夜の子

海橋祐子

序章 忌子

第1話 シアンという女の子

 家族、というものをシアンはよく分からない。

 自分が赤ん坊の頃にお父さんは都に連れてかれてから一度も会ったことがないため、シアンは知らない。母さんはなんとなくおぼろげではあるが、縫い物をする骨ばった細長い指とか、料理を味見するのにすぼめた口とか、昼下がりに母さんの香りに包まれながら寝たこととか、そんなことは覚えている。

 たしかにあの記憶は『家族』だと思う。

 けれどそんなお母さんも七年前の流行り病に倒れ、死んでしまった。

 頼れるのはお父さんの妹、カルラ叔母さんだけで、お母さんが死んでからカルラの家でしばらく暮らしている。


「シアン、なにをグズグズしているんだい」


 洗い物をしていたシアンの耳にカルラの声が響き渡った。

 シアンはドキッと嫌な音を立てた胸を抑えてカルラの元へ向かう。

 カルラの部屋は暖炉の火がパチパチと躍ね、部屋は薄明るく橙に揺らめいている。

 カルラはこの小さな家には似付かわしくない、丁寧な塗装が施された柔らかい椅子に腰掛け、呼びつけたシアンをゴミを見るような視線でなめつけた。


「お呼びでしょうか、叔母様」


 カルラはフンと鼻を鳴らし、お呼びもなにもあるかい、と唾を飛ばした。


「あんたはどうしてこうも恩知らずなんだい」


 ああ、まただ。カルラの横でシアンと同い年の娘のカルリアがニマニマとこちらをみている。こうなってしまったら、もうカルラはなにを言ってもダメだ。そのことをこの七年間でシアンはよく学んでいた。


「私も、カルリアも『優しいから』天涯孤独の不器量でなにも取り柄のないグズでノロマでバカなお前を家に置いてやっているのに、どうしてこうも恩知らずなんだい」


 口から流れてくる罵倒はいつもの前置きのため、何も考えないようにシアンは頭を下げ「申し訳ございません」と口にする。

 それすら気に食わなかったのか、カルラは壁に立てかけていた杖で思い切りシアンの足を叩いた。

 痛さのあまり卒倒すると、カルラは「いつ誰が座っていいと言ったね」とシアンの頭を鷲掴み、無理やり立たせた。

 視線を上げると、カルラの後ろでカルリアは道化師をみているかのように、愉快な笑みを浮かべていた。カルリアが何か吹き込んだことを悟った。

 カルラを見やると「シアンの分際で私をにらんだね」と頬を叩いた。首が飛んだかと思うほど勢いよく叩かれ、シアンは唇を噛み締めた。激しく叩かれた頬は熱を持ち、ジンジンとした。

 けれど、これくらいなら明日明後日には腫れが治ることをシアンは分かっていたし、カルラもそうなるように叩いていた。どんな人間でも人の目は気にするのだ。

 力が抜けてしまったシアンが重くなったのか、カルラは床にシアンを叩きつけた。頭が解放され、やっと首に自由がきくようになった事にホッとする。

 思わず叩かれた頬を手の平で抑えると、カルラはわざとらしく嫌な顔をした。


「ああ、嫌だ嫌だ。あんたはそうやって私を悪者にするんだね。その目、その髪、その顔、本当にゾッとするよ。あの女にそっくりだ。逆恨みしたって無駄だよ、あんたは『夜の子』だからそうやって悪い子なんだ。神もそうおっしゃる。だから神に変わって私があんたを裁いているんだよ、だからあんたには明日が訪れるのさ。もし私がこの裁きをやめたら、あんたみたいな『夜の子』は黒の国にすぐ連れてかれてしまうからね」


 カルラはパチパチと火が飛ぶ暖炉の上から、馬を躾ける鞭を持ち出した。

 シアンはこの後どうなるか、身を以て知っている。

 慌てて立ち上がろうとすると、カルリアがシアンの頭を殴り、床に転がした。

 朝餉に残った汁と、お椀にほんの少し残った米しか食べさせてもらえないシアンは、体力も筋力も、同世代の子に比べて圧倒的にない。

 カルリアがシアンの腕を押さえつけ、馬乗りになったらもう逃げられない。最後の抵抗で首を動かすが、そんなものはカルリアには赤子のようなもので、あっという間にシアンの口に猿轡を噛ませた。

