『胡蝶の宿⑳』


「ん……?」


 朝、目が覚めると瑞樹が俺の上に乗っていた。外はまだ暗いので六時前の時間だろう。


「ところで、お前はそこで何をやっている……」取りえず俺は瑞樹に声を掛けてみた。

「んー、色仕掛け?」いたずらっぽい顔で瑞樹が答える。

「ほう、最近では人の上に座ってマウントポジションを取る事を色仕掛けと言うのか」

「違うよ、今からするのが色仕掛けなんだよ」

「ふーん、どうでもいいけど上をどけ、手が動かせない」両手が足に挟まれがっちりとホールドされている。


「馬鹿だな御影君は……。足は手の三倍力があるから、こうすれば女性でも簡単に男を拘束できるんだよ」

「いや、言ってる意味が分からん。何故、拘束する必要がある」そして馬鹿はお前だ……。

「今から、色仕掛けするから」

「何故、色仕掛けする」

「うん、やっぱり御影君。家でこのまま働かない?」

「それは……」

「結論は急がない。今日一日考えてほしいんだ」

「うん、わかった」

「それでは、これは報酬の前払い……」

「え?」


 そう言って瑞樹は胸を俺に押し付けてきた。そしてゆっくりと腰を振り始めた。その下には朝の状態の俺の股間が……。瑞樹のお尻が容赦なく揉みしだく。


「あ、馬鹿! やめろ! 瑞樹。やめて、お願い。駄目……あっ……」



「いや-、ごめんごめん。まさかこんなに簡単にものとは思わなかったよ。ほんの冗談のつもりだったのに、てへ」

「……」俺は無言で瑞樹を睨み付ける。

 最近色々あり過ぎて暴発寸前だったことは否めない。俺は決して早い方ではない。決して……。


 それから、朝食の準備は殆ど瑞樹が一人手伝った。俺は調理室の裏口の外の小屋にある従業員用の洗濯機と乾燥機で他の衣服と一緒に洗濯をした。汚れちまった悲しみに打ちひしがれた。例えばパンツの白い染み……。



 宿泊客の朝食が終わり俺達も朝食を始めた。今朝の朝食は塩鮭と煎餅汁だった。


「女将今日の予定は何かある」「んー、昨日と同じよ」


 いつもと同じ、静かで緩い時間が流れてる。


「ところで一条君はどうして朝から暗い顔をしてるの」女将が聞いてきた。

「いえ、朝からけがされてしまったので……」

「そう、それは何だか大変ねえ」小首をかしげながら女将は答えた。瑞樹は平然として塩鮭をつついている。



 それから、朝食を終えた俺達はお風呂の掃除に向かった。この狭いお風呂には結局一度しか入らなかった。よく見るとこれはこれで味わい深いのかもしれない。のんびりと浸かるには少し広さが足りないが……。


 脱衣所の清掃を終えた俺達は今度は南館の客室の清掃に向かった。この輝陽館は坂の上に立っているので南館からの眺めは良い。広い窓からのどかな農村の風景が見渡せる。各部屋の掃除をしながら布団を集め台車を押して外に干していく。ついでに廊下の掃除もしておいた。


「ねえ、まだ怒ってる?」窓を拭きながら軽い調子で瑞樹が聞いてきた。

「別に怒ってない!」

「怒ってるじゃない」

「気まずいだけだ……」

「ふーん、嫌じゃなかったんだ」

「おま……」まあ、嫌ではないが……。気持ちは良かったし……。

「ねえ、そろそろお昼食べに行こう」

「……」



 俺達は昼食を食べるため大広間へと向かった。今日のお昼は鳥とマグロのザンギだった。どうやらザンギと言うのは濃い下味をつけた唐揚げの事で北海道でそう呼ぶらしい。長机を出し皆で大皿から突いて食べた。話しをしながら料理を突つく。家族……いや、親戚の家でごちそうになるそんな気安さだろうか……。ご飯も美味しい。


 昼食が終わり一旦南館へ行き、布団を取り込んでシーツを掛けた。シーツを掛けた布団を今日の宿泊予定を見ながら客室に持って行き押し入れに仕舞う。これで午後の仕事は終了した……。


「ねえ、これから千両ちぎり茶屋に行かない」

「んー、今日は休みたいんだ。だからちょっと部屋で寝かせてくれないか」

「もう、しょうがないな、わかった」


 俺は遊戯室へと戻って行った。


「どうしてついて来る?」扉を開けて俺は思わず質問した。


 背後にはぴったりと瑞樹が付いて来る。


「ねえ、御影君。君はここをどう思う」

「輝陽館の事」

「うん」

「良い所だと思うよ。皆いい人たちだし、慣れてくれば接客も楽しいし、要領よくやれば休憩時間も作れるし……。まあ、大変な事も多いけど、その分、生きてる実感が多いよ」

「そっか……。あ、朝の話の答えはまた夜で良いよ。しっかり考えて見て」

「うん、でも良いのか。女将さんに相談しなくて決めて」

「それについては実は最初から私に任されてたんだよ。気が合うようなら誘いなさいって」

「そっか」

「だから、御影君がいいなら。ここにはいくらでも仕事があるよ。それに明日になれば理子りこちゃんも帰って来るし」

「え、もう一人の従業員も女性だったのか。女性比率高いな、ここ……」

「まあ、そう言う土地柄だね。じゃ、答えは夜にでも聞かせて。私は千両ちぎり茶屋に行ってくるよ」


 そう言って瑞樹は元気よく遊戯室を出て行った。


 俺は一番端の座敷に行き、畳んだ布団に寄りかかり目を瞑った。

 確かに、ここでの生活は悪くない。いつまででも続いてほしい……。俺は素直にそう思った。

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