第2話
保育園の前で自転車を停める。
ブレーキの音を聞きつけたのか、ちせが駆け出してきた。飛びついてくる彼女を抱き上げ、自転車の後ろに乗せる。
いつもの帰り道。保育園で習ったというちせの歌を聴きながら、わたしはペダルを踏む。
日が落ちるのが早くなってきた。立ち漕ぎになる坂道では、上りきった後に汗が冷たく感じられる。
「今日の夕飯、何にしようか」
「からあげ」
「こないだ食べたよ」
「いいの」
「いいの?」
「うん」
商店街で鶏肉を買って、アパートに戻る。
一人で暮らしている時は出来合いのもので済ませていた。台所での用事なんてせいぜいお湯を沸かすことぐらいで、包丁なんて買ったきり何年も取り出していなかった。
ちせとの生活が始まってから、全てが変わった。
それまでやらなかったことをするようになった。料理しかり、毎日の掃除しかり。一人ならば無関心で通り過ぎていたことに、気を留めるようになった。そうなってみると不思議なもので、何でもないと思っていた日々の生活が彩りを増した。退色していた景色が、鮮やかになった。
手に、刺すような痛みが走る。油が撥ねたのだ。
痕はない。念のため、水で冷やしておくけれど。
「ちせ」
居間でテレビを観ている小さな背中に呼び掛ける。
「お皿、そっち並べて」
トコトコとやって来た彼女に、二枚重ねた白い皿を渡す。
「落とさないようにね」
「うん」
カタカタと食器の触れる音が、テレビの音に消えていく。
七時きっかりに、我が家の夕食は始まる。
「いただきます」
二人揃って胸の前で手を合わせ、声を重ねる。
チャンネルをNHKに変える。特に深い考えがあるわけではない。ただ、生まれた時から夕飯の時にはNHKのニュースが点いていた。わたしが育ったのはそういう家だ。
ちせの取り皿に唐揚げを二つ乗せる。わたしも二つ取る。
食べる。
悪くない。先週作った時より味が薄い気がするけど、それでも及第点だ。先週は休みの日で、しっかり下ごしらえする時間があった。今日は肉をタレに入れて手もみしただけだ。
「おいしい」
ちせが笑った。
わたしも頬が緩んだ。
どこかで中学生が自殺したニュースに続いて、背広姿のアナウンサーは統一戦争の戦況を読み始めた。反抗勢力に対する攻略は云々。とにかく、これを報じ、この報せを受ける人々にとっては喜ばしい結果になったということだった。
ぼんやりと画面を見つめていたちせが、こちらを向く。
「戦争ってけんかでしょ? けんかはダメだよね」
「ほんとはダメだけど、これはみんなで仲良くなるためのけんかだから仕方ないんだよ」
わたしは、自分が教えられた通りのことを言った。ちせはわかったような、わからないような顔をしている。本当のところ、わたしも彼女と同じ気持ちだ。
「いつか仲直りするの?」
「うん、いつかきっと」
頷く。嘘をついた味がした。
その「いつか」はきっと訪れるだろう。けれどそれは、仲直りの機会じゃない筈だ。
食器を片付け、風呂に入る。
布団を敷いて、部屋の灯りを消す。枕元に置いたスタンドの光で、ちせに絵本を読み聞かせる。
童話を読み返したのも、この生活が始まってからだ。
確かに小さいころ読んだ筈なのに、結末を忘れている話が意外と多かった。「シンデレラ」「白雪姫」はさすがに覚えていたけど、「三匹の子豚」辺りから怪しくなっていき、「ジャックと豆の木」に至っては巨人が登場することに驚かされた。昔話も同じようなもので、「さるかに合戦」なんて壮絶な復讐劇に猿の方が気の毒に思えてしまったぐらいだ。
わたしが好きなのは、「幸せの青い鳥」。特にリクエストがない時は、いつもこれを読み聞かせる。だけど、一度も最後までいったことはない。大体いつも、半分もいかないうちにちせが寝息を立て始めてしまう。
今日も気付けば、ちせは眠っていた。
小さな唇の間から、空気が出たり入ったりしているのがわかる。黒く艶やかな髪を撫でる。それから布団を首まで引き上げ、スタンドを消す。
一日の終わりに浸る間もなく、わたしも眠りの世界へ沈んでいく。
チーフの機体が駆けていく。その背中に当てないよう気を付けながら、ライフルの引き金を引く。
撃ちっぱなしにはしない。タン、タタン、タタタタン、タンと、そんな感じ。
要は、チーフが近付くまで相手に撃たせなければいいのだ。ならばずっと撃ちっぱなしにしておけばいい気がするけど、チーフの気に入らないのだから仕方ない。
『9号機』
呼ばれてわたしは近付いていく。四角い顔面にクロースを出し、べっとり着いたオイルを拭う。
「あの、チーフ」
『何?』
鋭い声を聞いたら、自分が何を言おうとしていたのかわからなくなった。
「すみません、何でもありません」
『さっきの援護』
わたしの腕を退けながら、チーフが言う。
『全然なってません。あんな隙だらけの攻撃、却って邪魔なだけです』
そしてチーフは、自身で巻き上げた砂煙に消えていく。
わたしはしばらく立ち尽くしていた。管制官の声でようやくハッとするぐらいの時間はそうしていた。
クロースを仕舞おうと右手を見たら、何もなかった。きっと風で飛ばされたのだろう。
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