 足も腕も、紐できつく縛られ、肌に食い込んで痛い。

 カルラはカルリアに優しく「なんて素敵な娘なんでしょう」と頭を撫でた。カ

ルリアは得意げに微笑んだ。


「可哀想なシアンのためですもの、心が痛みますが私は神に従います」


 カルラが満足げに頷くと、カルリアは一歩後に下がり、ほくそ笑む。

 カルラが鞭を従え、腕を振り上げた。


「さあ、白の神に祈りなさい」


 迫り来る鞭にぎゅっと目を閉じる。

 シアンはなんで鞭で叩かれるのか、今日も理由が分からずにいた。


 何回叩かれたか分からないくらい叩かれ、やっとカルラは鞭を戻した。

 叫びすぎて枯れた喉と、カパカパに干からびた目の周りが気にならないほど、背中の傷が空気に触れるだけで震え、どうすることもできずその場にうずくまる。

 カルリアが猿轡と紐を解き、まるでゴミでもあったかのようにシアンの背中を蹴飛ばした。

 カルリアの靴の先が背中の傷にめり込み、声にならない悲鳴をあげる。

 痛みのあまり悶えていると、カルラは椅子に腰掛け「感謝の言葉は」と冷たく言い放った。

 カルラがこう言えば、今日はもう終わりだ。

 シアンは震えが止まらない手で額に両手を重ね、戦慄く膝を曲げ正座をし、そのまま床にひれ伏した。


「本日もありがとうございました」

「自分が夜の子であることをもっと自覚なさい、でなければあなたは白の神から裁かれるでしょう」


 そう言うと、カルラは眠気に微睡んでいるカルリアの額に口付けをした。

 シアンはゆっくりと立ち上がり、部屋から出た。

 洗い物の続きをしなければ、また明日も鞭打ちになってしまう。

 背中からなにやらたれるものを感じるが、感覚が鈍くなっているシアンはあまり気にならず、思考がぼんやりとする頭でなんとか洗い物を終わらせ、寝床に行くのに一心になる。

 水をポンプから引き、バシャバシャと水を出す。まだ雪の残るこの時期は水が凶器のように冷たく、水に手を浸して数秒もしないうちに手が締め付けられるように痛くなり、次第に感覚がなくなって指が思うように動かなくなってきた。

 洗い物を続けていると、ふと手元が真っ暗になった。

 後ろを見ると、カルリアが調理場の明かりを消したところだ。

 シアンが口を開くとそれより先にカルリアが口を開いた。


「あんたに火はもったないないわ、あんたなんかが火を使っていたらお母様に怒られてしまうもの、私が消しといてあげたわ」


 その口元は三日月のように子を描いた。

 カルリアに逆らうと、碌なことがない。


「ありがとうございます」


 と小さなしゃがれ声で言えば、カルリアは満足そうに部屋へ戻っていった。

 しばらくすると闇に目が慣れ、問題なく洗い物を進めることができた。

 震える手を布巾で押し付けるように温め、水をぬぐい、やり残したことがないか確認する。

 大丈夫だとわかったところで、急激に悪寒と吐き気が腹の底から湧き出てきた。


「うっ」


 慌てて口元を手で覆い、勝手口を飛び出し近くに草むらにしゃがみこんで、吐いた。

 吐いても出るものはなく、胃液が出るだけだったが、それでも吐き気は止まらず、しばらくその場で吐き続けた。

 吐き気もなんとか治り、口に酸っぱいものが残るだけになった。今度はそれに嘔吐きそうになり、台所に戻り口をすすぎ、少しばかり水を飲む。

 口の中がスッキリするとほんの少し鉄の味がして、口の端がきれていたことも分かったが、シアンはなんの気にも留めず、そのまま台所のすぐ横にある自分の部屋に戻った。

 三畳ほどの広さにペタンコの布団と机と椅子があるだけの部屋だ。もともと物置だったこの部屋を片つけ、シアンが使うことを許されている。

 埃っぽく、小窓があるだけのこの部屋は、夜は外と変わらないほど底冷えする。そんな部屋にこの布団は薄過ぎて、それだけでは体が壊れてしまう。そのために、馬小屋から藁を幾分か拝借し、布団の下に敷いている。大分ふかふかになるし、そして暖かい。

 カルリアに以前部屋に踏み込まれた時「まるで馬小屋ね、臭くて汚らしい」と鼻で笑われ以降入られなくなった。自称綺麗好きのカルリアには汚過ぎたのだろう。しかしシアンにはその汚さがありがたかった。

 服を脱ごうとすると、傷口に空気が触れた。今回はいつもより傷が深いのか、少し肩をあげただけで激痛が走った。四苦八苦しながら服を脱ぎ、着なくなった服で作った布巾をマシュの実※を潰して作った消毒液に浸し、背中に貼り付けていく。打ち鞭の時とは違う痛みが走り抜け、唇を強く噛みしめ堪える。ある程度傷に消毒液が染み渡ったら、それを取り包帯を巻いていく。

 以前はなかなか上手く巻けなかったが、こう毎週のように叩かれれば自ずと上手くなる。

 きっちりと結び、体に固定して肩を少し回す。最近は胸が膨らんできて巻きづらい。早く大人になりたいと思っていたが、包帯が巻きづらくなるのは困る。

 シアンは寝間着を着込み、布団へ潜り込んだ。

 今日は日付が変わる前に布団に入れた。いつもこの時間になると、叔父であるファソンが帰宅する。ファソンは比較的暴力を振るわないし、なんなら食べ物を分け与えてくれることもある。

 けれどある意味、カルラよりファソンの方がシアンは恐ろしい。特に酔っ払っているときはこの世の物とは思えないほどだ。

 酔っ払いのファソンに捕まれば、「相手」をしないといけない。

 カルラは知っているのか、いや、知っていても無関心どころか喜んでいるかもしれない。

 夜に酔っ払いのファソンに腕を掴まれれば、そのまま部屋に連れ込まれ、夜更けまで自分の部屋に帰ることは叶わなかった。

 何度か抵抗を試みたが、そのときはカルラの何倍もの力で殴られ、死を覚悟した。

 幸いそのときは数日気絶しただけだったが、これを機にファソンには逆らわないと心に誓った。

 以来ファソンには好きにさせている。

 大人になれれば、大人になれさえすればいいのだ。そうすればここから逃げ出せる。

 震えの止まらない体をきつく抱きしめ、消えかけている母の温もりを思い出す。

 お母さんが今頃生きていたら、どんなに幸せだっただろう。

 シアンは湿った鼻をすすり、枕に顔を押し付け泣いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る