第一章 森の管理人
第10話 森に住む女
窓から差し込んだ朝陽が瞼越しに眼球を刺激し、アルザラは布団をかぶるも、一度意識してしまった光はなかなか瞼から離れず、渋々布団から身を起こした。
肩を鳴らし、伸びをすると背骨もバキバキっと音が鳴った。
昨晩は寝つきが悪く、空が藍色になった頃やっと眠りにつけたのだ。
時計を見ればまだ八の刻で、ざっと三刻ほどしか寝ていない。
しかし眠っていないにも関わらず、不思議と頭はスッキリしているため、もうこのまま起きてしまうことにした。
昼過ぎくらいにはどうせ睡魔が襲ってくるだろう。その時に昼寝でもすればいい。
アルザラは布団を整え、窓を開けつっかえ棒で固定した。
早朝の森の湿った緑の匂いと、まだ冷たい冬の風が室内に充満し、身震いをしながらも大きく空気を吸い込んだ。
アルザラの住む家は王都から少し離れたアーヴの森の中にあり、人の喧騒なんてものとは無縁だ。
もちろん商店なんてものはなく、基本は家の裏庭にある小さな畑で野菜を育て、森の木の実を砂糖煮にし、二週に一度家に訪れてくれる行商人から干し肉や小麦を買って、細々と生活をしている。
ここはきっと田舎で不便なところだと、人は言うだろう。
しかしアルザラとてずっとここに暮らしているわけではない。
十年ほど前まで王都からここに越してきて、以来アルザラは今の生活の方が気に入っている。
王都の女たちと、馬が合わなかったというのもある。
アルザラは女が好むような着飾ったり、宝石や髪飾りで胸をときめかせることがあまりなく、身なりも最低限のこざっぱりしたもので、それより研究や勉強に精を出していた。
ここではアルザラに小言をいう人間はいない。
今年で三十二になるがなんら焦りもなく、日々を穏やかに過ごしている。
当時のことを懐かしみながらも、アルザラは今日も仕事に励むことにした。
アルザラの仕事はアーヴの森の管理だ。
森といっても、アルザラが暮らす家のある場所はまだ森だが、ほんの少し奥へ行くと、もうそこは何人たりとも立ち入ることができない、険しい樹海が広がる。
長年森の管理をしているアルザラでさえ、ほんの少し油断すれば簡単に迷ってしまう。
どこまでも深いこの森は、古くからの神話が伝わるアルブム山脈の入り口でもあり、神の力が宿っているとも言われている。
それゆえなのか、なぜかこの森には人がフラッと吸い寄せられる。
一般人が森に迷い込んでしまえば、簡単には出てはこれない。
そこでアルザラの出番だ。
迷い込んでくる人の発見と保護、そして森が不届きものに荒らされぬように管理するのがアルザラの仕事だ。
しかし森の管理といっても名ばかりの仕事で、決まった時間に見回りに行くこともなければ、アルザラの気が向いた時に、散歩がてらその辺をふらりと歩くだけなのだ。
この森は広い。全部を管理するとなれば、それこそ昼夜問わず森を歩きまわらなければならないし、そんなことは現実的ではない。
それに、ごくたまに迷い人が現れるだけで、アルザラの出番はほぼないのだ。
もともと神聖な場所として名高いこのアーヴ森は、簡単に人は寄りつかず、不届きごとを起こそうと考える輩はまずいない。
そのため、アルザラの仕事は実に簡単なものだ。
一日の適当なタイミングで印像を使い、森の様子を監視し、特に異常がなければその辺を散歩して、己の『副業』に勤しむ。
それでそこそこの賃金がもらえるのだから、こんな美味しい話はない。
朝餉を食べ終わったアルザラは家の外に出て、両手を合わせる。
森の呼吸を聴きながら目を閉じた。
神経を研ぎ澄まし、身体中に巡る血を感じながら、森と一体になっていく。
もう少し、アルザラがそう思った時に、アルザラの意識と森の意識がピタリと重なり、アルザラは自分の意識が膨大に膨れあがるのを感じた。
森の入り口の草花から感じる大地の感覚、はるか上空を飛ぶ鷹の視線、川を泳ぐ小魚の群れ、多くの木が感じる酸素の味。
森の広い範囲の感覚をアルザラは覗きみて、なにか変わったことがないか確認していく。
いつもならこのまま何事もなく終わるのだが、そろそろ切り上げようと思った矢先、アルザラの感覚に硝煙のようなものを感じた。
微かなものだったために、半信半疑ながらも、それを感じた地域に意識を集中させ、森と同化する。
硝煙の匂いがだんだんキツくなり、これはただ事ではないとアルザラは本能で感じた。
というのも、その硝煙の香りの中に、とても濃い血の匂いを感じたからだ。
