第12話 響いた笑い声
シアンが再び目を覚ましたのは、さらに一日たっぷり寝た後だった。
目を覚ましたシアンが窓に目を向ければ、夕日が暗い室内を照らしていた。
今度は夢なんてまったく見なかった。
いつの間にか寝てしまっていたらしく、アルザラはもう部屋にはいなかった。
寝てしまう前にアルザラと話した自分のことを、もう一度思い出そうとしてみる。
しかし、どれだけ考えても、なぜ自分がここにいるのか思い当たる節はなく、自分自身のことも思い出せない始末だ。
これからどうすればいいのか、まったく希望が見出せないシアンは、目の端に熱い涙が溜まるのを感じた。
シアンはとてつもなく不安を感じていた。
自分が「シアン」という名前のほかは、まったく思い出せないのだ。
自分の腕から覗く痛々しい痣も、力の入らなかった足も、まったく心当たりがない。
湿った鼻をすすっていると、なにやらいい匂いが一緒に鼻水と飛び込んできた。
いい匂い、そう思うとシアンのお腹は派手な音を鳴らした。
どれだけ感傷的な気持ちでも、人間の体は正直だ。
するとシアンのお腹を聞きつけたのか、アルザラがお盆に湯気の立つ広い椀を持ってきた。
「目、覚めたかい」
シアンはアルザラの顔色が幾分か良くなっていたことに気がついた。
しかしいまだに声も出なければ、アルザラになんと話せばいいのかわからないため、シアンはコクリと頷くだけにした。
アルザラはシアンの横に正座し、お盆を膝の上に置いた。
どうやらいい匂いの正体はこれだったらしい。
シアンは深く息を吸い込んで、その優しい出汁の香りを楽しんだ。
アルザラが持ってきてくれたのは出汁で炊いた粥で、溶き卵がふわふわと溶け込んでいた。
アルザラは匙でそれをすくい、フーフーと冷ましてからシアンの口の近くへ持っていった。
「食べれそうかい」
若干不安げに尋ねるアルザラに、シアンは頷くより先に粥にかぶりついた。
まだ熱かったそれに、ハフハフ言いながら涙を浮かべると、アルザラは一瞬固まったのちに、大声で笑い始めた。
「あっはっはっはっは!!そんなに急がなくても誰もとらんさ。ほら、ゆっくり
食べな、火傷に気をつけるんだよ」
アルザラは気持ち長めに匙に救った粥を冷まし、シアンへ差し出す。
熱い思いをしたシアンは今度は学習し、念入りに息を吹きかけてから粥を口にした。
薄めの魚の出汁がシアンの食欲を刺激し、どんどん食べ進めていく。
体がポカポカと温まってきて、じんわりと汗ばんだ。
アルザラは満足そうにその様子を粥をすくっては口へ運びを繰り返しながら見つめた。
アルザラが思っていたよりもシアンの食欲はしっかりあり、残ったら自分で食べればいいと思っていた少し多めの粥は、シアンが全部ペロリと完食した。
その食欲に嬉しくなったアルザラは、食休めに果実水をシアンに差し出した。
粥で満足していたシアンは、差し出された綺麗な色の果実水に興味津々の様子でそれを見つめる。
「果実水だよ、これは山林檎を使っていて、蜂蜜で味を整えてる。甘くて美味しいから飲んでみな」
甘くて美味しい、その言葉にシアンは瞳を輝かせ、ゆっくりとそれを口に含んだ。
口に含んだ瞬間、弾けたみずみずしい林檎の風味と蜂蜜の甘さにシアンは驚きのあまりよく味わいもせずに飲み込んだ。
もう一度口に含むと、やはり美味しい。それもとてつもなく。
シアンがアルザラに首を縦にたくさん振ると、アルザアラはそうだろう、そうだろうと嬉しそうに笑った。
その笑顔に、この人はこんな顔もするのか、とシアンはなんだか意外に思った。
というのも、シアンが強く印象に残っているのが血走った目で迫ってくる寝不足のアルザラだったので、なんだか怖い人という印象だったのだ。
