ひとまず、お風呂へ行こうと思った。
エントランスには、新聞部三人がいた。トランプをしていた。流石にUNOは自重したらしい。
「あー先輩ですか」
偶然振り向いた構造くんが私を見つけた。
「何してるの?」
「今日は大富豪です」
「定番だ」
「先輩もやりますか?」
「いや、やめとく」
私は即座にそう言った。浩三くんにさしたる落胆も見られない。シャカシャカと手札を切り合ってゲームは進んだ。結果、部長が大富豪、浩三くんが平民、上島くんが大貧民となった。昨日は踏ん反り返っていた部長だったが、今日は他二人と同様に椅子の橋にちょこんと座るような感じだった。
「先輩のところでは、なんかローカルルールとかありました?」
上島くんがそんなことを聞いた。麦わら帽子はしていなかったが、団扇は持参していた。
「普通だと思うよ。8切りとか、10つけとか、革命とか」
「普通ですね」
「普通だよ」
どんなトンデモ大富豪を期待していたのか。
「俺、一回2で上がったら、2あがりなしって言われた」
部長がポツリとそう言った。
「私のところはなかったですねそれは。ジョーカーあがりはダメでしたけど」
「僕のところは、スペ3とかありましたよ。ジョーカー単体にだけ勝てるっていう」
「ふーん。なんか咄嗟に言えば、もしかしたら何でもありなのかもね」
7を出したら順番変更とか、ハートとダイヤのクイーンはより女っぽいから実質キングと同価値とか……。
「ところで、川釣りの方はどうでした?」
私は話を変えた。
「快調でした。ですよね、部長?」
上島くんがそう言った。
「……まあ、うん」
部長は若干歯切れが悪い。左手で口元を覆いながら、新たに配られた手札とにらめっこしている。
「何したの?」
「何って。川釣りに決まってるじゃないですか」
上島くんが馬鹿にしたようにそう言った。
「うんまあ……」
その内容を聞いたつもりだったんだけど……。豆鉄砲を食らったような顔をするしかない。
「特にハプニングらしいハプニングもなくって感じでした。魚もよく釣れてましたよ。全部リリースしましたが。元気よく逃げ出す姿が印象的でした。青魚って感じで、太陽のもと鱗が銀色に輝いていました」
浩三くんがフォローするようにそう言った。ともかく、順調だったらしくて安心した。
私はそこで立ち去ろうと思って、くるりと翻って彼らに背を向けた。そんな折、
「そう言えば、明日は、武道場で練習するらしいですよ」
と上島くんが思い出したようにそう言って、私を呼び止めた。私はまた振り返った。
「練習?あれしないんじゃなかったっけ?」
「明日予報が雨らしいですから。なら、やるのも吝かではないとか何とか。気温も珍しく落ちるみたいですし。機会としては絶好でしょうね」
上島くんは首だけ捻らせて、私を向いて、そう言っていた。忠告はありがたかったが、そんな姿勢では言ってほしくなかった。
「ありがとうね」
一応表面上そう言って、私は今度こそ立ち去った。少しだけ浮かれていた。
更衣室で服をスラスラ脱いで、浴場へ手早く向かった。
「あら?」
「え?」
入るとミワさんがシャカシャカとシャンプーしていた。一人だった。凝り固まった瞳で私を見つめた。昨日のような、明らかな敵愾心のあるそれではなかったが、私を歓迎するものでもなかった。力任せに髪の毛を泡立てる様子が、私の進入を苛立っているようでもあった。
「気使わなくても良いから」
ミワさんは淡々とそれだけ言って、私から視線を外して、鏡に映されても、その瞳は依然として緊張感があった。
「し、失礼します」
私は控えめにそう言って、ミワさんの隣を陣取った。不思議なもので、こうなると、いつも私がどうやって身体を洗っていたのかについての経験的記憶が抹消されてしまう。私は何とか、まずはシャワーを出して、全身を適当に洗ったが、これが果たして私のルーティーンであったかは定かではない。
「あなたお名前は?」
依然として髪を泡立てるミワさんがそう言った。シャンプーと髪の擦れる音が、尋問されるかのような、ヒリヒリした緊張を私にもたらした。
「石枝岬です」
「石枝さんね」
「はい」
「私は。ミワ」
端的にそう言った。シャンプーの方に意識は向いているようだった。
「あなた、私たちのファンとか言ってたよね」
「あ、そうなんです。ずっと聞いてて」
「何の曲が好きなの?」
「サーカスライオンです」
私がそう答えると、ミワさんが緩慢な動きで私の方を見た。その瞳からは敵意が消えた代わりに、言い知れない居心地の悪さを私に与えた。その瞳は、まるで私の瞳の生気を全て奪ってしまうかのような凶暴さがあった。私はだから、思わず視線を逸らした。とにかく、シャンプーを手に取って、味醂色の液で掌を覆った。ひんやりとして、ナメクジのようだった。ミワさんは、しばらくして、ふっと笑ったかと思うと、視線をまた前へ戻した。私はそこで、やっと平静を獲得したのだった。
「みんなそればっかりだ」
ミワさんはそう呟いて、シャワーを髪の毛に浴びせた。
そればっかり?
