第2話 降臨祭

 はっと目を覚ますと、かすかに小鳥の囀りが聞こえた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。

 シアンはぼんやりする頭で大きく伸びをした。すると背中に痛みが走り、ビクッと体を震わせた。

 すぐに腕を下ろし、深く息を吐いた。確かに痛いが我慢出来ないほどではない。

 布団から出て綺麗な衣に着替える。

 昨日そのままにしてしまった布団の横に転がった衣は、無残にも褐色に染まり、持ち上げればバリバリとした。まずはこれを洗うところから始めよう。

 小窓を開き、つっかえ棒で固定する。

 ビュオッと身を切るような冷たい風が部屋を周り、シアンは身震いした。

 芽吹きの節※が過ぎたのにも関わらず、寒さは増すばかりだ。

 まだ雪も所々残っているところを見れば、暖かくなるのは大分先だろう。

 暖かいお湯で洗濯でもすればいい話なのだが、カルラは洗濯をするのに湯を沸かすのは薪の無駄だといい、シアンに川で洗濯を命じている。それも人気のないこんな朝早くに、だ。

 シアンに薪を使わせるのは面白くない、と言っても薪を使えないほど生活が困窮していると勘違いされたくない。そこでこの時間だ。

 こんな朝早くの凶器のように冷たい水で洗濯をする人間はいない。

 そしてそれを断れないのがシアンの身分だ。

 早いところ洗濯を終わらせなければ、誰に見られるかわかったものではない。

 シアンは軽く身支度を整え部屋を出れば、大きなカゴを小脇に抱えて各部屋を回った。カルラの部屋、カルリアの部屋、と床に脱ぎ捨てられた衣を集め、最後にファソンの部屋だ。

 ほんの少し息を吸い、ゆっくりと戸を引く。

 一歩足を踏み入れると、ムワッと胸を突く酒臭さが鼻についた。

 息が詰まるシアンはそれを押し殺し、なんとか寝台の周りに散らばった衣を籠に詰めていく。

 衣がまだ温かいところ、ついさっき帰ってきたらしい。

 早いとこ退散したいシアンは寝台に全裸でひっくり返ってイビキをかく男を起こさぬよう、部屋に残ったものがないか確認し、ゆっくりと部屋を出た。

 戸が完全に閉まったことを確認し、ふう、と肺に溜まった息を吐き出した。

 夫妻の家は村の端の北側に位置しており、一番近い家でも歩いて五分ほど歩いた場所にある。周りは畑と山、森しかなく、遥か遠くには雪を被り真っ白なアルブム山脈(聖なる山)がそびえている。

 勝手口を出ると、身を切るような冷たい風がシアンの顔を襲った。シアンの周囲は草に露がぶら下がるほど靄が出ているが、遥か先のアルブムは山の縁までクッキリと目視ができ、あちらは空気が澄んでいるらしい。

 すうっと息を鼻から吸い込めば、鼻の中がキンと冷え切り、肺の中も冷えたみずみずしい空気で満たされた。

 暗かった空が徐々に色づきはじめ、アルブム山脈が山頂から緋く萌えはじめた。この時間のアルブム山脈を眺めるのが好きなシアンは、この光景をいつまでも見ていられる。

 しかし、いくら人が来ないからといっても洗濯が遅れれば朝餉の用意が遅れてしまう。夫婦が起きるのはまだ先だが、カルリアは学舎へ行くため、毎日八の刻には家を出る。シアンは毎朝それに合わせて朝餉を作らねばならない。

 もちろんシアンは学舎へは行かない。

 カルラ曰く、「夜の子が学を身につけてもろくなことがない」からだそうだ。

 他の家の子は全員学舎へ行くのに、自分だけ行けないことがシアンにはとても辛かったが、学舎へ行ったところで、きっと家での扱いと余り変わらなくなるのだろうなと切なくなる。

 村の中心へ行ってもそうだ。

 シアンが買い物へ出かけると、必ず通りすがった人間はシアンから一歩身を引きヒソヒソと耳打ちしあった。


「嫌だわ、『夜の子』に触れてしまったわ」「おお怖い怖い、『黒の災い』が降りかかるぞ」そう、村人はシアンを蔑んだ。


 学舎へ通えず、必要最低限の読み書きしかできないシアンには難しい言葉だったが、こうも明らかに恐怖、憎悪の対象として全員から疎まれ噂をされれば、夜の子、というものがいいものではなく、なにか恐ろしいものとして自分は見られているというのが嫌でも理解できてしまう。

