第11話 目覚め

 なんだか長い夢を見た気がする。とても恐ろしくて、おぞましくて、絶望に打ちひしがれ、とても悲しい、そんな、なにかの夢。

 若い男がシアンになにかを言いかけ、口を開いた時に、シアンの意識はぱっと浮上した。

 しばらく夢と現実の区別がつかなくて、視界がぐるぐるとまわり、ぎゅっと目を閉じた。

 その波が落ち着くのを待ち、恐る恐る目を開けると、さっきのような感覚はもうなかった。

 シアンは見慣れない高い天井をぼんやりと見つめ、ぐるりと視線を移動させる。

 シアンが横たわる布団の他にはこの部屋はなにもなく、強いていうなら乱雑に積み重なった多くの本の山と、大きな窓から部屋に差し込む光だけだ。

 この部屋にはどうやらシアンしかいないようで、シアンはふう、と息を吐いた。

 さっきの夢を思い出したかったが、どう頭をひねってもどんな内容だったか思い出せない。最後にシアンになにか言いかけた人が男だ、ということがわかるが、不思議なことに、全くその顔が思い出せずにいた。

 まるで記憶が抜け落ちたかのように。

 しかし夢を思い出すのもそこそこに、シアンは猛烈に喉の渇きを感じた。

 一度意識してしまうと、もう渇きにしかシアンの意識は向かなくなってしまい、ひとまずシアンは水を飲もうと起き上がることにした。

 布団から身を起こし、立ち上がろうと足に力を入れると、ぐにゃんと視界がまわり、シアンは派手にひっくり返った。

 ドタン、思いの外大きな音が家中に響き渡り、シアンは驚いた。

 全く足に力が入らなかったのだ。

 よく自分の右足を見れば、白く硬いなにかでスネ全体を覆われ、関節がうまく曲がらない。

 シアンはその場に座り、なんだろうとそれを取ろうとする。

 するとこの騒ぎを聞きつけたのだろう。

 戸が勢いよく開かれ、女が血走った目で大股で歩いてきた。

 思わず恐怖に固まってしまうシアンだが、女はそんなシアンの様子をを気にもせず、シアンに手を伸ばした。

 殴られる、そう思い腕を交差するも、安易にそれは退けられ、シアンは顔をその手で揉みくちゃにされた。

 殴られると思っていたのに、いつまでも顔をベタベタと触られ、ついでに腕や足を触って持ち上げて、女はどんどん確認していく。

 シアンが放心していると、思う存分確認した女は、こぼれそうなほど見開いていたその目を、ため息を吐きながらやっと瞼の奥に引っ込めた。


「具合は?」


 女がシアンの肩に手を置き、問いかける。

 シアンは首を振った。


「どこか痛いところは?」


 痛いところなんてどこにもなかったため、また首を振った。


「名前は?」


 そう問われ、シアンは口を開くが息しか漏れず、咳き込む。

 女は慌てて裏に引っ込み、戻ってきたその手には水がたっぷりと入っていた。

 シアンはそれをもらい、急いで飲む。

 口の端からビチャビチャと垂れるが、まったく気にならなかった。

 女はシアンの背を支えながら、「誰も取らないからゆっくりと飲みなさい」と椀をゆっくりと傾けさせた。

 あっという間に水がなくなり、女はもう一度水を汲んでシアンに飲ませる。

 二杯目はさすがに少しはゆっくりと飲むことができた。

 シアンが首を横にすると、女は椀をどかし、シアンの背中をさすった。

 ほっとシアンが一息つくと、女はシアンに向き直り、座り込んでいるシアンに視線を合わせた。

 シアンを見つめるその目は綺麗な焦げ茶で、切れ長の目がシアンを射抜くように捉えて離さない。


「あんたの名前は?」


 シアンはもう一度声を出そうとするが、やはり声は出てこず、喉に手を当てると女は合点したように己の手を差し出した。

 細く筋張った長い指で、自分の手のひらを指す。


「ここに書ける?」


 シアンは自分の指で、その広い手の平にゆっくりと「シアン」と書いた。

 女はほっとしたように目元を和らげた。

 女は自身を「私はアルザラだよ」とそっけなくいった。

 最初は血走った目に恐怖を抱いたが、よく見れば女の目にはクマが浮かび、顔は青白く、髪はボサボサで、あまり眠れていないことが手に取るようにわかった。