少しトゲのある言い方に私は違和感を覚えたが、当面はシャンプーを泡立てるのが精一杯だった。ポタポタとその一部が手の甲を伝って私の太ももを湿らせたが、私は特に気を払わなかった。
「さっきの言葉は一体?」
ようやくそれを言及できたのは、ミワさんが髪を流し終えた頃合いだった。
「あー別に。みんな好きだなあって思って。他意はないよ」
「そうでしたか」
私はそう答えて、髪を洗った。しかし、驚くくらい鏡に映る私の顔が冴えなかった。できるだけ俯いてシャンプーを済ませた。
流れで、私たちは一緒に湯船に浸かった。ミワさんは長髪が湯船に浸からないように、後ろで髪の毛を束ねていた。これがいつも面倒で、と零すくらいにはいくらか温和になっていたが、まだ隔たりは感じた。
「あなたは、どうして新聞部なんかに入ってるの?」
ミワさんが酷く眠そうな顔でそう尋ねた。
「あーいや、実は新聞部ではなくてですね……」
手短に経緯を話した。
「そうだったの。まあ、そうだよね」
そんな理解の仕方で、ミワさんは納得したようだった。
「でも、よく取材の許可を出しましたよね。普通、邪魔されるのは嫌じゃありませんか?」
「別に、私が許可出したわけじゃないからね」
酷く投げやりな言い方。
「聞かされてなかったんですか?」
「レイナが勝手に許可して、一方的に通告したの。だから、私たちはなーんにも知らなかった」
「な、なるほど……」
レイナさんもそんな一面があるのか……。しかし、ならば反発が生じて、ボイコットする人くらい出てきてもおかしくはないだろう。私はそのことを尋ねてみた。
「どうしてこの旅行断らなかったんですか?」
「ああ、そうねえ」
ミワさんはそこで湯船に手をついて、肩まで身体を埋めた。瞳は捉えどころなく揺れて、天井付近を見つめていた。顔はやや弛緩した。
「まあ、レイナの頼みだったからかな」
「?」
「私たちあの子におんぶに抱っこだったから。その子の頼みだから、無下にはできないよ」
「感謝してるんですね」
私がしみじみとそんなことを言うと、ミワさんは首だけ動かして私を見た。その表情は、先程感じた居心地の悪さを回復するものだった。まるで、私を救われないと断罪するように、頰は固まり、目尻は垂れ下がった。
「ところで、向日葵畑は見に行った?」
ミワさんは表情を戻して、そう尋ねた。
「今日の午前中に」
「そう。どうだった?」
「どうって言われても……。まあ、綺麗でした」
私はそこで向日葵荒らしを思い出す。
「そう言えば、向日葵が荒らされてました」
「そう」
あまり驚いている様子はなかった。反応に困った故かもしれない。
「どんなふうに?」
「奥の方に、空き地を作らんがためって感じで、向日葵がなぎ倒されていました」
「そう」
興味なさそうだった。私は苦し紛れにお湯を肩にかけた。
「人為的って感じだったの?」
ミワさんが気を遣ってか、会話のトスをあげてくれた。私は嬉しくなってやや甲高い声で応じた。
「そうですね。女将さんが獣とか酔っ払いとか言ってはいたんですけど、どうにしっくり来なくて」
「獣に酔っ払いね……」
「引っかかりますか?」
「いーや。まあ、その説も強ちなさそうには見えないけど。私は現場を見てないからね」
面倒そうにそう言った。その顔は少し笑っているようにも見えた。
「しかし、もしも、あなたが言うように人為的なものだったとして、その人は一体何がしたかったんだろうね」
「それは、私も目下頭を悩ませています」
「何か落ちたりしてなかった?」
「いや、特には何も」
「そう。それじゃあ、特に証拠もないと」
「そうなりますね」
「何でも良いから、見当とかつけてないの?」
「犯人の目的について、ですか?」
「そう。憶測も案外良い線に行ってるかもしれないからね」
ミワさんは平然とした顔でそう言った。
「私は、向日葵囲まれた中で空でも見上げたかったんじゃないかって考えてます。荒らされた場所はちょうど、川のせせらぎも聞こえるんです」
「ふーん。そう」
「あんまりですか?」
反応が芳しくなく、私も気落ちしてしまう。ミワさんは、私を一度見つめて、そしてすぐに視線を外した。その所作は、また私に居心地の悪さを思い出させた。何と無く私は腕を湯船の中で摩った。
