第10話

 保育園へ向けて、自転車を漕ぐ。

 雨は相変わらず降っている。すぐ傍を、車が雨水を跳ね上げながら通り過ぎる。

 着いたら、ちせにもレインコートを着せなくては。彼女は着るのをいつも嫌がる。今朝だってそうだった。雨の日は一苦労だ。

 上手に傘もさせないくせに。すぐずぶ濡れになるくせに。

 そんなことを言うと、彼女はむくれる。黄色いレインコートを纏い、てるてる坊主みたいな恰好で。

 あれ?

 違った。

 ピンクだったかな、ちせのレインコート。どちらも見覚えがあるような気がする。

 どうして?

 どうして思い出せないんだろう?

 自分の娘のことなのに。

 この世で一番大切にしている娘のことなのに。

 わたしは首を振る。自分の声を頭から追い出そうと試みる。そんなこと、出来るはずもないけれど。

 保育園の門が見えてきた。他のお母さんたちの自転車や、軽自動車が停まっている。

 いつもの、お迎え時の風景。

「ママ!」

 わたしが自転車を停めると、声が聞こえてきた。

 声の主が、泥が跳ねるのも厭わず駆けてくる。わたしは頬が緩むのを感じる。胸の内側に、お湯のような温かさが広がる。

「おかえり」

 ――言ったのは、わたしじゃない。

 駆けてきた女の子は、わたしの傍にいた女性に抱き留められた。二人は笑いながら、今日の夕飯について言葉を交わしている。停めてあった軽自動車に乗り込んでいく。

 雨の向こうに、滲んだテールランプが溶けていく。

 わたしの感じる予定だった温もりは、立ち去った。

 わたしは雨に打たれたまま、水溜まりだらけになった暗い園庭へ眼を向ける。

 じっと見つめる。

 門が閉ざされ灯りが消えるまで、わたしはそこでそうしていた。


 アパートに着くと、ドアの前で誰かが蹲っていた。

 こちらの気配に気付いたらしく、その「誰か」は顔を上げた。

 初老の女性。

 彼女は壁にもたれながらよろよろと立ち上がると、やはり覚束ない足取りでわたしの方へやって来る。

 レインコートの袖を掴まれる。

「何度も電話したのよ」

 彼女は言った。垂れ下がった前髪の隙間から、疲労で濁った眼が覗く。

「ずっと心配してたんだから。どうして無視するの?」

 わたしは顔を背ける。

 見たくない、色々な意味で。正視に耐えない。

「何よ、その顔。どこ見てるの? 人の気も知らないで……自分一人で大きくなったとでも思ってんじゃないの?」

「……帰って下さい」

 わたしは、廊下に備え付けの消火器を見ながら言った。

「こっちを見なさい」

「帰って下さい」

 これは「お願い」じゃない。

「こっちを向きなさい!」

「帰って下さい」

 ジャラジャラと、金属の触れ合う音がする。鍵束のような。それから、分厚い靴底が床のタイルに当たる、ゴツゴツした靴音が続く。

 振り向くと、長い茶髪の男が立っていた。わたしがいるせいで通れないらしい。

 道を空けると、彼の方から「すいません」と頭を下げてきた。

 男は奥の扉の前に立つと、腰から下げた鍵束を取って解錠した。そのまま中へ入っていく。内側から施錠する音が、廊下に響く。

 やがて、雨垂れの音が戻ってくる。

 身体の芯が冷え切っている。早く中に入りたい。

 わたしは鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。

「まだ、あの仕事続けているの?」

 初老の女が言う。

 わたしは答えない。鍵を回し、解錠する。

 早く夕飯を食べよう。

 ちせと一緒に。

 今日の夕飯は――何だっけ?

 さっき話したはずなのに。

「ニュース見たでしょう? 今朝からずっとやってるわよ。あんたたち、ずっと軍に騙されてたんでしょう? 知らない間に、人殺しさせられてたんでしょう?」

 ちせ?

 そういえば、ちせがいない。

 一緒に帰ってきたはずなのに。

 雨の歌をうたいながら、自転車に乗っていたはずなのに。

 どこに行ったの?

 ちせ。

 ちせ?

「ねえ、ちせ」

 初老の女の声がすぐ傍で聞こえた。

 皺だらけ手が、ノブを握ったわたしの手に重なっている。冷たい手。死んでいるみたい。

「お母さんたち、あなたが心配なのよ」

 ドアノブよりも冷たい手が震えている。

「やってしまったことは仕方ないわ。知らないことだったんですもの。それについては、責めるようなことはしない。でもね、ちせ。そうとわかってて、これからも続けていくのはわけが違うわ。それは立派な人殺しなのよ」

 わたしはドアを開ける。添えられた手を振り払って、空いた隙間に身体を滑り込ませる。

「ちせ!」

 後ろ手でドアを閉め、施錠する。

 扉を叩く音が、背中に当たる。けれどそれも長続きはせず、程なくして音は止んだ。

 真っ暗な玄関。くぐもった雨の音だけが聞こえる。

 手探りで探し当てたスイッチを押し、電気を点ける。

 白い蛍光灯の光に照らし出された部屋。座卓と布団。それからテレビ。台所には灰色の冷蔵庫もある。カーテンも電気スタンドも洋服箪笥も化粧台もないけれど、冷蔵庫はある。

 靴脱ぎでレインコードを脱ぎ捨て、リビングへ向かう。

 テレビを点ける。雨音以外の音が聞きたかった。

 今日一日のニュースが映し出される。わたしは座卓の前に腰を下ろし、トピックごとに圧縮された世界中の出来事を眺める。

 戦争の話題。

 わたしたちが戦った戦線は、僅かに前進していた。ほんの僅かだけ。

 今日もアイ・ウェア同士の激しい戦闘が繰り広げられました、とアナウンサーは言った。そのままの口で、人間が不在なはずの戦場の真実が暴かれたというニュースを読み始める。

 一人の、勇気ある女性の告発。

 アイ・ウェアの操縦者だったという彼女は、たまたま目にした「本当の戦場」について、声を震わせながら訥々と喋る。張りのある声質と弱々しい話し方に、ちぐはぐな印象を受ける。まるで彼女が、継ぎ接ぎだらけの張りぼてであるような。

 わたしは腰を上げ、台所へ行く。

 冷蔵庫を開けると、トマトが一つ、転がっていた。

 いつ買ったものかわからない。見回して、腐った様子もなかったので、水道で軽く流してそのまま囓る。

 後ろでは、勇気ある女性がしゃべり続けている。

 わたしは暗い台所でシンクに向かって立ったまま、味のないトマトを囓る。

 囓り続ける。

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