1日目  

 車窓が揺れている。そこから見える風景はどれも田畑か古民家くらいで、彩りはどこにもない。溜息を何度も吐いて、私は到着を待望した。500ml入りのペットボトルのお茶も、この長旅ですっかりぬるくなってしまって、私は渋い顔でその残りを、味気ない外の風景をつまみに、啜らなければならなかった。

 車内のエアコンは、誰かに配慮されたように静かなものだった。蚊の寝息ほどの音も立てず、だから、外の陽気を介入させるような隙があった。かと言って、乗務員さんを呼び立てて、苦言を呈する度胸も当然私は無く、結局は無言で、頬杖をつくしかなかった。

 私はふと視線を通路側の方へやる。

「よっしゃー!あがり!見たか!」

「いや部長。ちょっと待ってください。ドロー4では上がれませんよ?」

「は?俺の家ではありだったぞ」

「僕の家どころか、学校全体でドロー4あがりは禁止でしたよ。ここは公平のために多数決です。浩三、お前の家はどうだった?」

「僕の家もドロー4上がりは禁止でしたよ。もちろん、学校でも。部長の家だけルール違ったんじゃないですか?」

「は!?何お前ら結託してんだよ。俺の勝ちだ。そんとんでもルール俺は知らねえ」

「部長、何たかだかUNOにマジになってるんですか。ダサいですよ」

「浩三の言う通りです。大人しく、山札から4枚引いてください」

「なら次からだ。次からそうしてやる」

「ダメです。多数決でダメってなってるんですから」

「浩三てめー何年下のくせに調子のってんだ?」

「ゲームのルールに年下も年上もないですよ。年上がルール破っていいなんて決まりどこにもありません。それこそ、パワハラですよ」

「そうですよ、部長。ここは大人しく浩三の言うことを聞いて下さい」

「じゃあせめてじゃんけんだ。俺が浩三とじゃんけんする。浩三に勝ったら、この勝負はとにかく俺の勝ちだ」

「わかりました」

「行くぞ?じゃんけんぽん!」

結果は、部長がグー、浩三くんがパーだった。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

部長の悲鳴がこだました。車内いっぱいに苦悶が満ちた。

「ま、まだだ。上島!じゃんけんだ。じゃんけんぽん」

また部長が負けた。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

「部長うるさいです」

「部長うるさいですよ」

「すみませんお客様、車内では他のお客様もいますので……」

乗務員までやって来て、非常に申し訳なさそうに部長を諌めた。部長はすっかりしゅんとなっていた。

「あー、石枝先輩。僕のお菓子入ります?」

浩三くんが私に話しかける。彼らの席と私の席は通路を隔てている。私は贅沢に四人席を一人で満喫していた。

「お構いなく」

私は頬杖を付きながら、ここ数時間何度もそう言って、チョコ菓子のお誘いを断っていた。指を折って数えてみたが、もう見当もつかなくなっていた。

「しかし、石枝くん。ありがとう。楽しんでもらえると嬉しい」

「ええ。私としても棚ぼたと言いますか」

私は視線を風景に固定したまま笑ってそう言った。発端は、数週間前に遡る。

「お姉、暇?」

ノックもなしに妹が私の部屋に入って来た。イヤホンをしていたので、勝手に部屋が開いたことに私はただ驚いていた。

「美波ね。急に何?」

私はイヤホンを取って、妹の美波に顔を向けた。妹は私の二つ下で、奇しくも同じ高校に通っている。表情の起伏がない不思議な子だった。

「暇?」

「今?」

「うん」

「この課題の山を見てわからない?」

私は机に積み上げられた教材を指差した。

「暇?」

が、美波には伝わらなかった。

「お姉ちゃんね、勉強で今忙しいの」

「それじゃあ、明日は?」

「明日?明日は、補習があるから、家に帰ったら暇かもしれない」

「そっか」

「それがどうかした?」

「それが終わったらちょっと学校でちょっと待ってて」

「何で?」

私がそう尋ねようとする頃には、美波はもう帰っていた。神出鬼没というか、何を伝えたいのかも不明だった。ただ、今思えば、私はもっとここで問い詰めておくべきだった。

 翌日、補習帰りに、美波が私のクラスまでやって来た。

「妹?可愛いー!」

とクラスの女子に持て囃されていたが、表情は少しも変わらなかった。私はその場を適当にとりなして、美波と二人きりになった。

「それで、何の用?」

「ちょっと来て」

美波はそう言ったきり、喋らなくなった。この子は不思議としゃべらなくとも気まずさが生まれない子だった。連れてこられたのは、一つの部室だった。

「あー、新聞部」

囲碁部、科学部と並ぶ、屋内の部活動だった。部員はそう多くないと聞いている。なぜか美波は一年生で唯一、この部に所属している。姫扱いされてないか、実は日々心配していた。

「それで、ここが?」

「入って」

「?」

私は促されるまま、部室のドアを開けた。そこには、机をひっつき合わせてトランプゲームに興じる三人の姿があった。

「おお、美波ちゃん。連れて来てくれたか」

メガネをつけた、いかにも理屈っぽそうな男子生徒が私たち二人を手招きする。

「え?なんですか?」

状況がつかめず、私はキョロキョロした。

「お姉、頼みがあるの」

そこで恭しく美波が言った。

「今度ね、新聞部で合宿があるんだけど、お姉、私の代わりに行ってくれない?」

「は?」

寝耳に水だった。私は妹と新聞部の面々を見比べた。

「この子が突然、休養が出来たと言い出してな。あ、ちなみに僕はこの部の部長だ。鈴木という」

そう言いながらも、彼らは依然としてトランプをしていた。

「いや、何で私なんですか?」

「美波ちゃんが、代わりにお姉がやるって言ってな。そういうことだ」

「いやいや」

私は美波の方を見た。

「お姉ちゃんね、そこそこ忙しいの」

「お願い」

美波は私の言葉を遮って頭を下げた。そして、縋り付いた。私は言葉に困った。

「あのーそんなに人手が足りませんか?三人で十分に思えますけど」

「まあ、それでもいいんだけどな。俺らが普段貯めに貯めた部費をぶち込んだ交通費と宿泊費が、美波ちゃんがいなくなると浮いてしまうのが寂しくてな」

「払い戻しは?」

「もう出来ん」

「そうですか」

私はそこで会話を止めた。そして、

「一旦、美波と話させてください」

私はそう言って、部室を出た。

「美波ね、行ってあげなさいよ。折角入ったんだから」

私は言った。男三人のなかは辛いだろうけど、自分で入ったのだからそこは受け止めるべきだろう。

「お姉、ごめん。実は私幽霊部員なんだ」

「え?」

「だから、あの人たちに会うの、今日が2回目なの……」

「どういうこと?」

「部活面倒臭かったから、とりあえず幽霊部員しても良さそうな新聞部入っただけなの。そしたら、合宿には来いって部長がうるさいから……」

「あーそういうこと」

私は納得した。昔から美波はものぐさだった。そのつけが回って来たと思えば、腑に落ちる。

「なら退部しよう。お姉ちゃん付き合うから」

美波は力なく首を振る。

「部長がダメだって。新聞部は呪いの装備だからって……」

私は失笑していた。ここは怒るべきなんだろうけど、美波のあどけなさが可愛かった。

「美波はとにかくここで待ってて」

私はそう告げて、再び部室に舞い戻った。そして、聞いたこと全てを部長に告げた。

「チッ。バレたか」

悪態をついた。

「だから僕は反対したんですよ。そんなことしたらバチ当たるって」

「うるせー。必要なんだから仕方がないだろう?それに、お前あわよくばとか思ってただろ?」

「ち、違いますよ!変なこと言わないでください」

「仲間割れは止しましょう。はい、僕の上がりです」

そう言って、部員の一人がそう言って、1のペアを出した。大富豪をやっているらしい。

「あのーもういいですか」

私は言った。これ以上関わりたくなかった。

「ま、待ってくれ。ともかく、君らのうちいずれかは来てもらわないと」

突然、血相を変えた部長は次のように言った。

「3人で行けるでしょう」

「そ、そんなこと言わずに。ほら、今度のこの合宿兼旅行だって、ここらじゃ有名なバンドが来るんですよ?その密着取材と撮影が許されたんだ」

「バンド?」

「え、ええ。知りませんか?サーカスライオンというバンドを……」

「サーカスライオン!?」

私の好きなバンドだった、学生ながら勢力的に活動しており、CDも数枚出している。最近は、活動も減退していたが、ファンであることに代わりはない。

「え?会えるんですか?」

今度は私が血相を変えていた。

「え、あ、そうだよな?」

自信がなくなったのか、部長は残りの部員に話しかけた。

「そうだったはずです」

「多分」

私の代わりように驚いたのか、二人とも曖昧な返事しかしなかった。私は慌てて、教室を飛び出した。

「お姉ちゃん、やっぱり美波の代わりに行くことにした。お見上げ買って来るから楽しみにしてて」

この時ばかりは、美波も何があったのかと瞠目して驚いていた。心変わりにしても早すぎた。

 そんなこんなで、私は新幹線に乗り込んでいた。好きなバンドに触れ合えるとなれば、断る理由はない。うまく話せるかはわからなかったが、すぐそばで見れるだけでも嬉しかった。ちなみに、その後、美波はしっかり新聞部を退部させたことを付記しておく。

「もうそろそろです」

浩三くんが呟く。目的地までは残り数十分を切っていた。長旅も終わりを告げようとしていた。しかし、相変わらず窓からの景色は殺風景だった。メリーゴーランドのように実は同じところをぐるぐる回っていただけだったのではないかという錯覚さえ覚えた。

 新聞部の面子は部長の鈴木 紀夫くん三年生、上島 圭一くん二年生、浅野 浩三くん一年生で構成されていた。鈴木くんはメガネをかけていて、大学教授っぽい。上島くんは長身で、目つきがに力がない。浅野くんは背が小さくて、童顔だった。

 彼らはギリギリまでUNOに興じていた。ドロー4を至極反省したのか、その後は部長が連戦連勝らしく、目的地に辿り着く頃にはすっかり機嫌を取り戻していた。反対に、後輩二人は疲弊気味だった。

「僕について来てください」

上島くんが、眠そうな顔でそう言った。今日から泊まる宿は上島くんの知り合いが経営しているらしく、便宜を図ってくれたおかげで格安で泊まれるそうだった。

「実は最初、先輩の妹も同部屋にしようとか、部長はそんなことを言ってたんです」

宿へ向かう道中、浩三くんがおもむろに私の元までやって来てそう言った。嘘か本当かは定かではない。

「君、どうして止めなかったの?」

「止めましたよ。でも、それが青春だ、とかわけわからないこと言って」

「本当にわけがわからん」

私はそう言いながら、部長を安易に裏切った浩三くんにも物申したくなった。そういう暴露というのは後々の仲間意識に響く恐れがある。仲間である以上、隠し事は少ない方が良いに決まっている。

 私たちは各々重たいボストンバッグを片手に、畦道を歩いた。夏真っ盛りで、太陽がギラギラと光っては、私たちの体力を奪った。見渡すばかり森と田園だらけだった。

「こっからバスです。運いいですよ。後5分で来ます」

なぜか麦わら帽子をかぶった上島くんが鷹揚な口調でそう言った。1日2台しかバスは来ないらしく、タイミングは良かったが、計算尽くのことだろうとも思った。でなければ、ただの阿呆だ。

 しばらくしてガタンガタンと、土を揺らす音がした。私が振り向くと、オンボロそうなバスが、地面の凸凹で車体を上下に揺らしているのがわかった。排気ガスがもくもくと出ていた。

「先輩行きますよ」

眠そうな上島くんに呼ばれ、私は急いでバスに飛び乗った。中は当然のように誰もいなかった。私たちは特に理由もなく前の方に座った。上島くんはまだ麦わら帽子をかぶっていて、異質だった。