 このアルザラがなんなのかわからないが、少なくともシアンの世話をしてくれたのは間違いなさそうだ。

 女は言いづらそうに視線を少し泳がせ、シアンに手を優しく握る。

 その手はひんやりとして、心地いい。


「もし嫌なら答えなくていいからね、あんたはどうして森にいたの」


 森、その単語にシアンは首を傾げた。

 自分はなぜ森にいたのだろう、思い返してみても全く思い当たる節がない。

 首を横に振ると、女は落胆する様子なく淡々とシアンに聞いていく。


「なら、あんた以外に誰かいた?」


 シアン以外に誰か、というと誰のことを指すのだろうか。

 とにかく思い出そうとするが全くわからないため、また首を横に振る。

 女は困惑したように眉を潜ませ、シアンに聞いていく。


「あんたはどこから来たの?」


 どこから、それは、と女の手に書こうとしてはたとシアンの指は宙をさまよった。

 あれ、とシアンは考える。

 私ってどこから来たんだっけ、誰といたんだっけ、なんでここにいるんだっけ、ここってどこなんだっけ。

 混乱して震えてきたシアンの手を女は優しく握り「他に覚えていることは?」と問いかけた。

 なんだろう、なにがあったっけ、シアンは頭を働かせるが、ぼんやりとした頭はどれだけシアンが怒鳴ってもなにも思い出してはくれなかった。

 シアンは女に向き直り、震える唇で自分の名前を口にした。

 女はうなづき、シアンの体を優しく抱きしめてくれた。

 なんだかぎこちない抱かれ方だが、シアンはその大きな体に身を任せ、静かに泣いた。

 なんで自分がシアンなのかも、思い出せなかった。



 そのままアルザラにに抱かれているうちに、シアンは寝こけてしまった。

 シアンと名乗った少女に、アルザラはやはりなにか面倒ごとに巻き込まれてしまったなと思った。

 森の中に忽然と現れた女の子、先日起こった焼き討ち、硝煙と血まみれで瀕死の状態の体、そして記憶喪失ときたものだ。

 さて、どうしたことだろう。

 アルザラは鈍痛が響くこめかみに親指をグリグリと押しやった。

 寝不足の頭では思うように思考が回らない。

 シアンがもう一度起きた時に、もしかしたら記憶が戻っているかもしれない。記憶障害は一過性の場合もある。

 そう思うも、思い出さないのもシアンのためだと、すでにアルザラは思い始めていた。

 というのも、シアンを看病していたこの一週間で、アルザラは大分シアンに気持ちを傾けていた。

 アルザラに姉妹はおらず、両親も家柄の結婚だったために、特別仲がいいわけでもない。

 両親はアルザラを可愛がってくれたが、その愛情はいつだってよそよそしく、他の家の子が親から与えられるそれとは違うと、幼いながらに薄々と感じていた。

 それでも勉強でいい成績をとれば褒めてくれたし、宿印を授かった時は両親とも泣きながら喜んでくれた。

 両親にはそこそこの愛情はもらった。

 本来なら結婚をし、そろそろ子どもをこさえてほしいと思っているだろうが、勉強が好きなアルザラを両親は好きなようにさせてくれる。

 それでも心の侘しさはほのかにあり、意識しなかっただけで、今でもそれはアルザラの中にあった。

 シアンを看病していくと同時に、愛しさが滲み、自分の中にまだこんな感情があったのかと驚いたものだ。

 それほどまでに、アルザラはすでに、どういった事情があれ、シアンを置いておくつもりだ。

 シアンがそれをよしとするなら、の前提だが。

 それでも問題はなに一つ解決していない。

 アルザラは大きくため息をついた。

 それでもまずは、シアンが目を覚ましてくれて、アルザラは心から嬉しく思っていた。

 シアンが起きてきたら、まず腹ごしらえにしよう。きっとお腹もすかしているはずだ。

 安心したら、なんだか急に瞼が重く感じた。

 アルザラは睡魔が襲ってきたのを感じ、ほんの少しだけ、意識を手放すことにした。

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