第13話 大人の話

 家の窓から覗く森の葉の色は、日にひに深みを増し、部屋に差し込む陽は熱を感じるようになった。

 アルザラに助けてもらってからあっという間に季節は巡り、いつのまにか夏も近づいてきた。

 シアンはすくすくと、その皮と骨だけだった体に肉をつけていった。

 一ヶ月に一度、アルザラの恩師という医療師、ウォンをアルザラが家に呼ぶ。

 最初はアルザラ以外の人がなぜか怖くて仕方がなく、ウォンが訪れるたびに泣いて逃げ回っていたが、何度か顔を合わせていくうちに、次第にそのシワシワな顔が好きになった。

 そしてウォンは今日もアルザラの家に訪れ、シアンの検診をする。

 その医療師はシアンの身体を確かめて触りながら、最後には「よく頑張りましたね、完治しましたよ」とシワシワな顔で微笑んだ。

 後ろで様子を伺いそわそわと歩き回っていたアルザラは、大きな溜息をつきあからさまに安心していた。

 しかし次口から出てきた言葉はアルザラらしいお説教だった。


「シアン、あんたがもう少し大人しくしていればもっと早く治っていたんだよ。骨も繋がっていないのにウロウロ歩き回るから」


 次から次へと飛んでくるお説教にシアンは肩をすぼませながら、項垂れる。

 アルザラがこうなってしまうと、それはもう長かった。

 たまに家に訪れる商業人のおじちゃんの営業話よりも、それはそれは長かった。

 シアンが嵐が過ぎ去るのを待っていると、ウォンは困り果てているシアンとお説教に熱に入るアルザラを見比べて、実に楽しそうにほほうと笑い声をあげた。


「助けてほしいかい?」


 ウォンが甘い言葉をシアンに囁く。

 思ってもみない言葉にシアンは目を輝かせた。

 ウォンはその様子をまた可笑しそうに笑い、わざとらしく声を上げた。


「年寄りはすぐに喉が渇いてかなわん、シアン、お茶を淹れてくれんか。三人分頼むよ」


 シアンは勢いよく立ち上がり、すぐそばにある台所に向かい、小鍋に井戸水を注ぎ、火をつけた。

 アルザラは逃げ出したシアンにため気をついた。

 しかしウォンは、アルザラが困り果て額に手を当てる様子をたしなめることもなく、静かに見つめた。

 アルザラが学舎にいる頃からの付き合いがあるウォンは知っていた。

 ああしてアルザラが困っているときは、だいたい楽しんでいるときだ。

 そして、他人に基本興味がないアルザラが他人に手に掛けるということは、それは大変な情があるということも。

 シアンは先日作ったドュロガ※を切り分け、湧いた湯で茶を淹れた。

 まだ立ちっぱなしでウロウロしているアルザラを、シアンは無理やり椅子に座らせ、ウォンとアルザラへお茶を差し出した。

 ウォンは大の甘味好きだ。

 こうして王都からわざわざ足を運び、可愛い教え子の顔を見る以外に楽しみにしている一つが、シアンの作る菓子だ。

 今日はアジャの実を使ったドゥロガで、ふわふわとした生地と、噛みしめるごとに口に広がるアジャの瑞々しい風味と爽やかな香りが体に染み渡った。

 シアンの淹れてくれた茶で流すと、茶の淹れ方がだいぶ上手くなったことがわかった。

 前回淹れてくれたときはそれはそれは渋くて大変だったが、ウォンはそのお茶も好きだった。

 いつのまにか成長を見せるシアンに、ウォンは少しの寂しさと、孫ができたような喜びを感じていた。

 ウォンはもう一口ドゥロガを口に運び、おや、と頬をほころばせた。

 シアンとウォンのドゥロガの大きさは、シアンが気を使って大きく切り分けてくれたのだろう。多少大きさが違う。

 しかし、アルザラのドゥロガを見ればそれは一目瞭然だ。

 たまに顔を見せにくるウォンと、母のように慕うアルザラ。

 小さい頭で精一杯考えて愛情を見せるその姿は、実の親子そのもので、ドゥロガの大きさがおかしいと気がついたアルザラになにか言われるより先に、シアンはその開いた口に大きめに切ったドュロガをねじ込んだ。

 アルザラがシアンの頭を軽く小突きながらも、その目が優しさで溢れていることを、ウォンは知っていた。



 ウォンが家に訪れるときは、少なくとも一泊、多いときは五泊くらい家に滞在した。

 シアンの様子を見ながら、治療に当てる目的もあるが、今日はもうその必要はない。

 しかしウォンは帰ることなく、のんびりとアルザラの家で過ごしていた。

 シアンはなんでウォンが泊まるかはわからなかったが、ウォンはアルザラと同じくらい物知りで、聞けばなんでも教えてくれたし、来るたびにお土産を持ってきてくれるから、シアンはこの老人が好きだ。

