第5話
ちせの歌を聴きながら、ペダルを踏む。曲名は思い出せないけど、わたしも聞いたことのある歌だ。
「ママもうたって」
「ママ、下手っぴだもん」
そう返したら、「むー」と柔らかな唸り声が聞こえてきた。たぶん、口を尖らせている。
「ちせがもっとうたって聞かせてよ」
「一人でうたってもつまんない」
そういうものらしい。
立ち漕ぎになりながら、坂道を上がる。上りきった先には、目が眩むほどの月明かりが待っていた。今夜は満月だ。
わたしは自転車を停めた。
「見て、ちせ。月がきれい」
返事はない。まだむくれているようだ。
「兎も見えるよ。お餅搗いてる」
振り返ると、彼女は俯いていた。絶対に見まいとする、固い決意は伝わってきた。
「見ないと勿体ないよ?」
「お歌うたってくれないからヤだ」
「ちせのためなのに」
「月なんて見たくないもん」
意地っ張り。
「ママの歌、本当にひどいから一緒にうたってもつまんないよ?」
「つまんなくない」
「聞いたことないくせに」
聞いたことないくせに?
そういえばわたしは、ちせの前で一度も歌をうたったことがない。
母親なのに。
この五年間、一度も。
娘の前で、歌をうたったことがない。
これって普通にあることなのだろうか。
ああでも、わたしもわたしの母親がうたっているところを見た覚えはない。
だから普通か。
普通なんだ、きっと。
部屋に着いて夕飯を食べている時も、ちせは一言も喋らなかった。口を噤んだまま、彼女は布団に潜り込んでしまった。
「おやすみ」
わたしの言葉は、誰に受け取られるでもなく部屋の中を漂った。
テーブルの上で携帯端末が振動した。着信。わたしは表示された番号を見やって、端末を元の位置に戻した。
振動はいつまでも続いた。死にかけの動物が助けを求めて呻いているようでもあった。
しぶとく、しつこく、いつまでも。
一眠りして再び気付いた時には、何も聞こえなくなっていた。わたしは起き上がって、点けっぱなしにしていた電気を消して、改めて眠りに就いた。
翌朝、ちせは熱を出した。わたしは仕事を休んで看病した。
熱に浮かされる意識の合間から、彼女は「ママ」とわたしを呼んだ。わたしは彼女の朱く染まった頬に手を添えた。
火照っているはずの頬は、熱くも冷たくもなかった。
『――号機、8号機!』
わたしだと気付くまでに、何秒か掛かった。
チーフの、ログに残してもいい声が聞こえてくる。
『突撃を掛けます。援護を』
「あ、はい」
ライフルを手に、チーフに続く。
8号機……慣れない。今朝、ブリーフィングの時にいきなり言い渡された。今日からあなたは8番です、と。
一人、いなくなったらしい。それで番号が繰り上がった。誰がいなくなったかは、他の面子を見渡せばすぐにわかった。あの、宝塚の男役のような声をしていた2号機が、別の声に変わっていた。
驚きはなかった。
なんとなく、そんな気がしていた。
だけど、自分の番号が変わるなんてことは予想もしていなかった。抜けた分は欠番のままでいいじゃないかと思ったけど、組織というのはわたしの理解が及ばない原理によって動く。
そんなわけで、わたしは一つ繰り上がった。むしろ欠番になったのは、9の方だった。
八人で臨む戦場。
赤い点はこちらの倍近く灯っていた。
数的に不利な分、こちらは機動力と連携で攻めるしかない。これはわたしの言葉じゃなく、ブリーフィングで出た司令官の言葉だ。
「緊張することはありません。皆さんの、普段通りの力を発揮すれば、乗り越えられる任務です」
モニタ越しの作戦会議だから、他の隊員たちの反応は見えないし感じられない。普通なら、安堵し、気を引き締めるところだろうか。わたしも出来ればそうしたかったし、そうするべきだったのかもしれないけど、胸にやって来たのはもっと別の感情だった。
まるで初めから、勝てると思ってる言い草だな――。
自分でも、何でそんな風に思ったかは説明出来ない。だけど、司令官の言葉からは、勝利を前提とした何かが感じられたのだ。
九人だろうと、八人だろうと。
そんな風に、言っているように聞こえたのだ。
『8号機!』
吹雪の向こうで、敵の機体と格闘するチーフが見える。わたしの援護なんて必要なさそうなほど、滞りのない戦い方。
三人だろうと、二人だろうと。
一人であっても――
わたしが引き金を引く前に、チーフは敵機を行動不能にした。怒られる、と身の竦む思いだったけど、チーフはこちらを振り向いただけで、そのまま行ってしまった。
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