第16話 寝る前のお話
シアンが夕餉をトロトロと食べ進めていると、食べ終わった頃には本格的に熱が上がりだしたようで、椅子に座るのも少しきつくなってきた。
椀を水桶に浸し、しばらく待っていると、アルザラが外から戻り、湯浴みをしてしまいなさいとシアンに言った。
シアンは頷いて、風呂場へ向かった。
風呂場の前に置いてある籠に衣を脱ぎ入れ、壁にかけられた丸い鏡に映った自分をぼんやりと眺める。
湯気でほんのりと白く染まったそれを手のひらで一撫でした。
白い合間から覗いたそれは、なんだかひどく見苦しく思えた。
真っ黒な瞳と、真っ黒な髪、そして身体中にある大小の傷跡。
腕や足に残る傷はまだマシだ。
シアンは背中を鏡に映し、どうすることもできない「それ」にため息を吐いた。
背中に広がる傷は、ひどく醜く、どんなものより恐ろしい形をしている。
初めて自分の背中を見たときはあまりにも驚き、恐ろしくなり、しばらく大泣きをしてしまった。
まだその頃は傷口が完全に塞がっておらず、今よりもっと醜かったのだ。
でもこう頻繁に背中を見れば、いつのまにかどうしようもないことだと諦めもつく。
しかしアルザラはそうは思わないらしく、夜シアンが寝る前に、とても臭い軟膏をシアンの背中に塗ってくれる。
正直背中の傷は一寸も変わらずそこにいるが、アルザラに背中を撫でられるのは嫌いではないので、今では毎晩の習慣になっていた。
シアンは随分とふっくらとした自分の顔と腕を、鏡越しに見つめた。
アルザラに出会った頃はそれはもう自身ですら「こんな骨みたいなのが人なのか」と信じられなかったが、最近は自分が人だということを信じられる姿になった。
アルザラはなにも言わないが、シアンはなんとなく自分の境遇を理解している。
きっとまともな親ではなかったのだろう。
もしくは親ではない誰かにひどい扱いをされていたか。
どちらにせよ、シアンの帰る家はないことに違いない。
アルザラだって、いつまでもシアンを置いておくつもりはないだろう。
アルザラがシアンになぜここまでよくしてくれるのか、いまだにわからない。
しかし、アルザラがどう思っていようと、シアンはアルザラがいてくれるだけでもうなんでもいいや、と最近は思い始めてしまった。
こんな調子ではアルザラに迷惑しかかけない。
だからなるべく早く、シアンは過去を思い出したかった。
そして自分の声も。
喉に手を当て、声を出そうとしてみるも、やはりシアンの口から出るのはヒューヒューという虚しい音だけだ。
毎日何回も、こうして声を出そうとしてみるも、全て同じ結果に終わる。
シアンもアルザラと一緒におしゃべりがしたい。
行商人に値切りをしてみたい。
ウォンに面白いと思ったことを話してみたい。
そう思って自分を奮い立たせるも、やはりシアンの声は出ないままだ。
もしかしたら、初めからシアンは口がきけない子だったのかもしれない。
そうなんども思ったが、シアンの頭の奥で「そんなことはない」と誰かが言うのだ。
シアンは諦めたくなるたびに、この声に従う。
(早く、早く声が出てほしい)
鏡に映った自分の情けない顔を見て、シアンはハッとし、鏡の曇りを腕でぬぐい、風呂場の戸を開けた。
戸を開けるともわっと湯気がシアンを包み、毛穴が開いた気がした。
戸を閉め、湯釜に張った湯を桶で掬い、なんども頭のてっぺんから被る。
湯加減はシアンの体調に合わせてくれたのだろう、ぬる目の優しい湯加減だ。
ぺしゃんこに濡れた髪に、あわ立てた石鹸を練り込み、頭をワシワシとかいていく。
途中腕がふるふると力が入らなくなってきたが、なんとか汚れを落として体も洗っていく。
それも丹念に湯で流し、風呂釜に体を沈めた。
アルザラの家の風呂は広く、シアンが五人入ってもきっと余裕がある。
以前はアルザラもよく一緒に入っていたが、最近は別々で入浴している。
シアンはぬるめの湯が好きだが、アルザラは驚くくらい熱い湯が好きなのだ。
アルザラの炊いた湯に浸かったら、あっという間に茹ってしまう。