 だから帰ってしまうとばかり思っていたので、ウォンがまたしばらく滞在すると聞いてからシアンは飛んで喜んだ。

 その瞬間アルザラに「シアン!!」と怒られたから、跳ねるのをやめたが、あいも変わらず足は小躍りし、作った夕餉も「少しばかり」力が入り、三人で食べきれる量ではなくなってしまった。

 アルザラは今日中に食べなければならないものは今日中に食べ、あとは明日の朝餉にしようといった。

 さすが頭のいいアルザラだ、シアンはお腹いっぱいで吐きそうになりながら小さく頷いた。

 少し休憩していると、瞼が急激に重くなってきた。

 船を漕いでいると、アルザラがシアンを立たせ、流しに向かわせた。


「湯浴みはいいから歯だけ磨いてしまいなさい」


 シアンは切れそうになる意識の端をなんとかつまんで、トロトロと歯を磨き、うがいをする。

 冷たい水で顔を洗うと少し意識がスッキリした。

 まだ起きてる、そう意味を込めてアルザラを見上げると、アルザラは首を振ってシアンを寝室に追いやった。


「もう子どもは寝る時間だよ、椀は洗っておくからもう寝てしまい」


 シアンは頬を膨らませ抗議をするが、アルザラにその頬の空気を指で押されると、情けなくしぼんだ。

 布団に寝かされ、ポンポンとリズムよく叩かれると、どこかいってしまったと思っていた眠気がシアンをあっという間に包み込み、アルザラの手の感触もいつのまにか感じなくなっていた。


 寝室から数分も経たずに出てきたアルザラに、ウォンは「寝たかい」と問いかければ、アルザラはくすりと笑った。


「あの子もまだ子どもだから、それに今日は先生が来てくれたから余計張り切っていたんだよ」


 アルザラは茶を淹れなおし、ウォンにも新しいものを寄こした。

 ウォンはまだ熱いそれをちびりとすすり、ひと息ついた。


「それで、まだ記憶は戻らんのかい」


 様子を見ていればわかるが、一応聞いてみる。

 案の定アルザラは力なく首を振った。


「まったくだね、兆候もない」


 アルザラは困ったように、それでいてほっとしたように目を細めた。

 あれからもう四月は経とうとしていた。

 記憶もそうだが、シアンは一言も言葉を発したことがない。

 ウォンは当時、乱れた筆の手紙を受け取ったとき、ただ事ではないと思っていたが、実際それを目の当たりにしたとき、自分の予想をはるかに上回ったそれに、ウォンは珍しく混乱した。

 身体中至るところに骨折と肌に蔓延るあざの数々、切り傷も多く、極めつけには背中の鞭傷だ。

 そしてなにより、深夜の空よりも真っ暗なその髪と瞳。

 少なからず、事情があるに違いなかった。

 そして、瀕死の状態のシアンが現れた前日に起こった焼き討ち。

『あれ』が関わっていると、ウォンは確証に近いものを感じていた。

 それはアルザラも同じなようで、ウォンと同じように『あれ』の動きを探っていた。

 けれど、探れば探るほど、それはするりと霧のように手から溢れていった。

 あともう少し、そう思っても毎回情報は全て消されてしまう。

 王都から離れているからなおさら情報が届くのは遅く、アルザラが印像をどれほど駆使しても、やつらは尻尾すら見せない。

 二人の調査は、完全に手詰まりだった。

 アルザラは珍しく、弱々しい愚痴をこぼした。


「あの子に繋がるものが、必ずあるはずなのに…」


 アルザラは減らない湯飲みの中身の波紋を見つめる。

 ウォンは、それはそうだろうと茶をグイッと飲んだ。


「あれは、何年もの間、その姿を見せなかった。それがここ数年で動きが活発になったから噂程度にしかなかった情報が明るみに出てきただけだよ。あいつらの結束は固い、私たちには情報を集めることと、警戒しかないのだよ」


「けれどそれだと!!」


 ウォンはアルザラに向かって静かにと、己の唇に指を当てた。

 あ、とアルザラは口を噤み、一瞬沈黙する。

 ウォンは静かに調べたことをアルザラに聞かせる。


「ワシの方で調べたんだよ、シアンの出生を。あの村に情報があるとすれば、あの村で唯一の礼拝堂だからね。でも、なかったんだよ、不自然なくらいに」


 アルザラは訝しげにウォンを見つめる。


「不自然に、というとどういうことなんだい」


 ウォンは茶をすすり、厳しい目でアルザラと向き合った。


「いった通りだよ、不自然なくらいになにもなかった。礼拝堂にはその村で暮らしている村民の帳簿があるだろう、けれど、どの帳簿にもある家族の記載の一部が抜き取られていたんだよ。大半は破かれていたからど確信は持てないが、一つ心当たりがある。目にも当てられない無残な死に方をした一家がいたらしい」