「いやー君達は観光?」

運転手が物珍しそうに尋ねた。道路も特に車もないし、暇なのだろうと思った。

「実は部活で」

部長が、首から溢れる汗を丹念にタオルで拭き取りながらそう答えた。

「何。そこのお姉ちゃんはこれかい?」

そう言って、運転手さんは左手の小指を立てて、こちらに見せた。誇示するように揺らしていた。

「ああ、違いますよ」

私は否定した。

「何。違うの」

「まあ、成り行きです。利害関係が一致しただけですよ」

「ふーん。なんか難しいんやね」

運転手さんはそれきり興味を失ったのか、運転に集中し始めた。部長は、少し悲しそうにしていた。

 バスに揺られて、数十分経った。外を見ても相変わらず、田園が広がっていた。時折、商店のようなのも見かけるが、それも本当に時折だった。

「ねえ、上島くん。どうして麦わら帽子脱がないの?」

私はどうしても気になって尋ねた。

「あ、これですか?実は、脱ぐタイミングを逸したんです」

「それだけ?」

「そうです。だって、どうせバス降りたらもう一回身につけるんですから、その時部長とか、浩三とかに、『あ、こいつご丁寧にバスの中で麦わら帽子外してたのに、またかぶるんだ』とか思われたら嫌じゃないですか」

「あーそう。浩三くんは実際どう思うの?」

私は尋ねた。

「別に」

「部長は?」

「まあ、浮かれてんなあとは思ったけど……」

「やめてくださいよ。だから、本当は麦わら帽子嫌だったんだよなあ……。でも母ちゃんが気分を味わえるからって言うからなあ……」

何やらぶつぶつ言っていた。ならそもそも身につけなければ良いのに……。とは言え、口ほどはショックを受けていない様子だった。受け身を取っているだけというか。

「上島くんってこんなんなの」

私は浩三くんに訊いた。

「部長とは別の意味で面倒ですね」

「僕が面倒だって?」

聞こえていたのか、部長が口を挟んだ。

「あーもういいや。ありがとう」

私はそう言って、また車窓に目を向けた。風景は変わらない。一つ変わったとすれば、車内には、麦わら帽子の芳しい芳香が充満し始めていたことくらいだった。

 結局風景は一切変わらないまま目的地まで到着した。

「460円」

すっかりぶっきらぼうになった運転手さんにそう言われながら、私たちは所定のお金を払ってバスを降りた。

 停車地はやはり殺風景だった。道路を焦がすような熱気が空から放たれていた。アスファルトが煮え立つマグマのようだった。しばらく私もここで寝転がっていれば、こんがりといい具合に焼けて、蟻か野獣の餌かになってしまうのだろうかとか、そんなことを考えた。

「こっちですね」

上島くんはそう言って、無限に続きそうな一本道を指差した。畦道で、小石や砂利が散乱していた。歩きにくいことこの上なさそうだった。遠くに、陽炎が霞だっているのがわかった。旅行者はこの幻想を求めて、死に行くのだろうと思った。

「ここからどれくらいなの?」

私は上島くんに尋ねた。

「どうでしょう。諸説ありますね」

「意味がわかんないんだけど」

額の汗を拭う。悠長な会話は毒だった。

「僕も何回かここに来たことはあるんですけど、その時の記憶では15分くらいかかりました。ただ、ナビを見ると30分って出るものですから、ちょっとわからなくて」

「まあ歩けばとりあえずは着くと」

「そうなりますね」

私は少し参っていた。こっからもう1ステップあるというのは面倒極まりなかった。私の至極面倒そうな顔を見て、上島くんが弁解した。

「でも、娯楽はありますよ」

「娯楽?」

「川沿いを歩いていくと、あるんですよ。この川沿い」

そう言って、上島くんは川を指差した。

「どうですか?綺麗なもんでしょう」

「まあね」

ただこれだけでテンション上げろというのは無理な話だった。

「とりあえず行きましょう。うだうだ言ってても始まりません」

最後にはそう言って、上島くんは出発した。私もある程度の気持ちの整理はつけていたが、部長は不満タラタラだった。こんな面倒だとは想像していなかったとか、太陽はなんで存在するんだとかなんとか。そこを浩三くんが必死に宥めていた。太陽ないと僕らもう死んでますから!と励ましていた。私は言葉もない。

 しばらく進むと、木陰が続いた。どっしりとした幹が林立した。蝉の鳴き声が至る所から聞こえた。初めのうちは私たちを出迎えているとか、そんな風流な考えもよぎったが、すぐに煩わしいとしか思えなくなった。その過程は、子供がやがて雪を忌み嫌うようになるそれとさして変わらなかった。それを懐かしいと思えるようになる時、それは多分私が老年期へ突入した時なのだろう。

少しして、流石に部長も体力が回復したのか、俺は完全復活した、と妙に息巻いて、鼻を鳴らして私を追い抜いて行った。眼鏡が暴れ馬のようにガタガタと揺れていたが、肝心の部長にはそのような躍動感が一切なかった。ザ・インドアというか。炎天下にネジが吹っ飛んだのかと私は思った。

「多分、すぐにガス欠します」

部長を追っていた浩三くんがボソッと私に漏らした。

「だろうね」

私はそう言うに留めた。なんとも言えない嘆息を浩三くんは吐いて、力なく部長の後を追って行った。その背中は、蚊のように小さく見えた。

私は道中、上島くんに言われた通り川をずっと見ていた。そう大きくもない川だった。流れも緩やかだった。ゴツゴツした岩がたくさんあって、それが独特の流れを生んでいた。川の流れを見るのは昔から好きだった。途中、上島くんが立ち止まって、

「僕ね、昔この川で釣りしたことあるんですよ。もっと上流の方ですけど。そこそこ大きい鰍も釣れたんです。ちっちゃいヒラメみたいで。美味しいらしいですけど、逃がしました」

と妙にテンションを上げて言っていた。多分、昔の記憶が鮮明に思い出されたのだと思う。

「ふーん」

ただ、私は気の利いた反応ができなかった。私は上島くんじゃないから、その時の興奮とか映像とかが全く浮かばないのだ。鰍も何かわからない。鹿の名前かと折り合いをつけた。

「ま、まあだからなんだって話ではあるんですけど」

上島くんは最後にはそう言って、肩を落として、背中を曲げて、また歩き始めた。この時ばかりは、大仰な麦わら帽子も悲哀の象徴のような様相を呈していた。別の気疲れを催させてしまったのかと若干の罪悪感を覚えたが、照りつける太陽によってすぐに消滅した。罪悪感というのは、人に考える余裕がある時のみ生じ得るのだとその時知った。

「あ、あそこですね」

しばらくして、上島くんが指差した。S字にうねった坂道の先に、茶褐色の建物が見えた。路傍を囲むように向日葵が咲いているのがわかった。どれも太陽のせいか、どれも熟したレモンのように濃い黄色をしていた。

「ダメだ。調子に乗りすぎた」

その頃には部長は疲れ切っていた。いつまで経っても姿が見えないと思っていたら、相当にスパートをかけていたらしかった。が、あとほんの少しで体力の限界を迎えたようだ。その場で両手両膝をついて大粒の汗を首や、顔から垂らしていた。青色のTシャツも汗で水色に変色していた。メガネは途中で取れたようで、浩三くんが恭しく右手に握っていた。

「水飲みますか?」

浩三くんが優しく声をかけて、ペットボトルを差し出している。ただ、立ち位置が部長の頭の前だから、どうしても土下座している人に声をかける偉い人のように見えてしまう。

 上島くんは、彼らを無視してさっさと行ってしまった。彼もまた休みたいのだろうと思った。浩三くんは恨めしそうに上島くんを見ていた。そして、

「部長、僕も行きますね。もう疲れました」

と言った。

「お、ちょ、ちょっと待て。年長者を置いていくのか?」

「年長者関係ないですよ。結構付き添った方ですよ僕。そもそも、俺に限界はない、とか行って、炎天下の中全力疾走した部長の方が悪いですよ」

無慈悲な言葉を残して、浩三くんもまた坂道を登り始めた。その足並みは軽やかなものだった。向日葵がそれに清涼感と加えた。

「あ、あが、あがががが」

言葉にならない悲鳴を部長が上げていた。部長はひたすら浩三くんの遠くなる姿を見ていた。そして、浩三くんが豆粒ほどの大きさになった時に、

「俺のしもべじゃなかったのか……」

と悔しそうに漏らしていた。そりゃ違うだろう。ただ、流石に見捨てるのは忍びないと思ったのか、浩三くんはペットボトルと部長の眼鏡だけは置いて行ってくれてるようだった。だから、部長の目の前にはペットボトルと眼鏡だけが置かれていた。この場面だけを切り取れば、何だけ勇壮に見えなくもない。そんなことを私は遠巻きから思った。

部長は、形見でも偲ぶような手つきで、砂利の付着した眼鏡を掛けた。それがあまりにも慇懃だったので、私は呆れ笑いを催した。

「ほら、頑張って歩いてください」

私は近づいて後ろからそう声をかけた。部長は、忌々しそうに私を見た。

「石枝くん。君も精神論者か」

「何言ってるんですか」

「僕は精神論者が嫌いなんだ」

「どうしてですか?」

「この状態の僕にまだ頑張れと言うのか!?もう十分頑張っただろう?まだ僕は頑張らないといけないのか!?」

「ほら、丘の上ですよ。あと少しです。それに、こうして向日葵が出迎えてくれてるじゃないですか」

私はそう言って、向日葵を指差した。しかし、部長の顔は晴れない。

「そんな都合の良い解釈、僕には通用しませんよ。こんな花に僕を勇気付ける力なんてある訳ないでしょうが!それに、僕は君を連れて来てあげた義理がある!助けてくれたってバチは当たらないだろう!」

力説していた。

「そういう力があるのなら、多分まだ頑張れますよ」

私は面倒になって部長を置いて歩き始めた。向日葵が発情したような甘い芳香を漂わせていた。

「あ、ちょ、ちょっと待ってくださいよー」

後ろから頼りない声が聞こえたが無視した。まあ泣き言を言っているうちは元気がある。黙り込んで、返事もなくなった時が一番危ない。その意味で、部長は多分だいぶ余裕があるのだろう。私は何も心配していなかった。

 私は後輩二人に続いて、旅館に到着した。瀟洒な作りをしていた。独特のヒノキの香りが辺りに立ち込めていた。

「ようこそいらっしゃいました」

女将の一人が入るや否やで私を見るや否や丁寧に頭を下げてくれた。私もつられて会釈する。

「ご予約は?」

「あのー、先にボストンバックを抱えた男の人が来ませんでした?麦わら帽子かぶった子と、ちっちゃい子」

そう言うと、ピンと来たようだった。

「あー、圭一くんのお連れ様ですか。四名様とは聞いてましたが、まさか女性がいるとは」

「まあ、成り行きです。3プラス1と考えてくれたら」

その表現に女将さんは首を傾げていた。説明するのも面倒だったので、それ以上は何も言わなかった。

「でも、納得しました。部屋を二つ用意してくれだなんて言うから。普通、男四人なら、一緒に泊まるだろうにって」

「ええ。私も一緒に泊まったら問題ですからね」

「本当ね」

二人で笑っていた。少しして、息切れした部長がやって来た。

「酷いや。僕を置いてくなんて」

そう愚痴っていた。しかし、やはり私の見立て通り、坂を登りきるくらいの力は残っていたようだった。

「まあびっしょり」

女将は部長の出で立ちに驚いていた。慌てて奥へ戻り、タオルを持ってきてくれた。やけに心配そうだったので、私が試しにここまでの経緯を話すと、

「それは大変でしたね」

と部長に同情していた。ただ、唇をわなわなと震わせていたのを私は見逃さなかった。笑ってはダメ、笑ってはダメ、と己に唱えているようだった。

「とりあえず、その部長さんは大浴場にご案内いたします。お嬢さんは、お部屋に」

女将さんはそう言って、私を部屋に案内してくれた。部長は、エントランスにへたりと座り込んで動かなくなっていた。

 私は一度案内された部屋へ入る前に、上島くんと浩三くんの部屋を尋ねることにした。部屋は右隣だった。軽く木の扉を二回ほど叩くて、中からくぐもった声で応答があった。

「ああ、石枝先輩ですか。どうかされました」

人懐っこい感じで、浩三くんがドアを開けた。

「部長がエントランスでもぬけの殻だから、助けてあげて」

私はそれだけ言った。

「ああそうですか。実は今になって罪悪感が芽生えてきて……。すぐ行きます」

浩三くんはそう言って、部屋を飛び出した。やはり、暑さは人を狂わすのだと思った。

 私に当てられた部屋はいたって普通だった。藺草が敷き詰められた居間と長方形で丈の小さい机とテレビがあって、奥には窓とその前に二脚の木製の椅子と小さい円卓机があった。ただ、窓の向こうに広がる景色は圧巻だった。

