第15話 霧のかかった記憶

 あの人がつけていた髪飾りって、どの人のことなんだろう。

 シアンは項をめくる手を止めた。

 なんだか頭の奥がむずむずする。思い出せそうで、思い出せない。

 この記憶は絶対、アルザラと出会う以前のものだ。

 なんせ、シアンはアルザラの家の付近から出歩いたこともないし、髪飾りをつけるような人とも会ったことがない。

 アルザラの家から馬で半日かかる村でさえ、シアンの体を案じていまだに連れていってもらったことがないため、髪飾りをつけるような人を見かけることもないのだ。

 もしかしたらこれをきっかけに、なにか思い出せるかもしれない。

 今までなん度かぼんやりとした違和感が突然シアンを支配し、悩むこともあったが、今回はそれの比ではない。

 もしかしたら今日こそ、なにか糸口がみつかるかもしれない。

 シアンはまるで早朝の森に立ち込める濃い霧のような、すべてを吸いこんでしまいそうなそんな頭の中を、ゆっくりとかき分けていく。

 しかしどれほど髪飾りのことを思い出そうとしても、シアンの頭は頑なに記憶をしまい込んだままだ。

 深呼吸をしながら、シアンはさっき頭を横切った髪飾りの在り処を探っていく。

 顔から汗がたらりと垂れ、頬が熱くなっても気にせず、シアンは頭のどこかに置いてきてしまった記憶を呼び戻そうと、いつになく必死になっていた。


 窓から差し込む日が、橙に染まり、書斎に広がる影が濃くなった頃、シアンはひっくり返った。

 何時間格闘したかわからないが、あいも変わらずシアンの頭は空っぽのままだ。

 今日はなんだか思い出せそうな気がしていたために、シアンは身体中の力がすべて抜け、ガックリと項垂れてしまった。

 シアンは暗くなった天井を仰ぎ、ごろりと転がる。

 結局誰がつけていたか思い出せなかった髪飾りは、シアンの頭に強くこびりついた。

 丸くて透明で、日にあたればキラリと雨粒のように反射して、歩くとゆらゆら揺れた、あの髪飾り。

 もしかしたら自分がつけていたものなのかもしれないと思いもしたが、その考えはすぐに捨てた。

 なぜかはわからないが、その髪飾りを思うと、なぜか胸の奥がギュウッと苦しくなり、綺麗だと思うよりも先に、羨ましさや恐ろしさのようなものがシアンを包む。

 なぜそんな気持ちになるのか、シアンにはまったく見当がつかなかったが、自分が身につけていたものならあんなはっきりと誰かの頭で揺れる様子が脳裏でチラつくなんてことはないだろう。

