『胡蝶の宿⑯』


 暗い夜空から落ちて来る雨が湯に当たり、ぴちゃぴちゃと軽いリズムを奏でている。全裸の夢見姫ゆうみひめはお風呂の縁で片膝を立てた状態で右手を伸ばし、しなをつくりながら訊ねて来た。


「何をお話ししましょう」

「先ず言っておきたいが俺は明日、明後日、今日を入れて後三回しか来ない」

「どうしてですか」

「ツーリングの途中なんだ。北海道に行くつもりで立ち寄っただけの旅人だ。だから、気兼ねなく話してくれていいぞ」

「そうですか……少し残念ですね」

「まあ、そう言う事だ。それで、なぜ瑞樹と喧嘩したんだ」

「あら唐突に……。それは、彼女があまりにしつこいからです」

「そうか……、君がそこまで仕事に打ち込むタイプには見えないけどな」

「そんな事はありませんよ。私は真剣にやってますから」

「それでも、友達と天秤にかけて仕事を取る様には見えない」

「そうですか……。貴方は〝夢見姫ゆうみひめの伝説〟は聞いていますか」

「いや知らない」

「古くからこの地に伝わる伝説です。『白拍子の夢見姫が率いる旅芸人の一座がこの地を訪れ、温泉を見つけた』と言う伝承の物語です……」

「ふーん、ここの温泉ってそんな昔からあったんだな」俺はぽつりとつぶやいた。

「……」麗奈が険しい表情でこちらを見ている。


「すまん、話の腰を折っちまったか。どうぞ」

「いえ、この話はこの温泉町で働く人の拠り所だったんですよ。遊郭としての成り立ち、温泉町としての成り立ち、その話を含んでいますから。ですから古くから伝承されてきたのです」そう言いながら麗奈は空を見上げる。

「ふーん」

「ですから、私はそれを守りたかった」

「なぜ、過去形なんだ」


「それは……もう、あまり需要が無いからですよ」寂しそうに彼女は言った。

「需要が無い……」

「ええ、以前は座敷が開かれるたびに呼ばれて舞っていましたけど、最近は呼ばれる事も少なくなって舞う機会もあまりないのです」

「それは残念だな。でも、それだったら少しくらい瑞樹と旅行へ行っても良いのじゃないか」

「ですから、逆に今はいけないのです。一つでも多く座敷に上がらなくては、すぐに廃れてしまいますから……」

「そうか……」

「ええ」


 〝そうか〟と答えては見たものの、確かにこれでは真面目で直情的な瑞樹は納得しないだろう……。俺にでもわかるこいつは何かを隠している。


「だから夢見姫は私の代で消えてしまう。最後にこの舞を完成させたいと願うのは変な事ですか」

「いいや、良いんじゃないか。でも瑞樹とは仲直りしろよ」

「わかっています。ですが今は私も少し頭を冷やしたのです……」

「うん」


 それから俺達は少しの間つまらない話をして風呂を出た。その頃には雨も上がり空には晴れ間も覗いていた。二人で石段を下り神社でお参りをした。


「それでは私はこれで」


 そう言って麗奈は丁寧に頭を下げて、神社の横の階段から駐車場の方へと歩いて行った。

 それをにこやかに見送り……。


「ぶはぁー!」俺は大きく息を吐き出した。


 いやー、緊張したー。裸の女性と二人きり。これで良い雰囲気なのに手が出せないとか、どんだけ厳しい状況なんだ……。今の自分を褒めてやりたい。あ、まだズボンがちょっと突っ張っている。

 俺は前を抑えながら輝陽館へ向けて歩き出した。



 裏口から輝陽館の中へと入り、調理室を抜けて休憩室へと向かった。そこには畳の上で横になりテレビを見ている瑞樹がいた。


「お帰り」

「うん、女将さんは」

「もう寝たよ。どうだった、今日はお話し出来た」

「うん、したよ。なあ瑞樹は夢見姫の伝説は知ってるのか」

「勿論だよ。この地域の子供ならみんな知ってるよ。子供の頃から聞かされて育つからね」

「ふーん、そうか。ところでこの温泉の事ってどこかで調べられないかな」

「どうして」

「いや、ちょっと気になった事があってな」

「うーん、簡単な物だったら確か扇屋ホテルのパンフレットに書いてあったような……」

「うん、それでいいよ。どこにある」

「今年のやつなら二階にあると思うよ。まだ配布前のだけど」

「ちょっとそれ見せて」

「そこの階段上がってすぐの紙で梱包されて積んであるやつだよ」

「うん、わかった」


 俺は階段を上がり電気を付けた。階段の脇に無造作に積まれた茶紙の梱包。上に手書きでパンフレットと書かれている。俺は一番上の梱包を丁寧に開いて一枚のパンフレットを取り出した。


「これは……」


 俺はそれを服の中へと隠し梱包を戻しておいた。それから電気を消して一階へ戻った。


「どうだった。あった」

「うん、大したものは書いて無かったな」

「そう、それで今日は何を話してきたの」


 俺は今日麗奈と話した内容を掻い摘んで説明した。


「……だから、もうしばらく時間をおいて話せば大丈夫だと思うぞ」

「そっか、ありがとね」

「いや、それじゃ、俺はもう寝るよ」

「うん、私も寝る。お休み」

「お休み」


 それから俺は歯を磨き遊戯室へと戻った。扉を閉め服の中へ隠したパンフレットをそっと取り出し確認した。


「成る程な……」


 そのパンフレットには温泉の発祥は江戸時代の後期、津軽藩の手に因って開発されたと書いてあった。


 そして、〝夢見姫の伝説〟はどこにも書かれていなかった……。

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