小さな羽虫の視界に滑り込み、その周囲を確認する。
しかし羽虫はアルザラが思っている方へなかなか舵を取ってくれず、羽虫のすぐ近くにいた野うさぎに意識を多く集中させる。
その野うさぎはある一点を凝視し、警戒していた。
(あれは……)
アルザラが絶句した視線の先にあったのは、小さな死体だった。
野うさぎが鼻をひくつかせる度に、キツく濃い血と煙の匂いが嗅覚を襲った。
着ている外套の大きさからいっても、歳は十もないだろう。
外套から覗く細い腕は、様々な汚れで褐色に染まり、肌の色も判別できないほど。
どうしたものか、アルザラはその小さな亡骸をみて惨い気持ちになった。
この森の管轄は国のため、引き渡したほうがいいだろうが、引き渡したら最後、国の共同墓地に誰かもしれない骨と一緒に埋められ、きっとこの子は両親に会えることはないだろう。
報告だけして、アルザラの家の近くに生えている林檎の樹の下に埋めてやろう。
どうしてこんな森の奥深いこの場所で、小さな子ども一人が迷い込んでいるのか、昨晩の様子は変わらなかったのに、急に現れたこの子に疑問は残るが、それよりもアルザラはこの子の短い生涯にせめてもの最期を用意してやろうと家に戻った。
腰鞄に水を汲んだ水筒を入れ、布を三枚詰め込む。
まだ冷えるため厚手の裏地の付いた外套を羽織る、馬舎から一頭手綱を引いて、鞍を乗せて跨る。
アルザラは急いでその子どもの場所へ馬を走らせた。
馬を使ったこともあり、半刻もしないでその場所にたどり着いたアルザラは、小川で馬をしばらく休ませることにした。
馬は喜び川に首を突っ込み、グビグビと水を飲んだ。
無意識のうちに馬を急かしていたのかもしれない、家に戻ったら好物の野菜でもやろう。
アルザラは少し反省しながら、問題の場所へ記憶を頼りに進んでいく。
何本か木を避けて、少し開いた場所にそれは横たわっていた。
視界を借りて見たときよりもそれは小さく感じ、十歳くらいかと思っていたが五歳もいっていないのではないだろうか。
血と土でパリパリに乾いたものが肌全体を覆い、その身体に近づくと一層煙の匂いが強くなり、アルザラは顔をしかめた。
子どもの周囲を見ると、不思議なことに足跡一つ残っていない。
しゃがみこみ周囲の苔を確認するが傷ついたものはなく、まるで忽然とこの場に子どもが現れたかのようだ。
上を見上げると、他の場所より拓けたここは、空がよく見えた。
「まさか子どもが空から降ってきた、なんてことはないか」
まさかと思いながらも木々が変に折れていないか確認するも、拓けているここでは折れる枝もないことに気がつき、アルザラは考えることを放棄した。
とにかくこの子どもをなんとかしてやるのが先だ。
体を覆っている外套の汚れを気にせず、アルザラは頭にかぶっていたそれを外してやった。
「黒い髪……珍しいな」
煤で汚れてはいるが、それはなにものにも混ざらない漆黒で、アルザラが今まで見てきた黒の中でも、一番の漆黒だった。
顔に張り付いた髪を払ってやると、痩せこけた小さな女の子の顔が現れた。
あまりものを食っていなかったのだろう、目の下は窪み、頬は子どものそれとは思えないほど痩け、唇は真っ青でカサカサとしている。
そしてなによりアルザラを震撼させたのは、なにをしたらそうなるかわからないほどその体を支配する、切り傷とアザと血の量だった。
きっと想像を絶するなにかがこの子にはあったのだろう。
死んでしまったこの子に聞くことは叶わないが、せめて安らかにしてやりたい。
アルザラはその血まみれの女の子の顔を優しく撫でてやる。
固く閉ざされた瞼の長いまつ毛をじっと見つめると、それが不自然に震えたのを感じた。
アルザラはハッとし、女の子の脈と、心音を確認する。
とくん、と微弱ながらに感じたそれに、アルザラは目を見開いた。
「生きている」
その汚れた外套を剥ぎ、子どもの胸を確認すると、ゆっくりではあるが、しっかりと胸部が上下していた。
「あんた、聞こえるかい、聞こえるかい!?」
あまりにも怪我が多いため、無駄に体を刺激できず、声を張って女の子の耳元で叫ぶ。
女の子は声を出さなかったものの、アルザラの声に眉をひそめ、唇を震わせた。
アルザラは指笛を鋭く鳴らすと、小川で休んでいた馬が勢いよく木々を縫って現れた。
「ちょっと重くなるけど頼むよ」
アルザラが頼めば、馬は了解した、とでもいうように首を振った。
女の子を片腕に抱え、馬に跨り傷に触らないように抱え直すが、どの身体の部位を重心にしてもその子は顔を歪めた。