「向日葵畑ですか」

一面に、向日葵が咲き誇っていた。風に揺れ、太陽をめがけ一直線に伸びるその姿は壮観だった。

「うちの旅館の唯一の自慢です」

女将さんは控えめにそう言った。この光景目当てに来る人も少なくないらしい。その後、食事や大浴場の説明をされたが、私は向日葵畑に目を奪われて、正直よく聞いていなかった。それだけ、綺麗だった。

 私は腕時計を確認した。もう14時過ぎだった。私はにわかにそわそわし始めた。

あと少しでサーカスライオンに会える。そう思うと、胸の鼓動が一段と高まり、私はスマホに手を伸ばして、イヤホンを耳に装着して、一曲の歌を再生した。

曲名はサーカスライオン。彼らのデビュー曲で、サーカスで一生を終えるライオンの心の移り変わりを表現している。歌詞は独特だったが、私は酷く好んで聞いていた。

 私はそれを聞いて時間を潰した。緊張と興奮が交互に感じられた。

「石枝くん。いるだろうか?」

ドア越しのくぐもった声が聞こえた。部長らしかった。

「いますけど。もう大丈夫なんですか?」

「浩三のおかげで回復したよ」

「ああ、そうですか。それは良かったですね」

「それでだ、皆さん来たよ」

「え!?サーカスライオンさんがですか!?」

「え、あ、ああ……」

私の熱意に若干引き気味の部長の声が聞こえた。あるいは、私の興味の差の激しさに悲しみを覚えたのかもしれない。たあ、私はそこで私の身なりが相当にだらしがないことに気がついた。髪の毛はボサボサだし、長旅疲れで顔は浮腫んでいる。私は鏡とにらめっこして必死に私の最上の顔を作った。顔を引っ叩いて、張りを取り戻そうと躍起になった、すぐ崩れるのは仕方がない。第一印象を良きものにできれば、それで十分だ。

「よし!」

私はそう言って、部屋を出た。年一くらいには気合が入っていた。エントランスには、新聞部の面々が集まっていた。

「やけに気合入ってますね」

浩三くんが私の顔を見て言った。

「まあね」

私のそういう剣幕があまりに真に迫っていたからか、浩三くんは怒られたようにシュンとなっていた。ただそのせいで、上島くんも部長もシュンとなってしまったのは少し申し訳ない気もした。

「こんにちはー」

入り口の方から声がした。楽器のケースを背に、暖簾をくぐって次々と人が入って来た。

「うわあ」

 サーカスライオンのメンバーだった。私は夢見心地だった。

「君たちが新聞部の子?よろしくね」

そう言ったのは、レイナさんだった。ボーカルを務めている。私がとにかく好きな人だった。私はすっかり固くなって何も言えない。レイナさんは、石灰石のような色のワンピースを身にまとっていた。裾に施されたフリルがとても似つかわしい。

「ええそうです。よろしくお願いします」

部長がいたって緊張した様子もなくそう言って、握手を求めた。レイナさんと何を気安く喋ってるんだ、と口やかましいファン代表みたいに私はなっていた。

「頼むね」

レイナさんはそう言って、がっちりと部長の手を握った。その手は、とてもしなやかで、煉乳を固めたようだった。あるいはレイナさん自身が練乳か……。

 私はしばし放心していた。

「先輩。何ぼーっとしてるんですか。行きますよ」

私はその時、上島くんに呼ばれているのに気がついた。

「僕たちは単に皆さんへのご挨拶に来ただけなんですから。長居は相手にとっても迷惑ですよ」

そう窘められた。別に動けなかったのはそういう理由からじゃない。私がいつも、音楽という中でしか接して来なかったサーカスライオンのメンバーがしっかりと息づいているということに、なんだか感動して動けなかったのだった。ただ、私はそのことを上島くんにうまく伝えられる自信がなく、

「そうだね」

とだけ言って、とぼとぼと上島くんの後ろを歩いた。

「あ、ちょっとそこのお嬢さん」

その時、後ろから声がした。どきっとした。普段聞いている歌の声とはまた違う、それでいてやはり凛とした響きを持つ。紛れもなくそれはレイナさんだった。

「驚いたよ。まさか女の子がいるなんて。しかもこんな可愛いなんて」

そう言って、レイナさんは私の手を取った。その温もりは、とても形容できなかった。私の思いが逆流して、迸って、それがこの温もりとして結晶しているのではないかとさえ思われた。私はすっかりふらふらになった。

「え、ちょっと、大丈夫?」

私はレイナさんに肩を抱かれた。

「だ、大丈夫レス……」

語尾があやふやだった。

「貧血?それとも熱中症?とにかく顔が真っ赤だけど」

レイナさんは至極心配そうにそう言っていた。私は夢見心地だった。このまま死んでも、私は一片の悔いもないだろうと、心の底から思った。大好きな人に抱かれて死ぬことほど幸福はない。絶頂の中あの世へ行けるわけだ。ある意味、それこそ真の幸福だろう。白い肌、端正な顔つき、さらさらとした髪の毛、壮麗な瞳、薄く漂う香水、触れるワンピース、ああ私は天使に抱かれている。このまま天界へと導かれる……。

「その人、相当ファンらしいですよ。だから多分嬉しすぎて、そうなってるんだと思います」

上島くんが何やら言っているのが聞こえた。ただ、私にはもはや半分以上は言葉となって届かなかった。視界がぼやける。ああいい気分だ。今日はよく寝れそう……。そんなことを考えなら私は、ゆっくりフェードアウトして行った。

 目が醒めると、ベンチにいた。エントランス近くの、客のくつろぎスペースのような場所で、私は横になっていたらしい。無機質な天井がよく見えた。

「あ、気がついた?」

仰向けの私の視界に、その時急にレイナさんが現れた。寝ぼけ半分だった私もそれにはたまらず飛び起きた。

「ごめんごめん。驚かしちゃったかな?」

「あ、いや、まあ……」

反応に困った。レイナさんはそう言って、私の隣に腰掛けた。鼓動が早まった。

「ファンなんだって?」

レイナさんは私の目を覗き込むようにそう言った。そうも見つめられると、私は特にやましいこともないのに、視線を外してしまった。

「え、ええ。そんな感じです」

「へー。嬉しいな。どの曲が好きなの」

「やっぱりサーカスライオンです」

私がそう言うと、レイナさんは控えめに笑った。

「みんなそう言うんだよね。私としても会心の出来だったんだけどさ」

「あの曲って、確かレイナさんが作詞でしたよね?」

ボーカルもして、作詞もするなんてど偉い人だ、しかも歌詞も良くできてると来たら、非の打ち所がないと当時思ったことを思い出す。

「まあね」

「すごいですよね……」

「そう見えるだけだって」

レイナさんはそう謙遜していた。私にはその謙遜すら、尊く見える。

「ところで、君のお名前は?そう言えば、聞きそびれてたなって思ってさ」

「私ですか?石枝岬です」

「岬ちゃん?岬ちゃんね。岬ちゃんて呼んでもいいかな?」

私はそう言われた時、心臓が縮む思いだった。憧れの人が私の至近距離にいるだけでなく、私を下の名前で呼んでくれるなど本当に夢見たいな話だった。私は全く蚤のような声で、顔を俯かせて、

「か、構いません」

と答えるのがやっとだった。

「よし。岬ちゃんだ。それでさ、岬ちゃんはちゃんと私たちのCDは買ってくれてる?」

「ええ。それは義務ですよ」

私はつい口調が上ずった。金も払わないファンはファンではない。

「おー。それは嬉しい」

「そういう人、いるんですか?」

「街で歩いていると、時折会うんだよね。ファンですって。ただ、大抵私たちの曲サーカスライオンしか知らないとか、動画サイトで見てますとかが大半だから、ファンという言葉に私も花瓶になっちゃったの」

「私はちゃんと買ってます!ほら、見てください」

私はポケットに忍ばせていたスマホを開いた。音楽アプリに、しっかりサーカスライオンの曲を購入した証が残っている。レイナさんは、それを見て、本当だね、と言いながらも、

「ごめんごめん。岬ちゃんは、そもそも気を失うくらいだから、疑ってはいなかったよ」

と笑っていた。

「ほ、本当ですか?」

そんな些細な言葉も私は嬉しかった。認められた気分というか。

 その後も、私たちは他愛もない話を続けていた。勉強は大丈夫なのとか、そもそもどうして岬ちゃんはここにいるのとか、色々聞かれた。私は夢中になって答えた。私は好かれたい一心で、とにかく詳細に喋った。ただ、俯瞰して考えれば、レイナさんは並一通りの答えを期待しているだけで、別に深掘りして聞きたいと思っていたかは甚だ疑問だった。ただ、仕方がない。私はそれだけ舞い上がっていたのだ。とにかく、レイナさんに話を聞いてもらいたいという一心だった。

 レイナさんは会話の最中、よく私の目を見て聞いてくれた。それが私は、相手が私の話をちゃんと聞いてくれている証のように思えてとても嬉しかった。

「あ、起きたんですね」

通りがかりの浩三くんが、レイナさんと話す私を見てそう言った。

「なんかぶっ倒れたって聞きましたから大丈夫かなって思ってたんですよ」

「もう元気だから大丈夫」

「それは良かったです。ちなみに、外の向日葵畑を上島先輩と部長と一緒に見に行ったんですけど、中々綺麗でしたよ」

「へえ」

「まあ、男三人ですから、その事実を考えるたびに気は滅入りましたけどね」

でもオススメですよ、そう言い残して浩三くんはトイレの方へ歩き去った。最後の台詞は果たして必要だったのか、私は口に出さずに訝った。

 しかし、向日葵畑か。窓越しに素晴らしかったのだから、況や直をや、という奴だろう。そこで、一つの考えが浮かんだ。おい、何を生意気な!と憤る自分もいたが、それ以上に欲望が己を渦巻いていた。

「あ、あの!」

私はレイナさんに居直った。レイナさんは少し気を抜いていたのか、肩をピクッと震わせた。白いワンピースもそれに呼応して揺れた。

「何?」

首を傾げて私を見据えた。何を言おうとしていたのか、一瞬忘れてしまった。

「どうですか?」

「どうって?」

「その、一緒に?」

「一緒に?」

「向日葵でも」

「向日葵?」

「ええ。その、一緒に向日葵を見には……」

そこでレイナさんは察したらしかった。

「ああ。そういうこと。全然いいよ。行こう行こう」

そう言って、レイナさんは私の手を取った。

「あ、ちょちょっと」

私の制止も何のその、レイナさんは私を連れてエントランスを飛び出した。空は夕暮れ時で、真っ赤に染まっていた。その中に、蝉の鳴き声や川のせせらぎ、何処のエンジン音や砂利を踏み交わす音などがほのめいていた。

