『胡蝶の宿⑭』
お風呂の掃除を終えた俺と瑞樹は今度は客室の清掃に向かった。外は雨が降っているので布団は干せない。布団部屋へ持っていき乾燥機を掛けて置く。清掃も三部屋のみだったので、今日はそのまま廊下の掃除もしておいた。
一階の廊下を清掃中に丁度、銀杏の間の清掃も終わった様だ。ヘルプの人達が自分の旅館へと引き上げて行った。
今日はこれで宿泊客が来る夕方まで仕事が無い。昼食を食べる為二人で調理室へと向かった。
お昼のメニューはマグロ漬け丼だった。ご飯が見えないくらいに盛られた山盛りのマグロ。わさびを付けて頂いた。
食べている間に板長の厳吾さんが女将さんにしばらくけの汁をやめて煎餅汁にしたいと相談していた。
「ねえ、食べ終わったら
正直言えば睡眠不足なので行きたくは無いが、真面目な顔で言っているので「ああ、いいよ」と答えた。「でも、少しやりたいことがあるから、それが済んでからでいいか」
「うん、いいよ」
昼食を終えた俺は輝陽館の表へ出て愛車のSR400の元に向かった。ここまで共に走ってきた愛車は雨に濡れ哀愁を漂わせていた。キーを差してロックを解除し輝陽館の裏口にある屋根の下へと移動した。それからタオルを持って来て丁寧に水気を拭いて置いた。
「綺麗なバイクよね、それ」瑞樹がいつの間にか背後に傘を差して立っていた。
「ヤマハのSR400って言うんだ。1978年から発売されてるロングセラーの名車だよ」
「ふーん。ねえ、バイクで旅するのってどんな感じなの」
「さあ、俺も今回が初めてのロングツーリングだから何とも言えないな……。ただ……」
「ただ、何?」
「多分、車に乗って旅行するより、色々起きる」
「何よそれ」
「眠る場所を探して、食べるところを見つけて、人に道を尋ねる。色々な人に出会うんだよ」
「それって大変そうじゃない」
「うーん、どう言えばいいのかわからないけど、多分それが面白いんだ」
「ふーん。良く判らないわね」
「その面倒事が楽しいと言うか……。何となく自分が生きていると言う事を実感できるんだ。うーん、でも、やっぱり、こればかりは実際バイクで旅してみないと伝えようが無いな……」
「うん、私には無理かな。ここがあるし。ねえ、終わったのならお茶飲みに行きましょ」
俺達は傘を差し坂の下にある千両茶屋へと向かった。引き戸を開けて店内へ入る。それと同時に瑞樹はウエイトレスの少女に飛びついた。
「いっちゃん。会いたかったよー」
「むぎゅ、寺岡先輩痛いですー」
「愛情成分吸収ー、むふ、むふ」
「むぎゅー……あふっ」
お前は痴女かよ……。これでは何をしに来たのかわからない。俺は静かに縁台に座った。そして、長芋饅頭とお抹茶を注文した。運ばれてきた饅頭を口にした。
ん? しっとりもっちりした食感。これはどこかで食べたことがある味だ。はて、どこだったか……。そう思いながらお抹茶を手に取った。口の中へ爽やかな渋みが広がる。
横では普通の饅頭を注文した瑞樹が饅頭を頬張りお茶を飲んでいる。
「なあ、瑞樹。お前は以前に若女将だったのか」とお抹茶を飲みながら聞いてみた。
「うん、少しの間だけね。でも、組合の方針に色々口出ししてたら辞めさせられたんだよ」
「ふーん、何で」
「御影君はこの温泉の事をどこで聞いたの」
また良く判らない質問が来た。「確か海沿いのドライブインだったな」
「そう……この温泉はね、近所の人からは負の遺産扱いされてるんだよ」
「……」ああ、成る程。あの時のドライブインの主人の態度を思い出した。言葉を濁す様なあまり知られたくないようなあの態度にはそう言う理由があったのだ。
「大ぴらに宣伝できないから、接待で客を呼び込むんだよ。私はそれが嫌でね駅前でポスターを貼ってビラを配った……。そうしたら辞めさせられたんだよ」
「そうか、やり過ぎちまったんだな」
「うん」
「反省してるのか」
「うーん、あんまり」
「そっか」
「私はまたいつか同じことをすると思うよ」
「うん。まあ次はもう少し上手くやれ」
「うん」
俺達はお茶を飲み干してお金を払って店を出た。傘を差し二人でゆっくり輝陽館へ向けて歩いた。雨に濡れた輝陽館が見えてきた。大正時代位に建てられたレトロモダンな建築物……。これが負の遺産扱いか……。俺はステンドグラスの扉を押し開けた。
「ただ今、戻りました」
「お帰りなさい」
フロントの中から女将さんの声が響いた。
俺達は休憩室で体を休めながらお客さんが到着するのを待った。卓袱台の座布団に座り壁に寄りかかる。なんだか落ち着く……。瑞樹は座布団を枕にして寝そべって漫画を読み始めた。
「ところで瑞樹は何故、
「んー、それが良く判んないだよね。あの子、旅行にもいかないから一緒に行こうと誘ってたら突然怒り出したんだよ」
「ふーん、変な話だな」
「でしょ。最近はやけに根を詰めて白拍子の修行をしてたから、息抜きのつもりで誘ったのに、頑なになっちゃって……。それから気まづくなって、私も昼に掃除行くようにしてたんだよ」
「ふーん……」確かに妙な話だ。そんな性格の女性には見えなかったがな……。
俺は壁に寄りかかりながら目を瞑った。
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