第3話
トマトを切っていたら親指まで切ってしまった。
包丁を持つ手が妙な手応えを覚え、目が親指に食い込む刃を見つけた。赤黒い血がたちまち溢れてきて、少ししてから痛みが湧いてきた。
一度しゃぶって、水で洗う。また血が溢れてくるので、タオルで指を包んで救急箱を取りに行く。ちせに頼んで絆創膏を出してもらい、貼り付ける。きつく、縛るように巻き付ける。ガーゼに赤黒いシミが広がる。
「だいじょうぶ?」
「平気平気」
頭を撫でたけど、ちせは不安そうにわたしの親指を見つめていた。
こんな怪我をするなんて、ぼんやりしていたのかもしれない。
睡眠はしっかりとっているつもりだ。食事だって、ちゃんとしている。疲れが堪っているという実感もない。
何かを考えていたようだけど、この一連の騒ぎで頭の中から消えてしまった。その程度の、大した考えでもなかったのだろう。また洗い物でもしている時にポッと思い出すかもしれない。
テーブルの上で電話が鳴る。
表示された番号を見て、わたしは端末を裏返す。
「出ないの?」
「いいの」
わたしはもう一度ちせの頭に手を載せ、彼女を抱き寄せる。
『9号機、援護を!』
チーフの声。怒っている。
引き金を引こうにも、照準が定まらない。
生い茂る木々。降りしきる雨。わたしの援護なんて必要ないような、自然の要因が揃っている。
『9号機!』
はいはい。
とにかく、撃つ。1号機のタグを意識しながら。別に、チーフに当たったところで本人が怪我をするわけでも死ぬわけでもない。どちらに進んでも小言が待っているだけだ。
『敵を狙ってください!』
「すみません」
当ててしまったようだ。
『撃つのをやめないで!』
「すみません」
わたしがすることだけではなく、わたしの存在そのものが気に入らないのかもしれない。
事が済んで、いつものように顔に着いたオイルを拭こうとしたら、首を掴まれた。
苦しくないけど、苦しい、と思う。
『やる気、ありますか?』
接触通信の声は、光るナイフを思わせる。
『アイ・ウェア着てるからって、適当にやっていてはダメですよ。ここは戦場です。直接あなたが死ぬことはないかもしれませんが、一生脱げなくなることはあるんです』
一生脱げない、とわたしは口の中で繰り返す。
たしかに、アイ・ウェアの腕がもげたところで、本当に自分の腕がもげるわけじゃない。
だけど、この機械の身体から意識が抜け出せなくなることはあり得る。
〈没入〉。
この仕事をする人々の間では、そう呼ばれている。
意識がアイ・ウェアの操作基盤と接続されたまま、リンクを解除出来なくなる状態。
機械の身体に入ったまま、本来の肉体に戻ってこられなくなること。
〈没入〉は、機械の身体を精密に動かすための操作システムが孕む弊害だそうだ この弊害を根絶することは難しいという。
でも、対策なら簡単に出来る。機械の身体に入っている時間を決めればいいのだ。
接続時間が長いほど、アイ・ウェアはわたしたちに馴染んでくる。「馴染む」といえば聞こえはいいけど、要は意識と操作基盤の癒着が進んでいるだけだ。
ある程度の癒着であれば、信号で簡単に引き剥がすことが出来る。
でも、癒着が進行し過ぎると、ログアウトの信号が効かなくなる。
つまり、帰ってこられなくなる。
『――体験させてあげましょうか?』
チーフが耳許で囁いた。実際には、通信越しだけど。
「すみませんでした……」
絞められた喉の奥から、言葉を搾り出す。本当の声帯は塞がっていないはずなのに、やっぱり喋りづらい。
チーフはわたしを突き放す。オートバランサーが働いて、わたしは尻餅を突かずに済む。
『時間がありません。前線に合流します』
ログに残ってもいい声で言って、チーフは密林の奥へと消えていく。
わたしも後を追う。三十分で片の付く、「世界に平和をもたらす戦い」に参加するため、熱帯の木々の間を駆け抜ける。
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