 旅館の裏手に向日葵畑はあった。近くに川も流れている。遠くには茜色の森も伺えた。

「いやー綺麗だ」

向日葵畑に辿り着くと同時に、手も離されてしまい、それはとても寂しかった。柔らかい感覚が失われていた。

 向日葵畑はおおよそ一本道だった。特に柵は設けられておらず、中に侵入するのも容易だった。道中、古びたベンチが一つ備えられていた。鉄製で、本来は青っぽい塗装がされていたのだろうが、至る所に赤褐色の錆が見えた。それにこの時期だから、熱を多大に吸収している。触れてみると、まだ幾ばくか熱かった。

「一休みしよう」

ただ、レイナさんがそう言うものだから、私たちはそこに腰掛けることになった。

「いやー暑いね」

レイナさんはそう言って、手で首元を仰いだ。団扇でも持って来れば良かったと嘆いていた。

 私は深くベンチに腰掛けて、空を見上げた。夕陽は見えないが、赤い空は見えた。

「天地が逆になったらとか、そんなことは考えない?」

不意にレイナさんがそう尋ねた。意図がわからず、私は反応に窮した。

「向日葵が上空にあったら、それはそれで綺麗かなって、そうは思わない?」

「ああ、なるほど。思います思います」

私は条件反射にそう言った。

「本当に?イエスマンはやめてよ」

「違います。本当です」

「そう。なら嬉しいな。私と同じこと思ってる人がいてくれて」

そう言って、レイナさんは寂しげに笑っていた。少し、それまでの痛快さと一線を画すような、そんな一面だった。

「今日は、練習しないんですか?」

私は気になってそう尋ねた。

「私はしたかったんだけどね、みんな長旅初っ端は嫌だってごねるものだから、仕方なしにきょうはオフにしたの」

「練習はどこでするんですか?」

「聞いてない?近くに武道場があるらしくて、そこを貸してくれるみたい。防音性もあるし、最適なんだけど、師範のおじいさんの有難いお言葉を聞くのが条件だとか何とか、言われてそれが目下一番のネックなんだよね」

「何ですか?それ」

「私も知らない。ただ、それを聞くだけで良いですからって言われて。まあ、聞くだけなら良いかなって」

「ふーん」

私は曖昧な相槌を打った。

「お、いますねいますね」

そんな中、私の平穏を崩す人間が現れた。カメラを回す部長だった。私の心が一気にクールダウンする。

「部長、何の真似ですか」

私がそう強く出ても、部長はにやけ顔でカメラを回し続けた。

「これは使える!使えるぞーーーー!」

「いや、だから……」

私がそれ以上を止めようとすると、それをレイナさんに制された。

「まあまあ、部長さんが良いものを取りたいって気持ちを汲んであげようよ」

なんて聖人。私は素直にそう思った。こんな横暴普通は許されない。張り倒しても、むしろ賞賛される。

「3分だけね」

私は部長にそう告げた。流石にその要求は受け入れないといけないと思ったのか、親指を立てて理解を示した。

 しかし、カメラを持った部長は何というか人格が変わっているように見えた。普段温厚でも、車の運転は荒い人などいるらしいが、例に漏れず部長もその類なのかもしれない。ただ、それはそれで迷惑な話ではあった。

 ともかく、私たちは3分の間適当に喋った。が、やはりカメラがあるという意識は抜けないし、カメラを何だかキャメラと言いたくなってしまう自分に嫌気が差した。部長の舐めるようなアングルになんども文句をつけたくなったが、レイナさんの手前それも憚られた。

「はい、頂きました」

部長はそう言って、さっさと帰ってしまった。妙に癇に障る部長の鼻歌が、向日葵畑を包んでいた。いっそ向日葵全部萎れてしまえと思った。

「はあ」

かなり大きめな溜息が出た。

「良いんですか、あんな横暴」

私はレイナさんに愚痴を言った。すっかり気の置けない言い方を自分に疑問を覚えないくらい、私は部長の方へ気を取られていた。

「良いじゃない。せっかく来てくれたんだから、ある程度の範囲は許してあげないと」

「そのうち、部屋に突入とかしかねませんよ」

「それは遠慮願いたいものだね」

「全く気をつけてくださいね」

「うん。そうする」

その時、心地良い風が吹いた。向日葵がか細い茎を揺らしながら、花弁を散らしていた。

「私たちのこと、岬ちゃんは好きなんだよね」

不意にレイナさんがそう尋ねた。

「ええ」

「そっか」

「それが、どうかしましたか?」

「いやいや別に」

そう言って、レイナさんは私の方を見た。その瞳は意味深だったが、私には測りかねた。

「あれ?レイナじゃねえか」

その真意を尋ねる機会は阻害された。声の方を向くと、一人の男がいた。長身で、かなりマッチョ体型だ。私はすぐに、コウタさんだとわかった。サーカスライオンのメンバーの一人だ。

コウタさんはそこで、私の方に視線を向けた。足先から顔まで、鑑定するように私を見つめていた。なんだか野性味を感じた。

「しかし、君も物好きだな。どうして、あんな連中と一緒に?」

コウタさんが口を開いた。

「どういう意味ですか?」

「さっきカメラ片手に、変な鼻歌歌ってた奴。あれ、君の連れだろう?」

「ああ、まあ、そうでもないですよ」

「そうでもない?」

私の不明瞭な言葉にコウタさんは理解できないようだった。代わりにレイナさんが釈明してくれた。

「あーそうなの」

そう言って、コウタさんはまた私の方を見た。少し警戒心を解いたように見える。

「なら、俺のこと知ってるんだ」

「ええ」

「そうか。なんか嬉しいな」

そう言って、コウタさんは私に歩み寄って手を差し出した。鼻炎気味の鼻息は荒かった。手には汗がこびりついていた。

「この子レディーよ」

レイナさんがそう言う。気にし過ぎじゃないかと私は思ったが、そう言ってくれるのは嬉しかった。

「良いじゃないか別に」

「それじゃあ、他の子たちにも同じようにしたの?例えば、部長さんにも握手を求めたの?」

レイナさんがそう言うと、コウタさんはバツの悪そうな顔をして、伸ばした手を引いた。宙ぶらりんのその手は、とても手持ち無沙汰に見えた。

「それは良いじゃねえか」

コウタさんは悪態をついた。その後、よろしくない間が流れた。私はメンバーの不和が何より見たくなかったので、

「私は嫌じゃないです」

と申し出た。それは本心だった。私の言葉に、コウタさんは気分を良くしたらしく、満面の笑みになって、

「よろしく」

と言って、また手を差し出した。

「はい。よろしくお願いします」

私はガッチリと彼の手を取った。彼は擦りあわせるように私の手を握った。それはまるで何か私を嘲弄するような情感を私に与えた。顔を窺うと、不気味に笑みを浮かべていた。私はそそくさと手を離した。コウタさんは、満足そうだった。

「それで、何しに来たの」

握手が終わった後、レイナさんが不躾にコウタさんにそう尋ねた。

「まあ、することもなかったからぶらぶらと」

「そう。ハメ外しすぎないでね」

「そもそもこんな田舎には目外すところなんかあるのかねえ」

そう言いながら、コウタさんは私たちを置いて、ずんずん進んで行った。そして、いつの間にかその姿は見えなくなった。彼もまた鼻歌を歌っていたが、それは部長のとは違い、とても甘美なものだった。ひまわりも心なしか元気を取り戻したように見える。

「はあ」

彼が見えなくなる頃に、レイナさんがまた大きな溜息を吐いた。

「お疲れですか?」

私は尋ねた。そもそも、私が倒れてからレイナさんはずっと私につきっきりのはずだ。疲れていないはずがないし、そろそろパーソナルな時間を欲する頃合いだろう。私はレイナさんと一緒にいれるということで、有頂天になり過ぎて、相手のことを全く考えていなかったらしい。そこまで考えが及んで、

「すみません」

と私はベンチから立ち上がって、上半身をきっかり90度曲げて謝った。

「え、どうして?」

レイナさんはキョトンしていた。私は謝罪の経緯を説明した。

「今の溜息は全然別の話。一緒にいれて、むしろ私は楽しんだから」

レイナさんは笑ってそう言ってくれた。ただ、お世辞の可能性もあり、私は心の底から信頼することはできなかった。私のその微妙な顔を気遣ってか、

「ねーなんか私にしてほしいこととかあるかな?」

とレイナさんは言った。折角出会えたことだし、と笑顔で補足した。私と言えば、発言を理解しているはずなのに、それが現実と納得できなかった。

「え?」

「してほしいこと。叶えられる範囲でなら、聞くよ」

「……してほしいことですか?」

「うん。なんかないかな」

「本気で言ってますか?」

「うん」

「本気で?」

「うん」

「……本気で?」

「そんなに信じられない?私ってそんなに信用ない?」

「そういうつもりじゃなくて!」

ただ二の句を継げない。だからと言って、レイナさんにお願いごとなど烏滸がましくて口にできない。私はあーでもないこーでもないと一人悶絶していた。あーあーと野犬のような唸り声をあげていた。レイナさんはそれを見かねて、

「それじゃあ、留保ってことにしとく?」

と言ってくれた。

「ぜひに」

私は食い気味に答えた。それじゃあそうしようか、とレイナさんは受け入れてくれた。その後は、薬にも毒にもならない雑談をして時間を潰した。

 やがて、陽が落ちかかり始めた。外灯という外灯も見当たらず、向日葵の姿も若干怪しげになっていた。幽霊の正体見たり枯れ尾花でもないけど、暗くなると至る物が少しおどろおどろしくなるのだなと思った。

「帰ろっか」

レイナさんのその言葉で、私たちは帰路に着いた。昼間の熱気が過ぎ去って、程よい風が耳元をかすめるのが気持ち良かった。

「そう言えば、コウタさん帰ってきませんでしたね」

道中私はレイナさんに話しかけた。

「そう言えばそうだったね」

「別ルートで帰ったんでしょうか」

「うーん。どうだろう」

「自然風景が好きだったりするんですか?」

私は興味本位で尋ねた。

「全然。花より団子派」

「へえそうなんですか。なら、何してるんでしょうね」

風情に大した興味もないなら、この辺りは実に退屈じゃないだろうか。歓楽街どころか、商店の一つもパットは目につかないのだから。自販機くらいが点在するだけだ。

「そうね……」

そう呟いたきり、レイナさんは黙り込んでしまった。日中には聞けない、ヒグラシの鳴き声が空気に溶かされたように耳に染みた。空は地獄のような、雑多な赤色に包まれていた。雲はどれも赤黒さだけをまず一番に抱えて、這い蹲るように仄暗く聳える山林の方へ遠ざかった。

「あー先輩帰りましたか」

結局、レイナさんは旅館に着くまで何も言わなかった。エントランスには髪の毛がこざっぱりした上島くんがいた。まだいくらか湿った首筋を面倒そうに団扇で扇いでいた。さっさとタオルで拭けば良い話だったが、彼自身の顔を鑑みるに、おそらく、気温と濡れた首筋と団扇の取り合わせに酔いしれているのだろうと考えて、私は納得した。

「向日葵どうでしたか?綺麗じゃなかったですか?僕らは男三人で見たもんだから、虚しさも凄かったですけど」

上島くんは団扇を扇ぐ手を止めてそう言った。上島くんもまた浩三くんとほぼ同じ感想を持っていた。私は何と無く、胃の周辺を摩らざるを得なかった。

「綺麗だったよ。レイナさんもそうでしたよね?」

「え、ええ。そうだったね」

レイナさんは生返事だった。視線は私でも上島くんでも無く、旅館の床に向けられた。私も同様に床をしばし眺めたが、古臭い焦げ茶色の年輪が照明をぼんやりと反映するか、木屑を鼻に詰め込んだような酷く自然的香りを放つかのどちらかだった。

