『胡蝶の宿⑱』
到着したお客さんをお部屋へと案内し終え、俺と瑞樹は大広間の手伝いに向かった。今日の料理のメインはマグロの様である。
「マグロの料理多いな」俺は思わずつぶやいた。
「深浦のマグロ漁はこれからが旬だからね」お膳を用意しながら瑞樹が答える。
「ふーん」ちゃんと理由があった。
「来週になればウチもマグロフェアーをやるよ」
「そっか……」来週か……。その時俺はもういない。
それから配膳を手伝い、俺達はお客さんが夕食を食べに来るのを待った。
最初に家族連れがやって来た。広い座敷に子供がはしゃぎ、大人たちは料理に舌鼓を打ちながら酒を飲む。ここでは毎晩こんな光景が繰り広げられている。人と接するのが苦にならない人ならばここの仕事はきっと向いている。
次々やって来るお客さんへ料理を出していく。俺も一人で忙しそうに駆け回る瑞樹を手伝って皆にお茶を注いで回った。人々がくつろぐにぎやかな時間。悪くない……。七時半を過ぎる頃には全員の食事も終わり、皆さん客室へと帰って行った。
それから従業員一同が揃って夕食を食べ始める。マグロの刺身に漬けに炙り焼き。どの料理も大変美味しかった。
食事を終え後かたずけをして、中島夫婦は明日の仕込みを始める。俺達は休憩室へ移りお客さんの対応をする。
お客さんも粗方お風呂に入りロビーに人が居なくなった。時計を見ると時刻は九時を過ぎていた。
「そろそろ行こうか」そう言って俺は席を立ち源泉の湯に行く準備を始めた。
「もし、会ったら、麗奈によろしく言っといて」
「うん、わかった」
そうして俺は輝陽館を発ち霧雨大名神社へ向かった。拝殿で手を合わす。
「千切られません様に……」
裏に回り木戸を開ける。石段を上って山門に向かう。今日は月が綺麗に出ている。ランタンの明かりの必要が無いくらいに明るい。立て札を山門の前に出し扉を開けた。
「ごめんなさい、
そう声を掛けながら扉を押し開いた……。
黒い御影石の床の上。今日の麗奈は丁度体を洗っている最中だった。
「お掃除させて頂きます」門を閉め俺は取り敢えず声を掛けた。
「はい」動じることなく彼女は答える。
俺は脱衣所に近づき服を脱ぐ。掛けてあるデッキブラシを手に取った。そして一心不乱に床を擦り始めた。
視界の中には麗奈の白い肌が見えている。すらりとした手足を伸ばしモコモコの泡で体をくまなく洗っている。張のある肌の上を泡が床へと滑り落ちていく。泡が落ちていくたび彼女の白い肌が
「あの……あまり見つめないで……恥ずかしいです」
「おっと、これは失礼」
俺は一心不乱に床を磨いた。
床を磨き終え体を洗って湯舟のごみを取った。そして網を元へと戻し、俺はゆっくりと湯船に浸かった。
向かいに座る麗奈が話しかけてきた。
「それで、どうでした。瑞樹は何か言っていましたか」
「ああ、暫くするれば彼女の方から話しかけてくると思うぞ」
「そうですか。ありがとうございます」
「いや、気にする必要はない」
「ところで、私はまだ貴方のお名前を聞いていません」
「名乗ってなかったか。俺は
「そうですか。一条様、この度は本当にありがとうございました」
そう言って全裸の麗奈が湯船に立ち上がり、こちらに向けて深くお辞儀した。至近距離で大事な所が色々見えてる……。
「いや……」こちらこそ、ありがとう!
だが、これで俺はしばらくの間湯船から立ち上がることが出来なくなってしまった……。理由はあえて言わないが。
俺は縁に背を付けて湯船の中で足を延ばした。麗奈は身体を横に向けてこちらを見ている。
「なあ、麗奈さん」
「はい」
「君に色々確認したいことがあるがいいか」
「はい、どうぞ」
「
彼女は一瞬目を見開き、それから静かな声で問うてきた。「どうして、そう思うのです」
「最初にそう思ったのは君の衣装を見たからだな。あれは
「だからあの時、昔からと言ったのですか……。よくご存じで。正確には白拍子は室町時代までは居たそうです」
「それでも温泉が開発された江戸時代後期とはずいぶん離れてるな」
「そうですね、やはり知識があると簡単にばれてしまうのですね……。最初に作られたのは私達のお婆ちゃんの世代で、約三十年前だそうです。座敷の箔を付ける為に古式の舞を踊ったのが最初だそうです。その時の前口上で嘘の来歴を語ったそうです」
「なるほど、それで」
「それから京都の神社に教えを乞うて白拍子が舞われるようになったのが約二十年前。その後に
「ずいぶんと最近だったんだな」
「ええ丁度、私達の母親の世代ですね」
「それを瑞樹がチラシを配った事でトラブルを起こしたんだな」
「……そこまで、わかってしまいましたか……」彼女は落胆した様子で小さく絶句した。
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