 きっとその髪飾りをつけていた人と、シアンの間にはなにかあるに違いない。

 シアンはそう結論づけた。

 ここまで頭を使ったのは久しぶりで、シアンは疲労感と達成感でため息をついた。

 結局何も思い出せなかったが、ここまで記憶に近づけたのははじめてだ。

 アルザラに教えてやりたいが、シアンは考えた末にもう少し黙っておくことにした。

 なにより、本当に些細なことだし、アルザラにどう説明すればいいのかわからなかった。

 ならば、もう少し記憶がはっきりしてきたタイミングで話した方がいいだろう。

 記憶が戻ったシアンに喜び、抱きしめるアルザラの様子を想像し、シアンはクフフと笑った。



 最初は絵本を読むつもりが、いつのまにか記憶探しに没頭してしまったため、シアンは結局一項も読み進めていない。

 けれどこれから読み進めるとなると、晩御飯の時間をとうに過ぎてしまう。

 食事の準備はシアンがアルザラに与えられた数少ない仕事の一つなため、サボるわけには絶対にいかない。

 シアンは絵本を棚に差し込み、早見表も仕舞う。

 部屋から出て台所へ戻れば、いつのまにか部屋は灯りがつき、アルザラが茶を啜りながら、いつものように分厚い本を読んでいた。

 戸が開いた音に気がついたアルザラは視線を上げ、本を閉じた。

「随分熱中していたね、そんなに面白かったのかい?」

 アルザラはシアンがずっと本を読んでいたのだとばかり思っているが、実はまったく別のことをしていましたなどは言えず、曖昧にシアンは笑った。

 その笑い方にアルザラはなにか言いたげな表情をするが、特に言うことでもないと思ったのか、特に詮索はしてこなかった。

 シアンはそのことにほっとし、夕餉の準備に取り掛かることにした。


 アルザラはシアンに無理をして欲しくないとよく言うが、シアンはそれがとても心苦しかった。

 記憶がなく、傷だらけの、どこの子かも知れないシアンを多額のお金をかけて救ってくれたのだ。

 どれだけ感謝をしてもしきれないのに、それどころかシアンにはなにも仕事を言いつけない。

 ゆっくり休めばいい、そういわれるが、家から出ることもなく、もともと余計なものは家にないため、掃除はすぐに終わってしまう。

 考え抜いた末、シアンはある日、アルザラに内緒で夕餉を作った。

 アルザラは食事にあまり関心がないようで、シアンにはよく食べなさいというが、自分は最低限のものしか口にしない。

 ひどい日は朝餉に牛の乳一杯と、裏の畑に生っているアジャの実数個しか口にしないのだ。

 シアンがなん度しっかり食べてと紙に書いても、アルザラはその紙を嬉しそうに受け取ってシアンの頭を撫でるだけなのだ。

 そんなアルザラにどうしたものかと考え抜いた末の、内緒の夕餉作りだ。

 シアンが思い立ったその頃には補助具なしで歩けるようになっていたし、アルザラも裏庭までならで歩いてもいいとシアンには言っていた。

 ならば、裏庭で育てている野菜をいくつか収穫して、夕餉にしてしまおうと思ったのだ。

 勝手に台所を使うのはどうだろうと思ったが、なんだかんだアルザラはシアンには優しいため、きっと怒られはするが許してくれるだろう。

 しかし台所に立った時、シアンは猛烈に不安になった。

 自分は果たして料理ができるのだろうか。

 まったく記憶にない料理を作ることなんかできるのか、そう思って泣きたくなったが、意を決して包丁を持ってみればそんなことは杞憂に終わり、シアンの腕は勝手に動いた。

 シアンはアルザラのためになれることを自分が持っていたことに安堵した。

 自分でも驚くほどにシアンは手際よく調理を進め、気がつけば汁物は美味しそうな湯気が立ち、釜からは米の炊ける甘い匂いが家中に充満した。

 外を見ればもう森は闇一色で、ちょうど夕餉の時間だ。

 夕餉を茶碗によそおうと振り返れば、いつのまにかアルザラが扉の前で立ち尽くしていた。

 いつからいたのだろう。

 その顔は驚きで染まり、それを見たシアンは猛烈に後悔した。

 やはり勝手に台所を使って食材を使ったことに怒って呆れているのだ。

 シアンは泣きたくなりながらアルザラに謝ろうとするが、アルザラはシアンに目もくれず、台所で湯気が立つ夕餉に足を伸ばした。

 アルザラはしげしげとそれを眺め、信じられないような表情でシアンを見つめた。

 怒られる、そう思いシアンは身を固くすると、アルザラは興奮したようにシアンを褒めた。


「シアン、これあんたが一人で作ったのかい、すごいじゃないか!」


 アルザラはシアンの頭を乱暴に撫でながら、すごいすごいと褒めちぎった。

 シアンはぐわんぐわんと揺れる頭と視界を驚きで見つめた。

 あれやこれやといわれているうちに、いつのまにか二人で食卓につき、夕餉を食べた。

 アルザラは始終「うまいうまい」と嬉しそうに食べ、いつもの食事の取り方では考えられないほどの速さで夕餉を平らげ、なんとおかわりまで要求した。

 シアンは慌てて椀を受け取り、汁と米をよそった。

 そのおかわりすら、ものすごい勢いで食べるものだから、シアンは呆気にとられた。

 アルザラは嬉しそうに米を頬張り、シアンを永遠と褒める。

 シアンはいつのまにか涙が止まらなくなっていた。

 いつから泣いていたのかわからないが、アルザラが指摘もせず夕餉を食べ進めるため、シアンは泣きながら自分も米を口に運んだ。

 ただのお米なはずなのに、こんな美味しいものをはじめて食べた、そう思った。



 そのあとアルザラには案の定勝手に火を使って夕餉を作ったことを怒られたが、火の後始末もしっかりおこなっていたため、シアンが台所を使うことを許した。

 以来、台所はシアンの城だ。

 毎日シアンが食事を作ることに、アルザラは良しとしなかったが、シアンがアルザラに食べて欲しいと毎日せがむうち、いつのまにかアルザラも折れてくれた。

 なんだかんだアルザラはシアンのやりたいようにさせてくれる。

 今日の夕食はウォンが持ってきてくれた土産の一つ、魚の干物を焼いて、先日漬けた野菜の漬物と米だ。

 あっという間に夕餉の準備が整い、アルザラが椀によそい、食卓に並べてくれた。

 いただきます、アルザラは手を合わせ、夕餉を口に運ぶ。

 シアンも手を合わせてから、箸を手に持った。

 ウォンが持ってきてくれた干物はとても脂が乗り、白身に箸を差し込めば、ふわっとした湯気と一緒に透明でキラキラした脂が溢れた。


「これはいい干物だね、ウォンったらこんなに毎回お金を使わなくてもいいのに」


 アルザラはそう言いつつも、箸が止まることはない。

 シアンはやはりいい干物なのだな、と普段はあまり口にしない高級なそれを口に運んだ。

 身はほろほろと崩れ、旨味が口いっぱいに広がった。

 なんの魚の干物かわからないが、いつも行商人が持ってくるものより大ぶりで脂身がしっかりしているこれは、大変美味しい。

 アルザラはああ言うが、シアンは毎日でもこれを食べてもいいと思った。

 干物の骨は思っていたよりも太かったため、食卓に出す前に全部とった。

 明日の朝食の汁物に入れたらきっと美味しいだろう。

 黙々と食べ進めていくうちに、アルザラはふとシアンの顔を見つめた。


「シアン、あんた顔が赤くないかい」


 シアンは食べるのをやめ、頬に手を当ててみた。

 若干暑い気がしなくもないが、食事をしているからだと思う。

 アルザラは椅子から立ち上がり、シアンの額に手を当てる。

 ひんやりとした大きな手が気持ちよく、シアンはうっとりと目を閉じた。

 やっぱり、とアルザラはシアンの額から手を離した。


「少し熱があるね、久しぶりにはしゃぎすぎたんだろう」


 そんなことない、とシアンは思うが、考えてみればさっきから顔と頭が熱いし、若干頭がふわふわしている。

 シアンがそうかも、と思っていたらアルザラは笑いながら「それとも知恵熱かね」とからかった。

 あながち間違いではないその指摘に「違うよ」とも反論できず、シアンは頬を膨らませた。


「湯浴みは熱が上がるかもしれないしどうしようね、入れそうなら今のうちに入ってしまった方がいい気もするけどね」


 どうする、とアルザラに問われれば、シアンは昨日湯浴みをせずそのまま寝てしまったことを思い出して入っておこうと思った。

 一つ頷けば、アルザラは残りの夕餉を手早く掻き込み、外にある風呂の火起こし場に向かった。

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