 私は上島くんに向き直り、個人的な質問をした。

「もうお風呂入ったの?」

「はい。ばれましたか?」

「まあそりゃね」

別の理由で、髪の毛がこざっぱりしていたり、首筋が微かに濡れていたとしたら、それは慄然とした恐怖を私に与えることになる。黒魔術でもやっていたのかとか。

「浩三と二人で」

「二人一緒に入ったの?」

「まあ、そうなりますね。僕がお背中流しましょうかとか、シャレで言ってましたよ」

上島くんはその申し出を受け入れたかどうかまでは話さなかった。シャワーが熱かったとか、設備が良かったとか、露天風呂が最高だとか、大浴場についての感想は残したが、申し出については忘れたように沈黙していた。それは、もどかしさとともに、嫌な不安も私に喚起した。男2人という状況と背中という言葉のイメージとお湯の空気感が、私の脳内で勝手に具体性を帯びたのが、何よりの不幸だった。

一方の上島くんは、もう話は終わりだと言いたげに、今は唇を固く閉じていた。そしてまたいつも通りという様子で団扇を扇ぎ出した。時折、団扇の先端が首筋を掠めては、萎びた音を奏でた。団扇は機能性重視で両面ともに真っ白だったが、アイスバーのような柄の部分に震えた筆跡で、「ウエシマ」と書かれていることを発見した。

私は少し混乱した。私は落ち着こうと考えた。なんだかわからないが、情報が錯綜していた。

それから頭で数秒自分の珍妙な心地を検証して、

「そうなんだ」

と、そう返すのが最善だという結論を見た。上島くんは私の懊悩を全く気づかなかったようで、

「それじゃあ、僕は部屋に戻ります。お二人も楽しんでください」

と言い残して、上島くんは立ち去った。優雅に団扇を振る姿が私の心に深く刻まれた。

 私はレイナさんの方を窺った。

「……レイナさん?」

てっきり私たちの妙ちくりんな話を鼻で笑うくらいには、物思いから帰還しているだろうと思っていたが、そんなことはなかった。顎に手を当てて、床をじっと見つめていた。

「ねえ、岬ちゃん」

顔は動かさず、レイナさんはそう言った。

「何ですか?」

「私から一つお願いごと良い?」

そこで首を重たげに捻って顔が私へと向けられたが、まだどこか寝ぼけているようでもあった。鎖骨が呼吸に乗じて隆起して、閑静な窪みを刻んではその影を色濃くしていた。

「お願い……ですか?」

「ええ。なんてことないんだけど他のメンバーともしお話ししたかったら、私を通してもらえないかな」

「どうしてですか?」

「もしかしたら、そんな機会を望んでるのなかと思って。だとしたら、私が仲介役になろうと思って」

「それは嬉しいですね」

変な申し出ではなくて私は安心していた。とはいえ、私は8割ほどレイナさんのファンだから、大方満足だった。腹八分目がどうたらという諺もあるし、これ以上交流することが必ずしもプラスに繋がるとも言い難い。それよりも、私はレイナさんが今に至るまで何を考えていたのか気にかかった。

 レイナさんは、私を見つめていた。頰が少しだけ張り詰めて、両目はそのせいか大きくは見開かれていない。前髪は額全体に垂れ下がり、その隙間から微かに淡墨を引いたような眉毛が時折顔を覗かせた。それらの光景は、私にレイナさんの平素を実感させ、後れ毛の器用なカールさえにも違和感を来すのだった。レイナさんの表情から、今神妙さは喪失したが、どこか愛惜に溢れた情感を私は覚えずにはいられなかった。

「うんそれだけだから。よろしくね」

レイナさんはそう言った。上の空のまま、はい、と返事して別れた。

 私は部屋に帰るなり、その場へ寝っ転がった。畳の藺草が私をチクチク刺して出迎えた。よくメカニズムはわからないが、こうしていると童心が勝手に蘇る。私の家に畳の部屋はないのに、妙にドタドタと踏み荒らしたい気持ちに駆られる。しばらく畳と戯れた。そこに私はレイナさんの偶像を見ていたのかもしれない。

 しばらくして、お風呂に行こうと思った。埃っぽいクローゼットには予めいくつか浴衣が用意されていた。私はいくつか見物して、特に、白を下地に水色や薄紫色をした紫陽花が斑らに配置されたものを私は気に入った。帯が薄桃色であることが唯一気に食わなかったけど。私は不器用にそれを畳んで、部屋を出発した。

 道中、エントランスに屯ろする新聞部三人を発見した。ふかふかのソファー3つにそれぞれ腰掛けていた。その中央には、年季の入った小高い丸机が置かれている。支柱をマンモスの脚のような巨木が支えているのが印象的だった。上島くんと浩三くんは私に背を向ける形でちょこんと座っていたため、私が顔を確認できたのは部長だけだった。高笑いを抑えるように唇を震わせて、ソファに精一杯凭れ掛かりながら、後輩二人と自分の手札を作為的に見遣っていた。眼鏡を仕切りに押し上げる仕草もどことなくデモンストレーション的なやかましさを想起させる。

「何してるんですか?」

私は通りがかり気になって尋ねた。浩三くんは振り向いて私を視認した後に、また手札を鬼のように凝視して、

「昼間のリベンジです」

と答えた。机にはUNOが並んでいた。熱心だなあと感心してしまった。

「僕に勝てない腹いせですよ。何度やっても結果は同じなのに。全くもう」

「ドロー4のルールも知らなかった部長がそれ言いますか」

上島くんがそう言って頭上の麦わら帽子を手持ち無沙汰に回した。よく窺えば、麦わら帽の後ろ側の上部に、小さくマジックで、『ウエシマ』と書かれていた。この夏、一番言葉にならない感情を抱いた瞬間だった。

 私は気を取り直して、三人に問うた。

「部屋でやればいいじゃないですか」

「石枝くん。それじゃあ何だか味気がないだろう」

「味気ないって、その感覚が私にはよくわからないんですけど」

「つまりだな、僕のUNOの腕を顕示したかったのさ」

「そうですか」

「……」

部長は沈黙した。そこで、私は初めて部長がボケていたことに気がついた。後の祭りだったが、なんだか申し訳なかった。

「部長テンション上がってるだけですよ。なんたって最後の夏ですからね」

上島くんが冷然とそう言って、ドロー4を場に出した。

「部長、4枚引いてください」

「お前、接待の心意気はないのか?」

「ドロー4程度で接待も糞もありませんよ」

「それそうだな。よし、4枚引こう」

「……」

なんだ今の会話……。

「先輩は今からお風呂ですか?」

浩三くんが尋ねる。もうUNOに飽きているのか、手札を団扇のようにして首筋を扇いでいた。青色や緑色のカードが多かったため、涼やかだった。

「そんなところ。浩三くんたちは確か、早々に入ったんだよね?」

「ええ。上島先輩のお背中お流ししますよ、なんて冗談を言ったりして」

「あっはは。まあ、それ以上はいいや」

私は愛想笑いして会話を打ち切った。

「浩三それ俺もう話したぞ」

「そうだったんですか。それじゃあ、二度手間だったんですね」

そんな会話を耳鳴りのように聞き入れながら、私は大浴場へ向かった。

 脱衣所の人気は少なかった。そもそも、女性客が限られているらしい。私はタオル一枚になって、風呂場へ向かった。

「今夜……それで、……ううん。……つもり」

ドアに手をかけた時、そんなくぐもった声が奥から聞こえた。緩慢に流されるシャワーの音にも阻害され、断片的にしか聞き取れなかった。ドアに備え付けられた湯気の張り付いた窓は、その奥のいかなる情景も映し出さない。ソクラテスなら、熱気が籠もっていることだけはわかるとかそんなことを言うのだろうか、なんて思いながら渋々ドアを開けた。滞留した熱波が隙間風のように私の身体を通り抜けた。

 風呂場は簡素な作りだった。手前にシャワーやボディーソープが備え付けられた身体を洗うスペースがあり、奥に大理石で囲われた長方形型の温泉が一つ。その右隣に露天風呂への続く扉があるという具合だった。

中には、ミワさんとケイコさんがいた。私が入ってすぐ側にミワさん、ケイコさんの順番で台座に腰掛け並んでいた。

ミワさんは明らかにこちらへ視線を向けた。その視線は、とても柔和とはかけ離れたものだった。肌は新雪のように白かったが、そのせいか、一点に固定された黒目の存在が酷く冷酷なものに思えてならなかった。いつもは長髪を背中になびかせているが、今は片方にそれがまとめられていた。それは床のタイルに引っ付いて、下を流れる水に毛先を浸していた。机に押し付けられた絵筆のようだった。本来は厭われるはずの行為だが、ミワさんはそのことをも今は忘却するほど、私への警戒を見せているようだった。シャワーは無造作に上向きのまま流され続けていた。

 一方、ケイコさんは、手でボディーソープを泡立てながら、頭を少しも動かさずに、鏡を見つめていた。さも、新しい皺やしみができていないかとチェックするように目を瞬かせて自分の顔に見入っては、掌を手早く擦り合わせた。それは、私に気を払っていないような素振りであって、逆説的に私の存在に関心を払っていることを証明しているようでもあった。その後も、彼女は泡立てることをやめなかった。私が立ち去るのをいかにも待ち惚けしているようだった。その様子が芝居染みていることに感づいたのか、やがてケイコさんの耳朶が赤み始めた。

 私は滑らないように一歩踏み出して、まず湯の方へ向かった。順番が間違っているのは百も承知だったが、シャワー席の残りは一つだけで、それはつまり彼女らと相席することとなる。それは、現状避けたかった。何か悪事でも行ったかと自分を省みたが、特に思い当たる節はない。しかし、メンバーからこのような出迎えを受けるとは露ほどにも思っていなかったため、大いに悲しかった。

「ふう……」

私は何も気づいていないかのように、そんな阿呆のような声を掲げた。邪険にされた消沈ぶりをなるべく隠した。あの二人にも色々あるのだろうと思いを馳せて納得した。私はこの場を取り成すことに専心した。

「あんな子いたの?」

「ほら、新聞部の最初の挨拶の時の」

「ああ、そう言えばいたっけ。男らに揉まれて物好きな子だね……」

「……」

私は黙るしかなかった。顔が火照った。お湯を頰に掛けたが、ヘドロのような速度で流れ落ちるだけだった。足をお湯の中でしゃにむに動かして、誰にも伝わらない抵抗をするのが私の限界だった。

 しばらくして、シャワーの音が止んだ。そして、二人は私の方へと近づいた。

「湯加減はいかが?」

ミワさんが湯船の縁に立ってそう言った。ヤシの木のようにすらっとした体格が私によく印象付けられた。その長身から向けられる瞳というのは、依然として予断を許さないものだった。私の視線、鼻腔の膨らみ、呼吸の具合、肩のしなり方、肌の張り、等々を鋭く観察していた。絵画を見るように、ミワさんは私の全身に視線を滑らした。それは、蚊が飛ぶように全く不規則な移動の仕方で、急に止まったり、素早かったりして、私はその間、居た堪れなくてならなかった。肌はやはりとても白かった。雪女が忍んで、湯を享楽しに来たのではないかと思えるほどだった。私は白々しく湯船から突き出た肩にお湯をかけて、

「頗る良いです」

と答えた。ミワさんは、右手で胸を覆い、左手で桜色のタオルで以って下半身を隠していた。そのタオルは絞りきれていないのかまだ水気を残し、ポタポタと雫が滴ってミワさんの足首へ落下していた。

