『胡蝶の宿㉑』


 時刻が四時前になり俺はフロントへと向かった。

 あれ? 女将さんも瑞樹の姿も見当たらない……。


「遅いよ御影君」


 そう言いながら瑞樹が南館の階段を降りて来た。


「もしかして、もうお客さん到着した」

「うん、今、案内して来たよ」

「ごめん」

「うん」


 俺と瑞樹はフロント内のカウンター席へと付き今晩の宿泊客を待った。まだ次の客が現われる気配はない。二人の間に沈黙が流れる……。


「なあ、瑞樹」先に口を開いたのは俺の方だった。

「うん」

「やっぱり俺……ここで働く事は出来ない」俺は呟く様にそう言った。

「それが結論? うん、まあ、そう言うのは最初からわかってたんだけどね……」明るい声なのに少し寂し気に瑞樹は答える。

「そっか……」

「理由は聞いても良いかな」

「正確には答えられないけど。俺は今、まだ旅の途中なんだと思う……」

「だったら、その旅が終わったら戻って来てくれる」

「……そう言ってもらえるのはすごく嬉しい。でも、それは約束できない」

「どうして」

「俺は……仕事も友人関係も面倒事が積み重なって嫌になって出てきてしまったんだ。だから、旅を終えたらまずそっちを何とかしないといけない」

「その後は」

「その後は約束できない。自分でもどうするのが正解なのかまだ分かって無いんだ。だから、いつまで時間が掛かるかもわからない」

「そっか、残念だね……」瑞樹は目を瞑り溜息を吐くように囁いた。


「ごめん……。でも、いつかは必ずここへ来るよ。それなら約束できる。多分お客としてだと思うけど……」

「そっか……でも気が変わったら、いつでも戻ってきなよ。暫くなら仕事もあると思うから」

「うん、わかった。あ、お客さん来たみたいだ」


 正面玄関ステンドグラスの向こう側。車が駐車場へと入って行く音が聞こえた。瑞樹と俺は立ち上がる。

 玄関を開きお客さんが入って来る。


「「いらっしゃいませ、ようこそ輝陽館へ」」



 名簿にあるお客さんを全て客室へ案内し、俺達は夕食の準備を手伝いに大広間へと向かった。

 今日の夕食はお刺身の盛り合わせの様だ。既にマグロにブリにホタテにウニが皿に盛られていた。


 厳吾さんが流れる様に正確に作業をしている。その様子を見るだけで一流の料理人だとわかる。和子さんはそれをサポートする形で動いている。

 実は和子さんは以前は扇屋ホテルで板前をしていたので自分だけでも料理を作れるそうだ。そして、さらに腕を磨くため函館に修行へ行き厳吾さんと知り合ったそうである。なので一見すると子弟のように見えるこの二人。実際には甘々で、しかも、しっかり和子さんに全てを掌握されているそうだ。調理室の休憩室で二人が抱き合って眠っているのが何度も目撃されているとの事だ。


 仕上がった料理を厳吾さんから受け取る。


「お前、明日出て行くそうだな」

「あ、はい、短い間でしたけど、ありがとうございました」

「そうか……。明日の朝食は食べていくんだろ」

「いえ、フェリーの時間があるので、その前に出ようと思っています」

「そうか……。だが、ここは男手が少ない。やる気になったらいつでも来い」

「はい、ありがとうございます」そう言って俺は深々と頭を下げた。厳吾さん後で和子さんがお辞儀を返した。


 そして、配膳。お客さんが来るのに合わせて瑞樹と料理を運んでいく。

 全てのお客が揃い俺と瑞樹は忙しく大広間を駆け回る。料理の配膳。ご飯のお替り。お茶汲み。お酒の追加の注文。賑やかで笑顔の絶えないくつろぎの時間。幸せを実感できる。


 食事の終わったお膳を下げる。厳吾さんと和子さんは既に朝食の仕込みに入っている。お客さん全員の夕食が終わり後片付けをした。

 その後、大広間に長机を引っ張り出して料理を並べ皆で夕食を頂いた。


「一条君、お疲れ様。お給金は明日の朝、お支払いします」瑞樹の向かいに座る女将がそう声を掛けて来た。

「はい」

「でも、残念ね。約束だったとはいえ、もう少し働いてもらいたいわ」

「まだ、やならければいけない事もあるので……。すみません」

「そう……またいつかここへいらっしゃい」

「はい」


 その会話を瑞樹は黙って静かに聞いていた。

 食事を終え後片付けを済ませ俺と瑞樹はフロント裏の休憩室へと向かった。


「……だったら、今日はもう行く?」座布団の上に座りながら瑞樹は唐突に聞いてきた。

「ん? 源泉お湯の事?」

「うん」

「まだ、早すぎないか」

「麗奈はもう来てると思うわよ」

「そうなのか」

「うん、ちょっと見てこようか」

「どこへ」

「私の部屋」

「え? どう言う事」

「麗奈はいつも私の部屋の窓から見える位置に車を止めるのよ。うん、ちょっと見て来る」そう言って瑞樹は休憩室の階段を上がって行った。


 成る程、いつも都合よく麗奈がお風呂にいたのはそう言う訳か……。


 すぐに瑞樹は階段を降りて来た。


「もう来てるわよ」

「そっか、それなら彼女を待たすのも悪いし、行くとするか」

「うん、麗奈によろしく言っといて」

「なあ、瑞樹。実は…………」


 俺は瑞樹と話をしながら源泉の湯に行く準備をした。


「それじゃ、行ってくる」

「うん……」


 そして、そう声を掛け俺は輝陽館を後にした。

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