しかし本来であればその姿こそ、彼女を知る人間から見ればアルザラのいつもの姿なのだが、シアンの目にはアルザラが愉快そうに笑う様子しか映らず、アルザラはよく笑う人なのだという認識になった。
のちにアルザラの家を訪れた商人が「お前、随分変わったな」とからかわれるのはそう遠くない話だ。
一頻り笑い、満足そうに目元をアルザラは拭った。
シアンはチビチビと果実水を飲みながら、アルザラの様子をうかがう。
シアンの視線に気がついたアルザラは、少し考えてから真剣な顔で胃住まいを正した。
「シアンは、自分の名前しか思い出せないんだよな」
その通りなので、シアンは頷いた。
アルザラは続ける。
「本来ならあんたの両親やら知り合いを探すのが筋ってものだが、どうやらそれはいい判断ではないんだよな」
アルザラがなんのことを言っているかさっぱりだが、シアンはおとなしく聞くことにした。
「あんたは私のことをなんだと思ってる?」
突然の問いかけに、シアンは目を見開くが、記憶のないシアンにはアルザラがどういう人間かもしらないし、自分との間柄はどうだったのかもわからない。
少し考えた末に、アルザラの手に「わからない」と書いた。
アルザラはそれに満足したのか、うん、と一つ頷いた。
「そうか、それは安心した。なんせ、私もあんたのことは全くわからないんだからな。一週間前死ぬ寸前のあんたを見つけた時はどうしようかと思ったが」
シアンはさあっと顔から血が引くのを感じた。
シアンの聞き間違えでなければ、アルザラは見ず知らずのシアンの命を救ってもらったことになる。
しかも、シアンはアルザラに世話になるばかりで、自身はお礼の一つもしていない。
慌てて布団から身を出し、床に最敬礼をした。
「おいおいおいやめないか、傷が開いてしまうよ!」
しかしアルザラが心配するほど傷はひどくないのだろう。
布団から体を起こしたときも、床を踏んだときも、床に額をつけるのに体を曲げたときも、まったく痛みを感じることはなく、代わりになんだか肌とその内側に違和感があるだけだ。
そんな状態なら、なおさらシアンは顔を上げるわけにはいかなかった。
アルザラのいうことを無視して床に伏せるシアンに、アルザラは最初こそは怒っていたが、そのうち優しく肩に手を置いてシアンをたしなめた。
「なにか勘違いしているようだが、別に私は怒ってもいなければなにも気にしていないよ。そりゃ私とあんたは赤の他人だけどね、それでも美味しそうに粥を食べてくれたり、果実水を飲む姿を見て思ったのが『ああ、よかった』ただこれだけさ。気にするな、あんたは子どもだ。子どもは大人におんぶに抱っこ、されてればいいんだよ」
シアンが恐る恐る顔を上げると、アルザラはとても優しくシアンを見つめていた。
シアンが口を震わせると、アルザラはブフッと吹き出した。
「あんた、なんて顔してんだい」
え、とシアンは自分の顔を触ってみるが、どんな顔をしているかわからない。アルザラがこれでもかっていうほど笑うものだから、シアンもつられて喉の奥を引きつかせながら笑った。
それでも唇の震えは収まらず、気がついた時には視界も揺らめいていて、なにがなんだかわからなくなっていた。
そんなシアンの様子をまた可笑しそうに笑うアルザラと一緒に、今度はシアンも心置きなく笑った。
しゃっくりが止まらなくなって、鼻水で息が吸えなくなって、途中吐いてしまったが、アルザラはそんなシアンの背中をさすりながら泣きながら笑っていた。
そんなアルザラをみて、シアンは笑わずにはいられなかった。
その日、いつも静かな森には一日中、二人の笑い声がいつまでも響いていた。
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