 アルザラはウォンが静かに語るのを、早まる心臓を抑え、聞いていた。


「全部現地の調査員と資料から調べたから間違いはないはずだよ。夫婦はファソンとカルラ、一人娘がいて、その子はカルリアという。その一家は身体中の骨という骨が砕かれ、関節も全て曲げられていたらしい。そして首はありえないほどの力が加わったように、絞られたような状態で折れて、人の形を残していなかったそうだ」


 考えたくもないその光景に、アルザラはゾッとした。

 けれど、そのような人の力では不可能なことを可能にする能力を、アルザラは知っていた。


「印遣いがいるんだな」


 ウォンは静かに頷いた。

 それも「黒の加護」を強く受けた印遣いだろう。

 これは厄介だな、とアルザラは思った。

 黒の加護を強く受けた印遣いは、その特性ゆえに、人から疎まれる。

 というのも、精神操作や暗躍に群を抜いてその力を発揮する。

 もちろん正しい使い方をすればいいだけの話なのだが、黒の力はその特性ゆえに疎まれ、差別対象のそれとなっていた。

 だから印遣いは黒の加護を受けたことを誰にも話さないし、誰が黒の印を操るなんてことを知るすべもないのだ。

 しかも村を一つ一晩でなにも残さず焼き尽くすような力を持った人間が、あれを率いているとなると、探し出すのは実に困難だ。


「その夫妻と娘は特に損傷がひどかった、他の村人は急所を太刀で一突きだというのに、その夫妻と子どもはジリジリと時間をかけていたぶった形跡があった。この夫婦が『あれ』にどんなことをしでかしたのかはわからない。けれど、『あれ』はこの夫妻と子をひどく憎んでいたことに間違いはないとワシは考えている」


「あれ」は忠実な信徒だと聞いている。そんなあれが怒り狂うとすれば、それは自分の主人に関することだ。

 アルザラが思い当たったところで、ウォンは重く頷いた。


「そう、主人といえばヴォルネ教の神、ヴォーだ。そして、その新たな主人化身が見つかったんだよ」

 

アルザラは何度も捨ててきたその考えを、ついに肯定した。


「シアン……」


 呆然とするアルザラを、ウォンは静かに見つめ、茶をもう一口すすった。


「まあ、あくまで仮定の話だよ。いっただろう。その部分がシアンだとは決まっていないし、『あれ』の行動の意味も憶測にしか過ぎない」

 

その言葉を聞いて、アルザラは固まっていた肩の力を抜いた。


「そ、そうだね。なにも全てがそうだと決まったわけではないものね」


 ウォンのわかりやすい気休めに、アルザラは心底安心したように、もう冷めきってしまった茶を一気に飲み干した。

 けれど、憶測だらけのこの話でも、ウォンは一つだけ、確かな情報を一つ持ち帰ってきていた。

 不可解で、なにを指しているのかわからない一つの言葉を。


「ところで、一つ不可解なことがあってね。礼拝堂の壁や、広場で死んでいた遺体の近くに、ある言葉が血で書き残されていたんだよ」

 

ある言葉、アルザラがそういうと、ウォンは言葉を続けた。


「夜の御子」


 アルザラは眉をわずかに顰めた。

 ウォンはその様子を見て、相変わらず頭のいい教え子だ、と思った。


「夜の御子、それを巡ってなにかが起こった。アルザラ、お前はもう察しがついているだろう」


 アルザラは全てお見通しの老人に、首を振った。

 そして老人が次に言おうとする言葉も、もう知っていた。


「アルザラ」


「先生、私は決めたのです」


 学生時代にも稀にしか使わなかった敬語をアルザラは口にした。

 それだけで、もうウォンはなにも言えなくなった。

 アルザラの瞳は、しっかりとウォンを見つめて離さなかった。

 その瞳は、もうとっくに覚悟を決めていた。

 長いにらめっこの末に、ウォンはとうとう視線を外した。

 ウォンが困ったように笑うと、アルザラはしてやったりという子どものような笑みを浮かべていた。


「無茶はするんじゃないよ、ワシももう歳だからね。骨に響くことはしたくないのだよ」


 ウォンは溜息をついた。

 そのやけにくたびれた老人のような言い回しに、アルザラは小さく吹き出した。

 クツクツと笑うアルザラに、ウォンも笑い声をあげた。

 アルザラは茶を淹れなおし、ウォンに手渡した。


「先生はまだ眠くないだろう?まだ確認したいことが山ほどあるんだ、付き合ってくれる?」


 うむもいわせないアルザラに、ウォンはしかたのない子だと、まるで自分がこの子の教師をしている頃のような心地になった。

 その夜、二人の話はいつまでも終わることはなかった。

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