 けれど、こんなことを毎日言われ慣れてしまい、なんの反応も示さず、ただ無表情に通り過ぎるほんの小さな子どもにさらに村人は恐怖を覚え、シアンは人の子の皮を被った化け物だとも言われるようになった。

 ただ、シアンは反応するのがバカらしく、そして何より自分が虚しくなるだけだから反応をしなくなっただけなのだが、悲しいことに、村にはシアンの気持ちを図れる人なんていやしなかった。

 こうして考え事をしながら洗い物を進めると、水の冷たさに意識が向かなくなり、少しは手が辛くならない。

 辛いことには変わりはないのだが、辛いことを意識しながら進めるのと、辛いことから意識を反らしながら洗濯をするのでは、断然後者が優秀であった。

 手の色が赤いを通り越した頃、やっと洗濯が終わり、朝餉の準備に取りかかれる。

 指がうまく曲がらず、はあっと息を指先に吹き付ける。暖かいのは一瞬で、なおさら冷たくなる気がして、それ以上は指をさすって暖をとった。

 物干し竿に洗濯を干し、家の裏から薪を何個か持っていく。

 家に入ると急に暖かくなった気がして、ほっと肩の力が抜けた。

 釜に薪を放り、マッチでシュボッと火をつけポイと中に入れる。立て掛けてある竹筒に息を吹き込み、火種を作っていく。黙々と火が上がりはじめ、そのまま息を吹き続ける。勢いが上がったところで、米の用意と汁を作っていく。

 とは言っても汁なんて味噌と干しキノコとワジャコの干物を入れてしばらく煮込めばできるし、米も手順さえ覚えてしまえば勝手に炊ける。

 椅子に腰掛け、釜の火の様子を眺める。

 出汁の香る湯気が部屋に充満し、薪の燃えるパチパチという音が響く。蓋と釜の間から吹き出す蒸気の音を独り占めできる、誰もいないこの静かで平和な時間が一日のうちで一番シアンが好きな時間だ。

 椅子に腰掛け目を閉じ、思う存分この幸せな時間を堪能する。

 そうしているうちに米が炊き上がり、汁もできた。

 あっという間に終わってしまう至福の時間に、シアンは悲しさを覚えながら時計を確認すると、もう七の刻に近かった。そろそろカルリアを起こさねばならない。

 火を消し、カルリアの部屋に入る。


「おはようございます、カルリア様」


 シアンがカルリアの部屋の窓掛けを開けて、朝日を差し込ませれば、カルリアはモゾモゾと身動ぎした。この家の人間は総じて朝が弱い。シアンの手のかかる仕事の一つだ。カルリアを起こしたらカルラも起こさねばならない。


「カルリア様、朝餉ができました」


 シアンが話しかけるとカルリアは渋々身を起こして、布団脇の水受けで顔をすすいだ。こうなればカルリアは勝手にやってくれる。シアンはカルリアの顰蹙を買わぬように、それ以上は何にもいわずに部屋を出た。

 シアンが朝餉を机に並べていると、身支度を整えたカルリアがあからさまに不機嫌な顔で現れた。シアンはドキドキしながら頭を下げて身を引くと、カルリアはシアンを一瞥するだけでなにもいわず、朝餉をとりはじめた。

 いつもならこの辺りで嫌味や平手の一つでも飛んでくるのだが、今日はまだなにもない。シアンは不思議なこともあるものだと思ったが、叩かれなければなんでもいいやと気にしないことにした。

 橋がカルリアの口に進むごとに身構えたが、最後の一口が終わっても平手はおろか、罵倒さへなかった。こんな日は一年にあるかないかだ。叩かれることは好きではないが、こんなにもなにもされないと、不気味で仕方がない。ましてや昨日の今日だ。絶対なにかある、そう思わずにはいられない。

