『胡蝶の宿⑰』


「ぶはぁ!」


 朝、目を覚ますと枕元に瑞樹が座っていた。なんだ? 妙に息が苦しかった気がする???


「何かした?」

「ううん、してないよう……。お早う、御影君」


 目が泳いでる様に見える。まあ、良いか。


「うん、お早う」

「もう中島さん達来る時間だから下へ降りよう」

「うん……」


 俺は身支度を整え調理室へと向かった。すぐに中島夫妻はやって来た。


「おい、ちょっと手伝え」

「はい」


 厳吾さんに言われるまま付いて行き、車から多量の食材を下ろすのを手伝った。


「どうしたんです。これ」俺は厳吾さんに聞いてみた。

「私達の家は街の市場の近くだから、朝に仕入れてきたのよ」答えたのは和子さんの方だった。

「あれ? いつもは八百屋や魚屋から仕入れてますよね」

「それとは別なのよ。この人、旬の魚や野菜を直接見ないと気が済まない人だから……」

「はぁ」うん、良く判らない。ただ、調理人の仕事と言うのは朝が強くないとやっていけない仕事の様だ……。


 それから二人は調理を始めた。今日の朝食はホッケと煎餅汁だ。美味そうに焦げる魚の油の匂いが調理場に漂っている。温め直した鳥ゴボウの出汁をお椀に盛って南部煎餅を添えて置く。焚き上がったご飯をおひつに詰めていく。

 七時を前にして宿泊客が大広間に集まった。仕上げた料理から次々運ぶ。朝の目まぐるしい一時。ご飯を装い。お茶を注ぐ。お替りを聞いて回り、終わったお膳を下げていく。


 お客が全て食事を終えていなくなってから、長机を引っ張り出して皆の朝食になる。料理を並べて手を合わす。


「「「頂きます!」」」


「女将今日の予約は」「昨日と変わって無いわよ、あ、今日は天気良いからお布団干してちょうだい」「うん、わかった」「あの、女将さん、やっぱ魚の仕入れ……」「はい……」


 いつもの朝の食事の風景。うん、確かにこう言う生活も悪くない……。


 朝食が終わればお風呂の掃除。

 お客がチェックアウトする時間を見計らって客室の掃除。

 今日も時間が余ったので午前中に南館の廊下の掃除もついでにやって置く。


 取り敢えず午前の作業は終わったので俺と瑞樹は大広間へと向かった。今日のお昼は昨晩のステーキの残りで作った、田子牛たっこぎゅうの牛丼だった。イモ餅の入ったお汁の〝いものおずけばっと〟と一緒に頂く。余り物と言っても流石に田子牛。これはこれで贅沢な逸品だった……。

 食後のお茶を飲みしばしまったりと時を過ごして、お布団を取り込みに行った。布団にシーツをかぶせて客室へ持っていき午後の仕事は終わった。これで宿泊客の来る夕方まで休憩になった。


「なあ、瑞樹。お前の作ったチラシってまだあるのか」俺は瑞樹に質問してみた。

「うーん。原稿は残ってると思うよ。私の部屋に」

「ちょっと見せてくれ」

「うん、いいよ」


 休憩室の階段を上がり瑞樹の部屋入った。一昨日掃除したはずなのにもう散らかっている……。俺は無言で片づけを始めた。


「あ! あった」棚を捜索していた瑞樹が声を上げる。「これだよ、これこれ!」


 俺は差し出されたファイルのページをめくった。A4サイズの紙にコラージュの様にワープロで打たれた文字や写真が貼ってある。手書きの地図やイラストも描かれてる。デザインセンスはあるようだ。元気があって思い切りの良いチラシになっている。

 そして、その中央に一際大きなフォントで『白拍子の舞う里。夢見姫の伝説。霧雨温泉』と書いてあった。夢見姫の舞う写真も載っている。


 ――成程ね……。そう言う事か……。


「んで、見た感想はどうなの」瑞樹が横に座り訊ねて来た。

「これ、一人で作ったのか」

「そうだよ。苦労したんだから」

「そっか。うん、デザインはセンスあるよ」

「そっか、えへへ……んで、何が知りたかったの」

「ああ、この温泉の事とか、夢見姫の伝説をここの人達がどう思ってるか知りたかったんだ」

「そう、私としてはどちらも無くなってほしくないんだよ。廃れていくのは仕方ないけど残せるものは残していきたいそう思ってるよ」

「そっか……。なあ、夢見姫の伝説はいつの頃から座敷で舞われる様になったか知ってるか」

「さあ? 昔からじゃないの。あっ! でも、戦争中に一度伝承が絶えて、戦後になって復活したって聞いたことがある。麗奈のお母さんが京都の神社に舞を習いに行ってたとか何とか……」

「成る程ね。うん、ありがとう参考になった」

「どういたしまして」


 それから俺は遊戯室に行き二時間程仮眠を取らせてもらった。大体の事情は読めてきた。後は今晩麗奈に会って確かめないといけない。彼女は今晩源泉の湯にやって来るだろうか……。俺は布団の上でそっと目を瞑った。



 丁度二時間で目覚まし時計のアラームが鳴った。時刻は四時。今日の宿泊客のやって来る時間である。俺は急いでフロントへと向かった。


「遅いよ、御影君」


 時計を見ると確かに四時を僅かに過ぎていた。


 俺は胸に手を置き執事風にお辞儀した。「申し訳ございません。お嬢様」

「ふふん、わかればよろしい」瑞樹は偉そうに無い胸を張った。


 それから二人でフロントに入り待機した。


「そう言えばパンフレットを見た時『千霧神社(ちぎりじんじゃ)』ってのが書いてあったけどあれはもう無いの」俺は瑞樹に聞いてみた。

「千霧神社は霧雨大明神社の古い呼び名だよ。確か私達が生まれるちょっと前に大改修があって霧雨の名に統一されたって聞いたことがある」

「へえ、何でだろう」

「うーん、『ちぎり』って言うのがあまり良くないイメージだったからかな……」瑞樹が少し恥ずかしそうに答えた。

「そうか? 『ちぎる』は契約を結ぶとかそう言う意味だろ、別に悪いイメージ無いけどな」

「御影君、ちょっと右手の小指を貸して」

「ん? こうか」


 そう言って俺は右手の小指を立てて前方に突き出した。瑞樹がそれに素早く自分の小指を絡める。


「〝指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ーます。そげな話が真なら、共に千歳を契りましょう。そげな話が嘘ならば、カリ首抑えて千切りましょう。〟はい、指切った」


「怖すぎるわ!」俺は思わず大声で叫んでしまった。そして、重すぎる……。「何それ」

千霧ちぎり神社のおまじない。昔の遊女が約束事をするときに言った言葉だよ。でも、これも最近言わなくなったな……」

「……」


 当たり前だ! カリ首千切られてたまるか! そんなもの滅んでしまえ!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る