「そう。ところで、あなたどうして先に身体を洗わないわけ?」

突如、そんな咎めるような言葉が放たれた。私は肩を強張らせて、頭に乗せていたタオルを何気なしに触って、平穏を求めた。あーえー、という間投詞と、諂いを込めた愛想笑いをして、答えを先送りした。ミワさんはまだ私に懐疑の目を向けていた。

「それは人の勝手だよ?それに、ほら、この子困った顔してる。そんな詰問するような顔をしないであげて」

横やりを入れるように、ケイコさんがミワさんをたしなめた。ケイコさんは、ミワさんの後ろに控えたが、華奢な体つきで、その体躯はミワさんのそれにすっぽりと隠されていた。だから、ミワさんの肩の付け根辺りから顔を突き出すようにケイコさんは喋っていた。その様子はある種ユーモラスだった。

 ともかく、私は救われたことに感謝した。ミワさんはまだ厳しい顔をしていた・

「普通身体先洗わない?」

「だから、それは人それぞれ。それに、気を遣ってくれたんだよ。きっと。ね?」

ケイコさんが目配せした。ええ、と漠然と肯定する。

「ふーん。まあいっか」

興味をなくしたのか、ミワさんは急に怠惰に瞼を摺下ろした。一気に峻烈な気配を失った。私の緊張もある程度緩和された。

「ごめんね。気が強いところあるから、この人」

ケイコさんが笑ってそう言う。うるさいなあ、とミワさんは面倒そうに額へ皺を刻み込んで、罰が悪そうに視線を私から外した。

私は、いいい加減逆上せそうだった。ただ、二人の手前湯船から這い出ることは許されなかった。弱々しく回る駒のように視界は揺さぶられたが、何とか意識は保った。

「あなた、向日葵畑は見に行った?」

ミワさんが尋ねた。

「はい。あの、レイナさんと、その……一緒に」

「レイナと?どうして?」

「私がファンだってことを知ってくれていたみたいで」

「ファン?私らの?」

ミワさんは素っ頓狂にそう言って、人差し指で自らを指差した。その爪は鋭利で、真っ白に装飾されていた。

「はい」

「どうして?」

「どうしてと言われても……」

私は口籠る。一言では言えなかった。長々と個人的な話をするのは、現状大いに憚られた。

「へー私らのファンなんだ」

後ろに隠れていたケイコさんがまた顔を出した。オレンジ色の電灯がその頰を光沢を持って照らしていた。私の言葉に嬉しくなったのか、タオルで胸元を隠すのを忘れていた。私は自分が赤らむのを感じながら、はははと笑って、視線をお湯の流入口に移した。ボコボコと水面を打つ音がよく聞こえた。

「ちなみに誰のファンなの?」

ケイコさんがにじり寄って尋ねる。その巨大化した肌色の熱気は、私にはいささか圧が強かった。私は目を瞑りながら、

「レ、レイナさんが一番ですかね……」

と言うのが精一杯だった。

「レイナね。レイナか。そっか」

ミワさんは一人そう呟いた。その口調が意味深で私は思わず、目を見開いた。ミワさんは悴んだ手を温めるようにタオルを握った左手の指先を動かしていた。視線はタイルに溢れた水の行方を追っていた。その口の端は微かに上ずっていた。

「あー。レイナか。残念」

ケイコさんはそう言った。あどけない笑顔が印象的だった。そこで初めて、自らのあられのない姿に気がついたのか、あーごめんなさい、と爛漫な声を発して、ケイコさんはまたミワさんの後ろへ隠れてしまった。

「全くもう」

ミワさんは呆れていた。その時はもう先ほどまでの意味深さは影を潜めていた。

「まあ、とにかく向日葵は見に行ったんだ?」

「はい」

「どうだった?」

「綺麗でしたよ」

「もう飽きちゃった?」

「見足りないくらいです」

「それは良かった」

ミワさんはニヤリと笑ってそう言うと、私露天風呂行くから、と言って、鮸膠も無くガラガラと扉を開けて、外へ行ってしまった。

 ケイコさんはその後ろ姿を追憶するような表情で見送っていた。その後少し俯いて、髪を直すような手つきで右耳を数回撫でていた。

「一緒しても良い?」

ケイコさんはそう言った。私はいよいよ目眩が起こりそうだったが、一対一で話せるという特権的な誘惑に負けてしまった。逆上せても小一時間冷房にでも当たれば元気になるだろうと高を括った。

「失礼しまーす」

ケイコさんは私の隣を陣取った。後ろの石壁にもたれかかって、天井を見上げていた。立ち上る湯気の捉えどころのなさに酩酊するように、休息の実感を頬の楕円に描いていた。私がその様子に見惚れていると、私の顔に何かついてる?、といかにもベタなことを言われてしまった。卑屈な笑いを浮かべて、私は何も言わなかった。

「あー。気持ちが良いね」

ケイコさんが私の方を見てそう言った。

「そうですね」

「名前とか聞いても良い?」

「はい。石枝岬です」

「石枝さん?」

「そうです」

「私の名前は……、知ってるよね?」

「もちろんです」

そこで、二人して変に笑った。ケイコさんはそこで大きな背伸びをした。洞窟内に響くような吃った水音を立てて弱々しい波紋が水面に幾重にも広がった。

「レイナが好きなんだ?」

「そうですね」

「どうして?」

「あの声が好きで……」

「そりゃあ、良いね!健康的だ!」

そう言うと、ケイコさんは唐突に親指をピンと立てて、私の頰にグリグリとその親指を当てた。意図がわからず、私はされるがままになった。ピンクの下地に黄金色の紅葉が装飾された、洒落たネイルを親指は見せていたが、その爪が私の頰に食い込むのではないかという心地が、私にとっては一番の恐怖だった。そのうち恐怖よりも気恥ずかしさが優越し、私はまた赤面した。

「耳朶まで真っ赤だよ」

ケイコさんはそう言って、徐に私の頰から親指を離し、私の耳朶を山椒を塗すような手つきで触った。耳朶に触れる指の感触と長過ぎる爪が耳を柔らかく引っ掻く感触とが、眠っていた情動を呼び覚ますようだった。私は何とか理性の鬼となり、勢いよく湯船から立ち上がった。バシャッと、水面が揺れた。そこに私の困惑して真っ赤な顔が、朧げに反射されていた。なんて突飛なんだろうか、と疑問に思う暇さえなかった。

「急にやめてくださいよ」

私は何とか笑ってそう言う。ケイコさんは一瞬、時が止まったように、表情を石膏のように凝り固めていたが、すぐに相好を崩した。

「ごめんね。洒落だから。まだ、シャンプーとかまだでしょ?それに、そろそろ逆上せてきたんじゃない?」

私を気遣う言葉だった。私はそこで、自分がすっかり逆上せていることに太陽を直視した後のような明滅甚だしい視界で以って気付かされた。私はしばし泥酔した親父のように顔全体を右手で覆い隠しながら、何とか立ちくらみを黙らせて、ケイコさんに慇懃な挨拶を残して、湯船を後にした。

 私は転ばないようにして、台座に着席した。温度を一番低くして、蛇口を思いっきり捻って、頭から冷水を浴びた。私の頭から、理性とか、思考とか、文明とか、そんな高等な言葉が冷水が腕や足を伝う度に抜け出た。その代わりにやってくるのは、うまい具合に割り箸が割れた時に伴うような心地であった。阿呆らしかったが、こんな私はおそらく幸せ者なのだろうという確信が鏡の向こうにほのめいた。

 しばらくすれば、その幸福も薄れた。すぐに温度を適温に戻し、水量も適量にした。シャンプーの容器を二度ほどプッシュして、味醂のような色のシャンプーが手に広がった。私の掌はすっかり水にふやけて豆腐のようになっていたが、ともかく、そのシャンプーを泡立てながら、私は徐々に鎮静を回復し始めた。

 私は、ここでレイナさんとミワさんが何を話していたのかを疑問に思った。断片的に言葉を思い出してみる。だが、あまり捗らない。ふと鏡に映る私の表情を窺うと、憂鬱なカマキリそっくりだった。私はすぐに鏡にシャワーを押し当てて、その残像を死灰にした。シャワーの流水を止める頃には、鏡は全く曇ってしまっていた。その濁りはとても私には具合が良かった。そこで、一つの言葉を思い出す。今夜だ。今夜と言っていた。

 今夜?そう言えば、今夜って言ってた?今夜何があるのか?

 疑問は膨らんだ。鏡は濁っている。その濁りが、私の存在を希薄にし疑惑をより加速させた。

 しかし、髪の毛にべっとりとシャンプーをつけた瞬間にその推理の疑問の動力を見失った。どうせ他愛もない世間話をしていたに違いないと断ずる自分を見出した。疑問はバカみたいな速さで虚空へ消えた。

「ふう……」

奥の方で寛ぐケイコさんの声が聞こえる。それは微かな水面の揺れる音も付随した。私はその後ろに広がる光景を自覚することで、また一つ安堵を手に入れていた。私は曇った鏡をシャワーで洗い流し、その先に普段通りの顔をした自分を認めた。

「お先に失礼します」

私は身体を洗い終わると、振り返ってケイコさんの方を見た。ケイコさんは頭にタオルを乗せて、口をぽっかり開けていた。それはなんとも、プライベートを覗き見るようで、私は忍びなかった。

「うん。湯冷めに気をつけてね」

ケイコさんはそう言って笑うと、お湯から手を抜き出して、その手を見送りに振ってくれた。サーカスライオンのメンバーとまるで平然とやり取りした私に今になってようやく違和感を覚えた。

 私は脱衣所の自分のロッカーに到着した頃合いに、ミワさんが露天風呂にまだいることを思い出した。まさか私のごとく逆上せてはいないだろうか。あの真っ白な肌が、病的に血を滾らせた色合いになるのを想起して、私はやけに心配になった。私は濡れた足で引き返して、全く曇ったガラス窓を掲げた扉をまた開けた。すると、そこにはもう誰もいなくなっていた。湯船には、湛湛とお湯が張り詰めているだけだった。

「……」

ここからでは、露天風呂の様子は伺えなかった。私は無言で扉を閉じた。ガラガラと、無機質な音が響いた。

 私はもう一度ロッカーの前に立って、バスタオルで漫ろに体を拭いながら、先の光景を心に浮かべた。今もあの浴場には無言の空気が広がっているはずだ。お湯だけが恒久的なやり方で湯船へと注がれているはずだ。そして、今尚湯船から漏れ出た水は排水溝へと向かって、ゴボゴボと音を立てている……。

 私はその時急速に、二人が掲げた、今夜、というワードの重みが取り戻された。あの無言の空間の存在が、私にそう思わせた。

「あ、岬ちゃ……」

「レイナさん!」

そんな折、脱衣所には、レイナさんが入って来た。白いワンピースを私はまた拝むことが叶った。天井に設置された古びた扇風機の強風にそのワンピースの裾は煽られて、ゆらゆら揺れていた。その陰影の繊細な移り変わりや擡げられた裾の下にほのめく太ももが、私には酷く儚かった。私はそこでまた軽はずみの安楽を回復した。

レイナさんはなぜか気まずそうに私を見ていた。私は何か粗相をしたのかと今日1日の足跡を辿ったが、現状の弛緩した思考回路の元では、夕刻に見物した向日葵の色について感傷するのが最大限だった。