仕方がないのでアルザラは「少し我慢してな」と女の子を横向きに抱え、できる限りの速さで揺れの最小限な道を選んで家へ帰った。
家へ連れ帰り、傷の具合を見ようと衣を剥がし、拙い結び方の包帯を解くと、アルザラは恐怖と怒りで震えた。
腹部も脇も、黒紫に腫れ上がり、何本か骨折していることは間違いなかった。
背中を見れば、その細く小さな背中からは想像できない、細く長いなにかで思い切り打ちつけたような新しいものと古い傷が、数え切れないほど覆っていた。
傷の具合から見れば、これは鞭打ちの傷だろう。
かつて奴隷が存在していた頃は、調教のために使用していたとされているが、奴隷廃止から百年余りすぎている今日では、国の重要機密を間諜した者への拷問でしか、使うことはない。
それほどまでに、鞭打ちというのは恐ろしく人間を壊してしまうものだ。
ましてやこんな子どもが習慣的に受けていたなんてことが、アルザラには信じられなかった。
震える手で己を鼓舞し、傷の具合を見ていく。
背中の傷は元の処置が良かったのだろう。化膿はしておらず、通常の治療を施せば傷は塞がるだろう。
しかし問題は腹部だ、骨が折れているだけならいいが、内臓が破裂していたらアルザラにはもうどうすることもできない。
ここから一番近い村でも馬を走らせて半日かかるし、その間に症状が悪化してしまう可能性もある。
それに多少の医療の知識があるアルザラには、村の医者もやれることはそう変わらないだろうと踏んだ。
とにかくやれるところまでやってみよう。
アルザラは湯を沸かし、布団に横たわる女の子の衣を全部脱がせ、肌を優しく拭ってやり、肌を綺麗にしていく。
まず顔、そして腕、身体、背中、脚、土と血を拭っていく。
あっという間に桶に入れた湯は茶色に濁り、なんどもアルザラは湯を沸かし、それを入れ替えた。
全身綺麗になると、最初はわからなかった傷も、露わになってきた。
どうやらアルザラは甘かったようで、傷が集中していると思っていた腹部と背中以外にもひどい傷は多くあった。
もうこの子はだめかもしれない、そんな考えがアルザラの脳裏を横切り、慌ててそれを追い出した。
生きようともがいている命があるなら、それを助けてやるのが大人の務めだ。
アルザラは自分の力では足りないことを早々に悟り、かつて世話になっていた王都の医療師、ウォンへ筆をとった。
それから一週間、女の子の容態は安定していた。
女の子を家に連れ帰ったその日の夜に高熱を出したために、四日後に来る医療師が着くまでアルザラは三日三晩寝ずに看病をした。
女の子は寝たままでものを食べれないため、果実を細かく磨り潰し蜂蜜と加えたものを吸飲みで少しずつ飲ませ、汗をぬぐってやった。
ウォンがついた頃には女の子は峠を越え、着くや否やさっそく診察したウォンは「ここまで状態が持ち直せば、あとは自然の回復に任せましょう」とアルザラにしわくちゃな老いた笑みを浮かばせた。
骨折の処置と内臓の腫れに効く薬と消毒薬と解熱剤をアルザラは受け取り、年老いた医療師はアルザラにたまには顔を見せなさいと言い残し、翌日には王都へ戻っていった。
女の子が黒髪なこと、致命傷を負い意識不明なことなど、特に詮索されないことがアルザラにはありがたかった。
しかし察しのいいウォンは帰り際に、王都で配られたかわら紙を一枚、アルザラに渡していった。
見出しには昨日国のはずれにある村が、降臨祭の最中何者かによって焼き討ちにされた、とある。
これが発行されたのがアルザラが森で女の子を見つけたちょうどその日だ。
ウォンがこれを渡してきた時には、アルザラもなんとなく、この子はこの焼き打ちの生還者だろうということが頭に浮かんでいた。
しかし、北の村からここまで寝ずに馬を走らせても三日はかかる距離だ。
そこからここまでアルザラが寝てから起床する僅か数刻の間でここまで来ることは、到底不可能だ。
もっとも、この子どもが印像を使えるなら話は別だが。
なんの力を持ってこの子がここに現れたのかわからないが、考えすぎだと思う反面、なにかとても大きなことに巻き込まれてしまったのではないかと、アルザラは半ば確信のように感じた。
それから三日、相変わらず女の子は目覚めないままだが、幾分か穏やかな寝息をするようになったことに、アルザラは心底ほっとした。
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