『胡蝶の宿㉓』


 瑞樹が真っ黒な御影石の上に正座して、声を張り上げ前口上を述べ始める。


 ――さて、今は昔、古の京の都に赤い瞳の夕見姫ゆうみひめと呼ばれる大層美しい少女がおりました。

 彼女は高貴な家に生まれ大層贅沢な暮らしをしておりました。婚約の契りを交わそうと多くの男たちが次々と言い寄って来たそうです。

 ですが、突然、高貴な身であった父が亡くなり、夕見姫は家を放り出されてしまいました。あまりに突然の事だったので夕見姫は途方にくれました。そんな時、彼女に手を差し伸べたのは旅芸人の一座だけだったのです。

 こうして、夕見姫は旅芸人に身をやつし、夢を見せる夢見姫ゆうみひめと名を変えて一座と共に旅へ出ます。昼は自ら白拍子の舞を舞い、夜は男と臥所ふしどを共にします。そして、東へ西へ、南へ、そして、最後に北の地へ……。

 その一行は訪れた北の地で激しい吹雪に見舞われます。しかしこの地の人々はその旅芸人達をいぶかって誰も手を差し伸べようとしませんでした。旅芸人の一座は雪の中へと取り残されて今にも死んでしまいそうになりました。しかし、それを助けたのはまだ何も無かった霧雨村の百姓たちでした。

 彼女たちを家に上げ、僅かの食料で温かい料理をもてなしました。

 そして、助けてもらったお礼にと夢見姫は村人たちの前で渾身の白拍子を舞い踊ります。

 雪から顔を出す岩の上。静かに優雅に舞い踊る。

 その時、突如、舞台とした岩の隙間から温泉が噴き出しました。この地の神様が村人と夢見姫を憐れんで恵みをくださったのです。夢見姫たち旅芸人の一座はこの地に住み着く事を決意しました。これが霧雨温泉の始まり物語……。――



 夢見姫に扮した麗奈が前へと歩み出る。僅かに腰をくねらせて赤の扇子をそっと開いた。そして、白拍子の舞が始まった。


 夢見姫の小さく澄み渡る、それでいてどこまでも届く声が周囲に響き渡る。朗々と優しく幽玄に……。

 そして、舞い踊る。まるで流れる水が形を変える様にゆっくりとした動作で淀みなく優美に……。


 千代に絶えぬはあるべきや

 流るる川に 浮かぶ雲

 山の緑に 鳥の声

 絶えてこの身の夢の中


 夢見姫の大きく振ったその袖に湯煙がたなびいて、それがまるで天女の羽衣の様に見えている。いや、それはあたかも羽を広げた一羽の蝶である。清らかな泉の上を優雅に舞い飛ぶ白い蝶……。


 夢に真があるべきや

 想いに真があるならば

 夢に真は宿るもの

 されば想いは千代なりや


 白い蝶が舞う。幻想的に。あたかも夢に誘う様である。夢見鳥……それは蝶の異名である。蝶のひらひらと舞う様子が小鳥が眠りながら飛んでいる様に見えるのでそう呼ばれる……。


 千代にこの身は残らねど

 想いは千代に残るもの

 想いは千代に残るもの



 後には静寂があった……。

 その時、夢見姫の頬を伝う一筋の涙がポトリと床へと落ちた。

 瑞樹が駆け寄った。そして、麗奈を優しく抱きしめた。


 村はずれの森の中。清らかな水を湛えた泉に白と赤の蝶が舞っている……。

 そして今日、ここに一つの伝説が幕を下ろした……。


 始まりは偽りの伝承だったのかもしれない。でもそれはいつしか瑞樹たちの心に残る物語になってしまったのだ。だがこれでそれを語るものはもう誰もいない……。



 俺は麗奈へお礼を言い、瑞樹を残して輝陽館へと帰って行った。空には大きな月が輝いていた。


「あら、一条君、お一人?」


 休憩室には女将さんが待っていた。


「あ、ええ、まあ、そう……ですね」流石に彼女たちの事を伝えることは出来ない。

「しょうの無い子。まあいいわ。一条君、今、決算済んだから先にお給金をお渡ししますね」

「あ、はい」


 そう言って俺は給料袋を受け取った。もしかすると女将さんは彼女たちの関係を知っているのかもしれない。いや、この様子だと多分気が付いている。


「少し多めに入ってるけど、感謝の気持ちだから、受け取って」

「はい、あの女将さん」

「何です?」

「実は俺、瑞樹に夢見姫の伝説が作り話だと言う事を話してしまいました。すみません」

「そうですか。別に構いませんよ。どうせいずれ気が付く事ですから」

「それだったら何故彼女に直接教えなかったのですか」

「それは、言えませんよ。あのお話を作ったのは私達ですからね……。でもね、あのお話は元はここの温泉で育つ子供たちに少しでも胸を張ってほしくて作ったお話なのよ。決して悪意があったの事ではないの。そのことは覚えて置いてちょうだい」

「はい、わかりました」


 それから少し女将さんと話をして俺は遊戯室に行き自分の寝床で横になった。窓からは山門の明かりが見えている。

 たったの五日間、垣間見た世界。外では決して語られる事の無い物語があの門の向こうにはある。

 それに思いをはせながら俺は目を瞑った。



 そして、次の日の早朝……。

 俺は夜明けと共に起き出して愛車のSR400に荷物を積み込んだ。


「本当に行っちゃうんだね」バイクのところまで見送りに来た瑞樹が寂しそうに声を上げた。

「うん、まあ、そう言う約束だからね」多少の罰の悪さを感じつつ俺は答えた。

「そっか……。御影君、ありがとう」

「いや、こちらこそありがとう。楽しかったよ」


 イグニションをONにする。キックを上死点に合わせてデコンプのレバーを引きキックを蹴り込んだ。軽快なサウンドと共にエンジンが目を覚ます。


「じゃ、元気でね」

「ああ、またいつか来るよ」

「楽しみに待ってるわ」


 そしてバイクにまたがったまま俺は瑞樹とハグをした。小さな胸からその温かさが伝わってくる。その温かさが心地よい。俺が求めるべきはきっとこういう事なのだ……。


 クラッチを握りギアを一速に入れる。クラッチを繋ぎながらアクセルを開ける。


「じゃあ」

「うん」


 エンジンが唸りを上げる。バックミラーに浮かぶ手を振る瑞樹の姿が次第に小さくなっていく。輝陽館が遠ざかって行く。


 たった五日間の夢のような出来事……。

 その思い出を胸に俺は再び旅に出る。

 この道の先に何があるのか……。

 それを見る為に……。


 きっと俺はまだ旅の途中なのだ。




 それから数年が経過した……。

 窓の外には喧騒にまみれたオフィス街のビル群が見渡せる。


 時代は平成へと変わり携帯電話とインターネットが普及し始めた。

 そんなある日、ネット上にあるニュースが流れているのを見つけた。


 あの輝陽館が遊郭建築として県の重要文化財に指定されていたのだ。

 そして、霧雨温泉のホームページも出来ているのを見つけた。

 キャッチコピーは『白拍子の舞う里』。制作者は組合代表TeraokaMizuki。

 しかし、そこには夢見姫ゆうみひめの名前はどこにも出てこない……。


 あの日、あの時、あの場所で、見た光景はもうどこにも無いのだろう……。

 しかし、今でも時折、夢に見る……。

 清らかな泉の上を静かに舞い踊る二羽の蝶。


「また今度、行ってみるか……」そう言いながら私はそっとページを閉じた。





 『胡蝶の宿』 ~Fin~

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