『胡蝶の宿⑫』


 今晩は少し遅く八時を過ぎて夕食となった。その頃になるとやっと人の出入りも落ち着き静かになっていた。女将も銀杏の間を離れこちらへ戻ってきた様だ。大広間でグデッと倒れてうつ伏せている。


「つかれた……。私、もう年だわ……」


 やはりこの人は瑞樹の母親だ……。そう思った。


 夕食の準備が整い皆で食べ始める事にした。今日は味噌汁にも毛ガニが入っている。


「味噌汁でもやっぱうまいな毛ガニは」

「味噌汁の方はトゲクリガニよ」

「え? なにそれ」

「この辺で取れる毛ガニみたいなカニよ。旬が五月までだから来週にはもう食べられなくなるわよ」

「ふーん」サイズ以外は見た目も味も毛ガニとの違いが良く判らない。恐るべしトゲクリガニ……。


 夕食を終え後片付けを手伝い、簡単な仕込みをして中島夫婦は九時前に帰って行った。

 しかし、銀杏の間の宴会はまだ続いている様子だ。酒屋が輝陽館の裏口にビールのケースを持って来て、ヘルプの人達が運んで行った。


「盛り上がってるな」

「向こうはここからが本番だからね。どうせ一晩中続くわよ」

「それは大変だな」

「だからこっちは適当に付き合わないとやってられないのよ。ねえ、御影君どうする」

「ん? 何が」

「そろそろ、掃除に行かないと零時前になったら山門の明かり落ちるわよ」

「そうだな、こっちがいいなら、もう行こうか」

「じゃ、準備するね」

「うん」


 瑞樹に昨晩と同じに準備をしてもらい俺は輝陽館を後にした。


 微かに聞こえてくる三味線の音。きっとここが遊郭だった当時は毎晩こうして聞こえていたのだろう。そう思うと少し寂しい気持ちになった。その音を聞きながら俺は神社への石段を上った。今宵は雲が厚く月も見えない。いつ雨が降ってもおかしくない。ランタンの明かりを頼りに道を急いだ。


 神社でお参りを済ませ裏手に回って木戸を開く。素早く中へ入ってかんぬきを掛ける。そして山門の明かりを目指して俺は上った。これはもう雨が降り出すかもしれない。生暖かい風が少し吹き始めた。俺は急いで石段を駆け上がった。


 山門の前に立て札を設置する。

 そして、山門を両手で押して扉を開いた。ギギギと重い音を立てて山門が開く。


「ごめんなさ、戎者えびすものでございます」自分の声だけが人気のない山へと木霊する。


 俺は開いた扉から山門の内側へと足を踏み入れた……。背中で押して門を閉じる。


 そして、前を見た……。湯気に霞む湯船の中に人影が見える。裸の女。夢見姫ゆうみひめだ……。


「すみません、すぐ出ます!」俺はすぐに振り返り扉を開けて出ようとした。

「お待ちください、お仕事にいらしたのでしょ」澄んだ鈴の様な彼女の声は小さいが良く通る。

「はい……」

「私は気にしませんので、どうぞ、作業をしてくださいまし」

「はあ、でも……」

「確かお時間の制限があったはず。作業の邪魔をすれば私の方が叱られます。ですから、どうぞそのまま」

「はあ……」


 確かに人が居ても清掃してよいと言われているが……。俺は仕方なしに脱衣場へと向かった。


 そう、問題はこれなのだ。ここの作業は全裸で行う……。いや、見ている彼女もお風呂に入っているが全裸である。これはイブーンと言っても良いのではないだろうか……。


 俺は道具を棚に置いて両手で頬をペシペシ叩いて気合を入れた。――これは仕事だ一条御影! がんばれ! 俺は気合を入れて一気に服を脱ぎ去った。


 壁に掛かったデッキブラシを手に取って。湯船に行って風呂桶でお湯を汲む。夢見姫はやはり全裸だ。お風呂の縁で腕を組みうつ伏せになって湯船に浮かんでいる。白くて綺麗なお尻が丸見えだ。

 俺は床へと湯をぶちまけた。もう一度お湯を汲んでブラシで擦る。浮いた汚れをお湯で流す。そして、お湯を汲む。彼女はその作業を微笑ましそうに眺めている。


 俺はある言葉を思い出した。〝深淵を覗く者は深淵からも覗かれる。〟と、確かに覗かれてる……。いや、実際に覗いているのは深淵では無く女体の神秘なのだが……。しかし、こうジッと裸を見つめられるのは結構恥ずかしい……。


「あまりジロジロ見ないでくれ……」俺は思わずそう言った。

 彼女はクスリと笑い「はい」と言って後ろを向いた。


 俺は作業を続けた。二十畳近くある洗い場を全て磨くのには結構な時間が掛かった。その間も彼女は湯に浮かんだり縁に座ったりしながらこちらを楽しそうに眺めていた。作業を終える頃には俺も視線に慣れてしまい、あまり見られることが気にならなくなった。実際、慣れと言うのは恐ろしい……。


 デッキブラシを壁に掛け今度は手網を手に取った。風呂桶にタオルと石鹸とツバキ油とネットを入れて湯船に向かう。二度ほど身体にかけ湯してタオルで石鹸を泡立てた。お湯を付けたタオルにムクロジの石鹸を掛け手でもみ込んで泡立てる。フワフワの泡がモコモコ出て来る。その瞬間……。


「あ!」横から手が伸びてきてその泡を取られてしまった。

「お背中お流します」


 背後には両手に泡を付けた全裸の夢見姫がいつのまにか立っていた。


「いや、いらない」

「駄目です。戎者えびすものの意味はご存知ですか」

「……知らないけど……」

「無作法者の意味です。古来お風呂では身分の上下は有りません。先に入っていた人が優先されるのです。だから、後からお風呂に入る人は前の人の作法に従うという意味ですよ」


 そう言いながら夢見姫は俺の背中へ泡を押し付けた。


「あ……」


 彼女の滑らかな指が俺の背中をくすぐった。


「いや、ちょっと……」


 しとやかな指が優しく背中を撫でまわす。艶めかしく蠱惑的に指が蠢く。上から下へ。右から左へ。余すことなく。そして、俺の背中は洗われた……。


 その後、俺は湯船に入ってゴミを取り、改めてお湯に浸かった。


「なあ、あんたどう言うつもりなんだよ」気恥ずかしさを混ぜながら俺は少し強めに声を発した。

「あら、貴方は瑞樹ちゃんの代理でしょ。私が彼女の背中をいつも流していたのですから当然です」事も無げに彼女は答える。


 ――くっ、そんな事は瑞樹から一言も聞いて無い……。


「もし間違いがあったらどうするつもりなんだよ!」

「瑞樹ちゃんはそんな人をここには寄越しませんよ。あれでも人を見る目はありますから」

「詳しんだな、あいつの事」

「それはもう、同い年で子供の時から一緒の村に住んでますから」


 幼馴染の同級生だった……。

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