第5話 夜の御子と呼ぶ者

 シアンは首飾りを手にしてから、もうそのまま家に戻ることにした。これ以上素敵なものは絶対ないと思ったからだ。

 お母さんとの思い出の味も、初めて欲しいと思った首飾りも、シアンのことを夜の子と呼ばない人に触れ合えたことも、シアンにとってはなににも代えがたい大事な記憶となった。

 そのためシアンは他の露店はもう回らず、人の流れを無視して大嫌いな家に足取り軽く戻っている。

 シアンが広場を出た頃には、もう空は橙に染まり、チラチラと星が浮かんでいた。

 祭りの本番は夜のため、昼間より多くの人が大広場へ向かっている。

 こんな時間に帰る人は珍しいのか、通りすがる人は不思議そうにシアンを見るのだが、祭りに心を奪われている人々はすぐその視線を前へ戻す。

 シアンは外套の外から内袋その膨らみを確かめた。

 夢だったのではないか、何度も不安に思ったが、その膨らみは何度触っても変わらずそこにあった。

 胸の中にじんわりと温かいものが広がり、シアンの顔はほころんだ。

 そのまましばらく歩いていると徐々に日は暮れ、空は藍色に染まった。

 いつの間にかシアンを追いかけていた影も、闇に溶けてしまった。

 村の大広場から外れてしまったため、街灯の数もどんどん減っていき、ぽつん、ぽつんと頼りない明るさしか道を照らしていない。

 しまったな、とシアンは心細くなった。

 降臨祭に気を取られ、帰りのことまで頭に入っていなかった。

 手持ち灯はあいにく家だ。

 不幸中の幸いで、まったく灯がないわけではない。ぽつんぽつんと道沿いに頼りない街灯が続いている。

 それに、帰り道はまっすぐだ。

 振り返れば風に乗って祭りの笛の音が微かに聞こえ、遠くの方でひときわ強い灯がシアンを見送っていた。

 心に少し風が吹いたような、なんとも言えない寂しさを感じながらも、こんな気持ちも久しぶりなことに、シアンはひどく寂しい帰り道がなんだか特別なことのように思えた。

 そして一日外套を深く被っていたために、同世代の子どもを何人も見かけたのにも関わらず、カルリアを見ることはなく、カルラもファソンもその姿を見せなかった。

 そのことが今日の記憶をさらに特別なものへとシアンは変えさせた。

 踊ることはできないが、なんだか踊りたくなる気持ちでシアンはリズムよく足を踏んだ。

 ふと、不意に風がざわついた。

 シアンは歩みを止めて立ち止まる。

 以前からこういうことはたまにあった。

 夜になると、なんだか肌がざわざわして、落ち着かなくなる。

 意識があちこちに飛び、不安になり辺りを見渡すも、シアン以外誰もいない。

 この辺の人間は一人残らず今は大広場にいるだろう。

 考えすぎだ、そう思うことにしたシアンは首を振り、また歩きはじめる。

 しかし、今まで風なんか吹いていなかったのに、急に大きな風がシアンを通り過ぎていった。

 反射で目をつむり、再び開けたときにそれはいた。

 二丈ほど離れた道の中央に、真っ黒の外套を被った誰かが立っていた。

 肩幅はそこまでなく、すらっとした佇まいで、その身長はファソンより大きい。

 まるで影から現れたかのように急に現れたそれに、シアンが驚きのあまり身動きが取れずにいると、それはシアンに向かって話し始めた。


「シアンだな」


 はっと頭に手をやると、外套が外れていた。先ほどの風で脱げてしまったのだろう。


「その髪、その瞳、その顔立ち、間違いない」


 低い声音に男だということが分かった。それでもしゃがれてないあたり、若い男だとシアンは思った。

 シアンを知った風の口に、一歩後ろへ下がった。


「だれですか」


「答えられない」


 男はただ、そういった。

 なにをするまでもないその男に、シアンは疑問を抱きながらも、この男とどこかで会ったことがある様な、そんな気がしていた。


「どこかで会ったこと、ありますか」


「答えられない」