レイナさんが、私の無言を困惑と見做したのか、

「どう?気持ちよかった?」

と尋ねた。私はその声音の柔らかに安心して、

「ええ。最高でした」

と返した。耳朶を触られたなどの小話は割愛した。ただ、まだレイナさんの表情は冴えなかった。厄介めいた笑みを浮かべて、頰を何度も上げ下げした。

「ところで、どうして三人一緒じゃなかったんですか?二人はもう中にいましたよ」

少し気になって私は尋ねた。部屋割りも同じなのだろうから、一緒に来るのが自然な流れに見えた。新聞部三人は例外だ。

「あーそうね……」

レイナさんは天井の照明を見ながら、そう呟いた。小麦色の肩を、レイナさんは肌寒そうに撫で回していた。その素振りは、どこかよそよそしい。

「見たいテレビがあってね。それで、二人には先に行ってもらったの」

「何のテレビですか?」

「えーっと、何だったかな……」

レイナさんは周期的な足踏みをして、その答えを探した。視線は振り子のようにロッカーとロッカーを行き来した。その仕草もどこか時間稼ぎ的というか、演技めいているようにも見えた。私は少し眉を顰めた。ややあって、レイナさんは硬直し、右手を顔の辺りまで持って来て、そして視界を覆った。顔は俯いていた。

「どうかしましたか?」

「あーいやね」

その声は笑っているようだった。瞳の様子はわからなかったが、口元は確かに、諧謔的に曲がっていた。かと思ったら、平然に戻った。と思ったら、また諧謔的に歪んだ。緋色の唇が波打っていた。わたしは途端に不安になった。あなたの言葉に辟易したのよ!と一喝するための入念な準備の最中であるという疑念が、私を襲ったのだった。

「いや、その格好恥ずかしくないのかなって思って」

「へ?」

思わぬ方向からの指摘に、私は素っ頓狂に返事する。

「いや、恥ずかしくないんならいいんだけどね。私がさも当然のように受け入れるのも変な話だし」

「あ、ああ、あああ」

私はそこで、自分の身なりが全くお粗末であることに気づいた。本来身体を覆うはずのバスタオルは無造作に右手に握られ、死んだ一反木綿のように床へ堕落していた。顔だけでなく、身体まで紅潮するのがわかった。私は、レイナさんのぎこちなさの理由を理解するとともに、私がこの間ずっと羞恥的だったことが意識され、それはもう握り締められたバスタオルを動かして、私の身を包もうとする行為すら、罪を逃れようと泣き喚く罪人のような決まりの悪さをほのめかすのだった。

「ご、ごめんなさい!すぐ着替えます」

私は何とか喉からそう声を出すことに成功した。面白いもので、その声とともに、私は感情的な後ろめたさを見失い、ともかく早く着替えをすることに専心しなければならないという火急の信号を受け取った。レイナさんは私の焦りようを見て、瞠目した後、口元を抑えて控えめに笑っていた。  

そんなこんなで私は光の早さで着替えを完了した。浴衣をきつく結びすぎてお腹周りが腹痛時のように痛んだ。私はそれを表に出さないようにして、そそくさと脱衣所を去ろうとした。この場に長く留まれば、またいつ羞恥がまた思い出されても不思議ではなかった。

「ところで、二人に何か言われたりしなかった?」

そんな私をレイナさんの言葉が呼び止めた。ワンピースを器用に脱ぎ去る音が、煩悩を愛でるように響いた。その音は、私の裸体をレイナさんに見られたという羞恥よりも、レイナさんに裸体を見てもらったのだという危険な感情の芽吹きを助長するようだった。私は何とか、吹き荒ぶ扇風機の羽の回転に自らを同化させるようにして、平衡を保った。

「何かとは?」

「失礼なこととか言われなかったかなと思って」

「なかったはずです」

耳朶は触られたが、失礼なことを言われた記憶はなかった。ただ、一応義務的に、

「ああ、そう言えば、向日葵畑を見に行ったかについて聞かれました」

とは報告した。ミワさんの意味深な態度が気にかかった。ただ、その態度については言及しなかった。

「向日葵畑?」

「ええ。見に行ったって言ったら、良かった、って言われました」

「そっか。それなら良かった。ごめんね呼び止めて」

「いえいえ」

その後、また何かを脱衣する音が扇風機の羽音に紛れるのを発見し、私は逃げるように脱衣所を後にした。私の後ろに広がる世界への想起がこれ以上留まると何かが音を立てて爆発しそうだった。見えるようで見えない、それこそ、服や下着を緩慢に脱ぐ音というのが、おそらく、何よりも悪かったのだと私には思われた。暖簾をくぐって薄暗い照明に手の甲を照らすと、青白い血管がいつもより鮮やかな緑を浮かべていた。

「あードライヤー」

ただ、道中べちょべちょの髪の毛がうなじを浸していることに気がついて、髪を全く乾かしていないことに気がついた。私の幸福はそんなことで奪われたのだった。

 ドライヤーで髪の毛を乾かした帰り道、エントランスでは、依然として新聞三人がUNOに興じていた。手札を見つめる様子は、後ろ姿だけでも馬鹿みたいな迫真を光らせている。側から見て、例えば、彼らがこの勝負で世界の実行権の割合を決めようとしている、と空想すれば、この至極真剣な姿の意味は急激に真実味を増すが、ドロー4がどうたらと行きの新幹線で揉めていたことを思い出せば、瞬時に彼らはただの茶番に興じているという確信が馬鹿げた呆れとともに思われた。

「良い加減飽きませんか?」

私は彼らのテーブルに近づきそう言った。

「今のところ、俺の独壇場だ」

誇らしげに部長がそう言って、ソファにより一層凭れかかった。そして、眼鏡を擡げて、生身の両目で私を捉えた。そのおかげで、広い額の存在は隠されたが、ビービー玉のように小さい黒目の存在もまた確認されたのだった。睫毛は不均等だった。しかし、いかにも作為的な一連の動作だった。

「おかしいじゃないですか。UNOは運ゲーですよ。どうしてそんなに部長が勝つんですか」

浩三くんが異を唱えた。

「そう思っているうちは、俺の次元には一生辿り着かないだろう」

「まさかイカサマしてないでしょうね?」

「敗残兵みたいなこと言ってないで、精進したまえ」

部長はそう言って、また眼鏡を掛け直した。不健康に青色を混ぜた額がまた姿を見せた。

「でも、ここまで勝つのはおかしいです。先輩がお風呂入ってから、出てくるまで、ずっと部長が勝っていたんですよ」

私に告げ口するように上島くんが不平を言った。

「何とでも言いたまえよ。後輩諸君。俺が勝ったという事実は覆しようがないんだから」

「そんなこと言ってると、愛想尽かされますよ」

私は忠告する。現に、後輩二人の表情筋の硬直が、後ろ姿であるはずなのに、千里眼的に感じられた。土筆のように腰から上がピクリとも動かなかった。

ただ、その後も後輩二人が全く軽口も聞かないでUNOに興じる姿を見つけて、その考えを改めた。ある種その硬直というのは、不断の団結力の顕現にも見えて来た。部長という諸悪をぶっ倒さんと、後輩二人が沸々と血液を煮えたぎらせている。そう考えると、3人は健全なのだろうと思った。

「それじゃあ、私は帰ります」

「先輩はどうですか?やりませんか?」

浩三くんが私を呼び止める。

「遠慮しとく」

私は少し考えたフリをした後そう言って、踵を返し、ヒラヒラと右手を振った。私のこの別れの挨拶を彼らが見ている保証はなかったが、私はしばらくそうやって歩くことで細やかな満足を手に入れていた。

 部屋に戻るなり、きつい帯に伴う腹痛に耐えきれず浴衣を床に脱ぎ捨てた(これは誇張表現で、実際は、丁寧に脱いで、元のクローゼットに掛けておいた。投げ捨てたくなるほど、ただ、私はお腹が痛かった)。ボストンバックを漁り、slender womanと謎の刺繍がなされたTシャツを探し当てた。白の下地に青色の文字でslender womanとあった。これを一体どうして私は所持しているのだろうか……、なんて突発的な疑問にも襲われながら、袖を通した。見事にフィットするのが口惜しい。下は適当にだるだるの黒っぽい長ズボンを選んだ。

「さあて寝ますか」

私はそう言って、まず中心を陣取った机を脇へ寄せて、ゆとりを確保した。その後、押し入れから白の敷布団に、白の掛け布団に、白の枕を取り出した。白尽くしだった。不満なわけではないが、白ばっかだなあと、そんな当たり前の所感を抱いた。

 微弱な光が差し込む窓をカーテンで遮って、紐を引っ張ってアナログに部屋の明かりを消した。すっかり暗くなってしまった。

 私は今日のことを曖昧に振り返った。あまりしゃしゃり出ないようにと肝に命じていたが、結果としてかなりの接触が為されていたのは、お近づきになれて良かったという嬉しさ半面、うざったく感じられていないかという心配もまた同じくらい思われた。これらを突き詰めれば、結局、心配の比重が大きくなるのは当然の話で、現に私は今、メンバーに軽口を利きはしなかったかという警官よりも厳しい目で私の発言を逐一精査するのだった。阿呆らしいが、これがまた人間の心臓奥深くに刻まれた性でもあった。

 私は首を振って、ともかく、サーカスライオンの演奏を楽しみにしようと思った。私はついぞサーカスライオンのライブには行った試しがない。それは単に、交通費やらチケット代やらとの折り合いの悪さや、私が遠出嫌いであったという明快な理由に集約された。

 そんな享楽を考えていると、不思議と睡魔が付き従った。変に考えすぎるなと心に念じて、私は眠りに着いた。


 寝苦しさで私は目覚めた。寝汗が首筋や脇を冷やしていた。手で拭うとヌメッとした感触が指を伝う。私は溜息を吐いて、寝ぼけた手つきで明かりの紐の在処を弄った。三回空振りしてから、ようやく紐の一端を掴み取ることができた。緩慢に引っ張ると、バチバチと火花のような音を立てて、部屋は人工的な光に包まれた。それは太陽のように眩しく、しばらく私はこめかみをやっつけ仕事に揉み解していた。

壁時計を確認すると、3時という微妙な時間帯だった。

「あーめんどくさ」

私は芋虫のように布団から這い出た。肘付近に藺草のささくれが刺さったが、私は構わなかった。タオルを濡らして身体を拭いた。汗が取り除かられる感覚は、少し甘美だった。

 私は喉がカラカラだった。ただ、冷蔵庫には飲料水のストックはないし、水道水で潤すのも、何だか勿体無い心地だった。

「あーめんどくさ」

ガラガラな声でそう言って、ズボンだけオフィシャルなものに履き替えて、財布を懐に忍ばせて、部屋を飛び出した。

 驚くべきことに、エントランスでは新聞部三人がまだUNOをやっていた。はじめ、幻覚かと思ったくらいだ。

「まだやってるんですか」

私は蚤のような小さい声で言った。目は多分半分も開いていない。三白眼のようになっていたと思う。

「石枝先輩どうしたんですか?貞子の素顔みたいな顔してますけど」

浩三くんが振り返ってそう言う。いまいちその例えの要領を得ない。浩三くんは、私の表情を観察した後、私のTシャツに見入っていた。私は最早それが恥ずかしいと思う次元にはいなかった。私は自分の質問を優先した。

「それは置いといて。なんでまだやってるの?」

「いや、決着がつかないんですよ」

「決着?」

「ええ。部長が、誰かが10勝した時点で終わろうって1時くらいに言い出したんですけど、段々みんなのプレイングも雑になって、寝落ちしたりしながら、今に至るんです。今丁度部長が9勝で、僕が4勝。上島先輩が2勝です」

「まあ、随分とやってるんだね……」

その熱意にはある種見習うものがある……と心にもないことを思った。

部長は生きているのか死んでいるのかわからない瞳で、手札を眺めていた。顔は全く固まっていたが、足を忙しなく組み替える動作から、一定の元気は残っているだろうことが窺われた。一方、上島くんは完全に俯いていた。手札だけがしっかりと右手に握られていたが、隠す気は一切無く、楓の葉っぱの平面図のように全てのカードが仰向けに公開されていた。