シアンはぬるい水面に鼻まで浸かり、ぶくぶくと鼻から息を吹き出した。
大人になれば、あんな熱い湯も気持ちよくなるのだろうか。
そしたらその時は、アルザラと一緒に入ってあげてもいいかな。
シアンは一緒に湯浴みをするのを断った時のアルザラの顔を思い出し、ぶくぶくと鼻から泡を出した。
ほんの少ししか湯に浸からなかったが、やはり体温が上がってきたのか、湯から上がるとシアンの視界はぐるりとよく回った。
なんとか体を拭いて寝間着を着込み寝室まで戻ると、いつのまにか布団が敷かれていて、いつでも寝れるように準備されていた。
アルザラは布団の横に座り、いつもの臭い軟膏を練って、シアンを手招きした。
シアンは大人しくアルザラの手招きに近寄り、寝間着をたくし上げ、布団にうつ伏せで転がった。
アルザラはたっぷりと軟膏を指で掬い、シアンの背中に塗り広げた。
最初は冷たいが、アルザラが広げていくうちにどんどんポカポカしてくる。
縦、横、斜めに伸びる傷に沿って、アルザラの指は滑る。
「今日はウォンからシアンも私も、たくさんお土産を貰ってしまったね」
アルザラがのんびりと話す。
シアンの背中に軟膏を塗ってくれるこの時間は、一日の最後のお話の時間だ。
一日であったこととか、商人が売りつけてきたとんでもないものとか、アルザラが若い頃に勉強したこととか、王都のことなど、自分の知らないアルザラを教えてもらえるとても好きな時間だ。
そんなお話の時間でシアンは特に楽しみにしていることがある。
「今日はどんなお話にしようか」
学舎で学んだアルザラは、とにかくいろんなことを知っている。
それこそ、シアンが知らない世界の話や時代のことも。
シアンは今日読めなかったあれを思い出し、棚を指差してアルザラに伝われ!と念を送る。
するとアルザラはすぐに合点がいったようで、楽しそうに笑った。
「どこかの誰かは随分お熱なようだからね、じゃあ聖龍伝説の話でもするかい」
待ってました、そう言わんばかりにシアンは肩を揺らした。
シアンは最近お話をねだる時は、よく聖龍の話をしてもらう。
ウォンが土産で聖龍の描かれた絵本をくれたのは、アルザラがあらかじめ手紙でシアンが最近お熱になっているものをしたためていたからだ。
結果シアンは大興奮で、絵本を受け取った。
今日は自分の記憶が思い出せそうだったから、絵本を後回しにしてしまっていたが、シアンはそれが残念でしかたがなかった。
できることなら今アルザラに読んでもらいたいが、あれは自分で調べて読むと決めたから、今日の締めくくりはアルザラの話してくれる聖龍伝説だ。
シアンは今か今かとワクワクするが、対するアルザラは呆れている。
「これ、つい一昨日も話したばっかなんだけどね……」
一昨日聞いたからなんだ。面白いものは面白い。
シアンはポンポンと敷布団を叩き、アルザラに催促する。
そんなシアンの様子にアルザラは「いつからこんな強情になったかね」とわがままを言うシアンの背中を軽く叩いた。
ペチンと音はなるが、痛みはない。
シアンはそれをいいことに、早く早くと体を揺らした。
もう話さない限り落ち着かないと判断したアルザラは、呆れながらシアンの背中から手を離し、シアンのたくし上げていた寝間着を、しっかりと臍の下までおろした。
手のひらに残った軟膏をついでに自分の手で広げ、アルザラはシアンの隣に滑り込んだ。
アルザラが布団に入ると同時にひやっとした空気もシアンをくすぐった。
シアンはなんだかおかしくて、クスクス笑いながらアルザラにすり寄った。
「じゃあこれを聞いたら今日はもう寝るんだからね」
アルザラはシアンの額にかかった伸びた前髪をすくって耳にかけた。
シアンは頷き、アルザラの言葉を待つ。
まるで小さな子どものように目を輝かせる女の子に、アルザラはゆっくりと、焦らすように、口を開いた。
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