 男はまたそういった。

 シアンはわけのわからないこの男に疑問を感じながらも、他意は無いと感じた。

 もう少し男に色々聞きたいことがあるが、シアンも帰らねばならない。

 道のできるだけ端を歩きながら、恐る恐る、男を迂回する様にその場を離れようとする。


「あの、私帰らなければならないので」


 さようなら、そう言おうとすると、男は急にシアンの腕を掴んできた。

 とっさのことに悲鳴をあげかけるが、男の方が早く、シアンの開いた口を男はシアンの顔より大きな手で塞いだ。

 シアンは暴れるが、男の方が力は圧倒的に強く、暴れるシアンをするりと外套で包み込んだ。


「落ち着け、暴れるな」


 この状況でなにが暴れるなだ、とシアンは思った。

 シアンは顔を力一杯よじり、男の手に思い切り噛み付いた。


「ッ!」


 男は一瞬ひるむが、それでもシアンを抱える力は緩めなかった。

 力一杯そのまま噛み続けると、口の中が鉄の味でいっぱいになった。

 誘拐か、いつもファソンにされるそれかわからないが、シアンはそのまま男の思い通りになるのだけは嫌だった。

 フーフーと鼻で息をしていると、男がゆっくりと、シアンに語りかけてきた。


「突然すまなかった、俺はお前になにもする気はない」


 全く信じられない言葉にシアンはさらに顎の力を強めた。

 男はシアンを刺激しない様にか、なるべく穏やかにゆっくりとシアンに話しかけてきた。


「急に驚かせる様な行動を取ってしまったことを謝らせてくれ、申し訳ない。それでも俺はこの手を口から離すことはできない」


 シアンは少しだけ男の話に耳を傾けた。

 その空気を悟ったのか、男は一息ついてから小さな声でシアンに語りかけた。


「よく目を凝らしてみろ、右の山の入り口に人影が二人、四個先の街灯の下に一人、後ろの小屋の近くに二人、いるのが見えるか」


 シアンは半人半疑で言われた場所へ視線を送ると、あっと声を上げかけた。さっきまでシアン以外だれもいないと思っていたのに、確かに男の指定した場所によく目を凝らしてみれば、微動だにしない人影があった。

 シアンが肩を震わせたので、男はそのまま話を続ける。


「あいつらはお前が大広場を出てからずっとお前を見張っていた。いや、今日一日中の方が正しい。もちろんそれには俺も含まれるが、俺はお前を逃がすためにここにきた」


 シアンは視線を上げると、鼻に触れ合うくらいの距離に男の顔があることに驚いた。

 髪も目も、暗闇に紛れ何色かわからないが、これはいわゆる器量な顔立ちだということは分かった。

 男の目はしっかりとシアンを見つめ、その色は真剣そのものだった。

 シアンはゆっくりと、男の手から口を離した。


「ごめんなさい」


 男は少々乱暴にシアンの口の周りを外套の袖で拭った。


「俺も悪かったからお互い様だ」


 シアンの肩を抱き、ゆっくりと男は立ち上がった。

 シアンはよくわからない状況に戸惑い、シアンをつけていた理由も、周りにいる人のことも全くわからないが、少なくともこの状況下の選択肢で、この男がシアンの味方であると結論づけた。

 男の裾を強く握ると、男はシアンの肩を強く抱いた。


「いいか、これからいうことをよく聞いて、絶対に振り返るな。間違っても大広場に戻ろうとするな、絶対に振り返らず足がもげても走り続けろ」


 男はさらに小さな声でシアンに話した。


「これからあの大広場で、大きな爆発がある。俺たちの周りにいる奴らの仲間だ。奴らは村人たちを一人残らず殺して、焼き討ちにする」


 あまりにも現実離れしている話にシアンは混乱した。さっきまで自分がいて、素敵なものでいっぱいだったあの場所が焼き打ちにあうなんて、到底思えなかった。


「俺はあいつらを相手する。その隙にお前は山に一直線に駆け込め。灯りが見えたらそれを背にして走り続けろ。そして誰の声も、なにが聞こえても、振り返らず、とにかく逃げるんだ」


