『胡蝶の宿㉒』


「祓い給え、清め給え、かむながら守り給い、さきわえ給え」


 俺は神社の拝殿で祝詞を上げた。そして一礼し裏手にある木戸へと向かった。木戸を開け緩やかな傾斜の石段を登って行く。夜空には美しく輝く大きな月が出ている。ランタンで足元を照らしながら一歩ずつ上って行った。

 山門付近から振り返ればこの霧雨温泉の中心街の十件程のつつましやかな明かりが見える。山向こうの空に映える明かりは隣村のものだろうか。俺は立札を引っ張って来て山門の前へと立てた。山門を押し開く。


「ごめんなさい、戎者えびすものにございます」月夜に声が木霊する。


 両腕に力を籠め扉を押し開いた。重い音を立て山門の扉が開く。中から湯気が溢れ出す。真っ黒な御影石の床。湯気を立てている湯船。湯船の中央に鎮座するしめ縄の付いた夫婦岩。そして、湯船の中の人影……。


「お掃除させて頂きます」俺はそう声を掛けながら山門の中へと入った。


 湯船の中でこちらに背を向けて座る全裸の麗奈が振り向いた。


「あら、一条さんお早い。ええ、どうぞ」そう言って微笑んだ。


 俺は脱衣所に向かい服を脱いだ。掛けてあるデッキブラシを手に取り風呂桶を持って湯船に向かう。


「先に掃除させてもらうよ」麗奈の背中へ声を掛ける。

「はい、どうぞごゆっくり」


 そして、丁寧に力を込めて床を磨き始めた。ブラシで擦って汚れを浮かす、お湯を掛けて汚れを流す。今日で最後なのだ。隅から隅まで磨き上げる気持ちで擦って行く。

 終わったらブラシを戻し網と洗剤を持ってくる。次は身体を洗う。モコモコと泡を立てて全身を洗いお湯で流す。

 身体を洗い終わったら湯船の掃除。水に浮かぶ落ち葉を網で掬い集めて回る。ちなみに湯船自体の掃除はお湯を抜かないといけないので週に二回、神社の巫女さんが朝にやっているそうである。


「あの、もう、お済ですか」麗奈が聞いてきた。

「ああ、終わったよ」

「でしたら、これから舞ってもよろしいですか」

「うん、是非、見させてくれ」

「はい、それでは、すぐに準備しますね」


 そう言いながら麗奈は湯船で立ち上がった。染み一つない白くてきれいなお尻が目の前を通り過ぎていく。


「……」――はっ! しまった。朝に抜かれたばかりなので賢者の時間になっている! 若干の悔しさを感じつつ俺は麗奈の着替えを見守った。



「準備出来ました」


 黒の御影石の床の中央に、緋色の袴に白の水干。頭に黒の烏帽子に腰に白鞘の太刀。右手に赤い扇子を持った夢見姫ゆうみひめの姿の麗奈が立っている。


「すまない、もう少しだけ待ってもらえるか」俺は麗奈にそう言った。

「はい、よろしいですけど……でも、どうして……」


 〝ギギギ〟言い終わらぬうちに重い山門の扉の開く音が響いた。


「ごめんなさい、戎者えびすものにございます」月夜に溶け込む若い女性の声。


 その声に夢見姫に扮した麗奈が振り返る。扉をすり抜ける様に入ってきたのは、紺の袴に赤の矢羽根柄の小袖を着た瑞樹だった。


「どうして……」麗奈がこちらを振り向き攻めるような口調で言い放つ。

「済まない、全て話した」


 そう、俺は輝陽館を出発する前に全てを瑞樹に打ち明けた。そして三十分後にここで待ち合わせをした。


「どうして! そんな事を!」

「済まない。でも、多分君は勘違いをしている……」

「どう言う事ですか!」

「瑞樹は夢見姫ゆうみひめの伝説を守ろうとしてるんじゃない。君が舞う夢見姫を守ろうとしてるんだ。だから、真相をちゃんと話さないとまた同じことを繰り返すと思った」

「私が舞う夢見姫……だから……」


 恐らく、このまま麗奈が引退したとしても、事情を知らない瑞樹は麗奈の為に何らかの行動に出るだろうことは想像にかたくない。その結果、さらに組合とトラブルを起こすかもしれないと俺は考えてしまった。それを止めるには事情を全て話すしかないと考えた。


「ごめんなさい麗奈……。でも、それは御影君が悪いんじゃない。私が悪いのよ」瑞樹はそう言いながら麗奈に歩み寄る。

「そんな事ないの瑞樹。私が貴方に話せばよかったの……。でも、組合の人達に口止めされてて言い出せなかった……」頭を垂れ俯いたままの瑞樹がそれに答える。


 恐らくどちらも悪くはない……。

 麗奈は口止めされていた。さらに、瑞樹が起こした騒動によって急遽、夢見姫を舞うことが出来なくなってしまった。その為に自分の口から瑞樹に話すことが出来なくなったのだ。

 一方、瑞樹は麗奈の為に行動したことを疑っていない。自分が騒動を起こしたことさえ知らされていなかったのだ。なので麗奈の態度に不信を抱きながらも何も行動することが出来なかったのだろう。

 そして、さらに言えば、夢見姫の伝説を作り上げた人たちもきっとこの温泉のためを思って語っていたにすぎないと思う。この温泉を守る為僅かな嘘をついたのだろう。


 だけど、その思いは交差してすれ違いを起こした……。幼馴染の親友の仲を引き裂いてしまった……。

 ただ単に、それを俺が見過ごすことが出来なかっただけなのだ。トラブルを抱え家を飛び出してきた俺には少し身につまされるものがあった。なので俺は全てを瑞樹に話した。もし俺自身が誰かに恨まれるとしても後悔はしていない。



「ごめんなさい、私……」どちらが発した声なのかはわからない。


 二人はむせびながら近づき、そして抱き合った。嗚咽を漏らして謝罪しあった。二人の乙女の鳴きながら話す声が聞こえている。


 美しい光景とは言い難いかもしれない。そして、これが正しい訳でも無い。それでも、彼女たちはもっと早くにこうすべきだったと俺は思う。

 互いの正直な心をぶつけ合い、そして……クチュ。――え? クチュ???


 二人が抱き合ったまま口付けをしている……。

 額をあてて見つめ合い、それから二人は再びキスをする……。


 まあ、何と無くは気が付いていた。二人はそう言う関係なのだと。俺は湯船の中で二人に背を向けて座った。そして湯船から夜空を見上げる。


 やはり俺は只の無責任な旅人だ……。立ち昇る湯気が風になびいている。

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