私は彼ら3人のそれでもなおUNOに興じる理由を見出せなかったが、ランナーズハイに準じるものだろうと、個人的な理解をして終止符を打った。

「それで、先輩は何しに来たんですか?混ざりに来たんですか?」

「なわけないでしょう」

私はあっさり否定して、飲料水を買いに来たことを告げた。

「売店はあっちにありますよ」

そう言って、浩三くんが売店を指差した。私はお礼を言って、浩三くんとゾンビ二人の元を後にした。

「炭酸がないかあ」

私は売店に着くなりそう言った。ガラス張りのショーケースにいくらかよく冷えたペットボトルが陳列されていたが、炭酸がなかった。聞けば、やはりこの暑さで売れているらしい。いずれ入荷するとのことだったが、その日時は未定とのことだった。私は忌々しく、ショーケースのガラスをなぞった。死人のように冷たかった。

 私は逡巡して、結局、近場の自販機を探すことにした。ないと言われると欲しくなるのが人間であった。ただ、目算がつかないため、私はフロントの女将さんに自販機の在り処を聞くことにした。

「すみません。ちょっとお尋ねしたいことが」

昼間、私を出迎えてくれた女将さんだった。かなり眠そうだった。

「はい。なんでしょうか」

「この近くに、炭酸売ってる自動販売機ってありませんか?」

「炭酸が売ってる自販機ですか?」

「ええ。ちょっと今異常に喉が炭酸を欲していて」

「……。少々お待ちください」

女将さんはそう言って、徐に奥へ消えた。ほんの一瞬だけ、瞳が憂患を捉えたように震えた気がしたが、私の今の覚束ない視界からは何の説得力も得られなかった。

 女将さんの帰りは遅かった。私は不規則に貧乏ゆすりしながら待機した。その間、あるいは私が感じた女将さんの瞳の意味というのは、実は、こんな時間に炭酸が飲みたいというだけでフロントにまで質問してくる私の執念深さを揶揄するものではないかと思えた。沈黙や無言は空想を押し広げる。私はそのうち、どんな顔をして女将さんを出迎えれば良いか、わからなくなってしまった。貧乏ゆすりはいつの間にか小刻みなっていた。

「あるにはあるんですけれど」

帰還した女将さんはそう言って大層もどかしそうな顔を私へ見せた。その顔は多分に申し訳なさを含み、私の懸念はあっさり一蹴された。ただ真面目に調べていてくれたようであった。

「どこですか?」

「山を越える必要がありまして……」

「山!?」

やかましい声をつい発してしまった。ええ、と困惑した顔を女将さんが見せる。

「他にないですか?この旅館にも自販機はありますよね?炭酸は売ってないんですか?」

思い出したように私は言う。

「すみません。炭酸は取り扱っていないんです」

「……そうですか。山を超えないとないんですか……」

私は落胆した。確かに、この旅館の道中、自販機は一つもなかった。川と田園と木々が巻物を広げるように繰り返し横たわっていた。たかだか炭酸くらい我慢できる話だ。ただ、最早そんな風に割り切れないほど、私の中で炭酸への欲求が高まっているのもまた事実だった。旅行気分というのも、そんな特別感へ誘うらしい。私は目に見えて肩を落とした。

私の意気消沈ぶりを見かねてか、女将は、

「実を言えば、山を越えなくてもなくはないんですが……」

と瞼を擦りながら言った。

「え?あるんですか?」

「え、ええ。あると言えば、あると言いますか……」

歯切れが悪かった。落ち着きを取り戻すように、何度も瞼を擦っていた。化粧が薄く瞼の上に広がって油っぽい地肌を滲ませた。

「どこですか?」

「その、品揃えは普通なのですが、如何せんどこの会社が運営しているか不明でして、全く冷えてない飲料が出て来るといった被害がちらほらと報告されていまして……」

「あー、それは困りますね」

「ですから、オススメはできないのですが……」

「一応、場所だけ教えてはもらえませんか?」

「しかし、今日夜は遅いですし、明日にしてはどうでしょうか?」

「そんなに危ないところにあるんですか?」

「いえ、そういうわけでもないんですが……」

歯切れが悪い。手を拱いて、思案に暮れているようだった。

「先輩どうかしました?」

そんな折、浩三くんが私の元へやって来た。

「どうかしたっていうか、君らの方は決着ついたの?」

「ええ。部長が勝ちました」

「だろうね」

彼らが座っていたテーブルを伺うと、上島くんは力尽きたように腰をソファに預けて寝ていた。壮観なくらいに真上を向いていて、麦わら帽子は紐を首に引っ掛けてぶらぶらぶら下がっていた。部長は、落ち着いた手つきで机に乱雑に広げられたUNOを拾い集めて片付けをしていた。勝った割には沈着なものだったが、まあこの時間帯を考えれば無理からぬことに思えた。

「それで、先輩は?」

私はそう言われて、炭酸を欲する旨を伝えた。

「なら、僕らの部屋の冷蔵庫に余りがありますから、良かったら譲りましょうか?昼間のうちに買い込んだんですよ」

「それは……ありがたいね」

お前が売り切れの主犯であったかという憎悪は何とか押し殺した。

「もちろん、代金は頂きますけど」

「割高になっていなければね」

私は釘をさすようにそう言って、ホッと胸を撫で下ろした。女将さんもまた私と似たような顔をしていた。その時、ようやく瞼のマスカラが崩れていることに思い当たったようで、女将さんは別の従業員に店番を頼んで、裏手へ行ってしまった。私はその後ろ姿をただ見つめた。浩三くんはそんな女将さんを気にも留めず、大欠伸をしていた。

「ちなみに、近場で炭酸を売ってる自販機はなかったんですか?」

「女将さん曰く、山越えが必須らしい」

「山越えですか?それは、大変ですね」

「ただ、女将さんの話では、そこに行かずともあるにはあるみたい」

「え?どういうことですか?」

「すごい歯切れが悪かったんだけど、とにかく、山を越えなくとも炭酸を売ってる自販機はあるにはあるって言ってた。メーカーがあやふやで、商品も全然冷えてなかったりするとか何とかとも言ってた」

「ふーん。なんか危険な香りがしますね。それで、それはどこに?」

「教えてくれなかった。夜遅いってことで」

「身を案じてくれたんですかね」

「うーん。どうだろう」

私は首を捻った。とは言え、それでは何の答えも析出されなかった。

「ところで、その服は何なんですか?slender womanって」

浩三くんは予てからの疑問をようやく口にできた嬉しさを示すように、悪辣な笑みを頰に湛えていた。それはまさに、逃げ惑う小さななありんこを踏み潰さんと靴を地面へどすどす押し付ける児童の純真な狂気をちらつかせた。私は笑うしかない。

「これに意味なんてないのよ」

私はそう言った。そして、間髪入れずに、

「とにかく私に炭酸を恵むのが先決」

と宣言して、彼を急かした。ええ、ああ言いながら、浩三くんは恭しく上島くんを呼び覚ました。目覚めた上島くんは開口一番、僕はなぜ麦わら帽子を被っているんでしょうね、と麦わら帽子をやにわに被り直しながら不思議そうに語っていた。

 ……。

 部長の姿は見えなかった。おそらく、一人で勝手に帰ったのだろうと思われた。自分で誘ったのに勝手に帰るなんて、と浩三くんは笑って言っていた。

 上島くんはしばらく立ち上がらず、ようやく立ち上がっても専ら千鳥足だった。それを浩三くんがうまく導きながら、部屋を目指した。あらぬ方向へ突然足を進めることもあり、浩三くんは苦労しているようだった。そのせいで、部屋に到着するのにいらぬ時間を浪費していた。

「それじゃあ、持って来るんで待っててください」

そう言って、浩三くんは上島くんを引きずるように部屋へ連行して扉を閉めた。

 私は壁に凭れかかって浩三くんを待った。扉越しに何やらガサゴソと物色する音が聞こえたて、私はいよいよ喉が開かれる恩寵に預かれるのかと欣喜を忍べなかった。

「はいどうそ。150円です」

浩三くんは戻って来るなりそう言って、500ml入りの炭酸飲料を手渡した。表面が結露に覆われていた。その結露を払えば、中身の液体の鮮やかな紫色が姿をより鮮明にした。グレープ味らしい。

「恩に着る」

私はそう言って、財布から150円を取り出し、渡した。これで終わりと思ったら、浩三くんがやけにそわそわしていることがわかった。私がそれを指摘すると、

「ところで、部長知りませんか?部屋にいると思ったらいないんです」

と答えた。

「え?いないの?」

「ええ。いないです」

「トイレとか?」

「あーそれはあり得ますね」

「ていうか、それ以外にないんじゃない?この時間に外出るわけもあるまいし。まさか道に迷ったてのもないだろうし」

そんなことを話していると、後ろの方から落ち武者のような足音と霊気を纏って、こちらに向かう人間の存在に勘付いた。私が振り向くと、死にそうな目をした部長がフラフラと歩いていた。首が象の鼻のようにくるくるしなっていたが、その首は青ざめていた。おそらく、私の手にしたペットボトルより、彼の首は血が通っていないだろうと思われた。

「いやちょっと」

私は心配と呆れとが混濁した感情でその光景を見つめた。浩三くんも部屋を出て、敵キャラのような蒼白の部長と対面した。

「あれは何でしょうか」

「急性の腹痛か何かの成れの果てだろう」

「ああ。なるほど。しかし、こんなになりますかね」

「腹痛というのはおそらくああいう類のものもあるんだろう」

「ああいう類とは?」

「見ての通りだよ」

「ああ。なるほど」

そんな会話をして、部長の到着を待った。

「大丈夫ですか、部長」

浩三くんがいよいよにじり寄った。部長は不可思議そうに天井に目を向けて呆けた後に、

「今は何時だったか?」

と言った。

「4時前ですね」

と浩三くんが腕時計を見て答えると、

「そうか」

と実感を確かめるように頷いていた。部長の顔色は頗る悪そうだったが、割と血色の良かった頰さえ、げっそりと黒い影を刻んでいることから、相当の格闘が行われたことがほのめかされていた。そして、部長はそれに堂々勝利したらしい。言うなれば、今は凱旋か。まあ、その格闘はトイレの個室の中で自分自身と行われていたというのが、唯一の汚点か。

「ともかく、寝かせておくれ。もう疲れてしまった」

部長はそう言って、ふらつきながら部屋に入った。

「あれ大丈夫ですかね。一応、部屋にもトイレは付いてますけど、トイレットペーパーが明日の朝になったら備蓄含めて払底してるなんて、馬鹿らしいことは起こらないですよね?それに、今日の夜更けまで、部長が腹下した音を子守唄に眠るなんて僕嫌ですよ」

「……さあね」

そう言って、私は切実な浩三くんを置き去りにした。私もいよいよ喉を潤したかったのだった。

 部屋に戻って、思いっきりペットボトルの蓋を捻った。結露が多分に掌に付着していたから、開けるのに苦労したが、その苦労さえ愛しいものに感じられた。やがて小気味良い音を立てて、ペットボトルは開いた。プシューと炭酸の抜ける快楽的な音と一緒に、着色的なブドウの香りが立ち込めた。その時ばかりは、藺草の馥郁が煙のように消え去っていた。ああ、これはきっと美味しいに相違ない。そう思って、私は唇をペットボトルの口に押し当てて、液体を喉に流し込んだ。1秒、2秒、3秒と経過した。私はそこで飲むのをやめて、まだ半分以上中身が残るペットボトルを見つめた。

「……。なんか微妙だな……」

結局、最後はそんな感想で終わった。思ったよりも美味しくなかった。喉は多少なりとも社交性のある人の心くらいしか開かなかった。

 私はその後、晩酌するように炭酸をちびちび頂き、なぜ私があんなにも炭酸への執着を見せたのかに関して考えた。それは全く無益で闇深い思考の深淵であり、私はいつの間にか寝落ちしてしまっていた。寝汗をかかないように、冷房を点けることだけは忘れなかった。

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