 シアンの不安を余所に、カルリアは口をすすぐと部屋に戻っていった。

 シアンが片付けを終える頃に、支度を終えたカルリアが戻ってきた。

 髪には滅多につけない高価なガラス細工の髪飾りを編み込んでいる。

 カルリアは村でも美しいと評判で、それを本人も自負しているため、自分の身なりにはこれでもかというほど気を使っていた。カルラもファソンも、可愛い娘には甘い。服やら髪飾りやら、それこそカルリアが願ったものはなんでも買い与えていたため、村一番器量のいい娘になった。

 シアンに物の価値はいまいちわからないが、きっとこれは下金貨三枚はくだらないはずだ。そんなものを身につけるほど大切な何かが今日はあるのだろう。

 シアンが靴をはくカルリアのその揺れる美しい白髪を眺めていると、突然カルリアが振り返り、ニタアと笑った。


「なんで今日の私はこんなに綺麗だと思う?」


 なんで、そういわれても答えられる判断材料が少なすぎる。しかし下手なことをいえばまた鞭打ちになるため、シアンは生唾を飲み込み、ゆっくりと答えた。


「なぜでしょう、出来の悪い私には到底わかりません。どうか教えてくださいませんでしょうか」


 シアンの返答を聞くと、カルリアはさらに笑って「あんたは馬鹿だもの、分かるはずないわよね」と満足そうに頷いた。その反応にほっとし、カルリアがペラペラと話すことに耳を傾ける。


「今日は『降臨祭』よ、だからエムラに祭に誘ってもらうのにお洒落は必要でしょう?まあ、あんたには関係ない話だけどね」


 降臨祭は大昔、長きにわたって続いていた戦を治めたとされる白の一族、アーヴンを称えるための日だ。その日がなぜエムラという人に誘ってもらうためにお洒落をするものになるのか、まったくわからなかった。しかしわかったところでシアンには関係ない話のため、これ以上は考えないことにする。行けもしない祭のことなんて、できれば考えたくはない。


「エムラはこの村で少ない『宿印』を授かって、もう印を使いこなせているのよ。私も随分前に授かった身だけれど、やはり出来る者は出来る者と共にあるべきよ」


 少々熱っぽく語り出したカルリラだが、シアンの視線を感じるとなに見てんのよ、と頬を引っ叩いてきた。急に叩かれたシアンは首を変に曲げたが、朝からおかしなカルリアの行動の理由がわかって安心した。

 あんたに構っている時間はないのよ、と理不尽な言いがかりをつけ、カルリアは学舎へ向かった。

 そろそろカルラとファソンが起きはじめるため、シアンは落ち込んだ胸を隠すように、台所へ戻っていった。

 カルラもファソンも、やはり今日は機嫌が良く、シアンの作った朝餉には文句は二つしか言わなかったし、一度しか叩いてこなかった。しかもあろうことか、なにも仕事を言いつけず、「夜は済ませてくる」とだけ言い残し、二人揃って出掛けていった。

 仕事がない日なんていつぶりかも分からない。それに三人とも今日は遅くまで帰ってこないだろう。

 突然与えられた休日にどうすれば良いのか分からず、とりあえず朝餉をとることにした。いつもは夫妻の昼の弁当用に米を使ってしまうためあまりは最低限の量しかないが、今日は残っている分、すべてシアンのものだ。

 まだ湯気が出て暖かい米を椀に盛り、汁と、夫妻の弁当用に切っておいた漬物も出した。柔らかいご飯ってこんなに美味しかったっけ、と少し泣きながらシアンは朝餉をとった。

 牛と鶏に餌をやり、川のほとりでシアンはぼんやりと空を眺めていた。なにかをしようと思ったが、仕事以外に与えられるものは暴力と嫌味だけだったため、時間を潰すものは持ち合わせていなかった。家にある本は読める言葉が少なくて理解できず、かといって勉強道具は持っていない。カルリアが持っている勉強道具をこっそり使おうとしたら運悪くバレてしまい、こっぴどく鞭で叩かれた。以来カルリアのものには一切触れていない。

 さて、どうしよう。シアンは膝を抱え考えを巡らす。

 するとカルリアのさっきの話が頭をよぎった。


「今日は降臨祭……」


 ピン、とあることを思いついたシアンは身を起こし、自分の部屋から一枚布の外套を引っ張り出し、深くかぶった。

 黒い髪が垂れてこないよう、固く後ろで結わき、深く外套を被った。鏡で何度も確認し、意を決して外へ出る。

 シアンは祭に行くことにした。

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