「まあ、良い線行ってるんじゃないかな。多分、空は見上げていただろうから」
「え?」
「山勘だけどね」
最後には、全く惚けた顔でそう言った。その顔は、百姓然としたものだった。そこには何の作為も見出せなかった。
「逆上せるの嫌だから」
ミワさんはそこで唐突にそう言って、バシャバシャと音を立てて、湯船から這い出た。その後ろ姿に私は何だか後ろ髪が引かれて、
「明日、練習するんですよね?」
と分かりきった質問をした。
「ああ。まあね。あれもレイナの発案」
ミワさんは笑ってそう言って、今度こそ立ち去った。
私はしばらく湯船に留まった。ミワさんの言葉や表情、それに素振り。それらは色々な光景を私にもたらした。ドブ川、野ざらしのミミズ、脱線して転覆する電車、烟る民家、墜落する飛行機、縊死用に括られた縄、暗い部屋を走る痩躯のネズミ、腐敗する向日葵……。
そんなことを思い浮かべていると、湯船もヘドロで満たされているのではないかという猜疑に駆られる。鼻孔には悪臭が滞留し、それはやがて口蓋にまで浸透する。私は嘔気に苛まれ、逃げるように湯船から出た。呼吸が乱れていた。
私は手持ちのタオルで顔だけ拭って、湯船を窺った。そこには、ありふれた温泉が広がるだけだった。健康そうな湯気を立たせている。そこで、身体の異常もあらかた消え去った。
私の下らない妄想か。そう割り切ったが、動悸だけはまだ落ち着かなかった。胸に手を当てて、深呼吸した。息を吸う度に、肺が膨張するのがわかった。それが私にとっての一番の安らぎだった。
更衣室には誰もいなかった。無言で着替えた。私の心持ちは、明日のサーカスライオンの演奏よりも、専ら先の嘔気をまた感じはしないだろうかという不安が占めていた。ベタつく足先が、海藻が纏わり付いたかのようだった。
エントランスにはやはり新聞部がいた。呆れるところだが、今ばかりは安堵が優った。
「そろそろ部屋へ戻ったらどうですか?」
私が提言する。
「あ、先輩。やりますか?」
浩三くんが私の言葉を無視してそう言った。
「しないって」
私は笑いながらそう返した。
「部長が今日は早めに切り上げるって言ってますから大丈夫ですよ」
上島くんが淡々とそう言った。
「本当ですか?」
私は部長に聞いた。
「そのつもりだ」
重々しくそう言った。そんな固く言う言葉ではない気がした。辛気臭い顔で手札を見ていた。
「それでは」
特に止まる用事もなかったので、私はそう言って早々に立ち去った。昨日と比べると、いささか部長のテンションは落ちている感じがした。単に勝ててないだけか。そんなことを思いながら、部屋に戻った。
押入れから布団を引っ張り出して、横になる。明かりを消す。暗闇が訪れる。冷房の音だけが実在として現れ、それ以外の全ては姿をくらませる。私は夢想の沼に引き摺りこまれる思いだった。
別に何も考えなくて良い。難しく考える必要もない。私は享楽だけを、この旅行の間見つけていれば良い。そうは思っても、私の心を、あの向日葵が荒らされた一角が掴んで離さない。どうしてあれが私に妙な焦燥を与えるのか。私は全くわからなかったが、これはおそらく、この地に逗留する限り続くものと思われた。
すり潰されたような茎。干からびた断面。飛び交う羽根虫。向日葵の黄色。湧き立つ土塊。川のせせらぎ。雲のない切り取られた青空……。無残と秀麗が鬩ぎ合っていた。
例えるならば、今の私の状態は、玉手箱を開ける前の浦島太郎と言ったところだろうか。どう転ぶかわからないその不安。それが私の悉皆を瘴気が包むが如く苦しめた。
不安は増長する。あるいは伝播する。それの発生は個人であっても、最後にはどこが根源かわからなくなる。暗闇が私を襲うようだ。窓を締め切っているのにカーテンが揺れた気がする。天井を蜘蛛が這い蹲る。壁のシミがやがて鬼の顔を模す。布団から出た足先を誰かが引っ張ろうとする。そうやって人は追い詰められる……。
私は布団に身体全体を覆って眠った。胎児のような姿勢で眠った。夢は見なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます