『胡蝶の宿①』


 これから私の話すストーリーは只のフィクションとして聞いてもらいたい。なので、時期は昭和の終わり頃。場所は日本海側の北の方にある鄙びた温泉地。その場所の名は霧雨温泉としておこう。その温泉街へは北海道へツーリングに行く途中に立ち寄ったのだ――。


 俺の名前は一条御影いちじょうみかげ。俺は愛車であるヤマハSR400に跨り家を出た。そして一旦、日本海へ抜けてキャンプをしながら北上を続けた。旅に出た理由は簡単だ〝何となく、嫌気がさした……〟。仕事にも、家庭にも、友人関係にも……。何となく息が詰まったのだ。そんな時バイク雑誌に連載されていた北海道特集が目に留まった。俺は即座にキャンプ道具を買い込み旅に出た。そして、人気ひとけの少ない日本海側を北上するルートを選んだ。季節は六月の第一週目。


 だが問題があった。夏を前にしたこの季節は多くのキャンプ場が開いていなかった。仕方なしに俺は人のいない海水浴場に入り込み、そこでテントを張って移動した。

 しかし、二日目のキャンプで思い知らされた。テントを張りながら移動を繰り返すのは意外と疲れるものなのだ。

 夕暮れ前の時刻までに宿営地を探し出し、食材を買ってきてテントを張って夕食を作り眠りに就く。朝は早くから起き出して朝食を作り荷物を纏めて、日のある内に移動する……。完全に作業である。もしかすると普通に仕事をしてるより疲れている気がする。そんなこんなで俺の身体はすぐに悲鳴を上げ始めたのだった……。このままではバイクで走るのが嫌になってしまう。


 そんな時だった。昼食に立ち寄ったドライブインでこの霧雨温泉の事を聞いたのは……。


「親父さん、どっかに安く泊まれる宿は無いかな」食事を終えた俺はドライブインの主人に聞いてみた。


 碌な睡眠も取らず移動し続けた俺の身体は疲れ切っていた。そこで一旦宿屋に泊まり体を休めようと思ったのだ。


「ん~~、安くねぇ……」主人が渋顔を作りそう答える。

「だったら、霧雨温泉はどうがね」横にいた料理人の爺さんが口を挟んできた。

「ああ、あそこね。確かにあそこなら安く泊まれるな……」

「霧雨温泉?」聞いたことも無い温泉だ。地図で見た覚えも無い。

「昔は偉く活気があったって話だけど、今では地元の爺さん婆さんくらいしか行く人が居ない辺鄙な温泉だよ」呆れたように主人が言った。

「いやいや、あそごはね江戸時代の津軽家の家臣の人達湯治さ訪れだ由所ある温泉町なんだ。今でも五軒ほどの宿がある」爺さんがそう説明してくれた。

「へぇー、それってどこですか」温泉宿なら疲れた体に丁度良い。

「この国道を少し進んで、そごから川沿いに県道を…………」


 バイクに戻り教えて貰った場所の地図を見た。確かに川の上流に霧雨の文字はある。だが、温泉の表示はされていない。まあ、紙の地図にはよくある事だ。全ての情報が載っている訳では無い。取り敢えず現地まで行ってみよう。

 俺はバイクのエンジンをかけ走り出した。


 国道を少し北へと走り、小さな川を渡ってすぐの県道を東に向かってさかのぼる。一車線の人気の全くない細い山道を延々と走る。俺はすぐに後悔をした。

 碌に整備もされてない山間の道路。アスファルトはひび割れ、その隙間から雑草が生えている。至る所の山が崩れ路面に岩が転がっている。本当にこの先に温泉町などあるのだろうか……。人が通った痕跡もほとんどない。そんな山道を俺はひたすら駆けた。


 小一時間も走ったろうか……いくつもの峠を越えて不意に視界が開けた。目の前に広がる山々。澄んだ空気の大空。眼下には小さな川に沿って二十軒ほどの集落が見える。成る程、これがその霧雨温泉なのだろう……。旅館のような大きな古い木造の建物が何軒も集まって建っている。俺はその集落へ向けて駆け下りた。


 最初に見えたのは商店だった。こんな山奥にあるお店にしては店舗が大きい。ガラスに張られた紙に大きく『おみやげ』の文字と『ニンニク漬け』の文字が書いてある。軒に吊るされたボロボロの提灯に『霧雨温泉』と書いてあるのが読めた。

 ガラス戸の中を覗くと大きなワゴンに各種の漬物と大量のニンニク漬けのパックらしきものが売られているのが見えた。どうやらニンニク漬けは醤油に付け込んだニンニクのことらしい。この辺の名物なのだろうか。

 俺はその商店を後にして先へ進んだ。


 霧雨大明神社。坂の上に建つこの神社がこの集落の中心みたいだ。どこからか微かに温泉特有の匂いが漂っている。

 俺はその神社に上がる坂の途中にある『輝陽館』の看板が目に留まった。


 大正時代を思わせる二階建て白壁造りのレトロモダンな木造建築。二階のガラス窓に取り付けられた大きな手すり。観音開きの正面玄関にはめ込まれたステンドグラス。屋根は緑になった銅板葺きだ。


 俺は駐車場の片隅にバイクを止めこの輝陽館の扉を開いた。赤いビロードの絨毯の敷き詰められた広いロビー。真正面に見えるY字階段。とても鄙びた温泉町に建っているとは思えない格式のある建物だ。

 建物全体は大きなコの字になっているようだ。Y字階段の左が北館、右が南館と案内板に書いてある。

 俺は玄関を入ってすぐ左手のフロントに置いてあったベルを叩いた。


 〝キンーーーー……〟 涼やかな音色が館内に鳴り響く。


「はい……」北館奥から四十絡みで細面で長身の物腰の柔らかそうな女性が現れた。下は紺の袴、上には若草色の着物を羽織りたすきを掛けている。


「どう言った御用件でしょう」女性は目を細めた笑顔のまま問うてきた。

「あ、あの、ここは霧雨温泉の旅館で良いのでしょうか」

「はい、旅館もやっております」

「バイクで旅をしてるのですが、素泊まりでもいいので今晩ここへ泊れますか」

「はい、今からでしたら夕食も準備できますが……」

「それで料金はいかほどになりますか」

「朝夕の二食付きでお泊りだけでしたら…………」


 金額は普通の民宿の素泊まりよりやや高い程度の値段であった。俺はすぐに宿泊を申し込みここへ泊ることにしたのだった。

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