 男がぎゅっと強くシアンの肩を抱いたその時、やけにねちっこい声がシアンの耳に飛び込んできた。


「おしゃべりはお終いですよ、どなたかは存じませんが、そのお方をこちらへ」


 前を見れば、真っ黒な外套を羽織った短髪の男がにっこりと微笑んでいた。

 はっと男の背中から後ろを覗くと、いつの間にかすぐ背後まで人が迫っていた。

 先ほどまで遠巻きに見ていた人影は、いつの間にかシアンたちの周りを囲っていた。


「無理だ、お前たちにこの子を渡すつもりはない」


 男がシアンを隠す様に抱え込むと、目の前にいる男は興奮した様にシアンを見つめた。


「その御髪、その御目、お話の通りです。あなた様は間違いなく『夜の御子』です。ああ、なんと美しいそのお姿。もう我々がきたからには大丈夫ですよ、ともに参りましょう」


 その視線は恍惚としており、シアンを見つめているが、その視線はシアンを透かしてなにか別のものを映している様だ。

 差し出された手に恐怖を感じ、シアンは首を振った。

 シアンの様子にあらあら、と男はさも困った様子もないのに困りましたねと首を傾げた。


「夜の御子様、その男からお離れください。我々はあなた様を迎えにきたのです。あなた様はいずれこの国に立つお方、その者はあなた様には必要のないものです」


「だれなの、あなたたちは」


 震える声で問いかけると、周囲の人は一斉に跪き、首を垂れた。


「私どもはあなた様の信徒、夜の御子様の手となり足となる者です。ああ、夜の御子様の瞳に私が映っている、なんと夢のようなことでしょう」


「ふざけたことを言う」


 男は体を強張らせ、悟られぬよう足幅を広げた。

 その瞬間、地面が震えるほどの爆音が後ろから轟いた。

 急にあたりが昼のように明るくなり、周りを囲む人たちの顔を確認できた。

 腹の底が震えるほど、その表情には恐ろしい笑顔が浮かんでいた。

 シアンが震えながら見上げると、男は覚悟を決めたように口を結んでいた。

 初めてしっかり確認できた男の瞳は、お母さんと同じ、濃い灰色だった。


「行け!!」


 男の大きな声に、とっさにシアンは駆け出した。


「御子様!!」


 困惑に染まった声がシアンを追いかけてきたが、男がそれを遮った。


「行かせない」


 金属がぶつかり合う甲高い音が、ひきりなしにシアンの鼓膜を貫いた。

 転がるようにして山の中に駆け込み、もつれる足をなんとか動かす。

 男たちの怒号がすぐ背後まで迫っている気がして、恐ろしさですくみそうになる足をがむしゃらに前へ前へ踏み出していく。

 男にいわれた通り、絶対に後ろを振り向かず、とにかく走り続けた。

 なんども転び、枝に腕が引っかかり、足になにか掠めても、急勾配で右も左もわからない山道を走り続けた。


「あっ」


 どれだけ走り続けただろう。

 ついに膝が笑って歩けなくなり、派手に転んだシアンは体に力が入らなくなっていた。

 意味もわからず泣けてきた。

 目頭が熱くなり、とめどなく涙が溢れた。

 きっと罰なんだ。

 そう、シアンは思った。

 身の丈に合わない、降臨祭なんかにいくからこんな恐ろしいことに巻き込まれてしまった。こんなことになるなら家でおとなしくしておけばよかった。

 そう思うも、内袋の膨らみがシアンをそんなわけない、と訴える。

 シアンは先ほど手に入れた首飾りが入った紙袋を取り出し、胸に抱いた。

 ぎゅうっと握り締めれば、なんだか慰められているような気がした。

 少しするとシアンの涙は止まり、足もしっかりと地面を踏めた。

 少し冷静になった頭でふと思う。ここはどこだろう。

 シアンは今自分がどこにいるのか、まったくわからなかった。

 山道を登ったりおりたりを繰り返していたおかげで、どこに向かって進んでいたのかまったくわからない。

 男は大広場へは絶対行くなと言っていた。

 しかし、その大広場がどの方角にあるかも今はわからない。

 シアンは途方に暮れた。

 男も走り続けろと言っただけで、シアンにどこに向かえとは言ってこなかった。


「どうしよう」


 涙をぬぐいながら、とにかく歩きはじめる。

 身体中あちこち痛いし、頭の奥がガンガンと痛んだ。

 けれど、その場に留まるのは恐ろしくてできない。

 男にいわれた通り、とにかく前へ進むしかなかった。

 そのまましばらく何個も坂道を登り降りを繰り返すと、遠くのほうから木々の隙間を縫うように、灯が漏れていた。

 民家の近くに出たらしい。

 シアンは嬉しさのあまり、なにも考えず走り出した。

 きっと夜の子だと相手にされないだろう。それでもとにかく人に近くへ行きたかった。

 灯に向かって駆け足で進んでいく。

 息が弾んで安心のあまり足があちこちに引っかかるも、そんなんことは気にしない。

 ああ、やっと助けを求められる。

 シアンの心は完全に緩んでいた。

 疲労と混乱で思考が働かないシアンは、男の言葉を忘れてしまっていた。



「灯りが見えたら、それを背にして走り続けろ」

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